Trouble mystery tour (9) byB
ホテルから徒歩10分ほどの距離にある、レッチェルの高級ショッピング街。そこにある眺めの素敵なガーデンカフェで、あたしは予定を一つ変更することを余儀なくされた。
「まずは『ドンドゥルマのイチゴ添え』…かな」
ストロベリーロマノフがメニューに乗っていなかったからだ。しょうがないわよね。ないものはないのよ。ま、この程度の不便さは、旅の情緒の一つよ。
そんなわけであたしは常の大好物を諦め、この際日常心を捨てて、潔く旅行気分を楽しむことにした。
「飲み物どうしようかな。『イエニ・ラク』、『アルテンバシ・ラク』…アルコール50%か。さっすが強いわね〜」
『ラク』っていうのは、干し葡萄から作られる蒸留酒。レッチェルでは一番なじみの深いお酒よ。水割りがポピュラーだけど、そうするとお酒の色が白く濁っちゃう。洗練度の点では微妙だけど、それっぽくはあるわよね。
とはいえあたしは、それを頼もうと思っていたわけではなかった。それほどお酒が飲みたい気分ではなかったし、第一、デザートに合わないわ。なんとなくメニューを読み上げていただけよ。そういうことってするわよね。
で、ヤムチャはというと、なんとなくとは言い切れない強い口調で、あたしに突っかかってきた。
「酒はやめとけ、酒は。さっきさんざん酔っただろ」
「もうすっかり醒めたわよ」
あたしは軽くそれに答えた。本当のことよ。最後にお酒を飲んでからだいぶ時間が経ったし、何よりあの逆フリーフォールで完全に醒まされちゃったわ。あ、別に文句を言ってるわけじゃないわよ。
「ダメだ」
「ケチ」
「何と言われようとダメだ」
ヤムチャの声はますます強くなった。ほとんど間を置かずに被さる返事。えっらそうに。この旅行のお金、あたしが払ってるのに。もちろんこのカフェの代金だって払うわよ。だから、ヤムチャがそういうこと言う権利なんてないのよ。
なんてことを言うつもりは、あたしにはなかった。本気でそんなこと思ってるわけじゃないから。…腹が立っている時なら、思っちゃうかもしれないけど。今は全然そういう気持ちにはならなかった。ヤムチャの強気が増していく様を、あたしはむしろ楽しい気分で見ていた。カフェに入るずっと前から、あたしはあたしの旅行気分を楽しんでいた。
不機嫌を伴わない、どことなく得意気な顰めっ面。それを見ながらあたしはメニューを閉じて、その言葉を口にした。
「じゃあね。キスしてくれたらやめたげる」
今度はヤムチャはすぐには言葉を返さなかった。目を丸くして、表情を崩した。やがて何とも言えない口調で呟いた。
「ここでか…」
「こ・こ・で」
思いっきり強く返してやると、ヤムチャはそれはそれはわざとらしい溜息をついた。でも、あたしは腹は全然立たなかった。だって、言ってみただけだもの。そして、ヤムチャがどう出てくるのかもわかっていた。
「今だけだぞ」
眉を上げながらそう言って、態度が悪いわりには即行でキスしてきた。雰囲気がないなんてものじゃないけど、あたしは気にはならなかった。そんなもの求めてないから。ただただ心の中で、繰り返された現実を楽しんでいた。
さっきも同じようなこと言ってたのよね。一回目は、グランニエールフォールズから帰ってくるバスの中よ。よくやるわよね、こいつ。人気が少ないとはいえさ。そこまで弱くなっちゃうんなら、あんなことやらなきゃよかったのに。掻き捨てどころか、上塗りしてるわよね。
おもしろくっていいけど。


ドンドゥルマを伸ばし伸ばし食べながら、ゆっくりとカフェでの時間を過ごした。『あーん』ってやつは、やらなかった。あれ、もう飽きちゃった。それに、もっと楽しいこと見つけたしね。
カフェを出た頃には、時刻は夕刻になっていた。でもここは日が長いから、まだまだ空は明るい。『夕陽の射す街並みを一緒に歩く』…ちょっと無理かもしれないわね。夕陽が出てくるまで時間を潰す?でももう、そんなにすごくショッピングしたいっていうわけじゃないしなあ。どっちかっていうと、ゆっくりしたい気分。それにショッピングしてる時って、ヤムチャは付き合ってはくれるけど、ノリはあんまりよくないから。そんな風に時間を使っちゃうなんて、もったいないわよね。それにやっぱり、手は繋いでくれなさそうだし。
とりあえず少し歩いて帰ろっと。そう思って自分の短い影を踏もうとした時、ふいにあたしは思い出した。
「そうだわ。『レチル』に行かなきゃ。母さんのお土産」
長い長いお土産リストの中にあった、その一品を。レッチェルにある『レチル』本店でしかおそらく手に入らない、拘りのジュエリーを。
「なんだ、もう土産買うのか」
「頼まれてるものがあるのよ」
それも山ほど。母さんも遠慮ってものを知らないんだから。プーアルほど謙虚になれとは言わないけどさ。
陽を浴びてオレンジ色に輝く石畳み。夕陽が射していなくても充分に美しいその道を一区画歩くと、やがて『レチル』が見えてきた。西の都にある派手派手しいジュエリーショップとは全然違う、落ち着いた煉瓦造りの建物。うん、いかにも老舗の本店って感じね。そう思いながら、ショップの自動ドアを潜った。ヤムチャは文句を言わずに、というよりははっきりいって存在感を発することなく、あたしの半歩後ろをついてきた。
「いらっしゃいませ」
「ブローチがほしいの。マルヴァージアの作品がいいんだけど、ある?」
「現在三点ございます。奥に保管してありますので、少々お待ち下さい」
さすが本店。ほとんど一瞬で話がついたわ。
こうしてあたしは、少しだけ待たされることになった。でも、手持無沙汰にはならなかった。あたしに答えた店員が、すぐに言葉を続けたからだ。
「当店には、オリジナルのレッチェル石で作られたアミュレットアクセサリーがございます。どうぞごらんになってお待ちください」
さすが本店。そつがないわね。
実のところ、あたしは宝石にはほとんど興味がない。別に嫌いってわけじゃないけど、アクセサリー自体をあまりつけないから。指輪はメカを作る時に邪魔。ブレスレットとネックレスは時々つけるけど、コレクションするほど好きってわけでもない。いつもつけてるのはピアスくらいね。『レチル』で一番有名なのはブローチだけど、ブローチはネックレスよりもっとつけない。ドレスアップした時だけよ。たいていは母さんに借りて済ませちゃってるわ。
だから、あたしは完全に旅行気分のみで店員の言葉に従った。オリジナルなら、一点くらい買ってもいいわね。そんな気持ちで。
そのコーナーへ行くと、最初に対応したのとは違う店員が、にこやかに説明を始めた。
「最も高級なのはこちらのブルーの『ピュアリーズ』で、沈着冷静・穏やかな心という意味があります。イエローの『レリーズ』は知性、成功…」
最後まで聞くまでもなく、あたしは決めていた。ブルーが一番きれいだわ。でも一応訊いてみた。
「ねえ、どれがいいと思う?」
今では完全に存在を消していた背後の男に。ヤムチャは淡々とあたしに答えた。
「おとなしくなるやつ」
「…何よ、その言い方は」
「さてな」
最後の台詞は、あからさまにあたしから目を逸らして言っていた。まったく、どういう態度なのよ、それは。
ジュエリーショップで彼女に向かってそんなこと言う男いないわよ。少しはTPOってものを考えなさいよ。かわいくないとか失礼とかいう以前の問題よ。
目の前の店員はというと、さすが名店中の名店勤務らしく、少しも笑顔を崩していなかった。だから、あたしはそのまま自分の好みを押し通すことにした。
「じゃあブルーのにするわ。そうね、…どれにしようかしら。ブローチが一番きれいだけど…」
最も豪華で見栄えのする、石の大きなブローチ。石は小さいけど、使い回せそうなシンプルなデザインのピアス。あたしは迷うというよりは、再考していた。旅の思い出と実利性。するとヤムチャが、後ろからまたもや淡々と口を挟んできた。
「おまえ、ブローチなんかほとんどつけないだろ」
「そうよね。じゃあ、ピアスにするわ。ここでつけていってもいいかしら」
「よろしいですよ」
予想通りの返答をする慇懃な店員からピアスを受け取った。その時その後ろから別の店員がやってきた。
「お待たせいたしました。こちらの三点が、マルヴァージアの作品では現在手に入る唯一のものとなります」
さりげなくつけ足されたその一言と、三点の石の色の違いが、あたしの決断を容易なものにさせた。
「大きさはあまり変わらないのね。じゃあ、このピンクのやつ」
「かしこまりました」
こうして思いのほかスムーズに、『レチル』での買い物は終わった。慇懃な店員の見送りを受けて自動ドアを潜ると、そこにはさっきまでとほとんど変わらない風景があった。オレンジ色の石畳み。青い空に上る太陽。それにも関わらず、あたしはヤムチャに言ってみた。
「ねえ、手繋いで」
そんなに悪くない気分だったから。
結果的には充分に付き合ってもらったわ。いつもは意見らしい意見はほとんど言わないんだから。いつもに比べれば、結構一緒に買い物したっていう感じがするわ。
甘いかしらね。でも、いいんじゃないかしら。
これは旅行なんだから。そして旅行っていうのは、気分が一番大事だと、あたしは思うわ。


あたしたちは手を繋いでホテルへと戻った。手を繋いでさほど人気のないロビーを抜けて、手を繋いでエレベーターを上がって、手を繋いで部屋へ入って、手を離して各々着替えた。服が少し埃っぽかったから。
夕べのドレスは、グラデーションがかった夕陽色のホルターチューブロングドレス。一人であろうとなかろうと、今夜はこれにするって決めてたの。やっぱり初日が肝心よ。初志貫徹できるような心境でよかったわ。
今度は手を繋がずに部屋を出た。最上階のレストランへ向かうべくエレベーターを待っていると、例の女の子二人組に掴まった。
「こんばんは、おにーさん、ブルマさん。なんかすっごくオシャレしてますねー」
「ブルマさんのドレス、ステキー」
この時あたしは左にいる女の子たちではなく、右にいる男の方を睨みつけた。…ヤムチャのやつ、あたしの名前教えたわね。ほんっと、お喋りなんだから。
「あ。…こ、こんばんは…」
笑顔を引きつらせながらあからさまに口篭るヤムチャを横目に、あたしは女の子たちの声を無視した。あたしは相手しないわよ。そんなの、ヤムチャ一人ですればいいのよ。それにしたって、ヤムチャもよくやるわ。そんな風にあたしの顔色を窺うくらいなら、最初から無視しとけばいいのに。
あたしは視線を正面へ戻して、ひたすらにエレベーターが来るのを待った。あたしを間に挟んでの、ヤムチャと女の子たちの会話は続いた。
「あのー、おにーさん。おにーさんの名前は何ていうんですかぁ?」
「え?あー、えーと…」
またもやヤムチャは口篭った。再びあたしの機嫌を窺っていることは、顔を見ずとも明らかだった。それで、あたしは口を出さざるをえなくなった。
「ヤムチャよ」
できる限り淡々と、そう教えてあげた。『おにーさん』なんて呼ばせるよりはなんぼかマシだわ。ていうか、自分の名前は教えてないのに、あたしの名前は教えたわけ?一体どういう会話の仕方してんのよ、こいつ。
「で?あなたたちは?」
成り行き上しかたなくあたしが訊いてやると、二人は態度を揃えて、別々の台詞を口にした。
「あっ、リルとミルでーす」
「双子なんですー」
…双子。
あたしの不愉快は、不快な納得へと転化した。どうりで二人揃ってうるさいはずだわ。典型的な甘やかされお嬢様ね。常識も知らないし。
あたしは軽く息をついて、普通なら言う必要もないことを、わざわざ口にしてあげた。
「あたしたち、これからレストランに行くから。邪魔しないでね」
だってこの子たち、本当にどこでも声をかけてくるんだもの。ホテルに着いたら声かけて、出かけた先でも声かけて、戻ってきたら声かけて。あたしにも声かけて、ヤムチャにも声かけて、一緒にいる時にまで声かけて。あたしたちは引率の先生じゃないのよ。
「はーい、わかりましたぁー」
「ごゆっくりー」
返事はいいわね。まあ、存在自体が邪魔なんだけどね。
やがてエレベーターがやってきた。女の子たちの姿と声をそのドアの向こうのフロアに置き去りにしてから、あたしはまた息をついた。
「あの子たち、やたら話しかけてくるわねえ。まだ一日目だってのに。あんなに馴れ馴れしいの、あの子たちくらいよ」
5組しかいないし基本は自由行動だから、他の人とはたいして接触しないだろうと思ってたんだけどな。甘かったわ。…所詮はパッケージツアーか。
呆れが諦めに変わりかけた。その時、エレベーターのコンソールを操作していたヤムチャが、あたしの感覚を裏付けることを言い出した。
「そうか?俺、他の人にも話しかけられたぞ」
「いつ?誰によ?」
「グランニエールフォールズへ行ってすぐに。バスから降りた時だな。名前はわからないけど、夫婦の婦人の方、2人に」
あたしはすっかり呆れてしまった。もう四の五の言う気も失せたので、ただ一言言っておいた。
「それはおモテになりますこと」
「またそんなこと言って…」
するとヤムチャが呆れたように目を細めたので、さらに言っておいた。
「何よ。褒めてあげたんでしょ」
気分がいいから大目に見てあげてんのよ。感謝してほしいわね。
エレベーターにはあたしたちの他には誰も乗ってこなかった。たぶん今上階のロイヤルスィートには、あたしたちのツアー客しかいないから。そして、レストランに行くには少し早い時間だからだと思うわ。だからというわけではないけれど、あたしはすっかり気を緩めていた。気を緩めて、呆れ笑顔から呆れたような困ったような表情になりつつある、ヤムチャの顔を見ていた。
まあ、老婦人が声をかけたっていうのはわからないでもないわね。こいつ、軽いから。雰囲気が。童顔だし。『かわいい年下(年下過ぎるけど)』っていう感じがするんじゃないかしらね。
わからないのはあの子たちよ。本当に男を見る目がないわよねえ。見た目が格好いいのは認めてあげるけどさ。『男らしい』?どこがよ。この態度の一体どこが男らしいのよ。
ヤムチャって格好はいいけど、いい男として必要なものが決定的に欠けてんのよ。『近寄りがたい雰囲気』…なんていうの?オーラみたいなの。顔立ち的には二枚目で通ってもいいはずなのに、どうしたっていいとこ二枚目半にしか見えないわ。時々三枚目にもなってるし。それなのに結構モテるんだから。世の中の女って、案外理想低いわよね。
あたしはたいして気を入れずに、その結論を導き出した。ほとんど同時に、ヤムチャが不思議そうな顔つきで、横目を送ってきた。
「…何だ?」
そして少しだけ強気の混じった声でそう言った。あたしの視線に気づいたのよ。ま、そうでしょうね。思いっきり見てたからね。
「べっつに〜」
「おまえ、さっきもそんな風に誤魔化したよな。まだ何かあるのか?」
さらに今度は明らかに強気な声で、食い下がってきた。何なのかしらね。さっきまであんなに弱そうだったくせに。立ち直りの早いやつね。
そう思いながら、あたしはついさっき手に入れたとっておきの遊びを引っ張り出した。
「何でもないわよ。…でも、そうね。キスしてくれたら教えたげる」
「あのな…」
ヤムチャは再び呆れ笑顔となって、それきり口を閉じた。あたしは黙って待っていたけれど、ヤムチャは動こうとはしなかった。あたしを見ようともしなかった。エレベーターコンソールを横に、壁に背をつけて片足を組んで、おまけに何だか偉そうに腕まで組み始めた。
「しないの?」
あたしが訊くと、ヤムチャはやっぱり強気の混じった声で、こう答えた。
「…もう、しない」
「あっそ」
変なやつ。
人のいるところではあんなに堂々としてたくせに、誰もいない今はしないなんて。どういう思考回路してるのかしら。人がいる方が燃えるのかしら。
まさか本気でそんなことを考えていたわけではない。なんとなく、わかっていた。
ようやく気づいたらしいわ。完全に遊ばれてるってことに。あたしにはそんな気全然ないってことに。思いっきり眉上げちゃって。ヤムチャにもプライドってあったのね。
結構な怒りを発しているヤムチャの様子を目にしても、あたしの心は竦まなかった。それはもとからのことだとしても、不快にも感じなかった。力強く上がった眉。固く引き締めた口元。鍛えられた体と、いかにもそういう雰囲気を誇示している姿勢。それらを見て、あの子たちの言葉を肯定したいと思った。…わけではない。
だって、あたしから逸らした目が宙を泳いでるんだもの。男らしいいい男はこういう目つきしないわよ。絶対にね。
「だから何だよ!?」
ふいにヤムチャが顔だけをあたしに向けてそう叫んだ。それで、あたしはついに噴き出してしまった。
根負けしたわね。目がそう言ってるわ。あたしは別に何もしてないんだけどな。
あー、おもしろい。ヤムチャ連れてきてよかった。
こいつ、すっごいいい暇潰しになるわ。
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