Imperfect World
チチは心持ちスカーフの形を整えると、バッグを肩にかけた。
「じゃあ行ってくるだ。悟空さ、あんまり迷惑かけるでねえだぞ」
彼女の夫は口いっぱいにケーキを頬張りながら、威勢良く答えた。もっともその声は誰の耳にも「もおぅ」としか聞こえなかったが。
「ブルマさ、悪いけど悟空さをお願いするだよ」
チチはやれやれといった素振りで小さく溜息をついたが、その姿はブルマには幸せそうに見えた。
「いいのよ。でも孫くんも一緒に行けばいいのに」
「オラ、あの人がいっぺえいるとこ苦手なんだ。変なにおいさせてるやつはいるしさあ」
チチと結婚して間もない悟空は、まだ香水が苦手だった。その匂いに慣れたのは、その後1年も経った頃であろうか。
「あんた鼻が利きすぎなのよ。動物じゃないんだから」
ブルマも幾度「変なにおい」などと言われたかしれない。
「そんなこと言ったってよ。あんなにおい嗅いでたら、鼻が痛くなっちまうよ。チチもたまの夜に変なにおいさせてることがあってよ、オラまいっちまうんだ」
「ご、悟空さ!!」
顔を真っ赤にして、チチが悟空の口をおさえた。
「余計なこと言うでねえ!」
「わっ、なんだよチチ」
言葉とは裏腹におとなしく羽交い絞められている悟空に、ブルマは興味深げな視線を投げた。
「そ、それじゃ行ってくるだ。悟空さ、あんまり変なこと言わねえでけれよ!」


「ねぇ、あんたってチチさんのことどう思ってるわけ?」
チチが出かけたことを確認すると、ブルマは悟空に訊ねた。テーブルに突っ伏し、だらしなく腕を伸ばす。
「あんなサックリと結婚しちゃってさ。何かこう違和…変な感じとかさ、しないわけ?」
悟空は口の端にクリームをつけたまま答えた。
「別にオラないけど」
「ふ〜ん。結婚してから好きになったっていうケースなのかしら」
ブルマは突っ伏したまま頬杖をつくという、器用な動作をした。自然、顔は悟空を見上げる形となる。
「おめぇ相変わらずわかんねえこと言うなぁ」
「あんたが知らなさすぎるだけだって。ねえ、チチさんのこと好きじゃないの?」
ブルマは追撃を緩めない。
「さあな。そういうのオラまだよくわかんねえ。けど、嫌いじゃないから好きなんじゃねぇかな」
「じゃあ、あたしのことも嫌いじゃないなら好きなわけ?」
悟空は一瞬考えて、しかしキッパリとした口調で言った。
「おめえは嫌いじゃないけど好きってほどじゃねぇなぁ」
「…なんだ、一応わかってはいるのね」

ブルマの瞳はどこか遠くを見つめるように、淡く色づいた。
「そういうのってどこで覚えるのかしら。あたしと会った時のあんたはまるっきりガキだったわよ」
悟空はブルマのほうをチラリとも見ずに言った。

「おめえだってそうだろ」
「え?」
「オラのこと、嫌いじゃないだろうけど好きでもねえだろ」
「まあね」
「はは。そう答えるってことは、考えたことはあるんだな」
ブルマは目を瞬いた。
悟空に一本取られるなど、考えもしないことだった。
(やっぱり大人になったのねえ。これはチチさんの手柄ってことになるのかしら)
「そうね。考えたことがないって言ったら嘘になるかな。あんたが急に大きくなった時は本当に驚いたし」
「違いねえな」
よくわからない返事をして、悟空は再び口にケーキを放りこんだ。
「でも、それほど複雑な感情は持ってないわよ。まあ、出来の悪い弟ってとこかな。…本当に弟だったらたまんないけど」
「オラもおめえが姉ちゃんっていうのはちょっと…」
「何よ、失礼ね!」
「おめえだって同じこと言ったじゃねえか」
「女はいいのよ」

何故とはなしに話も尽きて、悟空は腰を上げた。
「さてと、そろそろ迎えに行くとすっかな。腹も膨れたし。ブルマ、メシサンキューな」
「あんた、あたしのこと本当は自動飯炊き機くらいにしか思ってないでしょ」
悟空は膨れた腹をさすりながら、窓に手をかけた。
「そんなことねえって。ここんちのメシうめえしな」
「フォローになってないわよ」
悟空はフワリと空に体を預けると、軽く敬礼してみせた。
「じゃあな。また来っから」
「…そこは、『うちにも来い』って言うところよ」
ブルマのツッコミを聞くが早いか、悟空は風を起こして空へと消えた。
「ちょっと!ちゃんと玄関から出て行きなさいよねー!」
ブルマは街の方へと飛んでいく悟空を見送ると、窓と反対方向へ歩きだし、ドアの外に立ちすくむ人物に向かって言った。

「相変わらずわかんないやつねえ。そう思わない、ヤムチャ?」
「う。な、何の話だ…」
「誤魔化しっこなしよ。気づいてないとでも思った?」
(孫くんだってきっと気づいてたわよ)
その台詞は飲み込む。
「孫くんよ。わかりやすいようでわっかんないのよね。昔からそうだったけど、チチさんと結婚して、ますますそうなった気がするわ。相変わらず物は識らないし子どもみたいなこと言うくせに、時々妙に鋭いことを言うのよね。どういう成長の仕方してんのかしら、あいつ」
「…気になるか?」

横目で様子を伺うヤムチャとは対照的に、ブルマはあっけらかんと答えた。

「あら、あんたはならないの?好奇心薄弱ね〜」
「いや、そういう意味じゃなく」
「あたしははっきり言って興味あるわ。おもしろいじゃない。弟が成長していくのを見るのは」
「…弟か?」
「知り合いってほど疎遠じゃないし、友人にしては近すぎるし、袂を分った元家族って感じ?さっきも言ったけど、出来の悪い弟よね。チチさんは、出来の悪い弟のところにきてくれた、かわいいお嫁さん」

ブルマはその瞳にいたずらっぽい微笑を湛えて、ヤムチャを覗き込んだ。
「安心した?」
「…な、何が?」

「トボけたって無駄よ。あんたって本当嘘が下手なんだから。どうせ最初っから全部聞いてたんでしょ」
「いてててててて」
ブルマはヤムチャの耳を思い切り引っ張った。
「ま、そういうことだから。せいぜい納得してね。出来の悪い恋人さん」

ブルマは軽く頬に唇を寄せると、軽やかにキッチンへと戻っていった。

「コーヒー、飲む?」
「…ああ」

(…かなわねえなあ)
それはブルマに向けてなのか、それとも悟空に対してなのか。
キッチンではブルマが彼のために新しいコーヒーを淹れている。

開け放たれた窓の外を一瞥すると、ヤムチャは彼女の待つテーブルへと歩いていった。
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