Trouble mystery tour (3) byB
ハイジャック犯の顔を、あたしはあまり見なかった。見る必要なんかないと思ったし、実際よく見えなかった。小柄だったから。小柄なその体の前に、アテンダントを立たせていたから。背中に長いナイフを突きつけられたアテンダントは、ただただ無言で、両手を肩の辺りにまで上げていた。
犯人の第一声は、それほど意外なものではなかった。
「客は全員、最後部席に移れ。アテンダントはこっちへ来い」
第二声はなかった。すぐに乗客が動き始めたからだ。乗客は抵抗する素振りも見せなかった。もともと人数が少ない上に、この構成――老夫婦が3組と、女の子が2人。老夫婦は抵抗するどころか、上げる声すら小さかった。女の子たちの悲鳴はわりと大きく聞こえたけど、ガイドブック片手で、悲壮感漂う声というよりは、黄色い声に近かった。
あたしはというと、声はまったく上げなかった。でも、ナイフはちょっと怖かった。脅されているアテンダントの次に、あたしたちが一番犯人の近くにいたから。それでも、あたしどうなっちゃうの、とは思わなかった。
だって、ヤムチャがいるもの。例え外に放り出されたって、生きて帰れる。少なくともあたしだけは。
とはいえ、もちろん放り出されたくはない。怖そうだもの。さらにナイフなんかは絶対に向けられたくはない。やっぱり怖いもん。
とりあえず、ここは犯人の言うことに従うべき。早くも後部座席に固まった他の乗客を見て、あたしはそう思った。さらに、アテンダントがこちらも抵抗することなく前へと――犯人の方へと歩き出したので、その思いはより強まった。
でも実際に腰を上げた一番の理由は、ヤムチャが席を立ったからだ。通路側に座っていたヤムチャが、何も言わずに通路へ出たから。意外にも大人しく、犯人の言うことに従ったから。ヤムチャより先にあたしの出番が来るなんてこと、あるはずがない。っていうか、こういう場合あたしに出番を回されたって困るんだけど。
だからあたしは言わば当然の流れで、ヤムチャの後に続いて通路へ出た。するとヤムチャが、ある意味では当然とも言える台詞を口にした。
「ブルマ、先に行け」
こういう場合、男が女を先に行かせるのは当たり前。でも、あたしはピンときた。
「えっ、まさかあんたもうやるの!?相手の人数もわからないのに…」
「もうわかってる」
きっぱりとヤムチャは言った。声音の鋭さとは裏腹に、態度は柔らかだった。さりげなくあたしの腕に添えられた手は、あたしにとってはあきらかに先を促すものだった。あたしの目の前にあるたいして張っていない胸も、やっぱりあたしを促すものだった。でも、ヤムチャの非常人さをあたし以外の人は知らない。つまりあたしたちは傍から見れば限りなく、嘆いてくっつき合っているカップルの形を取っていた。当然といえば当然の成り行きで、犯人の視線と声があたしたちに向けられた。
「おい、おまえら、何やってる!さっさとしろ!」
あたしはすかさずヤムチャから体を離した。犯人とは反対方向に。ヤムチャの手があたしの背中を押す前に、もうわかっていた。
犯人は自分で自分の不幸を呼び込んだのだということを。
「はっ!」
武道会以外ではたいていいつもそうであるように、ヤムチャは一音しか上げなかった。一声の前の、足音すら聞こえなかった。でも、それは全然不思議じゃない。だって、こいつ飛べるんだもの。まあ、今飛んだのかどうか本当のところはわからないけど(そんなもの見えないわよ)、気がついた時にはヤムチャは犯人の真横にいて、すでに蹴りを放っていた。…思うんだけどこのヤムチャの蹴り、世の中一般では卑怯な技に属するんじゃないかしら。だって、飛べるんじゃ例え両足を縛られたって、蹴り入れられるじゃない。おまけに目の前に来るまで、姿は見えないし。防ぎようがないんだもの。普通の人間が勝てるはずないのよね。
そして、一音の後にはたくさんの音が続いた。
「ぐはぁっ!」
犯人が苦痛に呻く声。そして背中から床に叩きつけられる音。手から離れたナイフが床に転がり落ちる音。
「やった!」
わかっていたにも関わらず、あたしは声を上げた。呆然とする他の面々を尻目に、一人喜々として叫んだ。ヤムチャは顔だけを振り向けて、あたしに視線と笑みをくれた。でも、あたしがそれを返すことはなかった。
それより先に、ヤムチャが前方へと飛んで行ったからだ。今度は飛んだと、あたしにもはっきりとわかった。そして、床の上のナイフを軽くあたしの方に蹴り寄こした。動かない犯人を解放されたアテンダントの背中越しに見ながら、あたしはそれを拾い上げた。それとほとんど同時だった。
「はっ!」
次なる一音と共に、大きな破壊音が耳に届いた。顔を上げると、ヤムチャがすでに操縦室へと達していて、その強化ドアを叩き壊していた。呆然とし続ける他の面々を尻目に、今度はあたしも呆気に取られた。 何が何だかわからなかったからだ。
どうしてドア壊すの?機長に声をかけるにしたって、壊す必要がどこにあるの?まだ何かあるの?
とはいえ、何が起こっているのかは、やがてすぐにわかった。見えはしなかったけど、聞こえてきた。ほとんど全壊していたドアから、何もかもが聞こえてきた。
「ぅぁ…ぁぁっ…」
低く鈍い、声にならない声。もちろん、ヤムチャのではない。今さっき聞いたものと同じ――おそらくはナイフが床に落ちる音。ヤムチャはそんなもの持ってない。人の倒れる音。少なくともこの飛行機の中に、ヤムチャを倒せる者はいない。…と思う。
共犯者か。きっとそうだわ。機長を脅してアナウンスをかけさせたやつよ。…そういえば、あいつ気を読めるんだっけ。『もうわかってる』って、そういうことか。便利ね〜。ほとんど人間探知機ね。人の気分は読めないくせにね。
やがて、物音が完全に止んだ。それにも関わらず、ヤムチャは戻ってこなかった。…やっつけたんじゃないのかしら。でも、犯人らしき人間もやってこない。あたしはナイフを持ったまま、今ではざわめき始めている面々を尻目に、操縦室へ行ってみた。
どう見てもバリケードにはならなさそうなドアを、用心して潜った。最も、ヤムチャがやられちゃうようなのが相手なら、何をしたって無駄なんだけど。
「よ!」
ドアを潜りきると同時に声がした。さっき聞いた一音とは対照的な、この上なく軽い声。次に、促すのではなく迎える顔が目に入った。さらに、立ったまま軽く片足を組んで、やっぱり軽く手を腰に当てた、緊張感の欠片もないその姿勢が視界に収まった。
『もう、心配させないでよ』。当然あたしはその言葉を呑み込んだ。
「何が『よ!』よ。こんな派手なやり方して。ドアくらい、普通に開けなさいよ」
ついでに軽く睨みつけてやると、ヤムチャはたいして堪えた様子もなく、一見いかにもな台詞を口にした。
「そんな余裕なかったんだよ」
「何言ってんの。余裕ありまくりのくせに」
あたしはすっかり呆れ返って、ヤムチャと同じ態度を取った。すると途端にヤムチャはしっぽを出した。
「バレたか」
その場凌ぎの嘘を投げ出して、やっぱり軽く笑った。あたしはそれにはつられなかった。
まったく。
だから、あんたはズレてるんだっていうのよ。格好つけるところがズレてるの!いえ、ズレてないのかもしれないけど、なんていうか…そう、やっぱり空気読めてないのよ。それ以前に、終わったんなら終わったって、ちゃんと言いにきなさいよ。そりゃ、あんたにとってはこんなの朝飯前なんでしょうけど。そんなの、あたしだって知ってるけど……あたし、どうしてヤムチャのことなんか心配してたのかしら。こいつ、こんなに強いのに。まだまだちっとも本気なんか出してないって、わかってるのに(だって、技とか使ってないもの)。
あたしは自問していたけれど、本当にわからないわけではなかった。ただ思うだけ。…ヤムチャもそういうの、少しは読んでくれたらいいのにね。
どうしてなのかはわからない。どことなくセンチメンタルな気分に、あたしはなった。でも一方では、わかってもいた。…こういうのは口で言ったって無駄。わからない人間に言ったって、どうせわからないんだから。そんなの無駄な労力もいいところ。でもだからって、呑み込んだりしない。そんな不健康なの、あたしはごめんよ。
そんな感じで、あたしはヤムチャの体にくっついた。なんか、人の声が近くにきてるような気がするけど、気にしない。傍から見れば、かなりの危機的状況を脱したところよ。そうきっと、生きるか死ぬかの瀬戸際だったはずよ。だから、あたしたちがこうしてるのは、ごくごく自然なこと。他にもカップルがいたら、きっと絶対に同じことをしてるわ。
その胸にうずめたあたしの頭を、ヤムチャは撫でてくれた。でもその手つきにたいして心が篭っていないことは、あたしにはすぐにわかった。わかったけど、文句を言うのは心の中でもやめておいた。しょうがないわよ。こいつはきっと欠片ほども、危険なんか感じていなかったに違いないんだから。まあ、それはあたしもほとんど同じだったのよね。だから、付き合ってくれてるだけで、良しとするわ。
だけど、数分の後にヤムチャが言い出したことを、良しとすることはできなかった。
「あのさ、悪いんだけどそろそろ操縦頼むよ」
「えっ、操縦?なんで?」
まずは、すぐさま顔を上げた。もともとそういう雰囲気を漂わせていなかったヤムチャは、そのいつもと変わらない雰囲気のまま、淡々と言い切った。
「パイロット2人が犯人だった。先にやっつけたやつは副操縦士だ」
次に、目を瞠った。ヤムチャの言うことが信じられなかったからじゃない。今では視界に周りの様子が入ってきていたので、だいたいのことはわかった。操縦室の片隅に倒れている、パイロットの制服を着た男。足元に転がっているあたしの投げ捨てたナイフと、少し離れたところに転がっているもう一本の同じナイフ。そして3人目の犯人が現れないことが、事件の全貌を物語っていた。
でもだからといって、すぐに納得できるはずもない。やっぱり淡々とヤムチャが言った、次の言葉は特に。
「副操縦士は、たぶん肋骨が折れてる。機長の方は両腕を折っといたから」
「えぇぇーーー!?どうしてそこまでするのよ!!」
「その方がいいと思って。おまえならできるだろ。できなければオートパイロットでいいだろうし」
「簡単に言わないで。旅客機っていうのは普通の飛行機とはシステムが違うの!オートパイロットの設定だってわからないわよ!どうしてあんたはいつもそう軽く考えちゃうのよ!もうーーー」
あたしは瞬時にヤムチャから体を離して、今まで意識して無視していた後ろの気配に目を向けた。壊れたドアの向こうから、遠慮がちにこちらを覗き込んでいる、2人のフライトアテンダント。
あたしはできるだけ声を和らげて、ぜひともイエスと答えてほしい質問を口にした。
「あの、聞くけど、アテンダントっていうのは、操縦…いえ、オートパイロットの各種設定は知ってる?」
心の中ではどうかわからない。でも、長い黒髪をきっちりと後ろで束ねたアテンダントは、聞いたところ慌てたところのないきっちりとした口ぶりで答えた。
「申し訳ありません。わたしたちは乗客の皆様への対応が仕事なので」
「じゃあ、無線交信の周波数とかは…」
この藁にもすがるような質問にも、同じアテンダントが同じ態度で答えた。
「そのようなことは一切、知らされておりません」
ガーーーーーン。
うっそー!一から全部あたしがやるの!?
乗客に訊ねてみる気は、あたしにはさらさらなかった。あの構成だもの、訊くまでもないわよ。例え操縦士がいたとしたって、きっと違う時代のやり方よ。
あたしは本当の本当に、目の前が真っ暗になった。我ながら危うげな足取りで、後ろに後退った。うっかり何かのレバーに触れかけたところを、ヤムチャが止めてくれた。完全に逆撫でするやり方で。
「大丈夫、ブルマならできるって。今のところはちゃんと飛んでるし。要は着陸させるだけだろ」
「簡単に言わないでったら!」
軽い笑顔に、軽い声。それを怒鳴りつけてから、あたしは現実を噛み締めた。
『急転直下』の後に訪れた、落下の危機という現実を。
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