Trouble mystery tour Epi.10 byB
人っていうのは、疾しいことや後ろめたいこと、隠し事なんかがあったりすると、態度が変わる。いつもより優しくなったり、サービスが過剰になったり、マメになったりする。
そしてそれがめちゃくちゃ顕著なのが、あたしの彼氏だ。


とはいえ、初めのうちは気づかなかった。いえ、気づいてはいたんだけど、あまり気に留めていなかった。
「ん〜、おいしかった!だけど本ッ当に珍しいわね。あんたが最後の最後まで付き合ってくれるなんて」
「なんとなく、な」
ロキシーマウンテンナショナルパークのホテルのカフェテラスで、空のパフェグラスを前にして、あたしは思った。
苦手って言っても、おいしければ食べられるのね。まあ、もともとヤムチャは、甘いものがまるでダメってほど硬派じゃないけど。うちにいる時も、ケーキやパイなんかはわりと食べてるもの。そしてあたしも、できるだけクリームを除けてあげた(優しいでしょ)。歯車がうまく噛み合った、ってところね。
「じゃ、行きましょうか。そうね、もう少しそこらへんを歩いてから、列車に戻りましょ。ここ、珍しい高山の花がいろいろ咲いてるのよ」
ここまでは、あたしは何も気にしていなかった。ヤムチャ本人も言ってる通り、なんとなく気が向いたんでしょ。『旅の恥は掻き捨て』の精神でね。あたしが最初に気にしたのは、その後に行われたヤムチャの行為だ。
…あらら。
席を立ちカフェから出るや否や、実にさりげなくヤムチャはあたしの手を取った。ちなみにカフェから出ただけで、まだホテルの中ね。これはちょっと…いえかなり意外だった。
ヤムチャがあたしの手を引くこと自体は、そう珍しいことじゃない。でも、別にここ歩きにくいわけじゃないし、お酒だって飲んでないし、周りに人はいっぱいいるし、だからって痴漢が出そうな気配はないし。ほら、クルーズ船の中で、暴言吐きながら痴漢から守ってくれようとしたことあるでしょ。ああいうのでもないのよ。そういう雰囲気はまるでなしに、なんていうか、…ただ繋ごうとして手を繋いでる。
その感触はあたしの心に、小さな芽を植えつけた。なんとなくくすぐったい感じ。おもしろいっていうのに近いかな。なんだって急にそんな気分になったのかしら。しかもこんな山の中で。確かにここはすごく空気がおいしいし、雰囲気だっていいけど、そういう雰囲気ではないとあたしは思うのよね。ヤムチャは違うみたいだけど。…鈍いだけじゃなく、ズレてるわね。
気まぐれなその手にいざなわれて、足取り軽く心も軽く、庭園を歩いた。ホテルの正面に広がる美しく刈り込まれた芝庭の横には、深い森の中を思わせる緑の木立。その陰に立つ彫像。狼と白鳥の泉水。足元を彩る珍しい花々。
「きれいねえ」
「きれいだけど、ちっとも自然そのままじゃないよな。とても山とは思えない手の入れられ方だ」
「しかたないわよ。自然を保護するためにはね。例えばこの花、たぶん絶滅危惧植物だと思うけど、こうやって管理しないと、登山者に摘み取られてあっという間に絶滅しちゃうのよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんよ。ちなみに、さっきあんたが双子を追っ払うダシにした花も、絶滅危惧植物よ。あの子たち、摘み取ったりしてないといいけどね。摘んだら罰金だから」
「面倒くさい自然だな」
なんてことない会話をしながらしばらく歩くと、6本の石柱に支えられたドーム型の東屋が現れた。10段ほどの階段を上がってそこへ行くと、その先はテラスになっていて、一時間ほど前に足を踏み入れた場所の全景が、すっかり見渡せた。
忌わしい記憶の付随する、生垣のラビリンス。足を止めテラスの手摺りに寄りかかって、あたしは浅くはない息を吐いた。ヤムチャももう、なんてことない会話を続けようとはしなかった。それどころかあからさまに口を噤んでいることが、あたしにはわかった。そう言えば、いろいろ言いたいことあったはずなのに、すっかり忘れてたわ。ということにあたしは気づいたけど、もう何を言うつもりもなかった。
もういいの。忘れるわ。そりゃあすぐには無理かもしれないけど、せっかく食べたパフェを吐いちゃうのは嫌だから、とりあえず考えるのはやめるわ。だからヤムチャに文句を言うのもやめる。さっきからのこの態度が、反省の現れだと思ってやるわ。
どこかから聞こえてくる鳥のさえずり。さわさわと流れる風が、草花と樹林をゆるやかに揺らす。花の匂いと土の匂い、それに木々が放つ優しい匂いが織り交ざって、鼻先をくすぐる。とても静かで心地良いはずの空間――そんな中、あたしは口を開いた。一度引っ込めたものとは違う、ちょっとした文句を言うために。
「ねえ、空気の読めない色男さん?」
「は…はい?」
「今こそ口直しがほしいんだけど?」
あたしの皮肉を感じ取ったのか、どことなく身構えた様子のヤムチャは、次の瞬間それはわざとらしく目を瞬かせて、あたしを見た。完全にきょとんとしてる。それで、あたしは思わず次の文句を言ってしまいそうになった。
そんなに驚くことないでしょ。元はと言えば、あんたが言い出したことじゃない。さっきはあんなに唐突にキスしてきといて、今この雰囲気ではしないなんて、わけわかんない。…本当にわからないわ。あたしが落ち込んでるの、わからないの?ええ、やっぱり落ち込むわよ。落ち込むっていうか、どうしたってテンション下がるわよね。だって、まだついさっきのことだもの。そんなにすぐ忘れられるわけないわよ。あの事実も感触も。だから、今こそ口直しがほしいのに…
「えっと…」
「嫌なら無理しなくて結構よ」
なおも躊躇するヤムチャを、あたしは切り捨てた。ふーんだ。いいわよ。どうやらヤムチャもそういう気分みたい、なんて思ったあたしが間違ってたわ。っていうか、例えそういう気分だとしたって、鈍いところは変わらないに決まってるわよね。うっかりその気になったあたしがバカだったのよ。
「嫌なわけないだろうが!」
「んっ…」
ヤムチャは怒った。この流れでは唐突に感じられる、大声を上げて。と思ったら、即行でキスしてきた。
…ムードないわね。っていうか、なんでそんな怒ってんの?あんたが怒る筋合いじゃないでしょ?そして、怒りながらキスするのやめてくれない?しかもなんか、思ってたのよりだいぶん長いんだけど?外なんだから、ちょっとしてくれればそれでいいのよ。
予想とは少し違うリアクションで自分のアクションを受け止められて、頭の中を感嘆符だらけにしながら、あたしはいろいろ考えた。それでも最後にはきっちりと自分の気持ちを整理して、その場を離れた。
さようなら、あたしのもう一つのファーストキス。セカンドはなしにしてちょうだいね。


引き続きヤムチャに手を引かれて、あたしは列車へ戻った。
この時にはもう、あたしはヤムチャに手を繋がれることを意外に感じてはいなかった。逆説的に納得していた。さっきのキスのせいで。…外であんな長いキスをするくらいなんだもの、そりゃ手くらい繋ぐでしょうよ。
自分の独擅場とも言える大自然の中へやってきて、調子が出てきたんでしょうよ。すごく楽しんでるって感じではなかったけど、生き生きしてはいたものね。さっき、山に登ってた時。水を得た魚みたいにさ。考えてみれば、あの時からいつもとちょっと違ってたわ。なんだかすっごく偉そうだった。気の強いとこ出てたっていうか。
あたしはそんなことを考えながら、埃っぽい服を脱ぎ捨て、バスルームに入った。熱いシャワーを浴びてから、バスタブに体を沈める。伸ばした片足を軽く上げると、思わず不満の声が口から漏れた。
「むむ…」
足が張ってるわ…
半分とはいえ、結構がっつり山登りしちゃったからなあ。そりゃ達成感はあったけどさ。完全無欠のボディを誇るブルマさんには、ちょっと手痛い後遺症ね。
さらに、バスタブに浸かっているうちに、どんよりとした疲労感が湧いてきた。それと共に、新たな兆候も現れた。
「はー…」
「どうした、溜め息なんかついて」
「体がだるいの。太腿のとこなんかすっごく痛いし。明日になったら筋肉痛になってそうな予感がひしひしするわ…」
「そりゃあ、日頃の運動不足だな。おまえ普段、全然体動かさないだろう。その点、俺はどこも何ともないぞ」
「この体力バカ」
そんなわけで、バスタイムを終えたあたしは、埃っぽさと引き換えに憂鬱の種を手に入れた。それでも、入れ替わりにバスルームへと消えていく元気そうな後ろ姿を恨む気持ちは湧かなかった。
今さら恨んだってもう遅いわよ。登山はすっかり思い出の中よ。あたしの読みが甘かったわ。疲れたら助けてもらおうってことは考えてても、こうなることまでは考えてなかったのよね…。とりあえず、筋肉痛の辛さも知らないような体力バカには、せいぜい後でマッサージでもさせてやるわ。…あ、そういえば、この列車って確かスパ施設があったんじゃなかったかしら。
だらだらと思考をこねくり回しつつ、お肌のお手入れを終えてから、あたしは壁の時計に目をやった。身支度をする時間を差っ引いても、夕食までにはまだ一時間ほど時間がある。今のうちに足だけでも解してもらおうかしら。あたしはそう考えて、夜のためのドレスを着てしまう前にと、スパのある車両へ向かった。でもそこでもまた、自分の読みの甘さを知ることになった。
「申し訳ございません、マドモアゼル。現在満員となっております。この上は、お食事後或いは明日にまたお越しいただけますか」
げげ…
チラリと見えたスパ内は、埃っぽいじいさんばあさんでごった返していた。もとよりそんなに人数がいるわけはないんだけど、どうしたってそう見える。このツアー、平均年齢高いものね。おまけにみんな、気だけは若いし。揃いも揃って山に登って、揃いも揃って沈没か。それにしたって、スパのイメージぶち壊しね。スパは老人病院じゃないんだけどなあ。そりゃあたしだって、筋肉痛治してもらいにきたんだけどさ。
しかたなしに部屋に戻ると、ヤムチャがバスルームから出てきていて、雫の落ちる前髪を掻き上げながら怪訝そうに訊いてきた。
「どこ行ってたんだ?」
「ちょっとスパにね。満員で追い返されちゃったけど」
「ふーん。途中で誰かに会ったか?」
「会ったっていうか、老人連中は大方いたわよ」
「…リザには会ったか?」
ああ、そういうこと。
「なんとか会わずに済んだわ」
あたしはちょっともったいぶって答えてやった。珍しく細かいこと訊いてくるなと思ったら、一応気にしてたのね。気にされたからどうってわけでもないけど。でもそうね、なかったことにされるよりはいいわ。あたしはなかったことにしたいけど、ヤムチャはそうしちゃダメなんだから。
「どうせ夕食の時に会うでしょうけどね。いいこと、あたしは無視するからね、今度言い寄られたら、あんた自分で何とかしなさいよ。次ちゃんと断れなかったら、その時は見捨てるからね」
「ああ。でも、さっきだって、ちゃんと断ったんだぞ」
「あれのどこが断れてたって言うのよ?」
「いや、本当に俺ははっきり断りを入れたんだ」
「ふうん。じゃあ、もっとはっきり断ってやるのね。とにかく、あたしはもうあの女と関わるのはご免だから!」
あたしが言い捨てると、ヤムチャは苦虫を噛み潰したような、文句を言いたそうな、何とも言えない渋面を作って、こんなことを訊いてきた。
「…………それで?今夜のタキシードは黒か白か?」
それであたしは窘める心境から、ちょっとおもしろいような気持ちになった。コーディネートしようっていうのね。やっぱり今日、妙に気が回るわね。
「それが何着るか、まだ全然決めてないのよ。なんか気乗りしなくって。たまにはあんたに選択権あげるわ。ピンクのとパープルのとグリーンのとブルーのと、どれがいい?」
普段ショッピングの時なんかにそうするのとは全然違う心境で、あたしはヤムチャに意見を訊いた。どれでもいいわ。あんたが何を選ぼうとも、一切文句言わずにそれを着てあげる。文句を言われたら、別のドレスも出したげる。
「気乗りしないわりには選択肢が多いな。ピンクと…あとなんだって?」
「ピンクとパープルとグリーンとブルー。あ、レモンイエローのと黒いのもすぐ出せるわね」
「…………。じゃあピンク…」
「ピンクね、オッケー。それならあんたは黒でも白でもどっちでもいいんじゃない。好きにすれば」
普段は楽しく感じられるけれど、気が乗らない時には一転して頭を悩ませる、着るもののチョイスという一仕事を、あたしはこうして終えた。たまにはいいわね、こういうのも。ロシアンルーレットみたいでさ。ただ一つ気をつけることがあるとすれば、あんまり着たくないものは一番最初に挙げないことね。はっきり言って、とても選んだようには思えないものね、今の言い方。一番最初に言ったやつを復唱しただけ、みたいな…
それでも、そういう意見をも尊重しちゃおうと思えるのが、気の乗らない時ってやつで。あたしはヤムチャの適当な言葉に従ってピンクのドレスを身につけ、ピンクのルージュを引いた。ピアスと、どうせ長い裾に隠れて見えない靴の色までを揃えてしまうと、ちょっと気分が晴れやかになった。気の乗らない時には明るい色。深層心理ではちゃんと選べてたってわけよ。だからきっと、一番最初に挙げたのよ。ヤムチャのいい加減さが問題にならなかった、珍しいケースだわ。
あたしはそれなりに満足した。最後にウェストのリボンを調節すると、すでに身支度を終えていたヤムチャが、腕組みしながら満足気に、でもこんなことを言った。
「うん。わりとシンプルだな」
「えー、そう?このお腹のとこについた大きなリボンがかわいいと思って買ったのに」
「ああ、うん。かわいい、かわいいよ。さて、それじゃ行くか」
…いい加減ね〜。
シンプルなのか、かわいいのか、どっちなのよ?何でもかんでも肯定してるんじゃないわよ。気は回っても、本質は変わらないわね。機嫌取りなんだから…
ふつふつと湧き起こってきた呆れを、あたしは口には出さなかった。ヤムチャに遠慮したからじゃない。そうする前に、別の事実が頭の中を占領したからだ。
…あら……?
ちょっと、何よ、この手?
あたしが一歩踏み出した直後、ヤムチャの左手が触れた。手でもなく、肩でもなく、腰に。そう、あたしに触れるヤムチャの手にではなく、その場所に触れてきたということに、あたしは驚いたのだ。
…まあ、嫌じゃないけど……でも、なんか変ね。変っていうか、妙な感じ。腰に手を回して歩くことなんか、まずないもの。みんながみんなそうしているダンスパーティの時ですら、『なんかやらしい』って言ってたのよ。一体どういう心境の変化かしら。
気を回すにしたって、あたしこんなに恋人同士だってことをアピールするエスコートの仕方、頼んだことないわよ。もし頼むとしても、肩を抱くところまでかな。腰に手を回すのって、ちょっと微妙よね。なんとなくくすぐったいし…さっき手を繋いだ時とは違って、そのままの意味で。なんかやらしいし…ええ、あたしはそう思ってるわ。そして、ヤムチャもそう思ってたはずなんだけど。
確かに、その片鱗はあった。一見自然にあたしの腰を引き寄せながらドアを開けたヤムチャだけど、その顔にはわずかに羞恥の跡があった。要するに、頬がちょっと赤いの。まあそれは、きっとあたしも人のこと言えないけど。
言えないけど……やっぱり言いたくなるわよね。
『何かあった?』ってさ。
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