Trouble mystery tour (6) byB
南部都市レッチェル。
ビアード海に面する歴史のある港町。この地方としては、南の都、ルートビアに次ぐ第3の都市。風に乗ってくる潮の香り。海に坂の映える、古き良き街並み。パン屋のウィンドウには、店内を覆い隠すほどにずらりと並んだパン。レッチェルを代表する高級ワインは『アンティック』。きれいなマスカット色をした、爽やかな、それでいてちょっと甘い風味――
「しかし本当にワインをくれるとはなあ…洒落がわかってるというべきかわかってないというべきか」
「口止め料でしょ。お金持ちのチャーターした旅客機がパイロットにハイジャックされたなんて、航空会社にとっては最悪のスキャンダルだもの」
棚ぼたと言うには苦過ぎる経緯で手に入れたそのワインを口にして、あたしはまた少し旅気分を取り戻した。
さすがに忘れてはやらないけど。でも、大目に見てあげるわ。旅にアクシデントはつきもの。そう思ってあげることにするわ。そもそもが地方の航空会社なんて、そんなにしっかりしてないものだし。このワインをくれたのだって、ご愛嬌よ。いかにもローカルって感じして、悪くないわよね。
チョコレートショップのウィンドウを飾る虫や動物の形をしたチョコレートをスクランブル交差点ではっきりと目にした時、グラスの中が空になった。それであたしは、さらに気分を盛り上げるべく、フリーザーから心浮き立たせる一本を取り出した。
「じゃあ、乾杯しよ。ほら見て『ドン・ペリニヨン・ロゼ』。リムジンに乗ってるって感じするわよね〜!」
そう、エアポートからホテルまでの移動は、クラシカルな白のアンティーク・リムジン。もちろん一組一台、各運転手、ワインつき。エアカーに比べればスピードは出ないけど、こののんびりさが優雅な旅の証よ。
そんなわけで、あたしはボトルを差し出した。ワインを開けたり注いだりするのは男の仕事。それまで呆れたようにアンティックのボトルを見ていたヤムチャは、今度はその目つきをあたしに向けた。
「今したばかりだろ」
「今のは無事着陸できた祝杯。今度のが本当の、『この旅行に乾杯』よ」
ここからが本当のあたしたちの旅の始まり。さっきまでのは、そうね、前哨戦ってところよ。文字通りのね。
ま、そうじゃなくたって、絶対に乾杯するけど。異国の空の下、ゴージャスなリムジンの中で、ドン・ペリニヨンを開けるカップル。これで乾杯しないなんて、ありえないでしょ。ヤムチャってば、わかってないにも程があるわよ。
とはいえ、その無粋さに対する不満を、あたしは実際には一言も口にはしなかった。そうする前に、ヤムチャがボトルを開けてくれたからだ。ちゃんと注いでくれたし、グラスも合わせてくれた。少しの呆れを残した、諦めたような顔つきで。…どうせそうしてくれるなら、もっと色よい態度を見せればいいのに。気の利いた一言も添えてくれればいいのに。
その不満に近い願望も、あたしは口にはしなかった。旅行の初っ端からくだらない言い合いしたくないもの。せっかくいい気分になってるんだから。
まあ、いいわ。大目に見てあげるわ。エスコート役としてはギリギリ及第点。そう思ってあげることにするわ。
ん〜、やっぱりドンペリっておいしい。


あたしたちの泊まるホテルは、レッチェルでは最も高い32階建て。赤煉瓦造りばかりの街の中で、目につく限り唯一とも言える白塗りの煉瓦。言わば、レッチェルのランドマーク的な存在。
白塗りのリムジンから白塗りのホテルへと居場所を移すと、当然の成り行きで視界が切り替わった。白を基調とした、明るく豪華なフロント。15階にある、アンバサダー宿泊客のフロントを兼ねた、アンバサダーラウンジ。そしてあたしたちのここ数日の宿となる、25階の、静寂と気品に満ちたロイヤルスィート。そしてそのベランダの外にある――
「わあ…」
――午後の陽を浴びてオレンジ色に輝く街並み。その向こうに広がる紺碧のビアード海。上には透けるように青い空。『ビアード海の真珠』と称えられている、息を呑むほどに美しいレッチェルのパノラマ。
あたしはリビングに数歩を踏み入れたままで、それを見ていた。そして数瞬の後に、ようやくそのことを思い出した。
「ねえヤムチャ、来て来て」
ヤムチャが一緒に来てたってこと。あまりにもさりげなくベルボーイにチップなんか渡してるから、視界にも入ってなかった。
オレンジと青のコントラストに心を奪われながら、あたしはゆっくりとテラスへ出た。やがてあたしに続いてテラスへとやってくるヤムチャの姿をガラス越しに確認しても、あたしの意識は変わらなかった。…初めて見る景色。初めて感じる風。初めて立つ場所。あたしがこの旅に求めていた、異国の情緒。でもヤムチャがテラスにやってきて、あたしの隣に立って、その腕が肩に軽くぶつかった時、少しだけ変わった。
「こんな街がまだあったんだな…」
「レッチェルは世界遺産に登録されてるから。きっと朽ちるまでこのままでしょうね。…きれいね」
「ああ」
ヤムチャと一緒にこの景色を見れてよかった。そんなこと思ったりはしなかった。それはちょっと違うような気がする。なんか思い詰めているような感じがして嫌だわ。なんてロマンティックなの、っていうのとも違う。まだそこまで入り込む気にはなれないのよね。ここ、来たばかりだし。
ただ、なんとなく。そうなんとなく、一人じゃなくてよかった、っていう気がする。ん〜、これも少し違うか。とにかく、一人より二人の方が断然素敵。そう思う。
そんなわけで、あたしはまた乾杯したい気分になった。でも、今ここでするつもりはなかった。それは後のお楽しみ。部屋で乾杯するのは、夜になってから。南部の遅い夕陽を眺めながら、うんとそういう気分に浸るの。たっぷり時間をかけて段取り踏むんだから。
「じゃあ、あたし着替えるわね。まずはアンバサダーラウンジに行きましょ。ウェルカムドリンクで乾杯するわよ!」
最初の一歩。シチュエーションに合わせた装い。ラウンジでの乾杯のためではなく、その後に行くグランニエールフォールズのためのドレス。淡いブルーの、動きやすいミニワンピース。昼間は観光をめいっぱい楽しむわよ。
「ヤムチャもせめてジャケット取り替えなさいよ。トランクの中に服の入ったカプセルあるから」
「どっちのトランクだ?」
「底にステッカーのついてる方よ」
朝、ヤムチャが父さんのペットにジャケットを噛まれていたことが、遠い昔のことのように思えた。ヤムチャが待ち合わせ時間に遅れてきたことも、ほとんど忘れかけていた。あの時の怒りやもどかしさは、もうこれっぽっちもあたしの中には残っていなかった。そもそもあれは、お姫様抱っこしてくれたことで、チャラにした。
「急がなくってもいいわよ。アンバサダーラウンジで落ち合いましょ」
だからあたしがそう言ったのは、やり直しやリベンジの気持ちからではなかった。
単なる気分よ。90日も一緒に行動するんだもの、少しはメリハリつけなくっちゃね。


十数分後。先に足を延ばしたアンバサダーラウンジで、あたしは一人旅気分を味わっていた。
少し離れた窓の外に、部屋で見たのとは違う角度からのパノラマ。手元には、レインボーカラーの舌に甘いカクテル。結局、ウェルカムドリンク先に頼んじゃった。手持無沙汰で待つのも何だし。
ホワイトグレーとダークブラウンを基調としたシックな内装。南部らしい大柄のゆったりとしたソファに、少しばかりの観葉植物。ところどころにフロアライト。思ったよりも人は疎らで、静寂とはいかないまでも充分に落ち着いた雰囲気。夜のカクテル、ここで飲むのも悪くないわね。外だって内だって、どうせヤムチャはたいして変わらないだろうし。邪魔する人もいなさそうだし。どうしようかなあ…
あたしは非常にのんびりと、夜のプランを再考しにかかった。そうできる程度には、ヤムチャは遅かった。でも、あたしは朝のように叫び立てはしなかった。こんな場所でそんなことしないわよ。それに、時間決めたわけじゃないし。口直しの一杯が飲めて、ちょうどいいわ。
そうね。2杯目はさっぱりとワインとレモネードのカクテルで。こちらを向きかけたボーイにそう言おうとした時、後ろから覚えのある黄色い声が聞こえてきた。
「うわ、あっまーい。甘くて苦ーい」
「うっそ、マジー?あっ、本当だ、苦〜い。こんなの飲めなーい」
優雅なラウンジの雰囲気を見事に壊す、品のない台詞。それがウェルカムドリンクに対する感想であることは、あたしにはすぐにわかった。わかると同時に、眉を顰めた。…そこまで言うことないんじゃないかしらね。っていうか、甘いのはわかるとしても、苦いって…お酒飲めないんじゃないの?
「あんたたち、もう少し声落としなさい。飲めないなら無理に飲まなくてもいいのよ。気分を出したいなら、ノンアルコールカクテルがあるでしょ」
同行者のよしみで、あたしは忠告してあげた。例の、機内で携帯電話を使ってた女の子たちよ。学生なんてあんなもんだと思ってたけど、こういうちゃんとしたホテルでは、それなりに振る舞ってほしいわね。
「あっ、ありがとうございまーす」
たぶん絶対に注意されたとは思っていないだろう明るい口調で、一人が答えた。すぐにもう一人の黄色い声が後に続いた。
「ノンアルコールカクテルってどれ?オレンジジュースみたいなのある?」
「えー、よくわかんなーい」
オレンジジュースを飲めばいいんじゃないしら。少し痛くなってきた頭で、あたしはそう考えた。でも、口では言ってあげた。
「ソーダをフルーツとシロップで割ってもらいなさい。どこのホテルにもあるから」
「あっ、ありがとうございまーす」
「へー、詳しいんですねー」
「レッチェルのホテルでは常識よ」
確かこの子たち、飛行機の中でガイドブック読んでたと思ったんだけど。…それにしても、なんだか自分がすっごく大人になったような気がするわ。あたしもハイスクールの頃、こんなだったのかしら。
「あのー、そっち行ってもいいですかぁー?」
どうしてそうなるわけ。
絶対にあたしはこんなじゃなかった。あたしが強くそう思った時には、すでに女の子たちはあたしの正面へとやってきていた。ま、ヒマだからいいけど。などと思ってやる義理は、あたしにはなかった。
「あのね、あたし人と待ち合わせしてるから、悪いけど放っておいてくれる?」
「あーっ、一緒に来てる彼氏さんですねー」
「はーい。来たらちゃんとどけまーす」
わかってるんだか、わかってないんだか。いえ、とてもわかってるとは思えないけど。とにかく、女の子たちはどっかりとソファに座り込んだ。あたしが呆れている間にも、次の言葉が飛び出してきた。
「あのー、本当にさっきの飛行機、運転したんですかぁ?ミルが絶対にそうだって言うんですけどー」
人と会話する時は、自分の名前くらい名乗るものよ。などと教えてあげるつもりも、あたしにはなかった。あたしも名乗る気なんてなかったからだ。
「そうだけど」
「っきゃー!すっごーい!!かぁっこいいー!!」
「おねーさん、美人だし。三色完備ってやつですねー」
それを言うなら才色兼備よ。まあわかるからいいけどさ、どうせなら素直に喜ばせてくれないかしらね。
「彼氏さんはハイジャックの人をやっつけちゃうし、すっごい連携プレイですねー」
何かが決定的に間違ってるわね。そう思いながらあたしはボーイを呼び止め、少し強めのカクテルをオーダーした。怒りは湧いてこなかった。ただひたすら『バカバカしい』。その一言よ。
あたしが無視とも言える沈黙を貫いていると、二人が夢見るような顔つきで言い出した。
「かっこいいですよねー、彼氏さん」
「いいなー、あたしもあんな彼氏がほし〜い!」
「そお?あいつ程度の男なら、いくらでもいるじゃない」
それであたしは完全に無意識に、その話題に乗っかってしまった。たぶん、カクテルの勢いね。でも言ったことは嘘じゃない。見栄を張ったわけでもない。何を考えるまでもなく、そう思った。
「えー、いませんってば、ぜーんぜん!見たこともないよねー!」
「だよねー。あんなかっこよくって男らしくって素敵な人、絶対いないよねー」
「そこまで言ってやるほどのやつじゃないわよ」
「それはおねーさんがレベル高いからそう思うんですよー」
「いいなー。ほんっと羨ましいー」
…正直なところ、あたしはウザくなってきた。初めからウザかったけど、それにしたって本当にウザくなってきた。モーションかけるとかそういうんじゃないみたいだけど、あまりにも美化し過ぎ。ヤムチャってば、どうしてこういつもいつも外受けがいいのかしら。まあ今に関しては、あたしは害は受けてないんだけどさ。もしこの子たちが言うように、ヤムチャがそれほどいい男だとするならば、そういう男と付き合ってるあたしも相応にいい女、ってことになると思うし。そして実際に、そういうことを言われてもいる。それでもやっぱり、なんとなく…
あたしはイライラしてはいなかった。不愉快というのとはちょっと違う。でも、呆れているだけとは言い切れない。とにかく、会話は切り上げたいと思った。はっきり言って、そうしなきゃならないこと自体がウザい。そう思った時、相手が先に動いてくれた。
「あっ、彼氏さん来ましたねー」
「それじゃ、失礼しまーす」
有言実行。でも、褒めてなんかやらないわ。
思いのほかあっさりと退散していく女の子たちを横目に見ながら、いつの間にか空になっていたグラスの底をステアでなぞった。やがてヤムチャが隣にやってきても、あたしは今一つ気分を切り替えられなかった。
「悪い。服片付けるのに手間どって…」
頭も下げずに謝るヤムチャの顔は、あたしにはとても男らしいとは思えなかった。それでも、事実の一端はそこに見た。
こいつ、見た目は格好いいからなあ。おまけに今日は戦ってたし。戦ってる時(だけ)は、本っ当に格好いいんだから…
「何だ?」
「べっつに〜」
あたしの視線を訝るその声を、あたしは一言で流した。切り替えられはしなかったけど、ヤムチャとの会話に持ち込むつもりはなかった。
「ウェルカムドリンクはどうする?結構甘めだったわよ。シロップ多い感じ」
「甘いのはパスしたいな。さっぱりしてるのがいい」
「じゃ、『フレスカ』にしない?あたしも飲みたい」
「そんなに飲んで大丈夫か?ウェルカムドリンク飲んだんだろ」
「口直しがほしいのよ。甘ったるいだもん」
あたしは本当のことを言った。2杯目のカクテルも少し甘かった。ただそれだけの、本当の理由を。女の子たちに与えられた何とも言えない気分を流すのに、アルコールは必要なかった。そこまでのものではなかった。今では女の子たちは、少しだけ距離を置いた正面のソファからあたしたちを窺い見ていたけれど、それもそれほどは気にならなかった。
あの子たちも男を見る目がないわね。男は顔じゃない…とは言い切れないけど。そうね。男は顔だけど、いい男は顔だけじゃないのよ。顔のいい男と、顔のいいいい男は全然違うのよ。そういうことがわかるほど、いつか大人になれるといいわね。
ごくごく軽い気持ちで、あたしはそう考えていた。ウザくはあったけど、結局最後まで怒りは湧いてこなかった。わかっていたからだ。
女は必ずしもいい男を好きになるわけじゃないってこと。それがよくわかっていたからだ。
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