Trouble mystery tour (4) byB
後方の休憩室へと犯人を運んで行くヤムチャの背中を遠目に見ながら、あたしは客室からの種々雑多な声を聞いていた。
「聞いて!今ね、ハイジャックに遭ったのー!…違ぁう!冗談じゃないって!…どこも何ともない。…うん、なんかすごく強い人がいて、一人でやっつけちゃった。…本当!冗談じゃないってばー!…え?さあ、カメラとかは見当たらないけど」
どう聞いても警察にかけているわけではなさそうな、甲高い女の子の声。携帯電話ってウザいわね。おまけにもう喉元過ぎてるわ。
「あたくし、おトイレに行きたいんだけど。おトイレに犯人がいたりはしないかしら」
おそらくはアテンダントに向けている、ひどくのんびりとした老婦人の声。わかってるんだかわかってないんだか。ボケてはいなさそうだけど、緊張感ってものがまるでないんだから。
「もしもし、今、何時かね。もうお昼になったかね」
「それで、予定通りに着くのかのう」
「そうじゃ、わしもそれを知りたいと思っていたんじゃ。遅れるんなら、孫にそう電話しなきゃならんでなあ。顔を見せにきてくれることになっとるんじゃよ。曾孫と一緒になあ」
――着くのかどうかすら、わからないわよ。
音量としては最も小さく、そのくせ延々と垂れ流されてくる老人たちの声が、一番あたしの神経を刺激した。だって、映画やドラマなんかではこういう時、颯爽と男の人が名乗り出てきたりするものなのに。『自分は空軍のパイロットです』とか何とか言ったりしてさ。まさか本気でそんなこと期待してるわけもないけど、せめてまともな態度を取れる男はいないわけ?…それ以前に、男と言える人間自体がいないかしらね。それにしたって、なんかみんなうちの父さんみたいだわよ。男って、年を取るとみんなああなっちゃうのかしら。
緊張感のない混沌を間近に、あたしは呆然と現実逃避をしていた。すでにアテンダントは、2人とも目の前から消えていた。たぶん、彼女たちの任務をまっとうするため。『乗客の皆様への対応』をするため。この緊張感のない混沌を治めるため。
あたしが自分に突きつけられた以外の現実を把握し始めた時、ヤムチャが戻ってきた。そしてこともなげに言い放った。
「いつまでもそんな顔してんなよ。せっかくの美人が台無しだぞ」
例によって、軽い笑顔で。この上なく軽い声音で。あたしの額を指で突いたりしながら。普段なら絶対に言わない褒め言葉。あたしはまったく感激することなく、それに心の中で答えた。
…あー、はいはい。わかったわよ。何とかするわよ。何とかすればいいんでしょ。
まったく、おだてる以外に方法知らないのかしらね。『俺がついてるよ』とかさあ…ついてたって、何の役にも立たないけど。『君ならできるよ』とか…それはさっき言ってたか。でも全然、そういう雰囲気じゃなかったわ。唯一いる男がこれだもんね。現実って苦いわねえ。
今ではあたしの心も、混沌とし始めていた。操縦室から客室まで、今や機内中に蔓延している混沌。それに秩序という形を与えたのは、やがてやってきた一人のアテンダントの声だった。
「当機のコールサインはSkyFlyer327です。乗客には避難用具を着用させます」
まるっきり冷静な口調でそう言った。言い切って、すぐさま客室へと取って返した。すぐに次の声が聞こえてきた。
「乗客のみなさま、こちらの席へお移りください。今から緊急時の避難方法と避難用具着用のご説明をいたします」
プロね。プロだわ。あたしは素直に感心してから、思いっきりぶすったれた。
…だけどそれなら、そのプロの目をあたしにも向けてよ。
そう、まったく不安を感じさせない態度を取っていたアテンダントの目は、はっきりと不安がっていた。あたしを見る目が、不安がっていた。…まあ、気持ちはわかるわ。さっき、あんな会話したばかりだし。だいたいあたし自身、やれる気全然しないんだから。
それでもあたしは、操縦席に座り込んだ。ヤムチャが先に、そこへ座ったからだ。操縦席の後ろにあるジャンプシートではなく、2つあるうちの操縦席の1つ、副操縦士の座るべき右側へ。ただそれだけの理由から。言わば惰性よ。アテンダントの言葉に後押しされたからでは、まったくなかった。コールサインがわかったって、周波数がわからなきゃどうしようもないじゃない。そう、まずはそこからなのよ。
当然のように切られている無線のスイッチ。それに手を触れる前に、一応の保険を、あたしはかけておいた。
「あんたも無線機のヘッドホンつけて。少しでも音が聞こえたら、すぐに教えてよ」
「無線?助けを求めるのか?」
「もうそんな段階じゃないわよ。ま、当たらずといえども遠からずだけど。何とかここの管制区域の管制官と連絡取らなくちゃ。何もかもそれからよ」
「管制区域ってどういうことだ?」
「飛行位置によって管制が違うのよ。当然、周波数も違うわ。でも、どうにかして繋がないと。無線の指示がないと、操縦できても着陸させられないわ」
「詳しいな」
「詳しくないわよ。これだけしか知らないの!」
そう、これしか知らない。おまけに、やったこともない。むしろ知らない方が幸せだったんじゃないかとすら思える事実。だって、知らなければあたしは他の乗客と一緒に、あっちでのんきに文句を言っていられたのに。…そりゃあ、その先にあるものが墜落だなんて、冗談じゃないけど。
あたしの心は再び混沌とし始めた。すると途端にヤムチャが言った。
「充分、充分。それだけ知ってりゃ充分だよ。っていうか、やっぱり操縦できるんじゃないか」
「揚げ足取らないでよ!」
軽い笑顔に、軽い声音。それをあたしはすぐさま怒鳴りつけた。怒鳴りつけつつ、現実を噛み締めた。
なんだって、こいつはこんなに軽いのかしら。気分が殺がれるなんてもんじゃないわよ。おだてるにしたって、やり方が下手過ぎよ。どうしたって、突っ込み入れられてるような気にしかならないわ。
そして固く決意した。…こんなやつと心中するのはごめんだわ!
意志と惰性の両方で、無線機のスイッチを入れた。まったく同時に、その声が耳に飛び込んできた。
『…海上を飛行中の…………コールサインを…』
「やった!この周波数、まだ生きてる!」
閉じられた無線機に残されていた、最後の周波数。それが生きていた理由を、あたしは混沌から醒めた頭で理解した。ハイジャックが起こってから、まだそんなに時間経ってないもの。管制区域が変わっていなかったのよ。
ノイズブランカーをオンにしてから、即行でグラスコクピットのディスプレイを切り替えにかかった。操縦席に座った時、心の片隅で記憶を弄った、このグラスコクピット。こんな状況でお目にかかってもちっとも嬉しくない。そう思った最新方式EVSのグラスコクピット――
「管制官、応答せよ。こちらはSkyFlyer327。応答せよ。こちらはSkyFlyer327――」
とりあえずは、ひたすらに繰り返した。唯一持っている情報である、コールサインを使える喜び。あたしはそれを存分に味わった。
『こちら管制。SkyFlyer327、航路を外れているぞ。…君は機長か?…』
最後の質問は、明らかにあたしの女声に反応したものだった。その失礼な口ぶりも、今この際は話が早かった。
「あたしは乗客。この旅客機、さっきハイジャックされかけたの。パイロットが犯人だったから、あたしが代わりに操縦してるの。EVSはわかるから、正規の航路と着陸する時のオートパイロットの設定を教えて」
『着陸の指示はこちらではできない。こちらは航空路管制。落ち着いて現状を報告するように』
おっとっと。そうか。そういえば、そうだったわ。
完全に浮足立っている自分を、この時あたしは自覚した。さっき自分で言ったばかりなのに、もう忘れてたわ。…しょうがないわよね。あたしは素人なんだもの。素人っていうか、ただの乗客なんだもの。本来、こんなことする必要のまったくない人間よ。実際さっきまで、前途を祝してシャンパンを掲げていたんだから。…幸せの青いワイン。あれはもう、絶対に口にはできないわね。
わずか数十分前の自分を思い起こすと、自然とわずか数十分前の他人も思い起こされた。さっきは左側でたいして盛り上がることもなくあたしに付き合ってくれていた男は、今では右側でさっぱり緊張感を漂わせることもなくあたしに付き合ってくれていた。…図太いわねえ、こいつ。軽く見てるにしたって、落ち着き過ぎよ。いくらなんでも『自分は関係ない』なんて思えるわけもないでしょうに。
「ヤムチャ、あんたも聞いてて。あんたが一番事情に詳しいんだからね。何か漏らしてたら教えてよ」
ヤムチャにそう声をかけたのは、実のところ保険ですらなかった。犯人以外の乗員に異常がないんだもの、とりあえずハイジャック事件は棚上げよ。ただの経過説明なんだから、多少は間違えても問題ないわ。ただ、なんていうか…………そう、もしあたし一人だったら、絶対にこんなことやってられなかったわ。耐えられはするけど、やってられない気分だったに違いないわ。
「11時5分頃機長と副操縦士によるハイジャックが勃発。10分後に鎮圧。犯人2人は半殺し。他に怪我人はなし。機体にも異常はなし。現在高度10300m、残燃料114000kg、外気温はマイナス45℃。正規の航路とこれから先の管制区域の周波数を教えて」
『了解。まずは航路の修正だ。レーダー誘導するからな、左旋回して機首を30°に向け、上昇して高度15000mを維持せよ。お次はお待たせの周波数だ。航空路管制はアプローチまでこのまま、滑走路までのアプローチ119.100MHz、着陸誘導はタワー118.100MHz、スポットまでグランド121.700MHz、コントロールは120.500MHz』
「左旋回30°高度15000m設定OK。4分後に到達予定。復唱するわね。アプローチ119.100MHz、タワー118.100MHz、グランド121.700MHz、コントロールが120.500MHzね」
ここにきて、ようやくあたしは落ち着き始めた。やっぱり数値が飛び交うと感覚が変わるわ。やれてるって感じがするわ。正確には、やれそうって気がしてくるわ。
『これよりレーダー誘導に入る。航路に乗り次第、連絡する。その後はアプローチまでそのままだ。無線は開いておくようにな。居眠りするんじゃないぞ。グッドラック!』
「サンキュー」
どうやら信頼してもらえたらしいことが、管制官の最後のジョークでわかった。あたしは表向きその態度に付き合ってから、ヘッドホンを外して操縦席を立った。そして後ろのジャンプシートへ座り直した。
「はぁーーー…」
管制官に溜息を聞かれたくなかったから。…居眠りなんかできるわけないじゃない。あたしを何だと思ってるのよ。ただの乗客だっつーの。
「思ったよりも大変そうだな」
管制官とのやり取りが始まって以降すっかり沈黙していたヤムチャが、開口一番今さらなことを言った。外したヘッドホンを片手でくるくる回しながら。あたしの隣に座り込む足取りも相変わらず軽かったけど、表情はそれほどは軽くはなかった。
「今さら何言ってんのよ。大変なんてもんじゃないわよ」
だからあたしは、今度は怒鳴りつけなかった。最初からそういう態度でいればいいのよ。これでもまだまだ軽いけど。
ヤムチャは顎に手を当てて、いかにもな顔つきで考え込み始めた。そして、ヤムチャなりに考えたらしいその案を口にした。
「俺が飛んで、一人ずつ降ろそうか?」
「それはいいけど、この飛行機はどうするのよ。捨てたって、最後には落ちるのよ」
たいして深く考えずにその一点を言及してやると、ヤムチャは淡々と言い切った。
「全員降ろしてから空中で爆破する」
「…あんまりいい考えじゃないわね、それ」
っていうか、ハイジャックよりもひどいような気がするわ。筋は通ってるけど、常識なさ過ぎだわよ。またその光景がリアルに思い描けるだけに、嫌んなっちゃうわね。
ほんっと、こいつってば軽いんだから。ハイジャック犯を殺さなかっただけでも上出来。今じゃ本気でそう思えるわ。
「とりあえずは指示される通りにやってみるわ。それでダメなら、そこまでやっても許されるでしょうよ」
保険にもならない最後の最後の手段。それを一つ手に入れたところで、あたしは大きく伸びをした。
あーあ。
こんなことなら、自家用機で行った方がずっと楽だったわ。サービスを受けるどころか、あたしが乗客の命を保障してやってる有様よ。それだって、まだ確実じゃないし。だいたい、こんな大きな飛行機、飛ばしたことないってのに…
そういえばそういうこと、管制官聞いてこなかったわね。操縦の経験とか。そんなことでいいのかしら。あたしがペーパーパイロットだったらどうすんのよ。ねえ。
そんなことを考えながら、固くはない横の壁へと体を凭れた。すると壁の持っていたヘッドホンが喋り始めた。
『こちら管制。SkyFlyer327、応答せよ。規定の航路に乗ったぞ。約20分後にアプローチへ切り替えだ。着陸設定はそちらからもらってくれ』
あたしは少し体を動かしたけれど、口を動かすことはしなかった。すぐにヤムチャがそれに答えたからだ。
「こちらSkyFlyer327。20分後だな。了解した」
『グッバイ、グッドラック!』
「サンキュー」
一ヶ所の澱みもなく、交信は終わった。ヤムチャがそのまま黙ってヘッドホンを横に置いた時、あたしは思わず言ってしまった。
「えっらそうに。何もしてないくせに」
ちょっとした八つ当たりよ。だってさあ。
管制官のやつ、あたしには『機長か?』って訊いてきたくせに。どうしてヤムチャには何も言わないのよ。女だと思ってバカにしてえ。
「邪魔ならあっち行ってるけど」
「そんなこと言ってないでしょ」
軽く的外れなことを言うヤムチャに、あたしは惰性で答えた。今ではそうすることができた。とりあえず航路には乗った。きっとエアポートの上空まではレーダー誘導で行ける。オートパイロットの設定はアプローチがくれる。これはどうにかなりそうね。EVSでよかった。もう導入されてるなんて知らなかったけど、大ラッキーよ。EVSじゃなかったら、完全にお手上げだったわ。っていうか、あたしがEVSわかることにもっと感動してほしかったわね。民間人でEVSがわかる人間なんて、そうそういないわよ。あの管制官も相当…
……
…………
あたしの思考はここで途切れた。そして途切れたことに気付かせてくれたのはヤムチャだった。
「ブルマ、おい、ブルマ」
「…あ、何?」
やっぱり惰性で答えてから、あたしは目を開けた。それとも目を開けてから答えたのかしら。それすらもわからない。
「何って…寝るなよ…」
とにかく、いつの間にかあたしは居眠りしてしまっていた。『居眠りするんじゃないぞ』。すぐにその管制官の台詞が思い起こされたけど、あたしは全然不覚には感じなかった。
「だって退屈なんだもの。なんか疲れたし」
しょうがないわよ。こういう『現場の待ち』って苦手なんだもの。やるならやるで、さくさくやりたいものだわ。それにだいたいが、あたしは居眠りしてたって構わない立場の人間なのよ。だって、乗客なんだから。操縦してやってるだけでありがたいと思ってほしいわ。
「ねえ、何か話してよ」
でも、指示が来た時に脳みそが寝てたんじゃまずいわね。そう思ったので、今は左側であたしに付き合ってくれている人間に、そう言ってみた。…本当に、一人じゃなくてよかったわ。もし一人だったら、眠っている間にあの世行きだったわね。眠気覚ましがいてよかった…
一瞬芽生えたヤムチャへの感謝の念は、次の瞬間覆された。
「よし、じゃあまずは一発、目の覚めるようなとっておきのギャグを…」
「あ、そういうのはいらないから」
だって、どうしてここでギャグなわけ?そんなんじゃ、全然感覚戻らないわよ。こいつ、今の状況わかってるのかしらね?
「うーん、それじゃ一昨日考えついたばかりの小話を…」
「それ、何が違うわけ?」
っていうか、一昨日って修行してたはずの日でしょ。修行中に何してんのあんた。
だいたい、ヤムチャのその手の話がおもしろかった例がないんだから。そんなの聞いたら余計に眠くなっちゃうわよ。
その言葉を呑み込み続けているうちに、20分は過ぎた。つまりは、そういうことよ。
ほんっと、軽いわね、こいつ。
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