とはいえ休むところなどまったくない、人の手の入っていない洞窟のさらに順路を外れた結構な下りの小道をさっさと進んでいくプーリの背中に向かって、あたしは言った。無駄だろうなとは思いつつ。プーリからの返事は、やっぱりさっきと同じだった。
「もう少し、この小道を抜ければすぐですから。地底湖もあってそれはきれいなところですよ。ぼくは写真でしか見たことがないんですが、時々個人の旅行者が専門のガイドを雇って行くらしいんです。そのガイドの人がこの鍾乳洞の一番の見どころはそこだって教えてくれて…」
今にも出てきそうなその言葉を呑み込んで、あたしは足を動かした。キールや双子たちがいなかったら、絶対にそうしていたわ!あたしは都会育ちなんですからね。武道バカや庶民とは違って、こういうことには慣れてないのよ。…キールもそうだと思うんだけどなぁ。でもなぜか彼が文句を言わないから、あたしも我慢しているというわけよ。
その時背後から、双子とキールのどことなく聞き覚えのある会話が聞こえてきて、あたしは疲れる現実から思考の海へと逃げた。…なんでキールが文句言わないのかわかったわ。いえ、なぜか文句を言わないキールの性格がわかってきたわ。この人、ヤムチャに似てるわ。表面的な物腰だけ、だけど。優しいっていうか物腰が柔らかいっていうか優柔不断っていうか、あんまりキツいこと言えないタイプね。双子との会話が、ヤムチャの時とそーっくり。おまけに一人身なんだから、つけ込まれるわよー、これは。
双子は首を傾げていたけれど、あたしはすぐにピンときた。たぶんこの子が持っているのは、短波長紫外線ランプ。鉱物はきっとタングステン鉱よ。タングステン鉱は短波長紫外線を照射すると青白く発光するから…
こんな風に科学的なことを考えるのってひさしぶり。そういうことを忘れるために旅行してたんだもの。…ま、ちょっと科学誌なんかを読んじゃった日もあるけれど。なんてことを考えながら、あたしは手頃な岩の上に腰を下ろした。
思いもかけず科学のことなんかを思い出させられちゃったことを、あたしはちっとも不快に感じてはいなかった。むしろこう思っていた――これはこの子の、ひいてはヤムチャのお手柄ね。ガイドブックには、こんなこと少しも書いてなかったんだから。
真っ暗な鍾乳石の大河に浮かぶ、青い島々。目の前に横たわる湖の水が、ゆらゆらと静かに揺れて。まるで海の底にでもいるような気分だわ。そう、双子は空って言ってたけど、これは海よ。深く静かな青い海底。
「キールさん、写真撮ってくださーい」
「こっち、こっち。ここでお願いしまぁーす」
「3、2、1、イェーイ!」
――本当に静かにゆっくりと過ごすことができたのに。
小さな溜め息と共に、騒音に背を向けた。岩の反対側には、まるでインクを流したように青い水が満々と湛えられていた。『天国の宮殿』の中に人知れず湛えられている美しい地下の湖。
靴を脱いで水に足をつけると、ヤムチャもまた湖へと体を向けて、なんてことのない言葉を静かに零した。
「冷たくないのか?」
「冷たいけど、気持ちいいわ。ねえ、それよりも、なんだかさっきよりも水かさが増したと思わない?」
「そうか?水が流れてるような感じはしないけどな」
「満潮かしら。この湖、海と繋がっているのかもね」
そしてきっと、ここにだけはしばらく水が残っていたんだわ。だから天井があんまりごつごつしてなくて滑らかなのよ。
海底みたいじゃなくて、本当の海底だったのね。真っ青な水に映った真っ青な天井に波紋を落としながら、再びヤムチャの肩に軽く身を凭れた。閉じた瞼の裏には、いつまでも青色が映っていた。
「…ねえ、キスして」
あたしが言うとヤムチャは軽く身動ぎして、目を開けたあたしの顔を覗き込んだ。
「えっ…な、なぜ?」
「なぜって、そういう気分だからよ」
「ああ……うーん、ちょっと今は…」
「やっぱりダメかぁ。そうよねー。ちぇっ」
困ったように背後の連中を探るヤムチャに、それ以上畳みかけることはあたしはしなかった。別にすっごくキスしたかったってわけじゃない。ただ、ここでキスしたらいい感じだなって思っただけだもーん。
あたしはまた小さく溜め息をついて、またまたヤムチャに身を凭れた。今度はさっきまでよりも深く。こうするとなんとなく騒音がシャットアウトできるような気がするから。
「あっ、何笑ってんのよ」
でも、今ではそのヤムチャさえも静かにしていてくれなかった。ヤムチャが小さく、でも思いっきり吹き出したので、なにげに肩に回ってきた手をあたしは振り払った。
「いや、まあ、その、なんだ」
「はっきり言いなさいよ、はっきり!」
この時、あたしにはヤムチャが何を言い出すか大体読めていた。そしてやっぱりヤムチャは読み通りのことを言った。
「うーん、じゃあ…かわいいなと思って」
「そんなの当たり前でしょ!」
さっぱり全然デリカシーのない言い方で。そうよ、そういうこと思うのも言うのも勝手だけど、何も吹き出すことはないでしょ。
「ああ、はいはい、そうでした、いつものことでした」
「終いにゃ怒るわよ!」
「もう、ブルマさんとヤムチャさんてば、まーたケンカして〜」
そこでミルがそう声をかけてきたので、あたしは本当に怒るところだった。
この子たちって本っ当に空気読めないんだから。だいたい人の話盗み聞きしてんじゃないわよ!
でも実際に怒らなかったのは、それどころじゃなくなったからだ。一番最初にそのことに気がついたのは、キールだった。
「あっ!ブ、ブルマさんあれ…」
「え、何?」
キールの指差す方向に、青白い煙が上がっていた。目を凝らしてよく見ると、湖の最奥、ちょうど真ん中辺りからぼこぼこと水が噴き出していた。
「ブラックスモーカー――いや、青いからブルースモーカーか。だけど、鍾乳洞にそんなもの…」
「それって海底火山から噴出するあれ?でもこんな浅いところで…」
「おい、おまえら一体何の話…」
ヤムチャがちょっぴり不機嫌そうに眉を寄せた。その次の瞬間だった。
大きな噴出音と共に、蒸気と水が舞い上がった。ほとんど同時に、双子の声が響き渡った。
「わぁお!」
「すっごぉーーーい!!」
「感心してる場合じゃないわよ。早くここから出なきゃ!」
「えー、もうちょっと見ていたーい」
「あれはすっごくあっついの!おまけに猛毒性よ!きっともうすぐ水が溢れ出すわ。そしたら火傷どころじゃ済まないわよ!」
「あっ!!」
キールの叫びは、天井まで噴き上がった水音に掻き消された。さっきまでゆらゆらと静かに揺れるだけだった湖の水が、岩に当ってはね飛んだ。
「きゃっ」
腕で顔を覆う前に、あたしの体は持っていかれた。右肩であたしを、左肩でプーリを担ぎ上げて、ヤムチャが叫んだ。
「ミル、リル、背中に掴まれ!」
一瞬の間を置いて、さらに地面が遠のいた。目の前にあるのは、ランプという媒体を失って輝きを失くした白い天井。すでに、地面は流れ込んだ水で見えなくなっていた。
「うっひゃあぁぁあ〜」
「ねえねえ、あたしたち浮いてるよ!」
「うっそーーー!」
「みんな、しっかり掴まってろよ!」
唯一危機感の感じられなかった双子の声も、ヤムチャの声に掻き消された。そういえばキールは……あ、足にくっついてた。
「ひゃっ…」
ヤムチャが元来た道を戻り始めた。行きには歩き下りてきた小道を、帰りは飛び上がって。あたしは危険が去ったことを知りつつも、その風圧に目を閉じた。