悟空さんのマナー教室(前編)
徹夜明けのブルマが、苦いコーヒーを口に含んだ時だった。
「おっす!ブルマ」
窓の外に、悟空が体を浮かせて佇んでいた。C.C2階のリビングでのことである。
「何よあんた、また来たの?」
呆れたように呟くブルマに、悟空は得意げに笑ってみせた。
「今日はメシ食ってきたぞ」
「それは殊勝な心がけね」
珍しいこともあるものね。ブルマは意味ありげな笑みを浮かべた。
「チチがこれ持ってけって言うからよ」
悟空の背中には、優に1ヶ月はそれだけで生きていけそうな数の大根が結わえられていた。悟空はあけっぴろげに言った。
「この前のこと、バレっちまった」
「そんなことだろうと思ったわ」
頭をかきかき笑う悟空に、ブルマは同情する気にもなれず、カップをテーブルに戻した。
「ま、入りなさいよ」
ブルマが身振りで促すと、悟空は躊躇うことなくそれに従った。

「ふんまいぞ、オラんちのだいほん」
口いっぱいにケーキを頬張りながら、悟空が言った。
「…結局、食べるのよね」
前言撤回。ブルマは心の中で呟いた。悟空がケーキを詰め込む手を止めた。
「何か言ったか?」
「何も。チチさんによろしく伝えといて」
ブルマはメイドボットに、自分にはエスプレッソと、悟空にはさらなるデザートのお代わりを命じた。空になった皿を横へ押しやり、話を戻す。
「ねえ、どうしてバレたのよ」
「オラだってわかんねえよ。あの後帰って、あんまり腹減ってねえって言ったら、チチが急に怒り出して」
「…なるほど」
羨ましいくらいに、わかりやすい夫だわ。
そういう心配はないわけね…ヤムチャとどっちが楽かしら。
ブルマがそんなことを考えていると、悟空が唐突に切り出した。
「ところでよ、おめえフレイって知ってっか?」
「フレイ?何よそれ?」
「オラだって知んねえよ。チチがフレイんちでメシ食いてえって言い出してよ。おめえなら知ってるかと思って」
フレイんちでメシ?
一瞬キツネにつままれたブルマだったが、すぐに脳裏で謎が解けた。
「あんたそれ、フレンチじゃないの?きっとそうよ」
「だからフレイんちだろ?」
まったく理解しえない様子の悟空に、ブルマは噛んで含むように話して聞かせた。
「フ・レ・ン・チ。外国の料理のことよ」
「ふ〜ん。うまいんか?」
悟空は興味なさそうに茶を啜った。ブルマは悟空の食べ散らかした皿の山を眺め回した。
「…あんたに、おいしくないものなんてあるのかしら」
「何か言ったか?」
「何も」
ブルマはわざとらしくそっぽを向き、しかし悟空がまったく気に留めていないことを見てとると、ばかばかしい、とばかりに姿勢を戻した。
「いいじゃないの。食べさせてあげなさいよ。何ならうちの店紹介してあげるわよ」
言って頬杖をつきながら、微笑ましそうに悟空を見つめる。悟空はそれとは対照的に、両手を頭の後ろで組むと、眉間に皺を寄せた。
「何だか面倒くさそうだなあ」
「あんたにとってはそうかもね。でも、チチさんにとってはうれしいことなのよ」
「ふ〜ん。ま、いっか。チチにそう言ってやるよ」
素直にそう言う悟空に感心したブルマだったが、ふとあることに気づいた。
「ねえあんた、マナー知って…るわけないわよね」
訊ねる前に自分で答えを見つけだして、ブルマは台詞を閉じた。
「ハマー?」
「マ・ナ・ー。料理作法よ。しょうがない、教えてあげるわ」
「うへえ」
悟空はまたもや母親に諭された子どものような声をだし、即座にそれを断った。
「オラ、別にいいよ」
「ダメよ。チチさんが恥をかくのよ」
ブルマはメイドボットに道具を持ってくるよう命ずると、ふと神妙な顔つきになって、事に当り始めた。
「あんたに多くは望まないわ。そうね、3つだけ。まず1つ、フォークとナイフを使って食べること。2つ、口を拭くときはナプキンを使うこと。3つ、フィンガーボールの水を飲まないこと。これだけよ。これだけ守っててもたぶん恥をかくことになると思うけど、何もしないよりはマシだわ」
「わけわかんねえな」
ブルマは悟空の台詞には構わず、メイドボットの持ってきた道具を、テーブルの上に一列に並べてみせた。
「今やってみせるわよ。はい、まずこれがフィンガーボールね」
「おう、サンキュー」
悟空は手渡されたボールの水を旨そうに飲み干した。ブルマは猛然と立ち上がった。
「ちょっと!今言ったばかりでしょ!!」
悟空はきょとんとした顔でブルマを見返した。
「だっておめえが手渡すから」
「ああもう…道のりは遠いわ…」
ブルマは誇張ではなく本気で、眩暈を覚えた。
「次はシルバーよ。ナイフとフォーク。これはわかるでしょ」
「わかるけどさあ。オラこれ苦手なんだよ」
悟空はかろうじて掴んでいるといった塩梅で、怪しげにシルバーを操っていたが、すぐにナイフを遠くへ吹っ飛ばした。
「ほうらな」
「待った!」
テーブルの下へ頭を屈めナイフを拾おうとする悟空を、ブルマが鋭く咎めた。
「拾っちゃダメよ!落としても、自分で拾っちゃダメ」
「何でだよ」
「そういう決まりなのよ。お店の人が拾ってくれるの」
悟空は納得しない表情で口を窄めた。
「でも、今オラたちの他に誰もいねえぞ」
「あたしが拾ってあげるから。とにかく、あんたは拾っちゃダメ」
「何だよ、ケチ」
「ケチじゃないでしょ、拾ってあげるんだから。感謝しなさい」
そう言うとブルマはテーブルの下へ潜り込んだ。だが、ナイフは探せど探せど見つからない。
「ちょっとあんた、どこまで飛ばしたのよ」
「知らねえよ。だからオラそれ嫌いなんだ」
悟空の足下をさんざん探し回った挙句、ブルマはそれを見つけだした。それは悟空の服の背中に入っていた。
「あんた、こんなところに落とせるなんて、もはや一種の才能よ」
悟空の背中に片手を突っ込みそれを取り出しながら、ブルマは心底呆れた声をだした。
「ははは、オラ照れっちゃうな」
「褒めてないわよ!」
ブルマは大げさに溜息をつくと、気を取り直したように、ナプキンを手にした。
「さ、これが最後よ。これが一番簡単だからね。…たぶん。口を拭くときはナプキンを使う」
「ナプキンって何だ?」
「これよ。この白い布」
ブルマはナプキンを大きく広げて、悟空に見せた。
「ああ、風呂敷か」
「…もう、それでいいわ」
ブルマの声にも、さすがに疲れが表れてきた。
「これはこう2つに折って…いいわもう、あたしがやってあげるわ」
ブルマは悟空の背後に回り、両側から抱えるように腕を回した。ナプキンを膝の上に置き、半分に畳み込む。
「これは使った端から巻き込んでいくのよ。常にきれいな部分を使うわけ…って、いいわもう、あんたは拭いてさえいれば。とりあえず、その口のまわりのクリームを何とかするのね」
すでにブルマは、言う傍から諦めかけていた。
「オラそんなのついてっか?」
「最初からずっとついてるわよ。っていうか気づいてないわけ?」
これは本気でダメかも、そうブルマが考えた時、悟空がナプキンを引き裂いた。
「ちょっと!あんた、口も満足に拭けないわけ!?」
ブルマの堪忍袋の尾が切れた。
「そんなこと言ったってよう」
「こう!こう当てるだけでしょ!」
ブルマは悟空の背後から抱きすくめるような格好で、ナプキンを彼の口のまわりに乱暴に擦りつけた。
「いて、いてえよブルマ!!」
「男でしょ、我慢しなさい!!」

その時、壁を荒々しく叩く音がして、2人は一瞬動きを止めた。

「…何やってんだおまえら」
ドアの脇にヤムチャが立っていた。
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