部屋からレストラン・カーまでは、たったの数分。でもその短い時間を耐えきれずに、あたしは訊いてしまった。

「ねえヤムチャ、あんた一体どうしたの？」

「何が？」

ヤムチャはまったく平然としてそう訊き返してきた。…ように、あたしには見えた。

「これよ。この腰。…にある手」

「嫌か？」

「そうじゃないけど…」

そのおよそ見当違いな気遣いの言葉に、あたしは思わず言葉に詰まった。

…そうじゃないから、訊いてるのに。嫌だったら、訊く前に手抓ってるわよ。だけど、大歓迎できる心境ってわけでもなくて……なんか気恥しいのよね。周りの人に対してじゃなく、ヤムチャに対して。最初は周りに対して恥ずかしかったけど、それにはもう慣れたわ。途中何人かサービスマンと顔合わせたけど、みんな自然な目つきで見てた。確かに、エスコートの仕方としては、それほど特別なことでもないのよね。だけど、やっぱり違和感あるの、あたしとしては。だって、普段人前じゃしないもん、こういうこと。人がいなくたって、そんなにしないでしょ。するのはキスする時とかくらいで……そういうこと言ってキスされたらたまんないから、言わないでおくけど。そう、なんかそういうことしそうな妙な強気が漂ってるのよね、ヤムチャのやつ。

ちょっと話ズレたけど、つまり、あたしは今はそういう気分じゃなかったから、余計に恥ずかしいのだった。いちゃつきたい気分の時なら、そうでもないのかもしれないけどね。

「…………」

「…………」

ヤムチャは何も言わなかった。ものすごく物言いたげな目をしてはいたけど、何も言わなかった。だから、あたしも何も言わずに、少しだけ気分を切り替えてやった。まあ、ヤムチャがそういう気なら、あたしも少しは付き合ってやるわよ。嫌ってほど気が乗らないわけでもないんだから、おいおい気分を高めていくわ。

それもそんなに時間はかからないように思えた。パフェを食べてた時にはちょっとそんな感じになってたし、ドレスを着た時にも少しいい気分になった。お洒落とおいしいものって、絶好のストレス解消法よね。あとはお酒と…

やがて、レストラン・カーについた。依然として腰を抱かれたまま、あたしは車内を見回した。

「ふーん…まだ来てないのね。ねえヤムチャ、今夜はあんたが上座に座って」

「えっ、でも…」

「あの女と顔合わせたくないのよ。下座だとあっちのテーブル見なくて済むから。ねっ」

だから、あの女に会いさえしなければ、きっとそういう気分になれる。あたしはあの女とあんなことになっちゃったのが嫌なんであって、ああいうこと自体が嫌ってわけじゃないもの。…なかったもの。実際、さっきヤムチャとしてる時は、ちっとも思い出さなかったわ。ま、そりゃそうよね。あんなんでトラウマになって誰ともキスできなくなったりするなんて、バカバカし過ぎるわ。

「ああ…」

ヤムチャは今さら気がついたような顔をして、席を譲ってくれた。客観的に見れば、譲ったのはあたしだけど。でもそれで、おぼろげに形を取り始めていた可能性の一つが消えた。

ひょっとして、慰めてくれてるのかしら？なんて、思ってたんだけどね。さっき一緒にパフェを食べてくれたのは、きっとそうだったんだと思うの。その後手を繋いでくれたのも、それっぽいわよね。だから、今のもその延長……と言うにはちょっとらしくなさ過ぎるけど、でもだからこそ……とか考え始めてたんだけど、忘れてたんなら違うわね。それとも、あたしももう忘れたとでも思ったのかしら？

それはあるかもしれないわね。ヤムチャってば鳥頭だから。おまけに立ち直り早いし。ついでに女心もわかんない鈍ちんだから、あたしがもう何も気にしてないって思っちゃうのはありかも。こいつ時々『罪を憎んで人を憎まず』みたいなの地で行くことあるからなあ。…羨ましい性質よね（嫌みよ）。

でも、悪いけどあたしは無理だから、そういうの。無理じゃない時もあるけど、今日のことに関してはぜーったい無理！自分のされたことも、その原因となる事実も、絶対に許せない。あたしじゃなくたって、女なら誰だって許せないに決まってるわ。他人の男に色仕掛けするやつを許せる女なんて、いやしないわよ。挙句に相手を取り違えるとか、ありえないでしょ。それ、誰でもいいってことなんじゃないの？

そうね……誰でもいいってことなのかも。

「食事の前にまずはシャンパン頂こうかしら。甘めのやつをボトルで。前半の料理にはそれを合わせるわ。それでいい、ヤムチャ？」

「ああ、いいよ」

すでにリザのことなんて忘れ去ったようないつもののんき顔を見ながら、あたしは考え進めた。我ながら冷静に。客観的に。

そう、誰でもよかったのよ。きっと、ある程度のレベルを満たしている男なら。そう言えば、一番最初にリザを見た時に思ったっけ。盗ることを目的に手を出してきそうな女、って。時々街とかで逆ナンしてくる女と似たりね。

中身なんか見てないのよ。客観的に第一印象だけを見てみると、ヤムチャって実に手頃な男だもん。顔立ちはいいし、体つきはたくましいし、そこそこお洒落だし。おまけに普段は雰囲気も口調も柔らかくって、なんとなく手を出しやすそうっていうか…

うまくいかなくても、ダメージ受けなさそうだし。いかにも笑顔で断りそうに見えるもんね。実際そうだし。要するに軽いのよね。ロマンティックなことは言わないけどおべっかは言うし、それだって本当に上手いこと言うわけじゃないけど、軟派の一歩手前って感じ…

「シャンパンをお持ちしました。ヴーヴ・クリコ・ポンサルダンでございます。テイスティングをどうぞ」

「ええ、おいしいわ」

ストレス解消法の一つ、おいしいお酒。それを口にした時には、あたしの心は八割方落ち着いていた。忘れることはできないにしても、とりあえず脇に除けておくことならできそう。もちろん依然として不満はあるけど、そんなのはっきり言っていつものことだわ。たいして目新しい不満じゃないわよ。だからあたしは、いい意味で惰性的にグラスを取ることができた。とりあえずは、おいしい料理。そしてそれを彩るおいしいお酒を楽しみましょ。そう思ってグラスを掲げた。そしてシャンパンを口にしたところで、ヤムチャが言った。

「おまえの瞳に…乾杯」

ぶほぉっ！

直後、あたしはかなりの失態を犯した。飲みかけていたシャンパンをすっかり吹き出したのだ。未だ咽返る咳が治まらないうちに、ウェイターが飛んできた。

「大丈夫ですか、マドモアゼル」

「…ご、ごめんなさい。ちょっとお酒に咽ちゃって…」

「いいんですよ。それよりドレスにはかかっていませんか」

「ええ…」

てきぱきとテーブルクロスを替えているウェイターと、きれいに折りたたんだポケットチーフで前髪を拭いているヤムチャ。二人の動作が落ち着き、一人が視界から消えた後で、あたしは猛然ともう一人に抗議した。

「もう、ちょっと何よ、あんたどうしたの！？」

そこでおまえはないでしょとか、突っ込んでやる精神的余裕はなかった。といって、恥を掻かされたことを怒るつもりもなかった。

「ちょっと言ってみただけだよ」

「言ってみただけぇ？嘘つきなさいよ」

しれっと答えたヤムチャの顔を、あたしは思いっきり睨みつけた。

そんな言い訳が通用するわけないでしょ。あんた、そういうことちょっと言ってみちゃうようなキャラじゃないでしょ。さっきなんか『あーん』の一言を言うのでさえ、あんなに照れくさそうにしてたじゃないの。

時々紛らわしいことを言ったりすることはあるけど、そういういかにもな口説き文句とは無縁でしょ。無縁のはずでしょ。そんなの、誕生日の時でさえ言われたことないわよ。不自然過ぎるわよ。

「さっさと吐きなさい。あんた、何かあたしに言えないようなことやったんでしょ！」

そう、ヤムチャのこの一連の態度の理由は『疾しさ』よ。謂わばおべっかの変化形。他に考えようもないわよ。どうして今まで気がつかなかったのかしら。

「いや、そんな、まさか」

「じゃあされたのね。何されたの？キスされそうになった以外に、何をされたのよ！」

あたしは断定した。相手の名は敢えて伏せて。ええ、それ以外にあるわけないでしょ。迂闊だったわ。出会い頭にキスするわけもないんだから、その前に何かあったと考えて当然だったのに。あたし本当に動揺してたのね。

「そんな、されたってわけじゃ…」

「じゃあ、何言われたのよ！？」

一歩また一歩と、あたしはヤムチャを追い詰めていった。ヤムチャを吐かせるのなんて簡単よ。こいつ、結構しつこく言い渋るわりに、全然誤魔化さないからね。惚けたりはするんだけど、あったことをなかったとは言えないらしいのよね。中途半端な正直者よ。はっきり言うとバカよね。

「うっ…えーと……」

「…訊いてあげてるうちに言った方がいいわよ？」

「う……」

もうほとんどヤムチャは落ちかけていた。この唸り声が承諾の言葉になるのも時間の問題。後はシャンパンでも飲みながらプレッシャーをかけていればいい。そう思ってグラスに手を伸ばしかけた時、ふいに陽気な声が上から降ってきた。

「やあ、相変わらず元気なお嬢さんだ。でも、こんなところで喧嘩しちゃダメだよ。せっかくきれいなドレスを着てるんだから、優雅に楽しまなくちゃ」

――出たっ。

あたしは思わず身構えた。笑いながらテーブルの横に立っているエイハンにではなく、その隣にきっといる女に対して。

思った通りその隣にいたリザは、わざとらしい動きで口元に手を当ててくすりと笑うと、こともなげに言い放った。

「お二人ともこんばんは。ブルマさん、先ほどはごめんなさいね。さぞかしびっくりなさったことでしょうねえ」

「…ええ、とってもね」

ひくつく頬を抑えきれずに、あたしは答えた。あたしも平然と振舞ってやりたいけど、やっぱり無理。それどころか、相手をすることさえ苦痛だわ。この女、どういう神経してんの？なんでそんないけしゃあしゃあと口を利けるのよ？

「私も驚いたわ。女の子とあんなことをしたのは初めてだったから。でも、すぐに思ったわ。相手があなたみたいなかわいい子でよかったって」

「…何ですって？」

あたしは耳を疑った。どことなく引け腰だったヤムチャも、今でははっきりと眉を寄せていた。ただ一人、エイハンだけが軽やかに笑っていた。

「私もともと、あなたみたいなタイプって嫌いじゃないのね。きっとだから、占いもしたんだと思うわ。それも含めて、後でゆっくりお話しましょう。もうヤムチャくんに聞いたかもしれないけど、私とあなたで直にね」

「おまえの趣味の広さには感服するよ」

ぞわわわわ。

正直なところ、言ってることはよくわからない。それでも、そのことだけはわかった。背筋に怖気が走った。ちょっとあんた、まさかと思うけど女好き…！？

「ああ、あまり長話をしていると、シャンパンの泡が消えてしまうね。さ、リザ、私たちも食事にしよう。邪魔したね二人とも、また後でね」

「また後でお話しましょうね、ブルマさん、ヤムチャくん」

…いえ、両刀…！？

げげーーーーー…

びしっと言ってやるべきだった。後も何もないって。話しかけないでって。でも、そうすることができないくらいに、あたしは動揺していた。動揺っていうか……気分悪。あたし、そういうのダメ。もう絶対、理解できない世界。オカマとかだって気持ち悪いって思うけど、ああいうのはそれを越えてわけわかんない。そのわけわかんない世界に、あたしを引き摺り込まないでほしい。あたしはノーマルなのぉーーー！

「なんかすごい人だな……あれって、そういう意味だよな？」

あたしの背後へと去っていく変態兄妹を目で追いながら、シャンパングラス片手にヤムチャが呟いた。その呆れたような声音を耳にした瞬間、あたしの怒りが沸騰した。

…あんたは。自分だけじゃなく自分の彼女も狙われてるっていうのに、その態度ーーーーー！

「…部屋に戻るわ」

「え？」

怒鳴りつけたい気持ちを堪えて、席を立った。ヤムチャに遠慮したわけはない。でも、あの二人のいるところで言い合いをするのだけは、嫌だった。

「部屋でごはん食べるの！気分悪いから！」

そして、とっくり追い詰めてやるわ。言ってやりたいことに訊きたいこと、もうたっくさんあるんだから！