Trouble mystery tour (8) byB
白い水煙の中から青い空の下へ。固い胸の中から硬い橋の上へ。
再び足を着けた橋の袂で、グランニエールフォールズを眼下に望んで、あたしは考えていた。
…なんかもう、わけわかんない。
自分が今、一体どういう気持ちでいるのか。それがさっぱりわかんない。旅行気分は続いているのか。…正直言って、続いているとは思えない。だけど、すっかりなくなったってわけでもない。――あたしはヤムチャと一緒にいたいのか。…いたくないってわけじゃない。でも、いたいってすごく思ってるわけでもない。だって、こんなことされて、気分が出るわけないでしょ。殺がれたというよりは、…なんか醒めた。急にがっくりきたみたいな…当たり前よね。あんな怖い思いした後で、平然としていられるわけがないわよ。
これからどうしようかな。行先というよりは途方を失いながら滝から目を離した時、ヤムチャが言った。
「さて、どうする?茶でも飲むか?」
その言葉にではなく態度にあたしは驚いて、思わず立ち竦んでしまった。
「あ。あたし、その…ちょっと化粧直し…」
「ん?ああ、はいはい」
なかなかに強張った笑顔。その名残を、飛び込んだレストハウスのラバトリーで、あたしは目にした。鏡越しに自分の顔色を確かめてから、リップグロスを塗りつけた。
あー、びっくりした。
なんか、さらっと手握ってくるもんだから、一瞬固まっちゃった。おっかしいわねえ。手なんか、さっきだって握ってたのに。っていうか、どうして今さら手くらいで、驚いてるのかしら。…冷静になり過ぎてるから、どっきりしちゃったのかしらね。
そうかもしれないわね。なんていうか、振り幅が大き過ぎんのよ。…いえ、手を握るのなんか、本来なんでもないことなんだけど。さっきのあれがねー…尾を引いてるっていうか…………今思い返すと、そんなに怖くなかったような気はするんだけどな。ヤムチャも言ってたけど、一種のフリーフォールよね、あれって。バンジージャンプにも似てるけど、反動がないものね。あんなにいきなりじゃなかったら、きっともっと平気だったと思うわ。
だからって、あんなことやるやつの気がしれない、その気持ちは変わらないけど。気分出すにしたって、一体どういうやり方なのよ。あんな危ないこと、今まで一度もやらなかったのに…
――変な気の乗り方。
あたしはそう結論づけた。なんか全然わかんないけど、もういいわ。すっきりしない分は、ショッピングでもして気分晴らそっと。当然、ヤムチャにも付き合ってもらうわよ。あいつはそのための要員なんだから。それならレッチェルに戻った方がいいかしら。あっちの方が街大きいし。街並みもきれいよね。夕陽を見ながらカクテルを飲む気にはなれないけど、夕陽の射す街並みを一緒に歩くのならいいわ。手を繋いでくれるみたいだから。
うん、決めた。そうしよっと。
醒めた気分に日常心と旅心を少しずつ注ぎ込んで、レストハウスを後にした。そういえば、お茶飲もうとか言ってたわね、さっき。珍しいこともあるものね。でもそうね、あたしも小腹空いたな。…ストロベリーロマノフ、食べたいわね。レッチェルと全然関係ないけど。
澄みきった青い空。消え入りそうに流れる薄い雲。さっきホテルから見たものとは少し違った異国の空の下を、あたしは好きなもののことを考えながら歩いて行った。そして橋の欄干に背を凭れているヤムチャを見て、こう思った。
あーあ、ヤムチャまで捕まっちゃったか。
傍らに、例の女の子2人組の後姿が見えたからだ。本当に無駄に絡んでくるわね。話しかけるんなら、せめてホテルの中にすればいいのに。
ただ、そう思った。…わけじゃなかった。
まずこの時点で、眉を軽く顰めた。…だってあの子たち、あまりいい感じしないんだもの。なんとなく、神経が逆撫でされるのよ。無邪気な振りして、失礼なことさらっとやってくれるしさ。はっきり言って、好かないタイプよ。
それでもあたしは歩き続けた。女の子たちの相手をしてやるためではなかった。そんなのわかりきったことよ。あたしはこれから、レッチェルの街にショッピングに行くんだから。あたしの荷物持ちを連れてね。だから、あんな子どもの相手をしている暇はないのよ。そうじゃなくても、相手をするつもりはないけど。ヤムチャ一人で充分でしょ。
そう思っていた。…その時までは。橋の袂に近づいて、充分過ぎるヤムチャの対応を目にするまでは。
ヤムチャはもう欄干には身を凭れずに、あたしのよく知っている顔を見せていた。相槌を打つ仕種。でもそれは、最も知っているものではなかった。一見それらしい顔をして場を流しているものではなかった。
…何その、締まりのない笑顔。
何がそんなに嬉しいわけ。頬まで赤らめちゃってさ。お世辞言われて浮かれてんじゃないわよ。
あたしはすでに苦虫を数匹噛み潰していた。それでもやっぱり歩き続けた。だってあの子たち、思いっきり夢見てるんだもの。ご多分に漏れず、ヤムチャのことまるっきり買い被ってるんだもの。いつもと違うのは、だからどうこうしようというわけじゃないらしいっていうこと。単に年上の男が珍しいだけでしょ。学校の先生に懐いたりするのと同じよ。
だけど、最後には足を止めた。
ヤムチャがあたしに顔を向けて、片手を振った後で。それにつられるように女の子たちがあたしに視線を向けた時に。
…なんで?
なんであの子たち、いなくならないわけ?さっきあたしと話した時は、ちゃんと席を外したじゃない。なのにどうして、今は居座ってるのよ。
あたしは考えていたわけではなかった。理由なんかわかりきってた。
どうせヤムチャが、無駄に愛想を振りまいたんでしょうよ。
あいつってば、いっつもそうなんだから。すぐ他人にいい顔するんだから。すぐ他人に気を許しちゃうんだから。あんな嬉しそうな顔、あたしの前じゃまだ一度だってしてないくせに。
あたしは視界からヤムチャと女の子たちを消した。耳ではなく脳裏に、女の子たちの声が響いた。
『かっこいいですよねー、彼氏さん』
『いいなー、あたしもあんな彼氏がほし〜い!』
あげるわよ。あんなの、熨斗つけてあげるわよ。同レベルでお似合いよ。心ゆくまで付き合って、そして知るがいいわ。
現実の姿ってやつを。そんないい男、どこにもいないってことをね!
一番近くに自分の足音。少し遠くに滝の水音。その間に近づいてくる小走りの足音を耳にしながら、あたしは歩いていた。だから、やがてその足音と共に声が後ろから聞こえてきた時、すぐさま用意していた態度を返してやった。
「おいブルマ、どこへ行くんだ」
「あんたのいないところへよ。消えてあげるわよ。お邪魔そうだからね!」
思いっきり皮肉を篭めて笑ってやった。な〜にが『どこへ行くんだ』よ!惚けるのもいい加減にしなさいよ。バッカにしてぇ!別にあたしは一人だって平気なんだから。無理して付き合ってもらわなくっても結構よ。好きにやってればいいんだわ。
いつもならここで終わる。追いかけてきても、こなくても。だからあたしはもう何も言わなかった。ただいつものように、黙って前へと歩き続けた。どうやら今日は追いかけることにしたらしいヤムチャの態度は、いつもとは少し違っていた。
「ブルマ、ちゃんと話を――」
いつもの台詞を言う声が、いつもよりずっと強かった。ヤムチャにしては強気なことに、肩に手を伸ばしてもきた。だから、あたしは手を払い様、いつもなら言わなくてもいい台詞をわざわざ口にした。
「うるさいわね。放っといてよ!」
どうせ結果は同じなんだから。余計な手間かけさせないでほしいわね。…あーもう、イチゴなんか食べるような気分じゃ全ッ然なくなったわ。ヤムチャのバカ!!
そう、心の中で叫んだ時だった。後ろ手を引っ張られた。当然のこととして、あたしは足を止めた。そしてもう声は上げずに、ただ反射的に自分の左手を掴む男の手に目を落とした。
…何、こいつ。
こんなにしつこく食い下がってくること、今までなかったのに。一体何言われたのか知らないけど、あんまり調子に乗らないでほしいわね!
きっとこれはあたしの癖なんだと思う。あたしは考え終わる前に、掴まれていなかった方の手を閃かせていた。だから、ヤムチャがそれをも掴み上げたのは、あたしが心の中で叫び終えたのとほとんど同時だった。当然文句を言う暇はなくあたしは両手を拘束されて、そしてそのまましてやられた。
――これがしてやられたのじゃなくて、何なのよ。
どうしてここでキスするのよ!それも、色香で惑わせるとか、そんなのですらないのよ。ただもう、してるだけって感じよ。両手は掴み上げられたままだし。引っ張られた時、手首痛かったし。何なのよこれは。
手首がこんなに痛くなかったら、絶対に口を噛んでやってたわ!そう思ったのは、唇を離された後だった。思っている間に、ヤムチャが先に口を開いた。
「少し落ち着けよ。みっともないぞ」
そして、いけしゃあしゃあと言い放った。あたしは完全に逆撫でされて、その言葉を無視してやった。
「みっともない!?それはあんたでしょ。あんな子どものご機嫌取って――」
…こんなわけのわからないことして。
あたしは言葉を呑み込んだわけではない。ヤムチャに掻き消されたのだ。ヤムチャの、言葉ではなく雰囲気に。なんだかいつもと違う、違い過ぎる雰囲気に。
「あのな。いい加減にしろよ。あの子たちの機嫌取ってるなら、あの子たちの前でこんなことするわけないだろうが」
どこまでもきっぱりとしたその態度に。いつまでも弱まらないその声に。
「そ、それとこれとは話が――」
「違うか?」
そして最後に、はっきりと掻き消された。 それで、あたしは口を噤んだ。でもこの時は、この時だけは絶対に、ヤムチャの雰囲気に負けたわけではなかった。
だって…………何なのよ、それは。
そんなことのためにキスしたの!?ただ見せつけるためだけにキスしたの?何なのよ、それは。そんなのって…
この文句は絶対に口にしたくなかった。どうしてあたしがそんなこと言わなくちゃならないの。どうしてそんな弱い立場にならなくちゃいけないの?全部ヤムチャが悪いのに。あたしは何にも悪くないのに…
あたしは泣きそうになっていたわけではなかった。でも、怒ることもできなかった。そしたら、ヤムチャがまたキスしてきた。両手はまだ掴んだままで。強引にあたしの体を引き寄せたままで。どうしてそんなことをするのか。それが今度ははっきりと、あたしにはわかった。
さっきみたいに荒っぽくなかったから。いつもみたいに優しかったから。…こいつ、誤魔化そうとしてる。言葉ではなく態度で、機嫌を取ろうとしてる。キスで誤魔化されたことなんて、今まで一度だってない。誤魔化そうとされたことだってない。でもわかった。
ずるいやり方よね。一体どこで覚えたのかしら。そんなこと教えそうなやつなんて、いないと思うんだけど。むしろヤムチャこそが、教えそうな性格だと思うわ。知ってさえいたら、だけど。…本当に、どこで覚えたのかしら。
今度はあたしは、してやられはしなかった。されてはいるけれど、やられはしなかった。そしてその間中ずっと、ヤムチャはあたしの手を掴み続けた。二度目の息継ぎの後にまた続きがやってきた時、あたしの心の中に小さいとは言い切れない呆れが湧いてきた。
本当にしつこいわね。一体どうなってるのかしら。色香で誤魔化すにしたって、普通はこういう持久戦じゃないと思うんだけど。何考えてんのかしら。あたしが根負けするとでも思ってるの?こんなことで誤魔化されるとでも?今さらキスなんかどんなにされたって、たいして感動しないわよ。
実際、あたしは感動なんてこれっぽっちもしていなかった。意外ではあったけど、それだけだった。それでも結局、折れてあげることにした。
だって、ヤムチャはあたしの機嫌取ってるんだもの。他の誰でもなく、あたしの…
どうして伝わったのかはわからない。とにかく、ヤムチャは手を離してくれた。引き寄せられていた力がなくなって、自然とあたしの体も離れた。軽く息をついた時、今度はヤムチャの方から近づいてきた。
そして少しだけあたしの腰を取って、少しだけあたしの顔を傾げて、またキスしてきた。あたしはまったく何も考えずに、ただ目を閉じた。なんとなくわかったから。これはただのキスだってことが。そして、そのただのキスは、今されたキスの中で一番甘かった。これをさっきやられていたら、あたしは負けちゃってたかもしれない。それくらい甘かった。よく人前でこんなことできるわね。そう思うくらい甘かった。
だからヤムチャが再び体を離した時、あたしはそれを口にしてやった。
「…なんかあんた、気が大きくなってない?」
ヤムチャの態度は、この上なく乱暴なものだった。
「『旅の恥は掻き捨て』だろ」
余韻も何もまったくなく、淡々とそう言った。一瞬にして、あたしの取られた機嫌はどこかへ飛んで行った。
「はっ、恥とは何よ、恥とは!!」
どうしてあたしとキスすることが恥なのよ!!自分からしたくせに!それも無理矢理したくせに!
ヤムチャはまた機嫌を取りにかかった。いつものようにあたしの肩や背中を叩いたり撫でたりしながら、いつもとは違う台詞を言った。
「さ、行くぞ」
「…どこに?」
「どこでもいいから」
あたしは軽く狐に抓まれて、あたしの背を押すヤムチャの顔を見た。ちらりと一瞥しただけで、すぐに理由がわかった。
一見何事もなかったかのような顔をしているヤムチャの頬は、はっきりと赤かった。…な〜にが『旅の恥は掻き捨て』よ。全然捨てられてないじゃないの。
どうやら結構な無理をしていたみたい。そうよね。ちょっと気が大きくなったくらいで、平然とあんなことされて堪りますか。そんなの生意気もいいところよ。あんたはヤムチャなんだから。
あたしはすっかり心を軽くして、今日これからのことを考えた。すでにいくつか決まっていることはあった。まずは、もう手を繋いでくれる気はないらしい(しょうもないやつね、こいつは。今この流れで手を繋がなくてどうするのよね)隣の男を、付き合わせること。それからやっぱりストロベリーロマノフを食べること。となれば、レッチェルか。そうね、もうグランニエールフォールズは充分に堪能したし。
…あ。
あたしは一つだけ、気になっていたことを思い出した。再考していると、ヤムチャがぽつりと呟いた。
「…なんだよ」
どことなくぶっきらぼうなその口調。その理由はわかっていたので(照れ隠しよ、きっと)、あたしは何を気にすることもなく、そのことを口にした。
「ん〜…お願いがあるんだけど。さっきのあれ、最後にもう一回やってくれない?」
「さっきのって何だよ」
「フリーフォールよ、フリーフォール」
「フリーフォール?」
「橋から飛び降りたやつよ。きっと二回目は平気だと思うのよね」
そう、たぶんさっきは、怖かったというよりびっくりしちゃったのよ。だって、いきなりなんだもの。あんなにいきなりじゃ、心の準備はおろか、体の準備だってできないわ。まったくどこにも掴まってなかったのよ、あたし。そんなんじゃ怖いに決まって――
…怖くなんかないけど。でも、今度はちゃんと掴まらせてもらうわ。だって、そういうものだし。
それに、命綱やガードつけてるより、抱かれてる方が断然気持ちいいからね。
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