Trouble mystery tour Epi.11 byB
「ん…………」
――朝。
新しい朝。新たな一日の始まり。ブラインドの隙間から漏れてくる新鮮な朝の光。あたしは目を擦って、それを確かめた。
今日もいい天気…
前日までの自分がリセットされるこの瞬間。新たな自分を迎え入れるため大きな伸びを一回すると、何やら体の中から音がした――
「よう、おはよう」
「…………おはよ」
さらにその直後、ヤムチャと目が合った。片肘をついて寝転がった、まるで待ち構えていたかのように爽やかな笑顔を閃かせるその姿を視界の外に追いやって、ベッドを出た。――急く必要のない朝は、のんびり優雅にバスタイム。自分の体調と体のラインを確認して一日に備える、自分一人だけの時間。
「ん〜〜〜〜〜…」
強めのシャワーで眠気を追い出してから、あたしはゆっくりとバスタブに体を沈め、今度はおそるおそる伸びをした。
「うう…」
やっぱり体がボキボキ言うわ…
おまけに、昨夜にも増してだるいわ。それはもう、もんのすごおぉぉぉっくだるいわ。いつもとは違うだるさだわ。…いつもと同じだるさも混じってるけど。足のむくみも取れてないし。
やっぱりプロに頼まなきゃダメねえ。わかっていたはずのことを再確認して、あたしはバスルームを後にした。お次はドレッサーに向かって、お肌と髪のお手入れ。これから始まる一日に向けて自分を調整する大事な時間。まずは肌にたっぷり化粧水と美容液を含ませて…
それから、髪をブローするため体の向きを変えると、まるきり予想だにしなかった昨夜の名残が鏡の向こうに現れて、あたしの気持ちを掻き乱した。
「げっ。こんなところに跡が…」
首の後ろ、肩へと続くあたりに赤い跡。打ち身か虫さされ…には見えないわよね、どう見ても。…あんのバカ!今日はスパに行くって言ったのに…!
怒りに身を燃やしながら、身支度を整えた。もう心機一転を図るのは取りやめ!ここまで昨夜の爪痕が体に残ってちゃ無理だわ。
「ブルマ様、おはようございます。朝食をお持ちしました。お体の調子はいかがですか。昨日はスパのご利用をお断りして申し訳ありません。本日は空きがございますので、ご予約をいれておきましょうか」
「…ええ、頼むわ」
そのうちにバトラーが朝食を運んできた。あたしは背中を見せないよう注意しながら、彼を迎え入れた。気づいたのか気づかなかったのか、それをすら悟らせない態度で、バトラーは部屋を出て行った。それを確かめてテーブルにつき、さらに気持ちを切り替える一杯のコーヒーを飲んでも、あたしの怒りは治まらなかった。
だから、あたしと入れ替わりにバスルームに引っ込んでいたヤムチャが、やがて髪から水を滴らせながらテーブルへとやってきた時、それを無視しようとはあたしはもう思わず、すかさず席を立って当然の抗議をした。
「ちょっとヤムチャ!これ、一体どうしてくれんのよ!これじゃあ、首の出る服着られないじゃないの。まったく、油断も隙もないんだから!気づいたからまだいいものの、もし気づかないままだったら、とんだ恥を掻くところだったわよ!」
「何の話だ?」
「惚けないで、この首の後ろにつけた跡よ!」
「首の後ろ?」
こういう話をする場合によくあることに、ヤムチャは今ひとつ反応が薄かった。だから、あたしはことさらきつく睨みつけてやった。え?キスマーク程度で厳し過ぎる?何言ってんの。これでも足りないくらいよ。本当は、そういうことをしたってこと自体を怒ってやりたいところなんだから。『ちゃんとしたマッサージをする』って言ったくせに……蒸し返されたくないから、言わないけど。えっ?何の話かわからない?…いいの、わかんなくて。
「ああ、これか、ちょっと赤くなってるな、虫さされ…」
「じゃないわよ、バカ!」
でも、ヤムチャはわかんなきゃダメ!そんなの決まってんでしょ!
あたしの睨みをうまいことかわして背後に回ったヤムチャに、情状酌量の余地はなかった。何なのよ、そのわからなさは。こいつってば本ッ当、普段はカマトトぶってるわよね!そのくせ――
あたしはほとんど反射的に手を振り上げた。言ってもわかんないやつには、鉄拳制裁!どうせ痛くも痒くもないんでしょうけどね!たいしてすっきりしないだろうとは思いつつも取ったあたしの行動は、ものすごくすっきりしない事態を生んだ。
ヤムチャが受け止めたのだ。振り下ろしたあたしの腕を。両腕を頭上に掲げ交錯させて。それはもうがっちりと、まさに読んでいたと言わんばかりのタイミングで。これで、怒りが緩もうはずもなかった。
「かっわいっくなーい!」
「ひてて、ひて、ひたいって」
制裁の形なんて、もうどうでもよくなった。あたしは咄嗟にがら空きとなったヤムチャのほっぺたを掴んで、思いっきり引っ張ってやった。
「なーによ、その態度は。わかってるのかわかってないのか、どっちなのよ!この筋肉バカ!」
かわいくない態度を取った男は、でも、それに見合うかわいくないことを言いはしなかった。口で言うほどには痛くないことを証明するようにひきつった笑顔を見せながら、一応は頭を下げた。
「あー…うん、ごめん。…で、何が?」
そう、一応は。そして、それを隠そうともしない。あたしの怒りは、一瞬で呆れと諦めに変わった。
「アホー!」
かわいくない方が、まだしもマシだわ。ええ、ヤムチャは何にもわかっちゃいない、今のは単なる条件反射よ!根っからの筋肉バカね。わかっちゃいたけど、がっくりくるわね。
「ええい、もういいわ。話すだけ時間の無駄よ!でも今度またキスマークなんかつけたら、こんなもんじゃ済まないからね!」
苦虫を噛み潰しながら、あたしは再びテーブルについた。きょとんとしながらあたしに答えたヤムチャの言葉が、さらに苦虫を呼び寄せた。
「キスマーク?それそうか?そんなのいつつけたかな?」
「…昨夜、脱線しかかる前にでしょ。ったく…あれほどエッチなことしないでって言ったのに…」
苦虫は恨みという名の糸を吐いた。ヤムチャへの、そして引いては自分への恨みを。…昨夜からこればっかりね。嫌んなっちゃう…
溜め息を呑み込むあたしをよそに、ヤムチャは平然とした顔で席についた。…わかってないし、堪えてもいないわね。あたしがそう思った時、なおも平然とヤムチャは言った。
「そんなに嫌だったんなら、されそうになった時にもう一度言えばよかったんだよ。そしたらきっとやめてたぞ」
この言葉を聞いた時の、あたしの複雑な気持ちがわかるかしら?
…言う?そういうこと言う?この場面でそんなこと…そんな偉そうな口調で、それも笑顔で。
どこまで女に恥を掻かせれば…っていうか、なんでそんな自信満々なの!?この自信家――いいえ、お調子者!
すぐにも席を立ってしまいたい衝動を、あたしは抑え込んだ。ヤムチャが平気で座ってるんだもの、あたしだって座ってるわよ!
「コーヒーおかわり!それと、あんたちゃんと髪拭きなさいよ、水が垂れてるわよ!」
「はいはい…」
「『はい』は一回でいいの!」
「二つ頼まれたから二回なんだよ」
まー、調子いいこと!
負け惜しみを呑み込んだあたしをよそに、ヤムチャは平然とした顔でコーヒーを注ぎ始めた。あたしの分と、自分の分。それからやおら席を立ち、鼻歌混じりにタオルで髪を拭き始めたので、あたしはことさらそれを無視して、朝食を食べ始めた。
…嫌みったらしいわよね。コーヒー注いだんなら、さっさと食事始めなさいよ。冷めるでしょ。順番が違うでしょ!
なんて言ってやらないもん。そうしたのは、ヤムチャなんだから。
これ以上逆手に取られてたまりますか!


まずはファンデーションでカバー。それからスカーフを巻きつけて、っと。どっちもスパに行けば取らされちゃうだろうけど、しかたないわね。
「じゃ、あたしスパ行ってくるわね。そうね、3時間はかかると思うけど…あんたは何してる?」
朝食を終え、どうにか跡を取り繕った後で、あたしは訊いた。完全になんとなくだ。限りなく二次元的なこの列車の中で、本気で姿を見失うなんてことあるわけもないし、ヤムチャの行動を把握しておこうとまでの気持ちもなかった。
「そうだなあ…ラウンジ…にいるのもなんだし…バーにでも行ってようかな」
「こんな朝っぱらからバー?不健全ね〜」
すっかり堕落してるわね。思わず笑っちゃったあたしに対し、ヤムチャは快活に笑って言った。
「なに、健全に腕慣らしでもしているさ」
「ああ、ダーツね。あんたも好きね」
「好きっていうか…ジムがあればそこに行くんだけどなあ…」
かなり残念そうにその声は聞こえた。それであたしは意識を改めた。
そろそろ体が鈍ってきたか。この列車も、もう6日目だものね。毎日出かけているとはいえ、列車の中にいる時間の方が長いし、列車の中にいる時はほとんど体を動かさないから。歩く距離すらたいしてないものね。あたしなんかは昨日の登山で、しばらく動きたくない気持ちになってるけど。
「あんまり腕上げ過ぎないようにね。そんな遊びばかり上手くなるのもなんだから。それと、リザに捕まらないようにしなさいよ」
「はいはい」
二つの注文に対する、二つ返事。それを聞き終えてから、ドアを閉めた。重い体に鞭打ってロビーを歩きながら、あたしは考えを巡らせた。まさに対照的な自分たちの状態について――あたしは何車両か先のスパへ行くのすらかったるいほどだっていうのに、ヤムチャはジムに行きたいなんて言ってる…
まったく、これはおちおち休んでいられないわ。今日はどこにも行かないで昼寝でもしてようかなって思ってたけど、そんなことしてたら、また悪戯されちゃうじゃない。もう旅行の最初の頃からずーっと思ってたことだけど、ヤムチャのやつ、元気あり余ってるみたいだから…
愛を育むのに必要なものって、体力だったのね。なんていうかまあこの上なく現実的で、ロマンも何もないわね。そして今はその体力を注ぐ対象が他にはまったくないから、全部あたしに注がれてる。
こういうのも『独占してる』って言うのかしらね…


あ〜〜〜、天国…
ちょっかいを出される心配のない、的確にツボを突くプロのマッサージは、まさに至福の時間をあたしにくれた。
マッサージベッドに寝そべって一時間もした頃には、すっかり体が楽になっていた。肩も足も軽くなって、もう天にも昇る心地よ。そう、あたしが昇りたかったのは、こっちの天国だったのよねえ。
あまりの気持ちよさに、いつしか背中の跡はどうでもよくなっていた。スカーフはもちろん、塗りたくっていたファンデーションもクリームで流れてしまったけれど、もういいわ。少なくとも、このスパの中ではね。ここではそんなこと誰も気にしないわ。例え気にしたとしても、気にしてない振りしてくれるわよ。ここのサービスマンはみんな優秀だから。
初めに顔にタオルを乗せてくれた男性も、今背中を解してくれてる女性も、みーんなプロ。隣のベッドはフロストガラスの壁で遮られてて見えないし、あたしはただリラックスしながら身を任せていればいい…
フットバスに足を浸せばペパーミントの香りに癒され、オールハンドのボディマッサージを受ければ思わずうとうと夢見心地。続いてのボディスクラブは、ストロベリースクラブとココナツスクラブの二種類。もっちろんストロベリースクラブをチョイス。たちまち辺りがイチゴの甘い香りでいっぱいになる。その余香の中、顔にきゅうりを乗せてフェイシャル。そして仕上げにローズバス。
「はぁ…」
バラの花びらをたっぷり浮かべたローズバスに浸かりながら、あたしは深く賛嘆の息を漏らした。そうよ、これなのよ、あたしの求めていたものは。この身も心もとろけそうな至福のひととき。思わず寝ちゃいそうなリラックスタイム。あっちの『寝る』んじゃなくってね。
「あぁ……幸せ…」
天国での時間は、あっという間に過ぎた。やがて、天国を出ていく準備をしながら、あたしは考えた。…また明日も来ようかしら。ヤムチャ?いいのよ、あいつなんか放っておいて。あいつはあれで結構一人で時間を潰せるやつだし、だいたいあたしが相手してあげたからって、それで体を動かす遊びができるようになるってわけじゃないんだから。……できるかもしれないけど、お断りよ。それに、あたしがきれいになるのはヤムチャにとっても悪いことじゃないはずよ。彼女がきれいになって嫌がる彼氏なんて、いるわけないでしょ。
あたしはきれいになって、ヤムチャも後々にはその恩恵を受ける、っと。うん、何も問題なしね。よーし、そうしよっと!
「以上で施術は終わりです。お体の調子はいかがですか。どこか気になるところはありませんか」
「いいえ、何も。とっても気持ちよかったわ」
ピッカピカの体に衣服を纏って、あたしは名残惜しくもすっきりとした気持ちで、天国のドアへと向かった。気になるところなんてあるわけないわ。見てよ、この軽い足取り、脚線美。完全無欠のプロポーションが、これでまた完全に戻ったわ。
そう、あたしは忘れていたのだ、もうすっかりまるっきり。まあ、手にスカーフを持ってる時点で『まるっきり』ってことはなかったはずだけど、意識の外にいってしまっていたことは確かだった。
でも、やがては思い出すこととなった。ドアに近づいたと同時に後ろから声をかけられた、その後で。
「あらあら…どこからか色っぽい声が聞こえると思ったら、ブルマさんだったのね」
その瞬間、思わずあたしは固まった。声の主に覚えがなかったからじゃない。覚えがあり過ぎたからこそ固まったのだ。
「ま、こんなところにキスマークなんかつけちゃって。…色っぽいこと」
でも、次の瞬間には飛び退いた。意識と無意識の両方で飛び退いた。その小さく耳元にかけられた言葉と息と、首筋を撫でる指。すべてが気色悪い以外の何物でもなかった。
「い、いきなり何するのよ。しかもこんな人目のあるところで…恥知らず。誤解されたらどうしてくれんのよ。あたしにはそういう趣味はないのよっ」
あたしははっきり言ったつもりだ。動揺していたことは認めざるをえないけれど。…だって、怖気が走ったんだもの。『変態!』って叫んでやるには、悪寒がし過ぎていたんだもの…
「ああら、何を恥ずかしがることがあって?女同士のお遊びじゃないの」
リザは完全にあたしの態度を逆手に取って、唇の端に笑いを閃かせた。それから一瞬前にあたしのあの跡をなぞっていた指を、ゆっくりと唇に当てた。その行為の意味をあたしは咄嗟には図り切れずに、思わず無言で見入ってしまった。
…それって何?あたしに対するアプローチ?それともその跡をつけたヤムチャに対するアプローチ…?
「あなた、おもしろいわね。子どもなのか大人なのか、微妙な感じで素敵だわ。歳はおいくつなの?」
「あ、あんたに教える必要ないわよ」
「まあ、冷たいわねえ。キスまでした仲なのに」
ぎゃああああーーーーー!!
「ちょっとやめてよ!」
そういうこと人前で言うのは。何より思い出させるのは!
さすがにあたしは声を荒げた。でもリザはちっとも堪えた様子はなく、わざとらしく口元に手を当てて、笑って言った。
「あら、ごめんなさい。ちょっとはしたなかったわね。じゃあね、今度はあんなに突然じゃなくちゃんとゆっくりしましょうね」
ほーっほっほっほっほ…
そういう高笑いが、聞こえたような気がした。実際には、リザはそれは静かに優雅な仕種で、サービスマンに開けられたドアを潜って行ったのだけれど。それをただただ呆然と見送ってしまったあたしの頭の中に、ヤムチャの声が響いた。
『…目が怖かったんだよ…』
『怖いもの見たさみたいなもんだ』
『見たくなくても逸らせない』
『蛇に睨まれた蛙』
『蛇女』…
今や否も応もなく、あたしにはヤムチャの言っていた言葉の意味がわかってしまっていた。
…確かに怖かった。濃い目元に強い視線、ちょっとやそっとのことじゃ動じない、性質の悪い大人の余裕。まるで今にも取って食われそうな気がして…
嫌あああ!手練れのレズって最悪!最悪なのは勝手だけど、あたしをターゲットにしないで!あたしはノーマルなのぉーーー!
ううっ。一人で行動するんじゃなかった。と言いたいところだけど、ヤムチャがいれば安全ってわけでもないのよね。あいつだってきっとまだ狙われてるんだろうし…
カップルの男と女の両方を同時に相手にするなんて、すごい話ね。っていうか…
…あまり深く考えたくないわね、そのことに関しては。
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