Pure stone(前編)
透き通るような青い空。目の覚めるような緑の木々。ある山の一角に、場違いなエアジェットが着陸した。その騒音に鳥は飛び立ち魚は散り、男は木の上でりんごを一口飲み下した。
「やっほー、孫くん」
「なんだ、ブルマか」
エアジェットから出てきたブルマを見ると、悟空はりんごを齧るのをやめた。そこまでは挨拶のマナーに適っていた。
「おめえ、また来たのか。で、今日は一体何食うんだ?」
「…いい挨拶してくれるわね」
「そっか?サンキュー」
「褒めてないわよ!!」
ブルマは早くも頭が痛くなってきた。わざわざ来るんじゃなかったかも。そう思い始めた彼女の頭上では、悟空が残るりんごを丸ごと飲み込み、次なるりんごに手を伸ばしていた。だがブルマに続いて姿を現した面々を見て、彼はりんごをもぎ取るのをやめた。
「お?どうしたんだ、みんな揃って」
「ちょっと退屈だったから、なんとなく来たのよ」
「ふーん。ウーロン、久しぶりだなあ」
「本当にな。おまえ、ちっとも顔見せないんだからよ」
「いやー、結構行ってるんだけどな」
「だから、その時顔見せないだろって言ってんだよ」
「ははっ。そっか」
なんでか先にブルマのやつに捕まっちまうんだよなあ。その言葉を悟空は呑み込んだ。それは一体なぜなのか、彼自身にもわからぬままに。
「よう、悟空」
「悟空さん、お元気そうですね」
ウーロンの後には、ヤムチャとプーアル。ヤムチャは上げた片手をやおらポケットに突っ込むと、カプセルを取り出し悟空の手元に放り投げた。
「悟空、これやるよ。おまえのことだから、たいした足しにはならんかもしれんがな」
「何だこれ?」
「ボンレスハム一年分だ。昨日野球の試合に出た時にホームラン賞で貰ったんだ。ブルマがおまえにやればって言うからさ」
「おっ、サンキュー」
悟空はさっぱりとそれを受け取った。よく食べ物を目の前にした時に見せる輝きはその瞳にはなかった。声もさして浮き立っていなかった。だからといって、腹が減っていないとか、食べ物のことなんてどうでもいいというわけでは、もちろんなかった。
単に、今はカプセルの中にあって目には見えないそのハムが、彼にとってはいま一つ食べ物であるという実感が湧かなかった、ただそれだけのことだった。


「うっめえなあ、このハム!昨夜食った猪と同じくらいうめえぞ!!」
十数分後、そう言いながらテーブルから顔を上げる悟空の姿が孫家にあった。その目の前の皿には当然のように、ハムの塊がそのまま乗っていた。
「そうか、そりゃよかった。また何か食べ物を貰ったらおまえにやるよ。一年分なんて俺たちには食い切れないからな」
「ヤムチャさ、ありがとうな。うちにテレビがあれば、ヤムチャさがそのプロ野球ってのに出てるとこ見れるんだけどな」
数枚のハムステーキが乗った皿と茶器をテーブルに置きながらチチが言うと、ブルマがそれはわざとらしく目を伏せた。
「見なくていいわよ。あんな女に声かけられて鼻の下伸ばしてるところなんて」
「あのなあブルマ。それは昨夜何度も言っただろ。俺はただヒーローインタビューを受けただけ…」
「それにしちゃ嬉しそうだったじゃない?女の子と一緒に写真撮ったりしちゃってさ〜」
「あれはファンサービスってやつで…」
――ヤムチャのやつも大変だなあ。
向かいの席でいきなり始まった痴話喧嘩に、悟空は思わず食事を中断しかけた。だがチチがお茶を淹れ始めたので、すぐに興味は自分のことへと戻った。
「チチぃ、オラ、茶より水がいいなあ」
「はいはい、わかってるだよ」
悟空が言うとチチは実に手際よく水瓶を傾けた。それがなおさらブルマには意外だった。今度はブルマが自らのことを中断して目を瞠る番だった。
「孫くんあんた、ずいぶんとそれっぽくなってきてるんじゃない?」
――雰囲気だけは一家の主って感じだわ。これで働いてりゃ文句なしなんだろうけど。孫くんて妙にどーんと構えてるところあるからなあ。自分だけじゃなくて、チチさんにもどーんと構えさせてあげればいいのにね。
悟空とブルマが互いに互いのパートナーを思いやったところで、なんとなく場が落ち着いた。ブルマとヤムチャの口喧嘩はうやむやのうちに収束し、悟空の口もだいたい止まった。ウーロンとプーアルは呆れたように、既知のカップルの喧嘩と既知の男の食いっぷりとを見ていた。この上はこの流れのままに、男は男同士拳を交え、女は女同士お喋りに花を咲かせる、そんなことになるはずだった。なにげなく孫家を眺め回したブルマの目が、台所の片隅にあった物を捉えなければ。
「ちょっと!孫く…いえチチさん、あの石どうしたの!?」
杉で作られた4斗樽の上に鎮座まします、灰色がかった銀白色の大きな石。数kgはあると思われるその石をブルマが指差すと、チチはひょいとそれを取り上げ、頬に当てながら言った。
「これか?これはな、オラたちが初めてピクニックに行った時に見つけただ。陽に当たるとキラキラしてそりゃあきれいなんだべ。あんまりきれいなもんだから、一つ記念に持って帰ってきただよ。記念の漬物石だ」
夢見るようなその声に、一同はツッコむタイミングを失った。ただ一人ブルマだけが、喜々として席を立った。
「その石のあったとこってどこ?連れてって!!」
その瞳には、悟空がハムを目にした時と同じような輝きが宿っていた。
「なんだブルマ、それ宝石かなんかなのか?それにしても珍しいな、おまえが宝石に飛びつくなんて」
「宝石じゃなくてレアメタルよ。ベリリウム…それともセリウムかしら。どっちにしても珍しいわ。ううん、こんな大きなの見たことないわよ。ほら孫くん、早く!!」
訊いたのはチチに対してであったものの、引っ立てるのは悟空とブルマは決めていたようだ。だが、悟空は彼にとっては当然の理由で、それを断った。
「ちょ、ちょっとブルマ。待ってくれよ。オラまだメシの途中…」
「もういいだけ食べたでしょ!一体いくつ食べりゃ気が済むのよ、あんたは!」
「え?そうだなあ、もう10個も食えばだいたい腹もふくれ…」
「バカ正直に答えなくていいの!」
すでに悟空の体はテーブルを離れていた。未練がましく手にしたハムの半塊が、どうやら最後の一口になりそうであった。
「ちょっとひとっ飛び行ってくるわ。チチさん、少しの間孫くん借りるわね」
最後に飛んできたブルマの声に答えた者はいなかった。みな呆気に取られていた上に、その声がほとんどドアの向こうから聞こえてきたからだった。


「行くったってよう、山2つ向こうだぞ。ブルマおめえ、歩けっか?」
外へ出ると悟空はそう言って、残りのハムを平らげた。どうやら再びドアを開ける気はないらしい。
「山2つ!?何でそんなに遠いのよ。ピクニックに行ったんじゃなかったの?」
「そこ花がいっぺえ咲いてるんだ。チチがそういうのがいいって言うからさあ」
物理的な重さや距離の関係ないカップル。それも愛の力によらず。それが悟空とチチであった。
「なるほどね。いいわ、エアバイクで行くから。さっ、離れて離れて」
当てられ半分、呆れ半分、プラスそれを超える科学者魂全開でブルマは言った。手早くカプセルからエアバイクを取り出すと、早速それに跨った。こうして悟空とブルマのハイキングならぬフライングが始まった。
「あんな石が欲しいなんて、おめえも変わってんなあ。何ならうちの持ってくか?」
「ダメよ。あれはあんたとチチさんの思い出の品でしょ。孫くんあんた、そういうことチチさんの前で言うんじゃないわよ」
「そういうことって?」
「そういう、チチさんの気持ちを踏みにじるようなことよ。あの石はデートの記念なんでしょ。それをひとにあげるなんて言っちゃダメ」
「あ、ああいうのをデートって言うんか」
ブルマのエアバイクに合わせてのんびりと飛んでいた悟空は、のんびりと頭を掻いた。一見惚けているようにも見えるその仕種が実はそうではないことを、ブルマはとっくに知っていた。
「あんた、相変わらずわかってないわねえ。少しは大人になったのかと思ったのに。それとも男ってみんなそうなのかしら。ヤムチャのやつもね、全ッ然わかってないんだから。写真撮るにしたって、肩まで組んでやることないじゃない。しかたなくやってるにしては楽しそうな顔しちゃってさ。ホームスタジアムなんてね、ブロマイド売ってんのよ!しかもウィンクしてるやつ。ファンサービスの域を超えてるわよ!それも予約限定って何よ。あいつがそんなたいした選手かってーの!」
「…………」
いきなり始まったブルマの愚痴に、悟空は思わず身を引いた。でも飛んでいる最中でのことだったので、結果的には少しスピードが緩まっただけだった。おまけに数瞬後には、一つの事実を掴んでもいた。
「ブルマおめえ、ずいぶんと詳しいなあ。どんな写真か知ってるってことは、おめえもそれ買ったんか」
「ち、違うわよ!妙な写真バラ撒かれちゃたまんないから回収しただけよ!たったの50枚しかなかったし――」
「なんだ、全部買ったんか?」
今度はブルマが口を噤んだ。怒鳴り返してやるには、悟空の口調はさっぱりとし過ぎていた。余計な一言がないことも事実だった。
「――とにかく!あんたはそういう男にはなっちゃダメ!わかった!?」
「…お、おう…」
わけがわからぬままに悟空は頷いた。『そういう男って?』そう訊き返す気は、さすがになかった。
――同じ女でも、ブルマとチチはずいぶん違うなあ。
同じ道中を一緒に歩いた自分の嫁のことを、悟空は思い出していた。デートってピクニックのことだったんか。一つ微妙な勘違いをする一方で、正しく理解できていることもあった。
今のブルマとのこれはデートとは言わないということを。ブルマとチチ、二人の女性の言動を通じて、徐々に空気を読めるようになってきた悟空であった。


やがて件の山に到着した。山の斜面に沿うようにして上っていく風。眼下に広がる色とりどりの花。
「おっ、このあたりだ」
「わー、すごい花畑。で、石はどこよ?」
「どこだっけかなあ。あれはチチが見っけたもんだからなあ。オラ弁当食ってたんだ。そしたらチチが花でわっか作り始めてよう。なんかそういう話してたっけなあ。フライパン山の家で出るイスの花があるとかなんとか」
「あんた言葉おかしいわよ。どうしてイスが花なのよ?」
「知らねえよ。オラ弁当食ってたんだからさ。岩場によくあるんだって言って…そうだ谷に行ったんだ」
「谷ね」
数少ないというよりは訳のわからない手がかりから、二人は谷へと飛んだ。山頂真下の崖の岩棚。それを見つけた時、二人はほぼ同時に口を開いた。
「あった!これよ!この輝き、やっぱりベリリウム鉱石だわ」
「そうだ、こいつだ。チチが好きだって言ってた花は」
その瞬間の瞳の輝きはブルマの方が強かった。だが手を止めたのはブルマの方だった。
「…エーデルワイスか」
なーにが『家で出るイス』よ。間違えるにも程があるわ。とは、ブルマは思わなかった。彼女は素直に感心していた。
名前も覚えられないその花を、悟空が記憶していたということに。それもお弁当を食べていた最中らしいのに。
なかなかいい男になってきてるわね。ブルマはそう思いながら、自らの求める白い石に手を伸ばした。悟空が白い花を手折る様に目を細めもしながら。
その時、谷風が吹き上がった。
「きゃっ…!」
「あっぶねえ!」
エアバイクはものの見事に煽られた。機体が持ち上げられたその瞬間、ブルマの手はどこにも触れていなかった。だが数瞬後には、悟空の胸に添えられていた。宙に投げ出された驚きも冷めやらぬままに、ブルマは悟空の胸の中で目を開けた。眼下の谷に、あっという間に落ちて行くエアバイクとエーデルワイスの花が見えた。
「ひえええぇ…」
「ひょーっ。あっぶなかったなー。おめえ相変わらずドジだなあ。石なんて岩に降りてから取りゃあいいのによ」
「あんただって降りないで取ってたでしょ!」
ブルマは思わず怒鳴りつけた。悟空の余計な一言に、すでに感謝の気持ちは薄れていた。だから当然のように悟空にしがみつき続けて、さらに彼女にとっては当然ともいえる台詞を口にした。
「ねえ孫くん、あの石取って。あの奥にある一番でっかいやつ。とりあえずあれだけ持ってくから。…ちょっと!あたしに渡さないでよ!!」
「なんだよ。おめえが取れって言ったんだろ。これ、いるんじゃねえのか?」
「そうだけど、あたしに渡さないで。そうね、あんたの懐にでも入れといて」
「えー?こんなでっけえの服ん中に入るかなあ」
「入らなくても無理矢理入れて。空のカプセル持ってきてないから、そのまま持ってくしかないのよ」
「だったらおめえが持てばいいじゃねえか。おめえ、オラに抱っこされてるだけだろ」
「何言ってんの。こういうのは男の仕事でしょ。それにベリリウムだとしたら素手でなんか持ちたくないわ」
「なんでだ?」
「ベリリウムって強い毒性があるのよ。ま、これは純鉱石じゃないからたぶん大丈夫でしょうけど、一応ね」
「オラ、もう手で持っちまってるけど」
「あんたは絶対大丈夫よ」
雌雄は決した。こうして身一つで身軽にやってきた悟空は、人と物二つのものを胸に抱えて家に戻ることとなった。ブルマはというと、ほくほくした気分で勝手に切り替わる視界を見ていた。
悟空もブルマも、全然意識していなかった。
お姫様抱っこしているということも、されているということも。

それを意識する人間は、当人たち以外にいるのだった。
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