Trouble mystery tour Epi.5 (6) byB
…なーんとなく、気が乗らない。
としか、言えない。どことなくくすぶる気持ちを持て余しながら、あたしは砂浜に座り込んでいた。
午後の強い日差しの下。暑さのせいでいくらか人のまばらになった海を眺めながら。後ろではランチさんが、依然としてキャミソールにショートパンツという格好で、シートの上に寝そべっていた。『なんだか眠くなっちゃって。お食事の後だからかしら』――長いお昼ごはんの後、ランチさんは大欠伸と共にそう言って、食後の運動よりも午後のお昼寝を選んだのだった。そう言えば修行中のカメハウスってそんな流れだったっけ。ちょっぴり昔のことを思い出しながら、その時はあたしもランチさんと一緒にシートの上に寝転んだ。でもやがてランチさんが気持ちよさそうに胸を上下させ始めてもちっとも睡魔がやってこなかったのでしかたなく体を起こして、今度は誰かがランチさんの眠りを邪魔しないよう見張ることにした。またさっきみたいな男が寄ってきたら嫌だもん。それに、今あんまり遊ぶ気しないし。とはいえ手持無沙汰ではあったので、目の前に溢れる白い砂を掬って、やっぱり目の前にいた男の体に溢したりしていた。
「ランチさんって大変よね」
やがてごつい鎖骨を砂で隠すと、それ以外に砂をかけるべきところはなくなった。窒息させたいんじゃなければ。それであたしは涼しい顔で砂浜に埋まっているヤムチャのサングラスに映る空を見ながら、なにげなく言葉を溢した。
「自分が何してたかわからないなんて。もう当たり前のことのように思ってたけど、やっぱり困っちゃうわよね」
気づいてないのか慣れちゃってるのか。本人は全然気にしてなかったみたいだけど、あたしにはわかっていた。ランチさんが昨夜からやたらと『眠い』という台詞を口にしている訳が。疲れてんのよ。二日でグリーンシーニとルートビアを往復すればね、そりゃ疲れもするわよ。しかも本人はそれを知らずに動いてるんだから、なおさら疲れがとれないわけよ。今朝だって早起きしてたしね。
独り言のように振った会話は、数秒の後に完全な独り言となった。ヤムチャはちょっと顔を動かしただけで、何も言わなかった。それであたしは、今度はよりはっきりとした会話を振ってみた。
「ねえ、そんな風に砂に埋まってて暑くないの?」
ヤムチャはまたちょっと顔を動かした。それと口も。
「すごく暑いよ」
「ならそう言いなさいよ」
っていうか、起きてるんなら返事しなさいよ。態度悪いわね。
その文句は心の中で流した。青い海、青い空、白い雲、まっすぐな水平線。リゾート気分満天のプライベートビーチには、相変わらず気持ちのいい風が吹いていた。思わず身を任せてみたくなっちゃうような自然な風が、近くではあたしとヤムチャの髪を戦がし、遠くでは白いカイトを浮かべていた。海に引かれるジェットスキーの白い航跡。波を滑るボードのあげる水飛沫…
頭の中を昨日までのヤムチャの姿が過ぎった。自分は退屈を持て余しながらも、あたしは言ってあげた。
「いつまでもこんなところにいても退屈でしょ。なんかやってきたら?いい風吹いてるじゃない」
「そうだな」
体の上の砂山を崩しながらヤムチャは答えたけど、言葉を実行する気配はなかった。とりあえずうんと言っとけ、そんな感じだった。砂の中にあった体が砂の上に出てきただけで、態度はたいして変わらなかった。なんとなく素っ気なくって、つっけんどんな感じ。でも、無視してるってわけじゃない。それがあたしにはよくわかっていた。
ふーんだ。
言いたいことがあるなら言えばいいのに。黙ってたって、あんたの場合どうせバレバレなんだから。…やらしい雰囲気で悪かったわね。どうせ誘ってるように見えますよーだ。だけど、それはある意味ランチさんにだって言えることよ。
…って、あたしも言ってやればいいのに。でもなーんか、そんな気になれないのよねえ。
相反する二つの気分を、あたしは味わっていた。一つは気だるさ。のんびりとした空気の流れる、穏やかな南国の午後の気だるさ――では、なかった。それは確かにあるんだけど、あたしはいまいちそれに浸りきれない。ただ精神的なだるさがあるだけ。そしてもう一つは――
ふとヤムチャがあたしの隣にやってきた。そのまま片膝を立てて、退屈そうに座り込んだ。その時、外したサングラスの下から覗いた目が不本意そうにこちらを見たことに、あたしは気づいた。
「…何よ」
それで、それまでくすぶっていた気持ちが動いた。あたしの言葉に、ヤムチャは聞いたところさらりと答えた。
「別に」
「言いたいことがあるなら言えば」
「別にないよ」
そのくせ、サングラスを両手でこねくり回しながら、視線を明後日の方へと向けた。まさにその態度が、あたしの心に火を点けた。
「じゃあどうしていつまでもここにいるのよ!?」
惚けてるの丸わかり。おまけにその惚け方の、かわいくないこと。空っ惚けるっていうの?わざとらしいのよ。それとも嫌みのつもりかしら。あたしはすっかり頭にきて、訊くまでもないことを訊いてしまった。ヤムチャはヤムチャで、バカ正直にそれに答えた。
「あんな野郎がうろついてるところに、こんな女二人置いていけるか!!」
今度は誰が聞いてもかわくない言い方で。これで始まらないわけがなかった。
「何それ!こんなとは何よ、こんなとは!!」
「おまえは不用心過ぎるんだよ!」
「どうして用心しなきゃならないのよ。ここプライベートビーチでしょ!」
「そういう不用心じゃないんだよ!わかるだろ!?」
後はもうお決まりのコース。売り言葉に買い言葉。引っ込みのつかないやりとり。ヤムチャはどうか知らないけど、あたしははっきりと自覚していた。だって、もう三回目だもの。いい加減わかってもくるわよ。っていうか、ヤムチャはわからないわけ?どうしてわからないの?本当にわからないの?
「な、何よ〜〜〜…」
あたしは思わず口篭った。でもそれは言い負けたからじゃなかった。少しだけ残っていた地に足のついた気持ちが、そうさせたのだ。あたしはこんなことがしたいわけじゃない。情けないけど、ちゃんと言わなきゃいけないみたい。言わなきゃわかんない。ヤムチャってばもうぜーんぜんわかってない…
「…あたしは!あたしはただ、最後だから…もうここも最後だから、ちょっとロマンティックにしたいなって…それだけなのに。なんであんただけそんなにケチつけるのよ!」
……ヤムチャのバカ。
最後の言葉が出る前に口を閉じた。後はただめいっぱい睨みつけてやった。ヤムチャはすでに態度を崩していたけど、あたしの望む雰囲気とは程遠かった。
「え?…いや、でもそれは…」
…この、鈍感。
驚いたように目を瞠って固まるヤムチャに向かって、あたしは追い打ちをかけた。心の中で。口には出さないわ。あたしはヤムチャとは違うから。ちゃんとわかってるから。あたしはヤムチャに頭を下げさせたいわけじゃない。あたしは…そう、あたしはちょっとそれっぽく過ごしたい。ううん、はっきり言っちゃうと、思いっきりロマンティックに過ごしたい。だってせっかく南の島なんかにいるんだし、楽しいのもいいけどやっぱりそういうのもほしいし、一日いられるのも今日で最後だし、朝なんかそんな感じだったし、さっきあの小島にいた時だってやっぱりそんな感じだったわよ。…途中までは。そうなの、なんか変なのよね。調子狂っちゃうっていうか。どうにもハズされちゃうっていうか。…としか言えないわよね。うーん…………
長い長い沈黙が流れた。時間的にはそうでもないけど、気分的にはだいぶん長い。だって、ヤムチャ何も言わないんだもん。どうしたって、ここはヤムチャが何か言うべきところなのに。まだあたしが言わなきゃダメなの?そんなにあたしに言わせたいの?一体何を言わせたいの?…
「はあぁぁぁぁぁっくしょい!!」
ふいに突然後ろから声がして、あたしたちの沈黙を切り裂いた。思わず振り向いた視界の先に、のそのそとシートから起き上がる寝惚け眼のランチさんがいた。
「…あ?オレなんでこんなところで寝てるんだ?…あ?おまえら…」
周りには誰もいなかった。どうやら潮風にくすぐられたみたい。そして例のごとく金髪のランチさんはそれにさえも気づいていない。右手で口元を拭き、左手でお腹を掻き始めたかと思ったら、いきなりがばりと立ち上がって叫び立てた。
「…やべぇ!手回しさせた密航機…!!おい、おまえら!今日何日だ!?」
「え?」
「何日だって訊いてんだよ!!」
「あ…30日…だけど」
「…そうか。よし、まだ一日しか経ってねえんだな…げっ!もうすぐ4時じゃねえか!こうしちゃいられねえぜ!」
そして腕の時計に目をやって、一瞬の後にはその手をポケットへと突っ込んだ。ちらりと見えたカプセルが次の瞬間にはバイクとなって、辺りに砂埃を撒き散らした。
「ちょ、ちょっとランチさん、こんなところでカプセル戻さないで…」
「悪ぃ!急いでるんだ!」
言葉と共にバイクのエンジン音が響き出した。直後に派手な空ぶかし。目と鼻を押さえているうちに、ランチさんはアクセルを踏んだ。
「なんか世話になったんなら今度返すぜ!あばよ!!」
ギュィィィーーーンンン…
あっという間に遠ざかって行ったランチさんを、あたしはすっかり目を丸くして見送った。ヤムチャも目を丸くしていた。よくは見えないけど、やや離れたところにいたカップルも、きっとそうしていたに違いない。さっきとは全然違う雰囲気の沈黙が辺りを包んだ。あたしは少しだけ周りの様子を気にしながら、息を抜いた。
ランチさんもあれよね。いろんな意味でマイペースだわ。そしてタフ。半日しか経ってないのに、これから密航なんかするのか…
そんなことを思いながら、再び海の方へと顔を向けた。ヤムチャはどうか知らないけど、あたしはこの時目が覚めるような思いを味わっていた。
――そうよ。いつものことだったわ。
ヤムチャが鈍いのも。顔色は読むくせに、気持ちは読まないのも。時々うるさいこと言ったり、肝心な時に何も言わなかったり。何もかもわかっていたこと。なのにどうして、さっきはあんなに気に障ったのかっていうと…
きっとね、ランチさんがいたからよ。他人がいるとね、情けなさもひとしおなのよ。ランチさんって優しいから、余計にね。ちょっと微妙なフォローしてくれたりもしてたし。そのくせ…
あたしは完全に地に足の着いた気持ちになった。ロマンティックを望む気持ちはそのままに。そしてヤムチャだけはまだ横にいた。この状況であたしがすべきことといったら、もう一つしかなかった。あたしが横から隣へ行っても、ヤムチャは動かなかった。腕を取っても、何も言わなかった。でも表情だけは変わったので、あたしは言ってみた。
「どきどきする?」
この時のヤムチャの顔といったら。図星も図星、絶句って感じ?今やあたしはすっかり余裕を取り戻して、ヤムチャの短所を長所と捉えられるようになっていた。こういう誤魔化せないやつって、からかうとすごく楽しいのよね!
「いいでしょ、この水着。そんなに肌出てないのにセクシーなのよね。大人の魅力って感じ?」
まあ、約一名誤解しちゃってたやつもいたけど。
そう考えられるまでに、あたしはなっていた。でも、それについては黙っていた。認めはするけど、譲る気ないから。あれはあたしが悪いんじゃない。あの男が悪いのよ。もともとそういうこと考えてるから誤解するのよ。あの時まではヤムチャだって何も言わなかったんだもの。それどころか、つまんないくらいリアクションなかったわ。
「あのさ…」
「うん、何?」
でも今は違っていた。少なくとも、あたしにとっては。ヤムチャはまるっきり明後日の方向を見ながら、口を開いてそして閉じた。それは一見さっきと同じ空っ惚けているような仕種だったけど、この時のあたしにはわかった。
「わかったわよ。着替えればいいんでしょ。じゃ、いったん部屋に戻りましょ」
まあ、あれよ。かわいい態度とは言い切れないけど、ここは立ててあげようじゃないの。助けてくれたことは確かだからね。
どちらからともなく、あたしたちは立ち上がった。あたしは腕を組んだまま。ヤムチャはそれを解かずに。時刻柄、あたしたちと同じような行動を取っている人はまだいない。下品な口笛を鳴らすようなやつももういない。少しだけ弱まってきた日差しに、緩やかな風。砂浜を抜けビーチを後にした頃には、わりあいいつもの雰囲気になっていた。
「ねえ、この後どうする?日が落ちるまでにはまだ時間あるけど。何して遊ぶ?」
「…ああ、どうするかな。俺はもう遊び尽くした感があるかな…」
いまいち気の入らない口調で返されたヤムチャの言葉を、あたしは好意的に受け止めた。これはちょっと一押しすればなんでも付き合ってくれそうね。そう思ったので、すぐさま一押ししてみることにした。
「そっか。じゃあのんびり散歩でもしましょ。それでね、日が落ちてきたらパティオで食事したいの。ちょっとお洒落に正装してね。ダメ?」
今夜はひさしぶりにワインで乾杯よ。昨夜飲み損ねた南国っぽいカクテルの後でね。
ヤムチャの返事を聞くまでもなく、あたしはそこまで考えた。ヤムチャがダメだなんて言うわけないもの。ここまでずーっとそうだったもんね。
ところがこの時、その慣例が少しだけ破られた。ヤムチャはいつものように小さく笑ったかと思ったら、それは軽ーく言ってくれた。
「それ、訊いてるんじゃなくて命令だろ?」
「あっそ。じゃあオーケーね!」
あたしはすぐさま腕を放してそっぽを向いた。信じられない気持ちと納得の思いが交錯していた。立ち直り早いんだから!するとヤムチャはさらに笑いながら、あたしの頭に手を乗せた。
「まあそうふくれるな。冗談だよ、冗談」
「そんなのわかってるわよ!」
だから怒ってるんじゃないの。この鈍ちん!
叩いてるんだか撫でてるんだかわからないその感触を受け止めながら、あたしは思った。…あんたちょっと軽過ぎない?甘い顔するのが早過ぎたのかしら。考えてみれば謝らせてないしなあ…
ま、今さら謝らせようとも思わないけど。…部屋に戻ったら覚えてなさいよ。


とはいえあたしは、それほど深く考えていたわけじゃなかった。
ちょっとからかって、バスルームに駆け込むつもりだった。おあずけよ、なんて言ってね。だって、本気で怒ってるわけじゃないもの。っていうか、実のところは怒ってさえいない。そんなに悪くない気分。なんとなく一段落ついたみたいな感じ。これからシャワー浴びてさっぱりして、最後の夜に備えるの。満天の星の下、南国の花の香りに包まれて、ゆったりワインを傾ける。ちょっとひさしぶりよね、そういうの。
「ね、楽しかった?」
パティオからリビングへと入り込んだ時、ふとその言葉が口をついて出た。太陽はまだ沈んでいないけれど、あたしはもうそういう気分だった。
「なんだ、やぶからぼうに」
「うん、だってここも明日で終わりだし。ちゃんと楽しんだかなって」
まあ、ヤムチャはそうじゃないみたいだったけど。でも今言ったように外はまだまだ明るいし、実際時刻も夕方前だったので、そこのところに突っ込む気はなかった。むしろ突っ込まれるのはあたしの方よね。そしてちゃんと突っ込まれた。そんなとりとめのない思考を続けながら、あたしは言葉を繋いだ。
「さっき『遊び尽くした』って言ってたけど」
同時に、さりげなくヤムチャをソファへと誘導した。具体的には、ヤムチャの腕を取ってソファの隅へ押し込んだ。って、まんまね。こんなストレートなやり方が通用するなんて、ほんっと楽な男だわ。
「あたしはもうちょっと遊びたいなぁ…」
その腿の間に跪きながらそれっぽい視線を流すと、ヤムチャは一瞬固まった。それから少し目を瞬いて、口を開いてすぐ閉じた。あはっ。本当に誤魔化せないやつね。でも、驚くのも無理ないか。自分でも突然だなぁって思うもの。まったく、あたしもよくやるわ。
「気づいてた?ここ解けるのよ」
目論見通りに視線を寄こすヤムチャの様子に笑いを噛み殺しながら、一本目の紐を解いた。胸の下。でもビキニの紐じゃない。ショーツ部分から続いてる布をビキニと結びつける紐よ。ほーら、これでワンピースがセパレートになった。
「不思議ね。ただお腹出しただけなのに、なんか脱がされてるみたいな気分になるわ。あんたの言う通りちょっとやらしいかもね、これ」
「…………俺のせいにするなよ」
ヤムチャは軽く眉を顰めてそう呟いた。さっきまであたしが取っていた腕は今はソファの背凭れに乗っていた。なんだかふんぞり返ってるみたいで偉そうね。そう思った時、態度だけじゃなくその声までもが大きくなった。
「シャワー浴びるんだろ?」
「浴びるわよ。後でね」
さらりと答えてやってから、あたしは落ちかかる布を押さえた。ちょっとちらつかせてやるとか、そういうのはなし。本当に誘惑するわけじゃないから。それにしても、思ってたのと反応違うわね。気になるなんて言ってたわりには、ずいぶん平然としてるじゃないの。つまんないの。
不発に終わった悪戯心を持て余して、二本目の紐に手を伸ばした。今度は腰紐。解いたりはしないけど、見せつけてやるくらいなら。そう思いながら、紐の下に指を滑り込ませた。くすぐったいような感覚と共に、少しだけ布が浮いた。そのままビキニラインをなぞったりしていると、ヤムチャの口調がさらに強くなった。
「そういうのは後にしろ。だいたいおまえ、さっきはやらしいって言ったらあんなに怒ったくせに」
「あんなの照れ隠しよ。人前でやらしいなんて言われて喜ぶわけないでしょ」
口ではなおも言いながらも、あたしは腰から手を離した。どうやらあんまり効き目ないみたい。そう思ったからじゃなかった。少しだけ予定とは違うことが起こりつつあることに、あたしは気がついていた。…なんか、本当にやらしい気分になってきちゃった…
「本当はぜーんぜん怒ってなかったわよ。…ね、ダーリン」
我ながら唐突過ぎる煽て文句を吐きながら、ヤムチャの足の上に乗った。そしてその腕を背凭れから外した。…自分から脱いじゃダメ。それじゃあ、ただのおねだりだもん…
『だから、しよ?』
その言葉を呑み込んだあたしには、もう言うことがなかった。…これで反応なかったらどうしよ。ちょっとプライド傷つくけどあたしから手を出すべきなのかなぁ…なんか話がえらく違ってきてるわね。なんでこうなっちゃったのかしら…
幸いにして、そこまで考える必要はなかった。ヤムチャからの強気な声はもう返ってこなかった。その代りに熱と呼吸が唇から注ぎ込まれた。あたしが瞳を閉じると、腰に自分のではない手が触れた。そしてそのまま紐を解いた。その瞬間、あたしはあらゆる意味で気持ちを解いた。
…よかった。あたしの勝ちね。あんまり反応なかったから、嘘ついてたんじゃないかと思ったわよ。どうでもいい時にはうるさいくせに、肝心な時には鈍感なんだか――ぁ…
あっ……あぁっ…!


「ふんふふんふふんふふ〜ん」
シャワーを浴びてリビングへ戻ると、ソファの端でヤムチャが居眠りをしていた。
ジーンズを穿いただけ、肩にタオルをかけたまんまの、さっきバスルームから出てきた時と同じ格好で。濡れっぱなしの髪から胸に滴が零れてる。まあ、風邪をひいたりはしないでしょうけど。
「はーい、起きて起きて。そろそろルームサービス頼むわよ〜。だから着替えて!」
「ん?ぁー…」
目の前で手を叩くと、ちょっぴり情けない声がその半開きの口から呟き漏れた。寝惚け眼の瞼はまだ半分も開いていない。んふふ。すっかり気が抜けてるわね。してやったりって感じ?あたしはなかなかに満足して、バスタオルの裾をはだけさせた。
「それともまだ遊びたい?」
同時に軽く目配せすると、途端にヤムチャは目を開けた。焦ったように作り笑顔を浮かべながら、思いっきり口を滑らせた。
「い、いや…!…それはまた後で…」
「ふーん。後で、ね」
さらにあたしが突っ込みを入れてやると、その作り笑いさえも放り出して、大げさに両手で口を押さえた。それであたしは本当の本当に満足した。んー、これこれ。やっぱりヤムチャはこういうリアクションじゃなくっちゃね。
「どうやら起きたみたいね。じゃあ着替えて。そうね、オーシャンブルーのジャケット。あれ似合うし好きだから」
そしてあたしはスカイブルーのマーメイドドレス。爽やかな南国の夜にぴったりの装いだわ。
あたしたちは一緒にベッドルームへ行った。共に湯上りそのままの格好で。それからあたしはドレッサーに向かい、ヤムチャはクローゼットの横に置いてあったスーツケースに手をかけた。その後当然のように部屋を出て行こうとする姿を横目に、あたしはパフュームのキャップを開けた。
「そうだ、ルームサービス頼んでおいたぞ。夕暮れ時にスタートでいいんだよな?」
「あら、ありがと。なかなか手際いいわね」
ふいに、うっかり忘れかけていた言葉を先読みされた。それはそれほど意外なことではなかったけれど、だからこそそういう感じをあたしに与えた。
慣れからくる気遣い。押しつけがましくない、いい意味でのヤムチャの小心さ。例えばここまでのところヤムチャはいつも実にさりげなく、その辺で適当に着替えをしてる。あたしのいない部屋のその辺で。わりとどうでもいいことではありながら、でも悪くない態度だとあたしは思っている。今この部屋にはゲストルームがあるけど、そこに追いやろうとまではあたしも思わない。でも同じ部屋で一緒に着替えるのはちょっとなあとは思ってる。ま、そこまで読まれてるとは思わないけど。
「なんだ?」
ドアに手をかけたところで、ヤムチャが顔を振り向けた。その時自分が視線を送っていたことに気づくと共に、あたしはあたしの中の引っかかりを認める気になった。
「…うん。ほんと言うとね、今日の夜までランチさんがいたらどうしようかと思っちゃってたの」
ごめんね、ランチさん。
別にランチさんがどうこうっていうわけじゃないのよ。むしろ最初はランチさんならいいかって思ってたんだから。でも…………きっと、ランチさんならわかるわよね。だってきっと、だからあんまり話してくれなかったんだと思うもの。邪魔されたくないから…
あたしは鏡に映る自分を見ながら、脳裏にランチさんの笑顔を思い浮かべた。かわいらしいのとニヒルなのと両方。あの感じじゃ観光も買い物も何にもしてないわよね。なにかお土産買っておいてあげよっと。飛び石的に明日の予定を考え始めたその時、鏡の中にヤムチャの姿が映った。
「そこ、その頭の横になんか花つけとけ。その方が雰囲気出るからな」
ヤムチャは自分の耳の上――ちょうどあたしがパフュームをつけようとしていたところを指差して、そんなことを言い出した。その唐突さと言葉の両方に、あたしの心はくすぐられた。
『雰囲気』だって。今さらなこと言ってるわよね。それに――
「あんたって結構少女趣味よね。何かというとすぐ花でさ、ベタっていうか、チープな情緒だわ」
鏡越しに言ってやると、やっぱり鏡越しに言葉が返ってきた。少し偉そうに尖らせた口から出てきたその言葉は、典型的な『売り言葉に買い言葉』だった。
「何言ってんだ。南国と言ったら花だろ。おまえこそ貝のネックレスばかりねだってきて芸がないぞ」
「えー、だって、南の海だもん。まあ、別にダメって言ってるわけじゃないのよ。その感覚は否定しないわ」
そうそう。ここでネックレスのことなんか持ち出すその神経は疑っちゃうけど。
どことなく緩やかな気持ちで、あたしはその言葉を呑み込んだ。…なんとなく言う気になれないのよね。甘いかしら。
ゆっくりと耳とうなじにパフュームをつけると、ヤムチャが鏡の中からいなくなった。そのまま黙って部屋を出て行こうとしたので、今度は鏡にではなく本人に向かってあたしは告げた。
「あ、ドア閉めないで。ちょっと暑いから、しばらく風通しておいて」
引き止めたりはしない。そんなことする理由がないから。でも、なんとなく、本当には離れたくないの。あんまり傍で身支度を観察されるのはごめんだけど。
ヤムチャはあたしの言葉を実行して、リビングへ歩いていった。開いたドアの向こうに感じる気配と物音を時々確かめながら、あたしは身支度を進めた。
今夜はここでの最後のディナー。地平線の彼方に沈む真っ赤な夕日を見ながらワインを傾けて、その後満天の星を眺めながらコーヒーを飲むの。
だから早く支度を終えて、そういう雰囲気に合う花をなにか探さなくっちゃね。
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