Trouble mystery tour Epi.7 (5) byB
ベーグ島はリュスティック海のやや西、パネット環礁にぽっかりと浮かぶ、直径わずか35mの小さな島。白砂だけの大地の真ん中に青々と茂る、南国の植物群。遠くからでもよくわかる、大きな椰子の木。それはもう絵に描いたような無人島よ。
その島を視界に認めたところで、ボートを止めた。青い空の下で光輝く澄んだエメラルドの海の中に、ボートへと寄ってくる無数の影を見つけたからだ。
「いたいた。見てよ、こんなに集まってきたわ。本当に人懐っこいのね」
影の正体はもちろんイルカ。水族館なんかにもとんと行かなくなってしまったあたしにとっては、その姿を見ること自体が新鮮だった。
「よ〜し、行くわよ〜」
「あ、おい、シュノーケル…」
「いいわ、いらない」
大自然の中で遊ぶのにそんなものつけないわよ。こういう時は体一つで飛び込むものよ。
とはいえ、あんまり勢いよく飛び込むとイルカたちが逃げちゃうかもしれないので、あたしは足先からゆっくりと海に入った。そしてそのまま身を沈めて、その世界に体を置いた。
透き通るような水の中に広がるイルカの世界。海の青に染まってゆったりと泳ぐイルカ。くるくる回転しながら泳ぐ子どものイルカに、仰向けで泳ぐ親イルカ、それに添うように泳いでいる赤ちゃんイルカ。
一番小さな赤ちゃんイルカに近づいてみると、他のイルカが間に割り込んできた。あ、警戒させちゃったかな。そう思い少し離れたあたしの頭のすぐ上を、子どものイルカが通り過ぎた。顔を上げその後ろ姿を目で追った直後、別の子どもイルカがお腹の下を…
気づくと他にも何頭か、子どものイルカがあたしの周りに寄ってきた。遊んでいるつもりなのか、あたしの体を掠りながら周りをくるくる回る。かっわい〜。フレンドリ〜。きゃ、あは、ちょっと、くすぐった…
…………!!
やがてあたしは口を押さえ、海上へと脱出するはめになった。群がるイルカをどうにかして振り切って、急いで海の上へと顔を出すと、あたしのまさに目の前で、ヤムチャがパワーボートの縁に手をかけて、のんびりと海の中を覗き込んでいた。見てないで入ってくればいいのに、なんて言う余裕はあたしにはなかった。
「や…やっぱりシュノーケルちょうだい…」
「はいよ」
ヤムチャはほとんど態勢を変えずに、あたしをボートの上へと引き上げた。その『待ってました』と言わんばかりの態度にも、何かを言う余裕はなかった。
…あああ、苦しかった。くすぐったくて、思わず口開けちゃった。こんなに人懐こいとは思わなかったわ。ゆっくり隣を泳ぐくらいのつもりでいたのに。人はイルカほど長くは潜ってはいられないんだからさぁ…
はーーーーー…………現実に負けたわ。
大きく息を吐き出し呼吸を整えながらシュノーケルを手に取ると、イルカが何頭か、息をするため上がってきた。そのうちの数頭が、またもやボートへと寄ってくる。
「あ、またきた。はーいはい、今行くわよ〜。かわいいわよね〜。ペットにしたいくらいだわ。ほらヤムチャ、行くわよ」
「はいよ」
ヤムチャの短い返事を耳の端に、あたしは再び海に入った。グリーンシーニでの時とは違って、人工呼吸を試してみようとも思わない。
あそこが南国の楽園なら、ここはイルカの楽園よ。めいっぱい遊ばなくちゃね!


約二時間後、ゆっくりとベーグ島へと向かうパワーボートの上で、あたしは今度は満足の息を吐いた。
「あー、遊んだ遊んだ!つっかれた〜。なんか普通に泳ぐよりずっと疲れたわ」
「イルカって、こんなに遊び好きだったんだな」
今だ見え隠れするイルカの影を見ながら、楽しそうにヤムチャは言った。そしてまたもや挑発するように片手を水の中で泳がせ始めたので、さっきまでは言わなかったことを、あたしはここで言うことになった。
「あっぶない遊びするわね、あんた。イルカの口の中に手を突っ込むなんて、本当に噛まれちゃったらどうすんのよ」
「俺が噛まれるわけないだろ」
顔も向けずにヤムチャは答え、さらに手をひらつかせた。
「おおっと、きたきた」
大きく水面が揺れたその直後、素早くヤムチャは手を引いた。それを合図とするように、イルカが跳ねた。飛沫を落して宙を泳ぐ。それに続けとばかりに二頭目が海面から跳ね上がり、空中を回転した。さらにまた一頭…
「わぁお!曲芸みたーい」
「ほらな、こいつらだって楽しんでるんだよ」
子どもみたいな顔をしてヤムチャは笑い、さらにイルカを挑発し続けた。喜んでしまった手前あたしは口を閉じたけど、呆れがまったくなくなったわけじゃなかった。
確かに楽しんではいるみたいだけどさ。わざと怒らせて修行する、とかじゃないだけまだマシだけどさ…………昔、そういう修行をしてたわよね、亀仙人さんのところで。ヤムチャがこんな常識外れな遊びをするようになったのは、あのエロ師匠のせいね。
もう一つ、ある意味常識的になったと言える部分もあるけれど。初めて見るその小さな無人島に、あたしのよく知っている小さな島が一瞬ダブって、あたしはそんなことを考えた。やがてあたしの知っているものよりはだいぶん大きな三本の椰子の木がはっきり見えてきたところで、歓声が聞こえてきた。
「ちょっと、見てあれ。あのボートの周り…」
「わぁ、イルカが飛んでるー!」
「水族館のショーみたいだなぁ」
「すごーい。かっわい〜」
すでに島に上陸している数人の女、及び近くにいた、あたしたちと同じようにボートで島へと向かっている男女から。
「なんだ、ずいぶん人がいるな。無人島が有人島になっちまってるじゃないか」
「有名な無人島だからね。あたしたちの船だけじゃなくて、いろんなところから人が来てんのよ」
「人間いたるところに青山あり、か」
「それ、まるっきり意味が違うわよ」
やがてボートの底が水底についた。島の周りは浅瀬になっていた。まるで軽い荷物のようにボートを引っ張るヤムチャを引き連れて、あたしは椰子の木の袂に走った。とりあえず日陰で一休み。そう思ったのだけど、袂に辿り着くその前に、島中央のこんもりとした茂みの中に、椰子の葉でふいた屋根があることに気がついた。
「あっ、バーがあるじゃない。気が利いてるわね。ちょうど喉が渇いてたのよね。なんか飲もーっと」
「ちょっと待てよ。どうして無人島にバーがあるんだ」
「観光客目当てでしょ。実際、人結構来てるし。ねえ、なんか適当に頼んでおいて。あたしトイレ行ってくる」
「そんなものまであるのか…」
呆れたように呟いたヤムチャを尻目に、あたしはバーの裏へと走った。そういう話はパス。ないと困るのは確かだけど、話したいわけもない。男は適当に済ませられそうだけど、女はそうもいかないんだから。
…あー、すっきりした。
ちょっと同性以外には話せそうにもない斬新なお手洗いを後にして(水洗システムなんかないわよ当然)、あたしはバーへ戻った。そして、その端の方の丸テーブルに座っていたヤムチャを、ちらりと後ろから一目見ただけで、自分の認識の甘さを痛感した。
「ちょっと、何無駄に愛想振り撒いてんのよっ」
バーに近接している小さなコテージのベランダで数人の女たちが、あたしの目の前ではヤムチャが、それぞれ手を振り合っていた。まさか偶然同時になんとなく手を振ってみたなんてことはないでしょうよ。まったく、油断も隙もないわね。女も、ヤムチャも、どっちもよ。こいつ、昔はてんで女の子なんか相手にしな――もとい、できなかったくせに…
「ああ、おかえり。ほら、あそこに虹が出てるぞ」
「そんなんじゃ誤魔化され…あら、本当」
…それが今じゃこんなに堂々と手なんか振っちゃって、それを思いっきり誤魔化して。そう思っていたにも関わらず、あたしは誤魔化された。ただの虹だったら、そうはならなかったに違いない。でも、この時の虹はすごく特別なものだった。
水平線から水平線へと途切れることなく続いている七色の橋。それはかなり大きく、3重に架かっていた。
「すごい…180度のトリプルレインボーなんて…………初めて見たわ」
件の女たちも気がついたに違いない。その視線はもうこちらには向いていなくて、心なしか周囲のざわめきも消えた気がした。椰子の木の葉ずれの音が爽やかな風に乗って耳に届いた。静かに響く波の音。いつの間にかやってきていたウェイターが、日に焼けた肌に真っ白な歯を覗かせて、空気を乱さない穏やかな声を漏らした。
「お待たせしました。こちらフルーツカクテルとエールです。ごゆっくりどうぞ」
そして水滴のついたグラスを二つ、テーブルに滑らせて去って行った。フルーツいっぱいのカクテルグラスに飾られた、一輪の薄紫の花。同じ色を端に置く、空にかかる橋。透き通った青い空と、その青さを鏡のように映す海、青さを際立たせる白い砂浜。あたしは言葉と息の両方を呑みながらヤムチャの正面の席に腰を下ろし、カクテルグラスを手元に引いた。
「…なんか揃い過ぎてるわね、ここ」
「まったくだ。無人島だというのにな」
エールの入ったグラスを手にヤムチャは頷いたけど、あたしはそれには応えなかった。一見同調しているように思えるヤムチャの言葉が、あたしの感覚に沿ってはいないということに気づいていたからだ。
…鈍感だからなあ、こいつ。あたしが言ってるのは、そういう意味じゃないのよ。そういう現実的な意味じゃ…………まるで夢のように美しいこの世界。なんとなくお腹が空くようなこの感覚。誰もいなかったらよかったのに。そしたらこの世界を独占できるのに…………あたしたち二人で。
「どうした?それ、口に合わなかったか?」
「…いいえ。申し分ないわよ」
ふとグラスから口を離して言ったヤムチャにあたしはそう答え、涼やかなカクテルを口にした。
それは確かに、申し分なくおいしかった。


カクテルを楽しんだ後は、椰子の木陰でお昼寝。
人が結構いると言っても、居場所に困るほどではない。わざわざ声をかけたりしなければ、互いを無視することはできる。
「言っとくけど、声かけられてもついてっちゃダメだからね。起きた時もしいなかったりしたら承知しないわよ!」
「わかってるって…」
もう何度言ったか知れない注意をヤムチャに与えて、あたしは砂浜に腰を下ろした。本当にね、その返事も何度聞いたか知れないわ。え、いつ聞いたのかって?普段の話よ。デートしてる時とかさ、店員とかたまたま居合わせた人とかが、あたしがちょっと試着なんかして目と手を離してる隙に、ちょっかい出してたりするのよ。そしてそういうの、ヤムチャは全然気づかないで相手しちゃったりするのよね。
そういうこと、旅行に出てからはすっかり忘れてたんだけど、今のあたしの頭にはくっきりと浮かび上がっていた。だってさ〜…他に人がいるのは仕方ないとしてもよ、何も色目使ってくることないじゃない。まあシチュエーション的に男が欲しくなる気持ちはわかるけど、それなら女同士じゃなく男と一緒にくればいいわけで…
椰子の木に背を凭れなんとなく肩を下げると、今座ったばかりのヤムチャの肩がちょうど頭に当たった。肩枕…でもあんまり楽じゃない。っていうか、そういう気分じゃないわ。自分から寄り添うとか、そういう気分じゃない。それになんかだるいし。いっそ横になっちゃおうかしら…
睡魔にも似た気だるさに体を引かれて、あたしはゆっくりと横になった。砂がちょっと熱いから、ヤムチャの膝を借りて。こうすれば誰も寄ってこないだろうし、一石二鳥ね。少し硬いけど、それでチャラにしてやるわ。
目を閉じると、潮騒が耳に響いた。頬を撫でていく爽やかな風の音。心なしか遠のいていく人の声。片耳が膝で塞がってるせいかしら、自然の音しか聞こえない。こうしてると、無人島っていう感じがしてくるわね。あたしとヤムチャの他には誰もいない、静かで小さな南の島…
「…ん…」
そう、あたしは一人じゃない。頭の下にある硬い膝と、やがて頭の上にやってきた大きな手が、強くそれを感じさせた。初めはゆっくりゆっくり頭を撫でていたヤムチャの手は、いつしか耳元へと滑っていって、耳の横にあった髪をひとふさ耳にかけた。ちょっとくすぐったい。でも、あたしは目を開けなかった。目を開けたら、ヤムチャはやめるに決まってるもの。どうして急にこんなことしてくれてるのかはわからないけど、そういうことはわかる。
んー…………
気持ちいい…………これは一番幸せな眠り方かもしれないわ。膝枕ってして欲しいとかあまり思ったことなかったけど、これならいいわね…
髪を漉く指先がうなじを撫で始めた頃、本当の睡魔がやってきた。頭を撫でられて眠っちゃうなんて子どもみたいね。でもまあ、いいんじゃない。こんなところで大人も子どももないし。だいたいヤムチャ相手に大人ぶってみたって仕方ない…………
「ばあっ!」
その時、ふいに頭の上で甲高い声がシンクロして、あたしは思わず目を開けた。あたしと同じように目を丸くしているヤムチャの顔が目に入った。その手が引っ込められると同時に、再び甲高い声がした。
「えへへ。二人とも見ーっけ!」
「驚きましたかぁ?」
「お昼寝ですか?イルカとはもう遊びました?あのね、聞いてくださいよ。すごいんですよ、あたしたちの行ったところにいたイルカ!」
「そうそう、すっごいの!みんなでおしくらまんじゅうしてたんですよ!初めいっぱい集まっててね、なんだろと思ってみてたらそのうち勝手に泳ぎ出して、それからまた集まって、それからそれから…ねえ、あれ絶対おしくらまんじゅうしてたよね!」
「もー…ちょっと、あんたたち…」
鼓膜を破りそうなほどにかしましい双子の会話を耳にして、深い深い溜め息をつきながら、あたしは体を起こした。
…よくもこの雰囲気の中、ずかずか入ってこられるもんだわね。空気を読まないにも程があるわ。
っていうか、結局こっちに来ちゃうのか。せっかくヤムチャが蹴飛ばしてあげたんだから、ずっとあっちにいればいいのに。せっかく恋人たちの島ってやつを、地でいってたのに。
「お二人ともこんなところにいたんですね。…あ、ひょっとしてお邪魔でしたか?ミルちゃんがどうしてもこっちにも来たいって言うから来たんですけど…」
やがて気の弱い監督者が、そう言って椰子の木の陰から顔を出した。それを見た時――正確には、そのキールを目にしたある人間の顔を見た時――、あたしの不快は少しだけ薄れた。ま、しょうがないわね。ここは無人島とは名ばかりの観光地なんだもの。そういうことをわざと口には出さないで、あたしは腰をも上げた。
「あっちにバーがあるわ。一杯飲まない?」
「いいですね。もう喉がカラカラなんですよ。途中スコールに打たれたんですが、その後がこの強い日差しなものですから、余計に喉が渇いちゃって」
「スコール?ああ、それで虹が出たのね」
「わーい!何飲もっかな〜!」
「あんたたちはお酒はダメよ」
一番手の焼ける子どもたちを先頭に、さりげなく距離を縮めてくる年下の青年を隣に、いつもは半歩後ろを歩いてくるはずの男をうんと尻目に、バーへと向かって歩いた。
…邪魔されるのなんか、今に始まったことじゃないわよ。
ということはやっぱり言わずに、あたしは笑いを噛み殺した。
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