Trouble mystery tour Epi.10 (2) byY
腰に手を回すというその行為は、やってみると意外に肉体的にはしっくりきた。
妙に楽なんだよ。ウェストのくぼみを通って腰に達する腕の角度が…。思っていたより、触ってるところを意識したりもしない。
ひょっとすると、手を繋ぐより楽かもな。周りの人の目と、何よりブルマの目がなければ。
「ねえヤムチャ、あんた一体どうしたの?」
何人かのサービスマンの目に晒されながらロビーを進み、バー車両を過ぎたあたりで、ブルマが不思議そうに俺を見ながら訊いてきた。俺はわかっていて、惚け返した。
「何が?」
「これよ。この腰。…にある手」
「嫌か?」
「そうじゃないけど…」
そうじゃないけど、何だというんだ。
そう言い返すほどに強気には俺はなれず、かといってブルマの質問に素直に答えるのもなんなので、黙って会話がぶち切れるに任せた。その後の会話を続ける努力も放棄した。
「…………」
「…………」
ちょっと妙な間が流れた。ブルマは相変わらず不思議そうな顔をして俺を見ている。俺は俺で、その瞳に触発されながらも、どうにか口を噤み続けた。
言えるか。おまえの男であることをアピールしたい、なんて。
リザに言われたことを、俺は今では当初とは少し違う理由で、ブルマに言えなくなっていた。リザに言われたことのせいで、俺がこんな気持ちになっているということを、知られたくない。どうせ、『バッカみたい』とか言われるに決まってる。ブルマみたいな女にはな、男のプライドなんてわからないさ。いや、『ブルマ』である時点で、わからないだろう。だいたいわかってたら、ブルマみたいなやつにはならないだろうからな。二律背反だな。
俺はどこか悶々としてきた。黙って言うことをきけ、と言うほどに独裁家にはなれない。でも、こんなことを説明するほど情けない男にもなりたくない。そもそも説明した時点で負けという気もする。…いやいやちょっと待て、一体何に対して負けなんだ?ブルマに対してか?それはちょっと違うような…
うーーーん…………
思考の迷路を抜け出す前に、レストラン・カーについた。ブルマはぐるりと車両内を見回すと、声を落として囁いた。
「ふーん…まだ来てないのね。ねえヤムチャ、今夜はあんたが上座に座って」
「えっ、でも…」
「あの女と顔合わせたくないのよ。下座だとあっちのテーブル見なくて済むから。ねっ」
「ああ…」
レディファーストは崩さない。その思いばかりか、この旅行始まって以来ずっと守られてきた暗黙の了解が、今崩されようとしていた。それで俺は我ながらよくわからない思考を切り上げて、わかりやすい現実に相対することにした。
「あたしちょっと気分悪いから、下座に座らせてもらうわね」
「かしこまりました。シェフに伝えて何か軽いものを作らせましょうか?よろしければ、お部屋にお持ちすることもできますが」
「ありがとう。でも大丈夫よ。ちょっと疲れただけだから。ワインの一杯も飲めばすぐ元気になるわ」
意外と本気で避けてるな。ブルマのことだから、派手に怒鳴りつけて終わりにするのかと思ってたのに。そう考えながら、いつもとは違う席に腰を下ろした。何もないとわかっていて、窓の外に目をやった。気分を切り替えるために。よくわからない思考を再び引っ張り出すつもりは、もうなかった。
まあいいさ。あまり深く考えるのはよそう。とりあえず俺はいつもより恋人面することを心がけていて、ブルマはちょっと不思議がってはいるけれど、嫌がっているわけじゃない。嫌がるわけないよな。俺たちは正真正銘の恋人同士なんだから。ブルマはもともとそういうの嫌いじゃないはずだし。っていうか、むしろ好きなはずだ。ドラマや映画を現実に重ねたがっているのは、何もあの双子たちだけじゃない…
「食事の前にまずはシャンパン頂こうかしら。甘めのやつをボトルで。前半の料理にはそれを合わせるわ。それでいい、ヤムチャ?」
「ああ、いいよ」
ふいにやる気が湧いてきた。並んで歩いたロビーから向かい合わせに座るテーブル席へと場面が変わって、俺たちの間に流れていた空気も一新された。
「シャンパンをお持ちしました。ヴーヴ・クリコ・ポンサルダンでございます。テイスティングをどうぞ」
「ええ、おいしいわ」
…悪くない雰囲気だ。
やがて高級シャンパンのテイスティングなんかをし始めたブルマを見て、俺はそう思った。ことさら客観的な目で見てみても、今この時の雰囲気は悪くない。少し控えめにウェイターに言葉を返すブルマは、なかなか様になっていた。今さらだけど、ブルマのやつもはったりきくよな。ドレスもワインも普段使いなわけでは決してないのに、すっかり板について見えるじゃないか。…口を開かなければ。今は口を開いてはいるが、余計なことは言わないし…
だから、俺もはったりをきかせてやろうと思った。ブルマが男に求めていることはわかっている。抱え切れないほどの薔薇の花束をプレゼント、海で夕陽を見ながら告白、夜景を見ながらシャンパンで乾杯、バスローブを羽織って窓辺でウイスキーをくるくる。これまで何度か聞かされた、俺から見れば気障、ブルマに言わせると格好いい、理想の男の行動の数々。たいていがテレビドラマからの受け売りだ。いつもは『そんな男いるか』と思うだけだが、今は一時ならそういう男になってやってもいい、そう思う。ブルマの気分と、何より俺自身の男を上げるために。
それに『夜景を見ながらシャンパンで乾杯』なら、すでに何度かしてきた…はずだ。いや、夕陽だったかな?まあともかく、比較的難易度低いよな。すでにそれに近いシチュエーションになっているわけだし。残念ながら夜景は見えないが。
俺はすっかり心を決めた。シャンパンを注ぎ終えたウェイターが実に素早く場を外したので、心煩わされることもなかった。そういえば、旅行最初の頃はこいつも毎回きっちり乾杯してたっけな。なんてことを思いながら、いつしか乾杯の言葉もおざなりにグラスに口をつけるようになってきているブルマの瞳をまっすぐ見て、言ってやった。
「おまえの瞳に…乾杯」
途端に、ブルマが咽込んだ。それは盛大に咳をして、口の中のものを吹き出した。いなくなったばかりのウェイターが即行で戻ってきた。
「大丈夫ですか、マドモアゼル」
「…ご、ごめんなさい。ちょっとお酒に咽ちゃって…」
「いいんですよ。それよりドレスにはかかっていませんか」
「ええ…」
俺は表向き済まし切って、その実苦虫を噛み潰しながら、先ほど手間をかけて折ったポケットチーフで額にかかったシャンパンを拭った。…何なんだ、その反応は。人がせっかく格好いいこと言ってやったのに。そりゃあこんなこと今まで一度も言ってやったことはないが、何も吹き出すことはないだろう。
ワイン染みのついたテーブルクロスが替えられ、卓上花とカトラリーが取り替えられ、新たなグラスに新たな一杯が注がれた。俺の前髪以外がすっかり元通りとなったところで、勢い込んでブルマが言った。
「もう、ちょっと何よ、あんたどうしたの!?」
「ちょっと言ってみただけだよ」
やはり済まし切って、俺は答えた。ここで怒るほど虚しいこともない。周囲の目もあるし、ここはなかったことにしておこう。
「言ってみただけぇ?嘘つきなさいよ」
だがブルマは納得しなかった。俺を一睨みした後に、テーブルに両手をついて身を乗り出すようにして、こんなことを言い出した。
「さっさと吐きなさい。あんた、何かあたしに言えないようなことやったんでしょ!」
「いや、そんな、まさか」
俺は慌てて両手を振った。すでに済まし切れていないことは自分でもわかっていたが、しかたがない。
す、鋭い…。一体どういう理屈なのかはまったくわからないが、鋭過ぎる。
俺は極力言質を取られることを避けたつもりだ。なのにブルマの言い分はエスカレートした。
「じゃあされたのね。何されたの?キスされそうになった以外に、何をされたのよ!」
ますます鋭い。一瞬で真実に詰め寄りやがった。
「そんな、されたってわけじゃ…」
「じゃあ、何言われたのよ!?」
「うっ…えーと……」
俺はすっかり言葉に詰まった。あらゆる事実が、俺にこれ以上白を切らせることを不可能にしていた。
間髪入れず畳みかけてくるブルマが怖い。もう完全に照準を合わせたスナイパーの目だ。それに声も大きいし。ブルマは下座で壁に向かって座ってるから気づいていないのかもしれないが、上座である俺には車両内が全部見渡せるのだ。数としては少ないもののそれは強い視線が、体中に突き刺さる。はっきり言ってすごく痛い。痛過ぎる…
周りの人の目と、ブルマの目。それに耐えかね身を縮めていると、一方がふいに緩んだ。目つきを睨むものから居丈高に見下ろすものに変え、引いた体で今度は腕組みをしながら、ブルマはぽつりと呟いた。
「…訊いてあげてるうちに言った方がいいわよ?」
「う……」
くそ。説得力あるなぁ…
脳裏の片隅で俺はその光景を想像した。この狭い列車内で無視されるのはキツイよなあ。行き場はないし、何より針の筵になりそうだ。…もうなってるけど。しっかし、なんでこんなことになってんだ?
俺、ブルマの理想を体現してやっただけなのに。やはりああいうのはドラマの中だけのこと…というより、受け取る側の資質の問題だな。ドラマに出てくる女の子は、吹き出したり逆切れしたりしないもんなあ。
はぁ〜あ。
いろいろな意味での情けなさを噛み締め、やむなく自白に至ろうとしたその時、テーブルの上に影が落ちた。
「やあ、相変わらず元気なお嬢さんだ。でも、こんなところで喧嘩しちゃダメだよ。せっかくきれいなドレスを着てるんだから、優雅に楽しまなくちゃ」
その歯の浮くようなエイハンの口調は、この時の俺にはさほど気にならなかった。慣れたわけではない。それよりもっと気になる声が、すぐに聞こえてきたからだ。
「お二人ともこんばんは。ブルマさん、先ほどはごめんなさいね。さぞかしびっくりなさったことでしょうねえ」
昼間俺に粉をかけてきた時にそっくりな、艶の乗ったリザの声。わざとらしくも眉の下がったその顔は、だが俺ではなくブルマへと向いていた。
「…ええ、とってもね」
「私も驚いたわ。女の子とあんなことをしたのは初めてだったから。でも、すぐに思ったわ。相手があなたみたいなかわいい子でよかったって」
「…何ですって?」
俺は軽く呆気に取られた。なんだか、思っていたのと違う。てっきり女同士の戦いが始まるものと思っていたのに…
ブルマが我慢しているらしいことも意外だが、リザが…なんかおかしな方向に話を進めているような気がするのは、気のせいか?
「私もともと、あなたみたいなタイプって嫌いじゃないのね。きっとだから、占いもしたんだと思うわ。それも含めて、後でゆっくりお話しましょう。もうヤムチャくんに聞いたかもしれないけど、私とあなたで直にね」
「おまえの趣味の広さには感服するよ」
気のせいではなかった。…と思う。二人ともはっきりとは言っていないが、これは…。あまつさえ爽やかな空気をも漂わせているが、これは…
「ああ、あまり長話をしていると、シャンパンの泡が消えてしまうね。さ、リザ、私たちも食事にしよう。邪魔したね二人とも、また後でね」
「また後でお話しましょうね、ブルマさん、ヤムチャくん」
ぽかーーん…
まさしくそういう状態に、俺は置いていかれた。二人の笑い声が遠ざかって初めて、現実を吟味する気持ちになれた。
「なんかすごい人だな……あれって、そういう意味だよな?」
対象が広いというか、脈絡がないというか。つい数時間前には俺に粉をかけていたというのに、今ではあの時邪険にしてたブルマに横恋慕…(言い得て妙だな、この言い方)。やっぱり、どうしたって、きっかけはあれだよな。ブルマとのフレンチキス――女同士でそんな気持ちになれるのかどうかはわからんが。とにかく、リザはなっちまった、と。
予想だにしなかったこの展開に、俺の現実感覚は薄れ、想像力だけが働き出した。…リザとブルマか。うーん……ちょっと気色悪いな。ミルちゃんとリルちゃんが二人揃って何かやってるのは、全然気にならないんだけどな(むしろ微笑ましいくらいだ)。リザみたいな肉感的であろうとして肉感的であるタイプと、ブルマみたいな素で肉感的なタイプはなぁ……ちょっと考えてみただけでもリアル過ぎ…………
…恐ろしい。まったくもって、恐ろしい世界だ。そしてリザも。ただ間違ってキスしただけで、同性にまで愛情持っちまうなんて。…そんなに感度よかったのかな…………いや、ともかく、俺キスされなくて本当によかった。
俺にとっての現実は、そこで終わった。だが、だからといって、気を抜くことができるわけはなかった。
ブルマがいた。『顔を合わせたくない』と宣言していたブルマは、完全に黙りこくって、俯き加減に肩を震わせていた。ショックのあまり声が出なくなってる―― 
「ブルマ、大丈夫か?」
「…部屋に戻るわ」
「え?」
「部屋でごはん食べるの!気分悪いから!!」
――わけではなかった。顔を近づけたところを思いきりがなり立てられて、俺は肉体に非常なダメージを食らった。鼓膜が破れるかと思った……思わず撫でさすった耳に、ブルマのわざとらしい言い訳の声が入ってきた。
「悪いんだけど、やっぱりお料理、お部屋に運んでくださるかしら?また気分が悪くなっちゃって。静かなところでゆっくり頂きたいの」
自分が一番うるさいくせに。そんな突っ込みを入れる余裕はなかった。物理的にではなく、精神的に。にこやかに笑ってウェイターに言葉をかけるブルマを見た時、俺は思った。
…怖い。
ブルマが怖い。笑顔なのに、目が笑ってない。おまけに片方の口角だけが上がってて、爆発寸前の気配がすごくする。
俺、今夜を無事に越えられるだろうか。よもや取って食われるんじゃないだろうな…
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