Trouble mystery tour Epi.4 (4) byB
頭上にぽっかりと開いた穴から見える丸い空。遠くに聞こえる木々のざわめき。
…なんだか急に風が出てきたみたい。
薄暗い穴の底で、パレオを巻き直しながらあたしは思った。肘の触れた横壁がひんやりと冷たい。じっとりと湿った黒い土。蛇とかはいないみたいだけど、嫌な感じ。
ふと、横壁の一部分から木の根っこが飛び出しているのに気がついた。あたしはさほど期待はせずに、それらに手足をかけてみた。手を引っかけたところまではよかった。でも下の方の根っこに足をかけて体重を乗せると、それはあっという間に折れてしまった。あたしは小さく溜息をついて、再び頭上を仰ぎ見た。
覗く顔のない丸い穴。見えるのは青空を隠す木々の枝。深く重なるその葉っぱ。…なんか、さっきよりも緑が深くなったような気がする。光の加減のせいかしら。
「もう、こんな穴があるならあると、ちゃんと注意書きしておいてほしいわね」
いくら立ち入り禁止区域ったって、誰かしらは入り込むものよ。実際、入り込んだし。あたしがじゃないわよ、あの双子がよ。あたしは付き添いだもの。あたしがいなけりゃ、この穴にはあの子たちが落ちてたのよ。それなのに、あの子たちの薄情なことと言ったら。普通一人は残って励ましたりとかするもんでしょ。
「…早くヤムチャ来ないかしら…」
万策尽きて文句も尽きると、あたしにはすっかりすることがなくなった。なんとなく首元を撫でつけていると、やがてそれが目に留まった。
穴の上からあたしの頭の高さのところにまで垂れ下がってきている、小指ほどの太さの長いもの。このモノトーンの世界では鮮やかにすら見える、暗黄緑色の細い蔓。
…こんな蔓あったっけ?
首元に当てた片手はそのままに、あたしはその蔓をさっき折れた根っこでつついた。手で掴みにいかなかったのは、風の入ってこない穴の中で僅かに揺れているその蔓に、どこか嫌な感じを受けたからだ。蔓に似てる蛇かも。はっきり言えばそう思ったわけだけど、その予想は外れた。それは確かに蔓だった。ただし、信じられない動きをする蔓だった。
そう、動いたのだ。あたしが目を瞠った時には、すでに持っていた根っこはその細い蔓に巻き取られていた。思わず後退った背中に、冷たいものが触れた。それもまた蔓だった。太さ10cmほどもある暗緑色の蔓が、次の瞬間首元にやってきた。それはあたしの手首を、掴んでいたネックレスごと引っ張った。
「きゃあああぁっ!」
一瞬にしてあたしの体は地面を離れた。大きくどこかへ飛ばされる感覚を受けながら、千切れたネックレスが飛び散る様をあたしは見た。
それが、あたしが最後に目にした『森以外のもの』、だった。

気絶していたわけじゃない。けれどもそれは、一瞬に過ぎた。
気がつけばあたしは森に囲まれていた。まさしく取り囲まれていた。地につかない足。両手に巻きつく太い蔓。体のあちこちにぶつかる枝。カサカサと囁くように動き纏わりつく木の葉っぱ。
まるで葉っぱの生い茂る大木のてっぺんに放り込まれたような感じだった。でも、そうじゃない。あたしが放り込まれたんじゃない。蔓が、枝が、葉が、あたしの周りに集まってきてる。
森は身動きできないほどの密度で、あたしの視界を覆い尽くしていた。空も地面も何も見えない。…これは一体何?古代人の作った罠?だとしたら相当科学が発達していたことになるわ。こんな風に植物を操るなんて、現代の葉面電位の研究レベルを遥かに越えて――
「あぁっ…!」
あたしは呑気こいてたわけじゃない。ただ現状を把握しようとしていただけだ。でもそれもすぐにできなくなった。あたしに被さる植物の群れが、肌に電流のような刺激を走らせ始めたからだ。…葉面電位かしら。でも人に感じられるほど強いなんて…
ビリビリとした感覚はひたすらに続いた。慣れてくるとそれはそれほど痛くはなかった。その他には特に変わったことは起こらなかった。罠にかかった獲物を捉えに古代人がやってくるなんてこともなかった。…そうよね。そんなものがいたらとっくに発見されてるわよ。古代人の罠っていうのも、ただの行き過ぎた妄想よ。そう、きっとあたしはただ木々に絡みつかれて身動きが取れなくなっているだけ…
そう思いたかった。それとも思わされていたのかもしれない。やがて朦朧としてきた意識の中で、あたしは自分の身に起こりつつあることを知った。だからこそ意識が朦朧としてきているのだということも知った。
…寒い…
すごく寒い。それも、だんだん酷くなってきてる。もう今にも凍え死にしそう…こんな南国で。こんなジャングルみたいなところで。…何で?どういう死に方よ、それ…
相変わらず空気は温い。触れる蔓の温度さえも感じる。ただ自分の体だけが…
――生物の体温を食べる生き物。
ふいに記憶の底からその言葉が浮かんできた。いつかどこかで、ちらと目にしただけの言葉。レベルの低い学者の書いたオカルト本かなんかで。…あれに近いかもしれない。動く植物自体は存在するし、植物に感覚や感情があるってことは証明されてる。…800万年経っても生きている木々。野生動物のいない森。『生きている森』…
まるで走馬灯のように、知識と思考が駆け巡り始めた。でもあたしはそれを、誰に伝えられそうにもなかった。今では体は完全に動かなくなっていた。視界もぼやけ始めていた。
だから、手首の蔓が切れて周囲から木々がなくなっても、どうすることもできなかった。引力に引っ張られ落ちて行く体をそのままにするしかなかった。地面に激突せずに済んだのがわかっても、安堵の息を吐くことすらできなかった。
…遅いわよ…
おそらくはあたしを抱いている男の顔に向かってそう言ってやることもできなかった。


それはもどかしい夢だった。
夢だということはわかっていた。そんなのすぐにわかった。でも、どうすることもできない。あたしは動けない。
何かに体を掴まれていて、少しも動けない。前から掴まれているのかそれとも後ろからなのか、それすらもわからない。ただ肌に当たる何かが、食い込むように痛い。爪?指?それとも…
夢の中でも走馬灯は続く。
まさに今、あたしを踏み潰そうとしている大猿の足。
まさに今、あたしを轢こうとしているトラックの車輪。
まさに今、あたしを一人にしようとしている横恋慕の女。
イエローブロンドの髪。顔は見えない。その手前に人がいるから。あたしの知っている男が。知り過ぎた男が。それは近しい距離に。息のかかりそうな至近距離に。完全に女に添ったその動き。揺れる体の動きに合わせて宙空に翻る、長いヘッドバンド。あたしが切らせた短い髪。
――…ヤムチャ!
その名前を、あたしは呼べなかった。当然、邪魔してやることもできない。何かを投げつけてやることもできなかった。ただ見てるだけ。今にも触れ合おうとしているその後姿を見てるだけ…
…やだーーーーー!!
やだやだやだやだ!そんな女とキスしちゃダメーーー!!
呼べない叫びは、どこまでも頭に響いた。どこまでも、いつまでも。あたしの頭の中だけに。そうするうちに、視界がぼやけ始めた。
真っ黒な世界から、一転して真っ白になった。そしてあたしは、温かみのある世界に戻った。


目を開けてまずわかったのは、あたしの自由を奪っていたものの正体だった。
「ヤムチャ…痛い」
あたしを苦しいほどに抱き締める太い腕。比喩表現ではまったくなしに。息を詰まらせながらもどうにかあたしがそう言うと、ヤムチャは笑ってさらにきつく腕を締めてきた。
「よかった…」
「よくないわよ。痛いって言ってんでしょ」
視界を埋める胸板から半ば本気で逃れたくて、あたしはちょっぴり語気を強めた。するとヤムチャは腕を緩めてくれたけど、その他の反応についてはいつもとは全然違っていた。
「ばーか」
そう言ったかと思うとまた笑って、今度は鼻先を小突いてきた。軽い口調とは裏腹に温かいその表情。ちっとも痛くない拳に、優しい叱責。
いつもより乱暴な、それでいて緩やかなその態度が、あたしに事実を思い出させた。一連のことが確かに夢ではなかったのだということ。あたしは森に掴まった。身も心も凍えていた…
ゆっくりと瞼を瞬くと、ぼやけていた視界がクリアになった。同時に少しだけ周りが見えた。緑の森は跡形もなかった。遠くに古代の木が数本倒れていた。でもあたしの気になったのは、そんなことじゃなかった。
「何これ。体が光ってる…」
あたしの目の前の人間をぼんやりと包み込む白いオーラ。とはいえ、そのオカルト用語は正確ではなかった。あたしはその正体を知っているのだ。
「ああ…気だよ。気でおまえの体を温めたんだ」
そんなわけでヤムチャからの返答は、意外ではあったけど理解に苦しむようなことではなかった。ありそうなことだわ。普通に考えれば常軌を逸しているけど、ヤムチャは普通じゃないから。もちろん器用だなとは思うけど、異常ってほどのことじゃないわよね。
なんとなくあたしが納得すると、ヤムチャは悪戯っぽく笑って、あたしの態度を崩しにかかった。
「あれだ。抱き合って冷えた体を温めるっていうやつ。ちゃんとできたぞ」
「それはちょっと…いえ、かなーり違うような気がするんだけど…」
それであたしは完全に、お礼を言うことを忘れてしまった。だって、絶対違うわよね。気がどうこう言う以前にニュアンスが。確かに抱き締め合ってるし普通にやるより確実みたいだけど…なんていうか、ロマンがないわよねえ…
ヤムチャはまた笑った。それから息がくすぐったく感じるほどの至近距離に顔を寄せて、再びあたしの息を詰まらせながら言った。
「そうか?まあ、おまえは眠ってたからな。じゃあ、後でおまえにもわかるように温めてやるよ」
そして、そのままキスしてきた。ヤムチャの言っていることの意味が、あたしにわからないわけはなかった。自分がそれを拒めないだろうこともわかっていた。心の中で小さく溜息をつきながら、あたしはさっき生と死の狭間で見た夢ならぬ夢のことを考えた。
…最初の二つはわかるんだけど。本当に助けられた記憶だし。でもどうして最後があれなのよ?もっと他にあるでしょ。あんな大昔のしょうもない思い出じゃなくってさぁ。しかもあれは誤解だったのに…
甘いキス。無事を喜ぶキス。いたわりのキス…
ヤムチャの唇は優しかった。だから、あたしは素直に認めることができた。今はない涙を拭うように目尻を撫でる指を、払わずに済んだ。
…あんなんで泣いちゃうなんて、あたしもかわいいもんだわよ。
「さ、帰るか」
悪夢があくまで夢であることをたっぷりと感じさせると、ヤムチャはきびきびと立ち上がった。あたしをお姫様抱っこして、さっさと空に飛び上がりかけた。あたしはちょっぴり残念に思いながら、そのスマートな行為に水をかけた。
「ねえ、ディンギーは?」
「あ、忘れてた」
たぶんヤムチャは本気で、目を丸くしていた。呆れちゃうわね。帰りの足を忘れるなんて、普通はありえないことだわよ。
「ダメよ、ちゃんと乗って帰らなくちゃ。たぶんもうここには来ないわよ」
「面倒くさいなあ」
「あんたが乗りたいって言ったんじゃない。いいじゃないの、ゆっくり帰りましょうよ。ここは日が長いんだから」
おまけにわかりやす過ぎ。建前もへったくれもないわね。
とはいえ無意識のうちに自分もそれに付き合っていたことに、あたしは気づいた。あたしの最後の言葉に笑うヤムチャの気分を引き締めるため、あたしはことさら声を強めた。
「だからもう、気でかっ飛ばすのはなしにしてね」
陽はまだまだ高いけど、いつしか少し暖かい夕風が吹き始めていた。青い海。広い空。やがて落ちてくるであろう太陽。
そう、ヤムチャはどうか知らないけど、あたしは沈む夕陽を見ながらゆっくり帰りたい気分なのよ。
これまで何度も一緒に見た夕陽を。また一緒に。
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