Trouble mystery tour Epi.11 (4) byB
湖に着いた頃には、虹は消えてしまっていた。
それでも、エメラルドグリーンの水を湛えたシルビー湖は、息を呑むほど美しかった。クリアで静かな湖面に、周囲の風景が鏡のように映り込んでいる。雪を頂いたクロワ山。深い緑の針葉樹の森。南の湖畔に佇む、古城を思わせる白いホテル。その手前に広がる森にある、青い屋根のカヤック小屋。
「うっわぁー!」
「きっれぇー!」
「これはボート乗るっきゃないね!」
「エイハンさん、あの青いのがボート乗り場?」
「そうだよ。ボートじゃなくてカヤックだけどね」
「わーい、一番乗りぃ!」
「あっ、ミル、待てー!」
「ははは、元気だなあ」
「ほーんと、かわいらしいこと」
双子は『かわいらしい』で、あたしたちは『素敵』なわけね。今のその口調で言われるのなら、それでもまあいいんだけどね…
カヤック小屋へと続く、湖の畔の細い道。騒がしく走り出した双子たちをのんびりと追いかける兄妹の後を、できるだけ距離を取って歩きながら、あたしはもう一度周囲の風景に視線を飛ばした。
青い空、澄んだ湖、そして山々、それらが織り成す自然の景色は絵画のように美しく、雰囲気はロマンティック。それなのに…………どこか気分が上滑りしていくのはなんでなの。
「怖いよなぁ、実際」
ふと隣を歩いていたヤムチャが、呟くようにそう言った。今ではあたしはヤムチャから手を離し、完全に自分のペースで歩いていた。
「何がよ?」
「リザだよ。『蛇に睨まれた蛙』の気持ちになるっていうのがわかっただろう」
「そんなことないわよ。確かに、すっごく気分が悪くはなるけどね」
ことさらに語気を強めて、あたしは言った。別に、ヤムチャのリザ評に文句をつけるつもりはない。偏に気持ちの問題よ。今は一時的に離れてるだけなんだから。その蛇に呑まれないよう、テンション保たなくっちゃね。
「ふーん。じゃあさっき、手を叩いてやればよかったのに。ほら、リザが手を繋ごうとしてきた時さ。いつもやってるみたいにこう、ビシッとさ」
「嫌よ。あんな女殴ったら手が腐るわ」
「さいですか」
…やっぱりわかってないかもね。
っていうか、軽いわね。完全に他人事の態度だわ…
ちょっぴり恨めしさを感じながらも、あたしは歩き続けた。はっきり言ってそうしたい理由はなかったけど、そうしなければならない理由だけはしっかりとあったのだ。
「んも〜、ブルマさんたち、遅いですよぉ!」
「早くー!もうボート借りましたよ!」
「いちいち人のこと待ってないで、先に行ってりゃいいじゃないの」
「そーんなこと言って、どっか行っちゃうつもりでしょ!」
「ダメですよ、そのバスケットにはあたしたちの今日一日が詰まってるんですからねっ」
「はいはい。わかってるわよ」
そしてそれは、誰に責任を転化できるものでもなかった。そう、その『双子たちの今日一日』を預かったのは、他ならぬこのあたし。それにしてもこの子たち、中途半端にこっちのこと読んでくるわね。まったく、こういう自分たちの利益が絡んでくる時に限って、鋭くなるなんて。本性出ちゃってるってことかしら。
そんなわけで、双子たちの存在感は予想以上のものだった。湖面に浮かぶ二艘のカヤックへとあたしたちを誘導したのも、すでにカヤックの一艘に乗り込んでいるエイハンとリザではなく、双子だった。まあ、望むところの展開よね。そう思ったあたしは、かなり甘かった。
「は〜い、ヤムチャさんはこっちですよぉ」
「バスケット、倒れないように置いてくださいねえ」
「じゃ、乗りま〜す」
「きゃ〜、揺れるぅ」
「ちょっと!そのカヤック三人乗りでしょ。あんたたち二人ともヤムチャと一緒に乗ったら、あたしはどうすんのよ!」
あたしの怒声に双子は顔色一つ変えず、しれっと言い放った。
「もう一つの方に乗ればいいじゃないですかぁ」
「そっちも三人乗りですよ?」
「どうしてそうなるのよ!」
あたしが再び怒鳴っても、双子はきょとんとしたままだった。おかげで、あたしは皆まで言う羽目になった。
「あたしとヤムチャが一緒に乗るのが普通でしょ!あんたたちがどっちかあっちに移りなさいよ!」
「え〜。でもぉ」
「あたしたち、別行動しちゃダメって言われてるんだもん」
「アホか!こういうのはいいの!じゃあ何、あんたたちはお風呂もベッドもずーっといつも一緒なわけ!?」
「はい、一緒ですよ」
「だって、約束だもん」
「じゃあ、世の中のお約束ってやつも守りなさいよ!」
孤軍奮闘。その言葉が頭に浮かんだ。だって、エイハンもリザも何も言わないのよ。あたしたちには声をかけずに兄妹で乗り込んだところを見ると、一応はわかっているみたいなのに。なんだかおもしろそうな顔をしてあたしたちを見てるだけ。
双子よりもむしろ兄妹の態度に腹が立ちかけたところで、ヤムチャのその囁きが耳に入った。
「大丈夫、きみたちのパパやママには内緒にしておいてあげるから。それにパパやママよりブルマの方がずっと怖いと思わないかい?」
「それはそうなんですけどぉ」
「ヤムチャあんた、何てこと言うのよ!」
あたしはすかさずカヤックに飛び乗った。もう人数を気にしている場合じゃないわ。
「あたしが怖いって何よ。あたしは当たり前のことを言ってるだけでしょ!」
そもそも、どうしてあんたがそういうこと言うのよ。あんたはあたしと一緒に怒るべき立場でしょ!それがなんで双子の機嫌取ってんのよ。
「おい、本気で怒るなよ。俺は説得しようとして…」
「だったら、もっとマシなことを言いなさいよ!」
「わっ、ブルマさん、あんまり動かないで」
「ひゃあああ、揺れるぅ。怖ぁい」
「なら降りればいいでしょ!」
前門の虎、後門の狼。虎は猫被ってるし狼の牙は抜けかけてるけれど、あたしは今やそういう気分だった。ほんっと、揃いも揃ってしょうもないやつら。しょうもない者同士勝手にすれば!――そう言ってやりたいところだけど、それはダメよ。あたしは絶対あっちのカヤックには乗らないからね!
と、ここでその『あっちのカヤック』が動いた。
「はっはっは。まあまあ、そう喧嘩しないで。せっかくみんなで来たんだから、仲よく楽しまなくちゃ」
「ふふっ、そうね。戯れはそのくらいにして、そろそろ出発しましょう」
「花畑の場所は私しか知らないんだから、私たちが先に行くとしよう。さて、一番乗りしたい子は誰かな?」
「あっ、あたし。あたしが先に行くー!」
「ずるーい、あたしが先に行く〜」
それは、一見大人の態度だった。スマートと言ってもいい。何の角も立たせずに、双子たちの気を変えた。あたしには一言の誘いの言葉もなかった。でも、あたしは騙されなかった。
だって、あたし知ってるんだから。この男――エイハンが、物わかりのいい振りして、実は全然そうじゃないってこと。それは性懲りのない狸オヤジだってこと。だから、むしろ腹立つくらいよ。これ見よがしに大人ぶっちゃってさ。ここまで黙って見てたくせに…
やがて、余裕をふかすエイハンと妖艶な視線を流すリザの間に、ミルが収まった。すぐさまパドルが振り下ろされ、カヤックが流れ出した――
「花畑があるのは東側の岸だ。ヤムチャくん、ちゃんとついてきてくれよ」
「あ、ヤムチャさん。本ッ当ーに内緒にしてくださいね。バレたらお小遣い減らされちゃうんですからぁ。じゃあねリル、おっ先〜」
「じゃあねみなさん、また後で」
――三者三様の癪に障る言葉を残して。『ちゃんとついてこい』だなんて、一体誰に向かって言ってるのよ。ミルのやつ、この期に及んでまだ言うわけ?その『後』がなかったら、どんなにいいかしら。
いろいろと思うところがありながらも、あたしは黙って、一見颯爽と去っていく三人を見送った。睨みつけるか目を逸らすか、せめてそういうことをしてやりたかったけど、それもできなかった。なんとなく、殺がれちゃうの。気力とか気勢とか、そういうものが。あの視線を注がれると…
「じゃっ、あたしたちも行きましょうか。ヤムチャさん、がんばってねー。花畑が見えたら、追い越しちゃえ!」
「…なんであんたが仕切ってんのよ」
「ははは…」
そして、たぶんそれはヤムチャも同じだった。ゆっくりと刻まれた乾いた笑いに、あたしはそれを感じ取った。
どこか躊躇している自信。いつものヤムチャなら『よーし行くぞ』とか言ってはりきるに違いないのに。たいして本気出さなくたって、追い抜けるに決まってるのに。
なのに、そうはしない現実。いいえ、できない真実。そんなヤムチャの気持ちが、あたしにはわかった。
…どうにも、『相手にしたくない小物』なのよねえ、あの兄妹。


はっきり言ってこれっぽっちも乗り気になれずに、あたしは湖に乗り出した。それでも、やがて岸が遠ざかり、さらに先発のカヤックと声が届かない程度の距離ができると、ちょっとは気分がよくなってきた。
爽やかな日差しの中、のんびりと湖面を漕ぎ進むカヤック。360度の森と湖、遥か遠くに映える山の峰、湖面に映る木々、響き渡る鳥の囀り。ゆっくりと現れてはゆっくりと消えていく水面の波紋、そよそよと頬を撫でる風……
んー、気っ持ちい…
「あー、気っ持ちい〜い」
ふいに上がったその声が、高まりつつあったあたしの気分をぶち壊した。それであたしは、ことさら遠くへと流していた視線を正面に戻した。
カヤックの前部に座るあたしの前には、ゆっくりとでも力強く後部のパドルを操る男の姿。と、その手前に、それを遮る女の姿。
「ヤムチャさん、もっと真ん中の方行ってみて。真ん中」
「ああ、いいよ。真ん中だね」
頭をきょろきょろと動かして前と後ろを交互に見るリルと、その向こうに時々垣間見えるヤムチャとを同時に視界の中に収めて、あたしは軽く溜め息をついた。
邪魔ねえ、この子…
あれよね。あっちに一人乗せたのはよかったけど、こっちには乗ってほしくなかったわ。だいたい、なんで三人乗りなのよ、ここのカヤックは。普通、こういうところでは二人でしょ。
「あたし、ボートって大好き。公園デートの定番ですよね。ここってロケーションはいいし人は少ないし、シチュエーションとしては最高ですよね〜」
…そこまでわかってるなら、どきなさいよ。
図々しいわよね、本当に。そりゃ確かにこのカヤックは3人乗りだけど、あたしなら間に挟まれた時点で気づくわよ。前に座ってるあたしがわざわざ後ろを向いてる理由がわからないの?
…わからないんでしょうねえ。そもそも、もう一人の人間もわかっていないみたいだし。
再び溜め息を漏らしたあたしの前で、そのわかっていない者同士の会話は続いた。
「そうだね。俺はあまりしたことないけど。わざわざ公園にボート乗りになんて行かないからなあ」
「そうなんですかあ。あたしも、パパ以外の男の人とこういうところでボートに乗るのは初めてですよ」
それは、あたしの溜め息を重くするのに充分だった。
ったく、なんであんたたちがそんないい雰囲気になってんのよ。なーにが『パパ以外の男の人と乗ったの初めて』よ。そんなのあたしだって、他に一緒に乗ったことある男なんていないわよ!
あー、今ここにキールがいたらなあ。同じことやって見せつけて思い知らせてやれるのに…
その考えは、逆説的にあたしにその事実を思い知らせた。
そうなの。エイハンに対してそういうことをやる気には、絶対になれないの。リザだけじゃなく、エイハンの相手だって、かなりしたくない。だからこそ、この双子を引き摺り込んだんだってのに。…そう、あたしは自分が今のこの状況を作ったのだということを、忘れてはいなかった。そんなの重々承知の上――
「あの、あたしちょっと漕いでみたいんだけど、そっち行っていいですか?」
「ちょっと!さりげなく触るのやめなさいよ!」
その時、リルが言葉と共に立ち上がって、パドルを握るヤムチャの手を掴んだので、あたしは思わず声を上げた。
――なのに、やっぱりイラつくの。この子がヤムチャに対してどういう態度を取るかなんて、初めからわかってたはずなのに、どうしても見逃せない…
…いえ。そんなの当たり前よ。『あたしもやってみたい』とか言って相手の手を握るなんて、男に言い寄る時の典型的な常套手段じゃないの!
「パドルはもう一つあるんだから、それ使えばいいでしょ。ぶつからないようにもっと離れて、そうね、前に来て漕ぎなさい」
そう思いながらも、あたしは言ってあげた。わかっていたからだ。この子はませてはいるけれど、本当の本当に男を釣ろうとしているわけじゃない。…まったく、素質あり過ぎよね。一人だとそれがよくわかるわ。二人揃ってわやわややられてる時はまだマシだったのね…
「あーっ、ブルマさんたら、妬いてるぅ〜」
「何言ってんの、違うわよ!あたしは教えてあげてんの。誤解させないやり方ってやつをね。あんたにはまだわからないでしょうけどね、自分の彼氏にそうやって触られたりするのって、すっごく気になるものなのよ!」
「それを妬いてるって言うんじゃないですか〜」
「違うってば!あーもういいわよ、勝手にしなさい!」
でもすぐに匙を投げ出した。ちょっと教育してやろうと思ったけど、やめたわ。せっかく親切に言ってあげたのにそんな言われ方されたんじゃ、割に合わないわよ。謂われのない横言を受けてまで教育してやるような義理は、あたしにはないのよ。
「ははは、そうだな、じゃあリルちゃんはブルマと代わって。リルちゃんは前、俺は後ろ、二人で漕ごう。何も難しいことはないから、まずは好きなようにやってごらん」
ここで、ようやくヤムチャが口を出した。まったく、遅いっつーの。そして、その笑顔はなんなのよ?
何がそんなに楽しいのよ。さっきから妙に軽いんだから。そりゃヤムチャが軽いのなんて、いつものことだけどさ…
そう思いながら、あたしは腰を上げた。リルがこちらにくる素振りを見せたからだ。もう、ヤムチャの言うことならあっさりきくんだから…
「ゆっくりでいいからね。まっすぐ進まなかったら、後ろで修正するから」
リルと場所を交代すると、さっそく後ろから声が飛んできた。間髪入れず、前席のリルが声を上げた。
「わー、ヤムチャさんってば、やっさし〜い。ありがとうございまーす」
「あっと、ぶつかると危ないから、他のカヤックには近づかないようにしようね」
「はーい」
む……
二人の声に挟まれて、あたしは思わず眉を顰めた。リルは前席、ヤムチャは後席、二人とも手にパドルを持ち、体は前に向けて、すっかりカヤック漕ぎの態勢だ。それを見て、あたしは『あたしもやりたい』とは思わなかった。こういうのはやるよりも、やってもらう方があたしは好き。男が漕いでるのを見るのがいいの。かといって、それができないことを不満に思っているわけでも、今はなかった。そうじゃなくって――
「じゃ、行っきまーす。えいっ!と…えいっ!」
「そうそう、その調子。なかなか上手だよ。大きく漕がないでまっすぐ漕ぐようにすると、もっといいよ」
「はぁい」
前と後ろから聞こえてくる二つの水音。あたしを間に挟んで飛び交う声。なんかこれじゃ…
…まるで、あたしがお邪魔虫みたいじゃないの。
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