Ball up(前編)
月は東に、日は西に。よい子はおうちに帰る頃、悟空が都にやってきた。
「おっす!ブルマ」
当然、彼にとって都とはブルマの家のことである。中の都にあるキングキャッスルの正確な所在地などは未だにわからないが、西の都のブルマんちへは非常にスムーズに行けるようになっている悟空であった。
「あら孫くん。ちょうどよかった、連絡しようと思ってたのよ」
いつもの不躾さで二階の窓から顔を覗かせた悟空を、ブルマはにこやかに出迎えた。ちょうど研究が一区切りして、気分もすっきり。悟空にとってもブルマにとってもグッドタイミングといったところだった。
「これ、こないだのあの石だ。似たようなやついくつかあったから適当に掻き集めといたぞ。ヤムチャのくれたカプセルに入れてきたんだ」
「ありがとう。そろそろ誰かに取りに行かせようと思ってたの。持って帰れなかったから分析できなかったけど、絶対ベリリウム鉱石だって確信があったからね」
悟空の差し出したカプセルを、ブルマは嬉しそうに受け取った。それはさておきといった感じで、悟空が話を続ける。
「こないだ一体どうしたんだ?ヤムチャといきなり帰っちまって、ウーロンとプーアルがびっくりしてたぞ」
「さあ、あたしにもよくわかんない。ヤムチャったらあの後花屋に飛び込んで、薔薇を100本買ってくれたのよね。別に誕生日でもないのにさ。やっぱり何か疚しいことしてたのかしら。チチさんは何か言ってなかった?」
「よーくハムの礼を言っておけって言ってた。おかげで2週間メシ作るの助かったって」
「たったの2週間か。チチさんも大変ね…」
大食らいの夫を持つと。もう働いてないのとか関係ないわね。呆れと共にコーヒーを飲み込んだブルマの前では、悟空がさっそく出されたクッキーに齧りついていた。
「だからヤムチャにも一言言っておかねえとな。アムヒャはどこら?」
「今日はナイトゲームよ。プロ野球のね。宿命のライバルチームと三連戦だって」
「ほっか。どうふっかな。ほんやはヒマらから待つかなあ…(そっか。どうすっかな。今夜はヒマだから待つかなあ)」
「ヒマって何でよ。あっ、あんたまた家追い出されたのね?今度は一体何したの」
ブルマは軽く意表を衝かれた。先日孫家へ行った際あまりにも悟空とチチがいい雰囲気だったので、すっかり油断していたのだ。しかし考えてみれば何事もないのにやってきたにしては、おかしな時間だ。悟空は通常、夕食時には家へ帰って行くのだ。
悟空は少しだけ眉を寄せて、ブルマの言葉を否定した。
「オラ何もしてねえよ。明日牛魔王のおっちゃんの誕生日だから準備すんだって、チチのやつ朝から出かけちまったんだ」
「ふうん。あんたは手伝いに行かなくていいの?」
「オラはいても邪魔だから、明日になったら来いって言われた」
けろりとした顔で悟空は言った。悪びれてないにも程があるわね。ブルマはそう思ったが、今さら言う気にもなれないことだった。
「あっそ。じゃあ、うちでご飯食べていきなさいよ。ま、どうせ最初っからそのつもりなんでしょうけどね」
「ひでえなあ。オラ今日はちゃんと礼言いにきたんだぞ。チチもそうしろって言ってたし。だから石もいっぺえ集めて…」
「あら、じゃあいらないのね」
それはわざとらしくブルマは言った。悟空は返事をしなかった。正確には、それより先に腹の虫が鳴った。
「…んー、せっかくだから馳走になっかなあ」
おかしな意地を張らないところが悟空のいいところだ。今は機嫌のよかったブルマは、そう思ってやることにした。


「ぷはー。食った食った。腹はいっぱい、力(リキ)も満タンだ」
大きな太鼓腹を撫でつけながら、悟空がレストスペースに倒れ込んだ。どこでも誰に対しても遠慮しないのが悟空のいいところ。そう思ってやりたいブルマであったが、だからといって何もかもを肯定することができるわけではなかった。
「いっちょ食後の運動でもすっかな。なあブルマ、ちょっくらオラの相手しねえか?」
「するわけないでしょ」
そんなことしたら死んじゃうわよ。恩を仇で返さないでほしいわね。
いま一つ冗談に聞こえない悟空の声に、ブルマは半ば本気で答えた。答えた傍から新たな不安が湧いてきた。
「何あんた、まさかひょっとしてチチさんに稽古の相手させてたりするわけ?」
ある意味ではこれまでで一番、ブルマは心配になっていた。さすがにそこまで言いたくはないと思ってたんだけど、やっぱり教えなきゃダメだったのかしら…夫婦のあり方ってやつを。今さらながらにそんなことを思ってしまったブルマは、だが次の瞬間、思いっきり恩を仇で返されていたことを知った。
「ん?いやー、一度やったことあるんだけどな。その後チチのやつ寝込んじまってよ。オラ女のことなんてちっともわかんねえから世話すんのが大変で…それ以来オラ女とは稽古しねえって決めたんだ」
「あたしだって女よ!」
片付け途中だった器具類が、怒声と共に再びデスクの上に散らばった。悟空は軽く頭を掻いただけで、笑顔は全然崩さなかった。
「ははっ、悪ぃ悪ぃ。でもヒマだなあ。寝るにはまだ早いしよ」
どうやら悟空は泊って行くことにも決めたようだ。だいたいわかっていたのかブルマはそこのところには一切触れずに、ちらりと壁の時計を一瞥した。
「そうね、じゃあ外の空気でも吸いに行く?ご飯はもう食べちゃったからバーとか…あんたと行ってもしょうがないわね。それよりは野球観戦の方がいいかしら。よし、お礼がてらヤムチャを冷やかしに行ってやりましょうよ」
「なんだ、ヤムチャのやつ近くにいるんか?」
「ホームゲームだからね。イーストエリアのベースボールスタジアムよ。最も最近じゃそれでもチケットくれないけど」
「…おめえたち、実はケンカしてるんじゃねえだろうな?」
話の内容はよくわからないままに、悟空は空気だけを嗅ぎ取った。心配でも不安でもなく、はっきり言ってしまえば怖れ。あからさまにそれが滲み出ている悟空の声を、ブルマはさっくりと往なした。
「何言ってんの。薔薇貰ったってさっきも言ったでしょ。ただちょっと試合に飽きちゃったっていうだけよ。だってヤムチャが出てる試合って、いつも同じ展開なんだもの。ホームラン打ちまくって終わり。応援しがいないんだから」
笑顔でとまではいかないにしても、ゆったりとした雰囲気でブルマは答えていた。少しだけそれを意外に思いながらも、それ以上のことは悟空は思わなかった。
「ふうん」
ブルマは本当に機嫌がいいということ、そしてそれがなぜなのかということまでは、未だわからない悟空なのであった。


天下のC.Cといえど、コネが利かないことはある。すでに始まってしまっているゲームのシート。それもその一つだった。
「オラこんなとこ来たの初めてだ。スタジアムってでっけえんだな〜」
「あたしも久しぶりよ。それにこの席は初めてだわ」
席に着くなりブルマは双眼鏡を取り出した。悟空は物珍しげにあたりを見回している。
「あ、いたいた。相変わらず偉そうにしてるわね。なんか監督より偉そうに見えるわ」
「ヤムチャか?一体どこにいるんだ?」
「うんとね、一塁側のベンチの奥。ほら、一人離れてふんぞり返ってる…」
「うーん、暗くてよく見えねえな」
悟空の肉眼ではぎりぎり見えず、ブルマに至っては双眼鏡を使わなければまったく見えない、外野席の端。それが二人に当てられた席であった。とはいえ当日券の販売はとっくに終わっていたのだから、入れただけで御の字なのだ。
「バッターボックスに立てば見えるわよ。それより孫くん、野球のルール知ってる?」
「それくらい知ってるさ。飛んできた球を打ち返しゃいいんだろ?」
「…ま、だいたいあってるわね」
ポジションがどうとかこうとか、そんなことまで教える気はブルマにはなかった。ブルマはあくまでヤムチャを見にきているのであって、試合の行方にはそれほど興味はないのだ。悟空もそれは同じであったので、何かを訊ねたりはしなかった。なんとなく楽しそうな周りの雰囲気に感化されて、なんとなく楽しい気持ちになっていた。やがてブルマが双眼鏡から目を離して呟いた。
「珍しいわね。ヤムチャが出てて負けてるなんて。調子悪いのかしら」
7回裏の攻撃を迎えて、4対2。スコアボードの示すその事実が、ブルマの心境をちょっぴり変えた。悟空が声をかける間もなく、ブルマは両手を頬に当てて、届くはずのない声をバッターボックスに送っていた。
「ヤームチャー、ファイットー!!」
「ブルマ、なんか周りのやつらが怖ぇ顔してっぞ」
すかさず悟空がブルマの腕を引いた。場の空気には疎い悟空にさえわかるほど、周囲の人々の視線は冷たかった。それもそのはず、ブルマと悟空がいるところは、レフトスタンドのビジター席、相手チームの応援団のど真ん前なのであった。
「気にしなくていいわよ、そんなの。ホームゲームだもん、こっちが有利よ。かっ飛ばせーヤムチャー!!」
ブルマは彼女にしかわからない理屈をこねて、再び恋人に声援を送った。悟空の口元に自然と笑みが広がった。
「ヤムチャのやつ、いっつも戦ってればいいのになあ」
無造作にバットを振るヤムチャを遠目に見ながら、悟空は思わず呟いた。悟空は知っていたのだ。ヤムチャが戦っている時はいつも、ブルマも素直に応援しているということを。それはもう最初から、まだ敵であった頃からヤムチャの肩を持っていたということを。それもまた彼女にしかわからない理屈で。
「あぁーーーーーっ…」
ふいにどよめきが起こった。残念そうな無念そうな周囲からのその声を掻き消すようにブルマが叫んだ。
「やった!場外ホームラン!ざまーーーみろ!!」
文字通り飛び上って喜ぶブルマと、ブルマの言葉通りスタジアムの外へと消えゆく打球を視界に収めながら、悟空は思った。
もう少し手加減してやれよ。…二人とも。


「あ、こっちにビールちょうだい」
「オラ、ソーセージ10個!」
ヤムチャの打席に続いてタイタンズの攻撃が終わると、二人はすっかり腰を下ろした。ブルマは寛いだ様子でビールを煽り、悟空はソーセージの半分を口の中に詰め込んだ。
「っはーーー。ナイトゲームって、本ッ当ビールが美味しいわよね〜」
「はと焼きほば!10人まへ!(あと焼きそば!10人前!)」
「孫くん、ビールは全然飲まないの?」
「オラそれ苦いから嫌いなんだ。それにしてもこんなに食いもんあるんなら、夕飯もっと我慢しとけばよかったなあ」
いま一つ噛み合わない二人の会話。だが、どちらもちっとも気にしてはいなかった。悟空を酒の相手にするなどブルマには考えられないことだったし、悟空もまた誰かに食事(?)に付き合ってもらおうなどとは考えもしない人間だった。乾杯も奢り奢られの言葉もなしに悟空とブルマの宴は始まり、それは9回裏タイタンズの攻撃になっても続いた。
「っらしないわよねー、このチームも。ヤムチャのホームランでしか点取れないなんてさ。んなだから、たかがアルバイトの選手に花形取られんのよ。ねー孫くん、あんた入ってちょっと気合い入れてやってちょうだいよ。あんたならヤムチャよりうんとかっ飛ばせるでしょ」
「でもオラ、野球のルールよく知んねえしなあ。どこにいればいいのかとかもわかんねえし」
「いいのよそんなの適当で。とりあえず飛んできた球を叩っ返しとけば。ヤムチャなんてフォアボールだろうが敬遠だろうがお構いなしに打っててさ、ルールもマナーも作戦もあったもんじゃないんだから。ぁにがナンバーワンバッターよね、あれはあたしのだっつーの」
「…ブルマおめえ、酔ってねえか?」
悟空は気づいたが、それは遅過ぎるというものだった。ヤムチャの打席が終わって以降、ブルマはほとんど飲み続けなのだ。事実ブルマもそれを認めた。
「酔ってるわよ。ビール飲んでるんだもん、当たり前でしょ。いいのよ、これが野球観戦の楽しみなんだから。それと――」
そこまで言うとブルマは突然弾かれたように席を立ち、声も高らかに叫んだ。
「あっ、出た!ヤムチャーーーッ!!」
それで、悟空とブルマの宴は終わった。周囲から再び冷たい視線が浴びせられ、傍らのラジオから緊迫したアナウンサーの声が流れた。
『――6対3で迎えた9回裏!ツーアウト満塁のピンチ!タイタンズのバッターは今日唯一アーティ・ショウに土をつけている4番のヤムチャ――』
「いっけー、ヤムチャ!まぁた場外にかっ飛ばしちゃえーーー!!」
酒の勢いもあいまって、ブルマの声は完全に黄色い声と化していた。聞いた通りの状況ゆえ、周囲がそれをかわいいと思ってくれるはずもなかった。それでも悟空は今度はブルマを止めはせず、隣に並んで大声を出した。
「ヤムチャ、がんばれー!」
言葉そのものにはさして心は篭っていない。勝敗などどうでもいいのだ。ブルマに流された。そう言ってもいいかもしれない。悟空はただこう思ったのだ。
――文句ばっかり言ってると思ってたけど、まんざらでもないんじゃねえか。
ヤムチャは知ってるのかな、ブルマのこういうかわいいところ。教えてやった方がいいかなあ…――
まだまだ子どもである証拠に悟空が最後に余計なことを思った時、そこかしこから悲鳴が上がった。
「あぁーーーーーっ…」
だがそれを掻き消す一つの歓声の方が、彼にとっては重要だった。
「きゃっほー!逆転満塁サヨナラホームラン!」
きれいな放物線を描いてスタンドへと飛んでくる打球を見てから、悟空は文字通り飛び上って喜ぶブルマと声を揃えて、互いの手を打ち合わせた。
「イエーーーイ!!!」


宙を舞う紙テープと紙吹雪。色とりどりのジェット風船。それに混じって何か硬い物が悟空の頭を直撃した。
「あたっ」
それはボールだった。所謂ウィニングボールと呼ばれるものだ。通常観客を喜ばせるその球は、だがレフトスタンドビジター席の人間には必要ないものだったのだろう。目障りな逆転満塁サヨナラホームランボールを、ちょうど目障りだった人間に投げつけた。一応は女ではなく男の方へと向けて。そんなところであったに違いない。
球を投げつけたどこかの誰かのことは、悟空は気にしなかった。彼が気にしたのは、スタジアムの向こう端で今まさにヒーローインタビューを受けようとしている友人の姿だった。
悟空は軽く振りかぶった。そして軽く投げつけた。
ドッゴオォォォーーーーーン!
スタジアムに鈍い轟音が響き渡った。途端にブルマが今さっきまでの軽やかさを捨て去って、悟空に詰め寄ってきた。彼女の酔いは一瞬にして醒めていた。
「ちょっと孫くん、何してんの!」
「え?だって飛んできたボールは返さねえと」
けろりとした顔で、悟空は答えた。野球のルールでもマナーでもなく、常識を知らないことが今さらながらに仇となった。
オラに見えてるんだから、ヤムチャにだって見えてるはずだ。そんな彼にとっての正当な理屈から放った球は、ヤムチャの手元をすり抜けて、スタジアムの最果てまで飛んだのだ。それはバックネット下の看板を直撃した。常識的な人々にとっては目障りな、消費者金融の看板が物の見事に破壊された。スタジアムは一瞬にして静寂に包まれた。
『す、すばらしい…!』
看板にめり込んでいたボールがゆっくりと転がり落ちたその時、ゆっくりとした称賛の声が場内に流れた。
『誰か知らないがそこの君!うちでピッチャーやらんかね!?君なら1億ゼニー出すよ!!』
ヒーローインタビューのアナウンサーからマイクをもぎ取って、一人の男が悟空に語りかけてきた。悟空は知る由もなかったが、それはタイタンズの監督だった。
『君は100年に一度の逸材だ!ええい、なんなら10億ゼニー出そう!!』
「へっ?」
素っ頓狂な悟空の声は、すぐさま周りの野次馬たちの声に呑み込まれた。
「聞いたか?10億だってよ」
「タイタンズのやつ、また金に物言わせてアルバイト選手使おうとしてやがる」
「いや、でもこいつはマジでヤバイんじゃないか?ヤムチャもすげえと思ったけどさ、今のはそういうレベルじゃないぞ。あんな球打てっこねえよ」
そこへさらに、どこからともなく悟空の口元にマイクが突きつけられた。
『放送席、放送席!こちら観客席、ただいまボールを投げた青年を見つけました。これから話を窺いたいと思います。あなた、名前は?いきなりの話だけど、どう思う?』
「へっ!?」
悟空は完全に固まった。『まいったな〜』そう言って頭を掻くこともできない、彼にとっては状況だった。
「ブ…ブルマ、帰(けえ)ろう!!」
「なんでよ?いい話じゃない」
「オラ、こういうの苦手なんだよ」
ブルマが答える間もなく、悟空は足を地から離していた。すでにその手はブルマの手を掴んでいた。だから彼女としては、ほとんど何を思う時間もなかった。それでも悟空に抱えられて宙へと体を浮かせた時、ちょっぴり恋人のことを考えた。

今日は鼻の下伸ばしてるところ見なくて済んだわ。
…と。
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