Trouble mystery tour Epi.5 (4) byB
…天国から地獄っていうのかしら。
「…きゃっ!きゃああああ!…………!!」
数分後。出したくもない大声を張り上げた後で慌てて口を閉じなければならない羽目に、ふいにあたしは陥った。
幸か不幸か、ボードは足から外れていた。掴んでいたハンドルも、そこから続く体に絡みついたかもしれないロープも、どこかへいってしまって見えない。意志に反して海中に沈みゆく自分の体。伸ばした手の遥か先にゆらめく水面。吐き出された酸素で泡だらけになる視界。無遠慮に喉に流れ込んでくる海水。…い、息ができない。苦し…………死ぬーーーーー!
――ヤムチャ!
あたしは呼んだわけじゃなかった。そうするまでもなく、すでにヤムチャは目の前にきていた。あたしに向かって手を伸ばしていた。片手であたしを捕まえ腕の中に抱え込みながら、もう一方の手で水を切った。あたしは閉じ切らなかった薄い目でそれを見た。
「…ぷはぁっ!」
そんなわけで、あたしがまったく口をきけなくなったのは、ほんの数分のことだった。海上へ顔を出しその胸の中で思いっきり水を吐くと、ヤムチャは抱いたあたしの背中を擦りながらジェットスキーへと泳いでいった。器用ね。そんなことを言う余裕は、この時のあたしにはなかった。
「おい、大丈夫か!?悪い、ちょっと飛ばし過ぎたな」
「ぅ…げほっ…ちっ…違…」
声と咳が同時に出た。最後の水を体外に吐き出してから、あたしは事実をも吐き出した。
「攣ったの。足が!痛かったーーー!!」
そう。あたしは決してスピードに負けたわけじゃない。これくらいエアバイクで慣れっこよ。だけど…………あー、怖かった。なんでいきなり足が攣るのよ。よりによって水の上で。もう、死ぬかと思った!あーやだやだ、ついこないだそんな目に遭ったばかりなのに。ひょっとして天中殺かしら。ヤムチャがいなかったら、マジでヤバかったかもしれないわ。
息が落ち着くと、やがて心も落ち着いた。最後に生まれた安堵と感謝の念。それを伝えられなかったのは、あたしのせいではない。単に、気の抜けたような顔で呟いたヤムチャのせいだ。
「足が攣ったって…そりゃおまえ、やっぱり日頃の運動不足…」
「え!?」
「…い、いや、遊び過ぎだよ、遊び過ぎ!ここんとこ体を動かしっぱなしだったからな、疲れたんだよきっと」
もーーーーー!
ひどいと思わない!?あたしは命を落としかけたのよ。なのに運動不足ですってぇ!?何よ、ちょっと自分が運動神経いいからってさ〜!
「と、とにかく少し休もう。足もちゃんと揉んでおいた方がいい」
ヤムチャは慌てたように至極最もらしいこと(だけ)を言って、ジェットスキーのハンドルに手をかけた。あたしはとりあえずその言葉には文句をつけずに、行き先だけを指示してやった。
「んじゃ、そこの島行って。もう目と鼻の先なんだから」
「島?もう岸に戻った方が…」
「どっちだって同じよ。だったら近い方がいいでしょ。それに今日なんだかビーチに人多いし。どうせなら静かなところで休みたいわ」
「うーん…」
納得したとは思えない。それどころかわかってるんだかわかってないんだかそれすらもわからないような曖昧な顔をして、曖昧にヤムチャは答えた。それでもあたしの体は放さずに、片手でウェイク道具一式を収容し、片手でジェットスキーのエンジンを空ぶかしし、片手で艇の向きを変えた。
「もしまた攣りそうになったら教えろよ」
そして当然のようにそう言った。その態度を咎める気も、もうあたしにはなかった。でも、言ってやりたいことはあった。
「器用ね、あんた」
まったくもって、肉体的なことだけはね。
あたしは呆れていたわけではない。それほど皮肉を篭めたつもりもなかった。ただそう感じたってだけのことだ。おそらくは形ばかりしか付き合ってくれないだろうヤムチャの気配にも、たいして思うところはなかった。
別に何かしてほしいとか思ってるわけじゃないから。ただ、こういうことの後には、少しゆっくり過ごしたい。心と体を解したい。
そのエンジン音の大きさとは裏腹に、ジェットスキーはゆっくりと海の上を滑っていった。あたしは目を瞑り潮の匂いと清涼な空気を味わってから、大きく息を吐いた。
…あー、びっくりした。怖かった。


「あ、オレンジのブーゲンビリア」
この前とは違った場所から島に上がると、この前には見なかった色の花が目に留まった。オレンジ色というよりはほおずき色に近い珍しいその色の花に、手を伸ばそうとしてあたしはやめた。
「ねえ、あそこの花取って。背伸びするとまだ少し足が気になるのよ」
「はいはい」
かわいくない返事と共に、ヤムチャがそれまで引いていたあたしの手を離した。次の瞬間ぽきりと 小さな 音がして、高みにあった一枝が手元へとやってきた。
「ほら、これでいいか?」
「うん、サンキュー」
「それにしても、おまえがそんなに花が好きだとは知らなかったな」
あたしとあたしの手にある数輪の花を見比べながら、ヤムチャが言った。それはなんてことない言葉だったけど、あたしを呆れさせるには十分だった。
だって、考えてもみてよ。そんな風に思ってるならどうしてルートビアで花束なんかくれようとしたのよ。ひとの頭に花くっつけたりとかさ。なんていうか、バカよね本当。
「好きっていうより、気分よ気分。やっぱりこういうところは気分あるわよね」
でもあたしはその本音は心にしまって、別の本音を口にした。なんとなく花が似ていたからいろいろ思い出したけど、だからといってほじくり返す気にはなれなかった。燦々とふりそそぐ太陽の光。海底に影が映るほどに碧く澄んだ珊瑚礁の海。鮮やかな花々の咲き乱れる原色の世界――この島に来た時点で、心はすでに解れていた。
そしてやがて腰を下ろした島の中央で、今度は体を解すこととなった。
「あー、空気がおいしい。じゃあ、ここで一休みね。ついでに足揉んどこうかしら」
ちょっと首を傾げながらそう言ってみると、あたしの隣に座ったばかりのヤムチャは早くも腰を上げる素振りを見せた。
「つったのはどこだ?ふくらはぎか?」
「うん、そう。左足のね」
「じゃあうつ伏せになってだな…」
後はもうとんとん拍子に事が進んだ。あたしは黙ってうつ伏せになり、ヤムチャは何やら説明を口にしながら、あたしの足を揉みしだき始めた。あー、便利便利。楽ちん楽ちん。なんという扱いやすい男。おまけに怪我に慣れてるせいか、手つきもそう悪くないし。足がつったのダシにして、夜にもやってもらおうかしら。
「おい、寝るなよ。いくらなんでも昼寝にはまだ早いぞ」
「ちゃんと起きてるわよ。サンキュー。すっごく気持ちよかったわ」
またやってね。喉元まで出かかったその言葉を呑み込んで、あたしは体を仰向けた。その途中、視界の端を二匹のリスが横切った。優しい風に揺れる爽やかな蒼緑。そこかしこに咲き誇る花々。その上に広がる、どこまでも青い空。まさに地上の楽園――
前ここに来た時と同じ感覚に、あたしは満たされた。でも、同じ心境にはならなかった。あの時やってきた眠気の代わりに、今はその思いが胸を過ぎった。
「もうここも明日までね。もっと長くいたかったな〜…」
長いようで短い時間。それともその逆かしら。忙しかったような、ゆっくりしたような。あまり感じたことのない充実感だわ。
「次はどこへ行くんだ?」
あたしの独り言をヤムチャが拾った。せっかちね。ある意味では定番とも言えるその台詞にこの時あたしはそう感じ、さっき取ってもらったオレンジのブーゲンビリアを風に戦がせた。
「ディーブル。あんまり大きくはないけど、免税地区があることで有名な街よ」
「そこまでは船なんだよな?何日くらいで着くんだ?」
「翌々日の朝には着くわ。…あんたも段々気にするようになってきたわね」
まるで畳みかけるように会話を繋いでくるヤムチャに、ゆっくりとあたしは答えた。呆れたようなおもしろいような気持ちを心に持ちながら。ヤムチャもいよいよ旅行に熱を入れる気になったのかしら。なんてこと、全然思わない。ヤムチャのせっかちの理由はすっかりわかっていた。
「空飛んでいけば早いのにって思ってんでしょ」
「…そ、そんなこと…」
ヤムチャは見事に口篭った。手にした花でその口元を小突いてやると、さらに口を割った。
「…まあな。クルーズ船ってどうも体がなまるんだよ」
「プールとかジョギングトラックとかあるじゃない。あ、ジムもあったような気がするわ」
「そういうことじゃないんだよな。おまえのいう気分だ、気分」
どことなく乾いた声を溢すと、ヤムチャはおもむろに草の上に寝転がった。そして思いのほか不満そうに頭の後ろで腕を組んだので、あたしはついさっきにも似た思いで再び花を風に揺らした。…それはあるかもね。だってここに来てからヤムチャ、なんだかゆったりしてるもの。素直に優しいっていうかさ。
そして、それはきっとあたしも同じだ。こんな素敵な島にいて話すことがこんなことでも、ちっとも不満に思わない。『ノリ悪いわね』とか、言う気にもならない。むしろわかる気がする。この空を見ていると――
吸い込まれるような空の下、あたしもヤムチャに倣って草の上に寝転んだ。少し体を寄せると、ヤムチャは何も言わずに片腕を貸してくれた。外で腕枕してくれたことなんてあったっけ?あたしはまたもやおもしろいような気持ちになりながら、黙ってその腕を借りた。いつにないことでありながら、ものすごく自然。…やっぱり気分あるわよね。
くっつきあいながらも視線は交わさぬまま、あたしたちはしばらく空を見上げた。青い空、南国の花の甘い香りに、静かな空気。それはとても落ち着く時間だった――のどかで、爽やかで…ちょっと落ち着き過ぎちゃってるくらい。なんだか物足りないっていうか…。やがて首が痛くなると共に、あたしはすっかり自分を持て余した。だって、ヤムチャってば全然なーんにもしてこないのよ。自分から腕枕に誘ったくせに。中途半端よね、まったく。
そこであたしは考えて、さっきもらった花の枝を手に取った。口に出して言ったりしないわ。あたしは空気が読めるから。
今は沈黙し続けているその口を花びらでくすぐってやると、ヤムチャは怪訝そうに眉を動かしてあたしを見た。あたしは素知らぬ顔で花を揺らし続けた。望む反応ではなかったから。やがてヤムチャが腰を上げかけたところで、花を手放した。
ヤムチャは軽く被さるようにして、あたしのおでこにキスをした。それもあたしの望む反応ではなかったけど、だからかしら、妙に新鮮だった。なんかくすぐったい感じ。頬ならわかるけど、おでこってあんまりキスしないもん。
でもその後ヤムチャが体を起こしたので、その感覚はたちまち消えた。
「さて、戻るか。もう昼だしな」
「えー、もう?」
もうっていうか、ここで?ここで戻っちゃうの?せっかくいい雰囲気だったのにー。『もう昼』じゃなくて『まだ昼』でしょ。まさかこの期に及んで『お腹空いた』とか言うんじゃないでしょうね?
あたしが眉を寄せると、ヤムチャは惚けたような顔をして腰を上げた。態度はともかくその口から出てきた言葉は、少なくとも見当外れとだけは言えないものだった。
「遅くなるとランチさんが困るだろ。きっとこんなところにいるなんて思わないだろうからな」
「…あ。そっか、ランチさん…」
あたしは思わず目を丸くした。そういえば一緒にごはん食べる約束してたんだっけ。やだ、すっかり忘れてたわ。
「じゃあ、早く戻らなくちゃ。ランチさんきっと探してるわ。あまり土地勘よくなさそうだったものね」
朝に思い出した昨夜のランチさんとの会話を思い出しながら、あたしも腰を上げた。もうヤムチャったら、もっと早くに教えてくれればいいのに。中途半端な気分出してないでさ。ああもう、すっかり太陽が上にあるじゃないの。
「ねえ、早くー」
ブーゲンビリアの枝を拾い上げてから、あたしはヤムチャの手を取った。先に立ったくせして遅いから。
来た時には手を取ってくれたのに。なんてことを思いながら。
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