Trouble mystery tour (10) byB
白い壁、柔らかな深紅の絨毯。等間隔に並んだアーチ型の窓から覗く、薄青色の空。ところどころに置かれた南国のではない観葉植物に、青いテーブルクロス。
いかにもそれらしい色調のレストランを意外そうに眺め回してから、ヤムチャが確認するように囁いた。
「南部料理じゃないんだな」
それで、あたしも少しだけ声を潜めて、事実を告げた。
「南部料理レストランにはあまりいいメニューがなかったのよ。ほら、南部料理ってちょっと荒っぽいから」
もう少し詳しく言うとね、南部料理レストランには、ストロベリーロマノフがなかったのよ。…そう、やっぱり食べたいのよ。イチゴが食べたいの。街のカフェで食べたドンドゥルマにもイチゴはのってたけど、ああいうねっとり濃いアイスと一緒に食べるんじゃなくて、ふんわり軽いクリームと一緒に食べたいのよ。だから今夜はフレンチよ。異国情緒や旅気分はこの際、横に置いておくわ。いつも通りでも何でも、好きなものが一番だもの。
そんなわけで、あたしはさっさとデザートまでの自分のメニューを決めてしまった。自分のメニューを閉じて、今だに広げられているもう一つのメニューの革表紙に目をやると、ヤムチャが視線を手元のメニューからあたしへと移した。
「…何だよ」
そして、あからさまな非難口調で呟いた。うーん、ちょっと過敏になってるわね。どうやら遊び過ぎちゃったみたい。
あたしは一瞬気を取られたけど、呆れたり罪悪感を抱いたりはしなかった。それでももう、あの遊びを引っ張り出すつもりはなかった。そろそろ遊びはおしまい。ここからは大人の時間よ。そしてそう思った時、自ずとレストランに入った時のヤムチャの様子が思い出された。同時にその前までの様子も。だから、あたしは心の底からそういう気持ちになって、ヤムチャに言ってあげた。
「あんた、立ち直り早いわよね」
「放っとけ」
ヤムチャはぶっきらぼうに言い捨てて、再びメニューに目を落とした。まー、何よ。せっかく褒めてあげたのに。かっわいくないわねー。そうあたしは心の中で呟いたけど、口には出さなかった。
本気でそんなこと思っていたわけじゃないから。ただの反射よ。そんなにかわいくないってわけじゃないわ。言い方はかわいくないけど、顔には出してないし。態度にもね。ちゃんとレディファースト守ってたもの。本当にこいつって、立ち直り早いわね。いいことだわ。
あたしはなかなかいい気分で、今度はメニューではなくメニューを手にしている男の姿を眺めた。うっかりすると野暮ったくなりがちなダークグレーのスーツ。一見無個性にも思える、黒地にイエローのレジメンタルストライプのシルクレップ・タイ。こういう、かっちりした格好の男にエスコートされてみたかったのよね。タキシードじゃなくて、どちらかっていうとビジネススーツに近いやつ。なんか、お嬢様って感じするじゃない。お嬢様と執事、みたいな。言わば、現代版お姫様よ。
程なくして、ヤムチャもメニューを閉じた。オーダーを通してしまうと、後は完全に自分たちの時間となった。まずはシャンパンのグラスを合わせると、ヤムチャがいつもと同じのんびりとした態度で、いつもとは少し違う台詞を言った。
「なんか、いつもと雰囲気違うな」
軽く視線を流しながら。それであたしは少し気分を出して、でも口では単純に訊き返した。
「何が?」
「店の雰囲気がさ。フレンチってカップル客ばかりだと思ってたんだけど、案外、一人客っているもんなんだな」
ヤムチャの声は、結構本気で不思議がっているように聞こえた。あたしは当たり前だと思ってたんだけど、どうやらヤムチャにとってはそうではなかったみたい。まあ、そうかもね。いつもデートで行く店は、そういうところばかりだから。
「ホテルのレストランだからでしょ。特にここは世界遺産に指定されてる街だし。一人で来る人だっていっぱいいるわよ」
アミューズ・ブーシュを運んでくるウェイターを遠目に見ながら、あたしは答えた。色気のない会話ね。っていうか、紛らわしい言い方しないでほしいわ。一瞬それっぽい方向に行くのかと思っちゃったじゃないの。
あたしの気分は、一瞬にして殺がれた。とはいえ、気分を害するというほどではなかった。出していたぶんがなくなっただけ。…まあ、こんなもんでしょ。もともとたいして求めてなかったから、いいわよ。
目の前に置かれるアミューズの皿を見ながら、あたしは自分の気持ちを着地させた。ウェイターがいなくなって会話が再開される時がきても、たいして気分は湧いてこなかった。だから自然と、色気のない話題を続けた。
「あたしだって、本当は一人でくるつもりだったしね。女の一人旅っていうのも格好いいじゃない?」
「え、そうなのか?」
ヤムチャは語尾を上げながら、ワイングラスに伸ばしていた手を止めた。その反応が、最初のセンテンスに対するものであることは明らかだった。だからあたしは何を思うこともなく、かつて自分の考えていたことを口にし続けた。
「うん。だけどペアチケットだったから。最初はプーアルでもいいかなって思ったんだけどね。でも、あんたの方が荷物持ちになると思って」
でも、その後少し口を噤むこととなった。
「ああ、そうですか」
そう言って、ヤムチャが不貞腐れたように片頬杖をついたからだ。…今までこんな態度取ったことなかったのに。いつもはたいてい、何となく釈然としないような顔をして黙り込んだりするのに。
いつになく反抗的な態度。それにあたしが目を向けていると、またヤムチャがその台詞を言った。
「…何だよ」
不貞腐れた目つきとマナー違反の仕種をした、そのままで。やっぱり気が大きくなってるわね。そう思いながら、あたしはその遊びを引っ張り出した。
「あーん」
もう完全に飽きていたその遊び。アミューズの一品をフォークに刺して、ヤムチャの口元に寄せてみた。ついでににっこり笑ってやると、ヤムチャはすっかり目を丸くした。すでにその瞳は、反抗心のない、まるっきり素のものになっていた。だからあたしはまた笑って、次の段階へ移行した。
「なんちゃって」
すぐさまフォークを引き戻して、アミューズを自分の口に入れた。ヤムチャの口が開く前に。そこまでいじめちゃかわいそうだから。こいつにもプライドあるみたいだし。
「あのなあ…」
「今、迷ってたでしょ、あんた」
アミューズの味を口の中から消してからそう言ってやると、ヤムチャは再び反抗的な態度を取り始めた。
「うるさいな。…その石全然効いてないな、おまえ」
さっき手に入れたばかりのあたしのピアスをちらりと見ながら、そう言った。わざとらしく上げた眉に、偉そうな口ぶり。おまけに聞き慣れない嫌味の言葉。でもそれも、あたしの気を殺ぎはしなかった。だって、事実上の敗北宣言だもんね、これ。むしろ非常にいい気分となって、言ってやった。
「こんなのに頼ってるようじゃダメよ〜」
返事はすぐには返ってこなかった。だからあたしはその隙に、少し冷めてきたアミューズの一品を口に運んだ。
そんな感じであたしたちは、とてもゆっくりとレストランでの食事を楽しんだ。
楽しいわね、こいつ。やっぱり旅のお供は、ヤムチャが一番よ。
だって、こんなに弄り甲斐のあるやつ、そうそういないもんね。


食事を終えた頃には、時刻の上ではすっかり夜になっていた。だからというわけでは全然ないのだけれど、あたしは態度を少しだけ改めることにした。
もう充分、からかったわ。今日はこのくらいにしておいてやろうっと。ヤムチャがかわいそうだなんてちっとも思わないけど、あんまり続けてるとあたしの方が飽きちゃうからね。90日もあるんだから、のんびり楽しんでいかなくっちゃ。
フレンチカラーのレストランを後にすると、当然の成り行きで視界が切り替わった。人気のないロビー(きっと食事時だからだと思うわ)。ここだけはどこのホテルでもたいして変わらない、素っ気ないエレベーターの中。そしてまた人気のないロビー。最後に、今夜を過ごす25階のあたしたちの部屋。そしてそのベランダの外にある――
リビングに一歩を踏み入れた瞬間、あたしはそれを見た。
――まさに今落ち始めた赤い太陽。空を染める真っ赤な夕焼け。その下に広がる、同じ色に輝く海。オレンジ色から赤へと色相を変えつつある街並み。『ビアード海の真珠』と称えられているレッチェルの、絵画のように美しい夕暮れの景色。
…見事にタイミングがズレちゃってるわ。
食事をする前に、これを見たかったのに。もしくは、食事をしている最中に。食事を終えた後に乾杯もないじゃない。本当に、ここってすっごく日が長いわね。
夕陽色のドレスを着て、燃える夕陽を見ながら乾杯。思い描いていた情景を心の隅に押しやりながら、あたしはテラスへと足を向けた。思い通りにならなかったからって、不貞腐れたりしないわ。ここは知らない街なんだもの。タイミングなんて、計れなくて当然よ。それが旅行ってもんよ。
テラスの欄干に両手を乗せると、隣にヤムチャがやってきた。それであたしは乾杯の代わりに、一人では感じることのできないこと――会話する楽しみ、というやつを味わうことにした。
「すっごく遠くに来たっていう感じがするわ。こんなに遅い夕陽、あたし初めて」
「ああ…」
ヤムチャは薄い笑顔と共に頷いた。でも、あたしにはわかった。だから笑って言ってあげた。
「別に無理して合わせなくってもいいわよ。どうせ見たことあるんでしょ。山とか空とかそのへんで」
ヤムチャはすぐさまあたしの言葉を否定した。
「空からはないぞ」
形ばかりは否定した。まったく、嘘のつけないやつね。あたしは呆れはせずにそう思い、さらにつけ足して言ってあげた。
「見たことあるものをないなんて言う必要はないわよ。何度見たって夕陽はきれいよ」
「まあ、そうかな」
ヤムチャはまた笑って頷いた。これにはあたしは呆れてしまった。
「あんた、気遣いがズレてるわよ。ここは『そうかな』じゃなくて『そうだな』でしょ」
一文字違いで大違い。本当に迂闊なやつだこと。特にその気にならなくっても、突っ込みどころ満載ね。これはとうてい、ロマンティックな雰囲気にはなりそうもないわね。…ま、そうでしょうね。ヤムチャとそんな会話、一度だってしたことないもんね。
慣れきった呆れ。あたしはそれ以上のものは感じずに、ただただ異国の空を見ていた。そして数瞬の後に、ふとそのことを思い出した。
「あたしお風呂入ってくる。また後でね」
ここのバスルーム、バスタブから外の景色が見えるのよね。25階だから人目を気にする必要もないし。ご飯も食べたし、もう後には何もすることないから、思いっきりのんびりしちゃお。
そんなわけで、あたしはすぐさまバスルームへ行き、さっさと夕陽色のドレスを脱いだ。手始めにバスオイルをバスタブに落とすと、ティーツリーの香りがバスルームいっぱいに広がった。たっぷりのシャワーを勢いよく浴びてから、夕陽の映るお湯の中に体を沈めた。手足を伸ばしてもなお余る広いバスタブ。横の全面ガラス窓から眺める異国の風景。少しずつ落ちて行く真っ赤な太陽。夕焼け色の空と海。今ではあたしは、このタイミングで夕陽を見れたことに、感謝し始めていた。だって、すっごく贅沢な空間じゃない。それに、夕陽を見ながら乾杯なんて、いつだってできるもの。
一人で過ごすゆったりとした時間。一人で見る美しい景色。気分はすっかり一人旅となって、あたしはそのことを考えた。
…もし本当に一人だったら、この時間はどう過ごしていたかしら。
バーで誰かと話し込んだりしてたのかもね。ショッピングするにも、こういう地方の街はショップが閉まるの早いから。でも、90日もそれだと飽きちゃうんじゃないかしら。それにちょっと疲れそうだわ。だからって部屋で過ごすのも、あんまり素敵とは言えないわ。一人で部屋に篭るには早過ぎる時間よ。そりゃゆっくりはできるけど、話相手がいないんだもの。ヒマを持て余すのは目に見えてるわ。
結局、『ペアチケット』っていうのには、それなりの意味があるってことね。
とりあえずの結論を出したところで、あたしは思考を閉じた。実際の自分のことについては、何も考えなかった。これからどうしようかな、とかそういうこと。なんていうか、そういう気なくなっちゃった。『愛を育む』ってやつ。なんか違うわよね。断然違うわよ。雰囲気がないとかそういうんじゃなくて、感覚的に違うわ。ロマンティックなシチュエーションを楽しみたい気持ちは依然としてあるけど、わざわざ育まなきゃならないほど、切羽詰まってるわけじゃないと思うの。
そうこうしているうちに、夕陽が地平線に近づいてきた。それで、あたしは少しだけ急いでバスタイムを切り上げた。ヤムチャにも夕陽、残しておいてあげなくっちゃね。
ホテルサービスのパフュームは、自分では絶対に買わないバニラの香り。宵用のドレスは、ネグリジェ風ワンピースドレス。家にいてはどうしたって着ることのできない一着。
んー、外にいるって感じがするわ。


「早いとこお風呂入った方がいいわよ。今すっごくいい感じだから」
ヤムチャが好きそうかどうかはわかんないけど。言いながらあたしは途中でそう思ったけど、とりあえず最後まで言い終えた。まっ、とりたてて好きじゃなくても、嫌いってことはないでしょうよ。夕陽が嫌いな人なんて聞いたことないわ。いたとしたって、せいぜい失恋したての人くらいのものなんじゃないかしら。
バスルームへ向かうヤムチャを尻目に、あたしは再びテラスへ出た。今では元の色を取り戻しつつある海を眺めるため。沈む夕陽を見届けるため。爽やかな夜気に火照った体を冷まさせながらそうしていると、すぐにその欲求が湧いてきた。…お風呂上りの渇いた喉を潤す一杯。ビールはちょっと気分じゃないから、ここはワイン。でもあたしはリビングにあるワインを取りには行かずに、テラスのチェアに腰を下ろした。だって、乾杯の前に一人で飲むわけにいかないじゃない。ええ、乾杯はするわよ。夕陽がなくたって、乾杯はするわ。この状況なら、きっと誰だってするんじゃないかしらね。そうじゃなくたって、一人でさっさと飲みに入るのってどうよって感じだし。まあ、二人旅の弊害よ。
幸い、あたしの喉の渇きは涸れとまではならずに済んだ。空から夕焼けが消え去るより先に、ヤムチャがバスルームから戻ってきた。
「寒くないか?」
「平気よ。ねえ、ワイン飲も」
男って、お風呂短くていいわね。そう思いながら、あたしは続けた。
「TVの下のドアのところに、ワインとグラスが入ってるから」
そこまで言っただけで、ヤムチャはリビングへと戻っていった。う〜ん、便利便利。やっぱり使い慣れてる男は便利ね。時々口うるさいけど。
「うん、サービスにしては気が利いたもの置いてるわね」
やがてやってきた男とワインは、あたしの期待を裏切らなかった。『サントネイ・ラコム・ルモワスネ』。赤オレンジ色のワイン。いわくは何にもないけど、香りも味もなかなかのワインよ。そしてヤムチャは、やっぱりワインをグラスに注いでくれる。今日ずっとそうしてたけど、まあそれが当たり前なんだけど、それにしてもめげないやつね。
「じゃあ、乾杯。そうね、…何に乾杯すればいいかしら…」
ここまで実にスムーズに流れていた場の雰囲気は、あたしの一言で少しだけ停滞することになった。『この旅に乾杯』はもうやっちゃったし。『ここに着いたことに乾杯』ももうやっちゃったし。やろうと思ってた乾杯は、…やっぱりそういう感じじゃないし。
困るというほどではないにしても、あたしはそれなりに深く考え込んだ。するとヤムチャがこともなげに言ってのけた。
「今日一日が無事に終わったことに乾杯」
「…あんた、プーアルみたいなこと言わないでくれる?」
せっかく夕陽とお風呂で気分一新リフレッシュしたのに。一瞬で日常感が戻っちゃったじゃないの。主従揃ってズレたやつらね。
グラスを一端テーブルに戻すと、ヤムチャは一見まるで罪のない顔つきで言った。
「プーアルは何て言ったんだ?」
「あんたが無事に帰ってこられればそれでいいって。あたしはお土産何がいいかって訊いたのよ」
「…なるほど」
すでに場の雰囲気は流れ始めていた。初めに空想していたものと違うのはまだいいとしても、その次に想像したものとすら違う方向に。
「何が『なるほど』なのよ」
あたしが少しだけ眉をあげてみせると、ヤムチャは瞬時にグラスを手から放して、とうとうと言い訳し始めた。
「い、いや。だってほら、いろいろあったじゃないか。ハイジャックとか、旅客機操縦しなきゃならなくなったりとか」
「あれはあんたが、犯人の腕を折っちゃったからでしょ!」
「だってあの時はあれがベストだと思ったんだ」
「どこがベストなのよ。考えなしなんだから!」
ここであたしは、思わずワインを煽りかけた。でも、まだ乾杯をしていないことを忘れるほど、息巻いていたわけではなかった。
「とにかく。ああいうことは普通はないから。そうね、じゃあ明日からに乾杯ね」
「明日はどうするんだ?」
「明日は完全自由行動。北はグランニエールフォールズ以外にたいしたものないから、南を中心に回るわよ」
とりあえずはそこまでを言ってから、あたしはワイングラスを口にした。まったく、喉乾いてるっていうのに、無駄な会話させないでほしいわね。少し荒く鼻から息を吐くと、次の瞬間代わりに香りが入ってきた。
グラスからフワリと広がる熟した果実の香り。舌の上に流れ込む、優しく穏やかで安心感のある古酒の味わい。それでいて心弾むようなこの風味。初めはちょっと薄いような感じもするけど、だんだん甘くなってくるの。スケール感はさほどないし、ドンペリには遠く及ばないけど、あたしは好き。
馴染みのある好きなワインに心を緩められて、あたしは続けようとしていた話題を引っ込めた。『明日の予定』。南ってどこなのかとか、何に乗っていくのかとか、何をしに行くのかとか。そういうことを、もう全部引っ込めた。だってヤムチャ、何も訊いてこないんだもの。訊いてくる気配、全然ないんだもの。普通、訊くわよね。何考えてんのかしらね。今朝それで失敗したばかりのくせに。『そんな話聞いてない』って文句言ってたくせに。訊いてないのは自分じゃないの。本当に考えなしなんだから。
あたしはまた一口ワインを飲んだ。興味の欠片すら示さないヤムチャの態度を目にしても、気分はまったく損なわれなかった。今では、別の解釈ができるようになってきていたからだ。
何も訊かずにここまで付き合えりゃ立派よ、あんた。
「ねえ、今日楽しかった?」
いろいろと思いを巡らせながら、あたしは訊いてみた。…すっごくつまらなさそう、っていう感じはなかった。うん、それはどう考えてもなかった。でも、すっごく楽しそうっていう感じはもっとなかった。…フリーフォールやってた時以外は。あの時はものすごく楽しんでたわよね。2回目の時なんか特に。もっとああいう要素を取り入れた方がいいのかしら。そうね。どうせたいしてしっとりしてくれないし。あたしもわりと楽しめるし…
そんな感じだったので、あたしはとりたてて気の利いた答えを期待していたわけではなかった。再びグラスに満たされたワインに口をつけようとすると、ヤムチャが視線を空へと向けながら、少し胸を反らして言った。
「忙しかった…かな」
「何それ?」
あたしはすぐさまグラスを置いた。驚きはしなかったけど、説明がほしかった。だって、そんなに強行スケジュール組んだわけじゃないわよ。遠出したのはグランニエールフォールズだけだし、その後お茶飲んで、ちょっと買い物して、ご飯食べて…普通よね。いつものデートとたいして変わらないわよ。
ヤムチャはまた少し胸を反らした。軽く腕を組んで妙に腰を落ち着けて、でも口ではよくわからない上滑った台詞を言い続けた。
「少し気忙しいっていうかな。…ああ、疲れたわけでは全然ないんだ。ただ読めなさ過ぎて…うん、楽しかったよ。楽しかったけど」
「けど、何よ?なんかわけわかんないんだけど」
「いいさ、わからなくて。まあ放っとけ。どうせ荷物持ちだから」
捨てるようにそう言うと、グラスに残っていたワインを煽った。すぐに手酌し始めたその様を、あたしは言葉を発しないままに見ていた。
放っとけって言われても。…どう見ても拗ねてるんだけど。なんかすっごく偉そうに拗ねてるんだけど。何なのそれ。あんた、強気なの弱気なの、どっちなの。
拗ねてるくせに胸張って。文句言ってるわりに、ワインはきっちり注いじゃって。だいたい荷物持ちっていったって、あたしまだ一回もさせてないわよ。…させたっけ?そういえば、来る時トランク持たせたわね。でもあれは、ヤムチャが自分から持ったのよ。あたしはカプセルに入れるって言ったのにさ。…突っ込みどころ満載ね。ボケてるのもいいところよ。気が大きくなってるわりに、そういうところは全然変わんないんだから。自分でやったことを人のせいにして、勝手に拗ねないでほしいわね。
そう思いながら、あたしはテーブルに顔を伏せた。ヤムチャのプライドを守ってやるため。今のこの、後から後からこみ上げてくる笑いを隠すため。…だって、なんかかわいいんだもの。わけわかんないけど、すっごーくかわいいんだもの。もう充分わかってたけど、これはダメ押しだわ。
「あっ、おまえ…」
やがて、拗ねているくせに強気な声が、頭の上から聞こえてきた。どうやら気づかれちゃったみたい。まあ、そうよね。気づかれないわけないわよね。声は出してないけど、ものすごく不自然な態度だものね。
それでもあたしは笑い続けた。教えてあげようとは思わなかった。あたしは頼んでなんかいないとか。そんなこと言う時にまで無理してマナー守らなくてもいいとか。言わないわよ、そんなこと。それは意地悪過ぎるでしょ。宥めてだってやらない。ヤムチャにだってプライドがあるんだから。本人も放っとけって言ってるしね。
そのうちに、ワイングラスがテーブルを離れる音が、耳に入ってきた。でも、テーブルに戻される音は聞こえてこなかった。それであたしは少しだけ態度を改めることにした。3杯目に手をつける前に顔を上げてやらないと。いくら何でもかわいそ過ぎるわ。
「あー、苦しかった。…あ、何でもないから」
どうにか笑いを引っ込めて顔を上げると、予想通りのヤムチャの顔が目に入った。不貞腐れたような諦めたような、強気と弱気の綯い混ざった曖昧な表情。さらに、あたしが流してあげたにも関わらず、ヤムチャは聞いたところ強気な口調でこう言った。
「ああ、そうですか」
ヤバイ。また笑えてきた。
とはいえ、その後にヤムチャが口を開く気配はなかった。だからあたしは2杯目のワインを諦めて、場そのものを流してあげることにした。
「じゃあ、荷物持ちさん。さっそくだけど、ちょっと荷物運んでよ」
「ああ、はいはい。何だ?明日の分か?」
めげないというべきか、かわいくないというべきか。とにかくヤムチャは二つ返事で腰を上げた。はっきりいって、そんな雰囲気じゃ全然なかった。それでもあたしは口にした。
「あたし。ベッドまで運んで。もちろんお姫様抱っこでね」
だって、あたしヤムチャのこと好きだし。ヤムチャはあたしのことすっごく好きなんだから。雰囲気は全然なかったけど、今日それがよくわかったわ。だったら、このくらいしてもらわなくっちゃね。
ヤムチャはすっかり動きをとめた。曖昧さだけを残した呆けたような表情で、じっとあたしを見ていた。困ったやつね、こいつ。そりゃあ、雰囲気なかったわよ。前振りだってしてないわ。だから驚くのはわかるけど、男だったら、こういう棚ぼたには素直に反応しておきなさいよ。あたしのこと、好きなんでしょ。これじゃ、あたしの立場がないじゃないの。
でも、あたしはそれは言わなかった。あたしはあたしのプライドを守った。同時に教えておいてもあげた。
「嫌なら無理にとは言わないわよ。一人でだって行けるから。でもその時は、あんたはソファで寝てね。『働かざる者食うべからず』って言うでしょ」
我ながらうまいこと言うわね。ちょっと品はないけど。まっ、今さらヤムチャに見栄張ったってしかたないし。だいいちあんまり凝り過ぎると、ヤムチャには伝わらないかもしれないからね。
「ソファは嫌だな」
すぐに返ってきたヤムチャの態度は、台詞以外はあたしの心に適うものだった。緩やかな笑顔に緩やかな声。生意気なところのない落ち着きぶり。だからあたしも同じように返してやった。
「だったら働くのね」
こうしてこの上なく色気のないやり取りの後で、あたしたちは大人の時間を過ごすこととなった。地から足を離すと、耳元に笑みの息がかかった。シャツの下からティーツリーの香りが漂ってきた。どことなく違って見える室内を、あたしは最後まで地に足をつけずに進んだ。白い壁。白い天井。異国風の重厚な暗茶色のフローリングの上にある、キングサイズの天蓋付きベッド。そのベッドの上に体を移されて天蓋のレースを真上に見た時、あたしはほぼ完全に、外にいる気分になった。
「はい、ごくろうさま」
「どういたしまして」
唯一あたしに日常感を与える男が、そう言って天蓋を遮った。いつものようにあたしの髪を弄び始めたヤムチャの顔を、あたしはいつもとは少し違った気分で見ていた。
男らしいかはわかんないけど。素敵かどうかも微妙だけど。でも、こういう時のヤムチャの笑顔はすっごくいいのよね。そしてそれを、あの子たちは絶対に見ることができない。
うん。とってもいい気分だわ。
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