YBDB

もともとそういうつもりのドライブだったんだから、ちょうどいいわよね。だからもう遠慮なく、アクセルを踏んであげたわ。そう――ヤムチャが泣きを入れてくるその時まで。

「――ブルマ、少しスピード出し過ぎだぞ！」

「平気だってば、これくらい。ひゃっほーーー！」

ごみごみとした街中をさっさと脱出して、湾岸沿いを一路ブルーゲートブリッジへ向けてぶっ飛ばす。湾岸道路はほぼ直線で道も広いから、150km/hくらい余裕余裕。このスピードでもまだ煽ってくるやつがいるくらいよ。もっとも、そういうのはまともな神経の持ち主じゃないけどね。車間距離も取らずに詰め寄って挙句に事故りそうになるとか、バッカみたいよね。

「あっほら、もうすぐブルーゲートブリッジの入口よ！」

――ブッーブッブーーーー！！

そのバッカみたいなやつが、またやってきた。ちょうど『ブルーゲートブリッジまであと17km』の標識が見えたところで。別にこっちは普通に走ってるだけなのに、パッシングやらクラクションやら、うるさいったらありゃしない。そこであたしは、そのバッカみたいなやつをバッカみたいな末路へ導くべく、さらにアクセルを踏み込んだ。

「お、おい、ブルマ…！」

「さーあ、かっ飛ばすわよー！」

こちらに合わせてスピードを変えてついてくるその車を確認して、あたしはハンドルを握る手に力を入れた。

これがね、普通に追い越そうとするんなら、あたしだっておとなしく道譲るわよ。何が何でも前走りたいってわけじゃないし。だけど、こっちが渋ってもいないうちから、クラクション連打してきたりするようなやつは――

「喧嘩を売る前にちゃんと相手を見るよう、教えてやるわ！」

「どわーーーーー！！」

助手席から聞こえてくるちょっとうるさい叫び声をBGMに、あたしはブレーキを踏んだ。すかさずアクセルを緩めて、ハンドルを切る。ふいに現れた急カーブで我ながら見事なドリフトを決めた後には、バックミラーに映る影はなくなっていた。再び入った直線でスピードを上げた頃になってようやく、一時姿を消していたその車が点となってミラーに映った。

「へっへーんだ。女だからって嘗めないでよねー。抜けるもんなら抜いてみなさい！」

あー、気分いーい。我ながら鮮やかなハンドルさばきで、気分爽快だわ！

やんなっちゃう気持ちとやなやつへの鬱憤を晴らしたところで、アクセルを緩めかけた。ちょうどブルーゲートブリッジが見えてきたから。まさにナイスタイミングね！

あたしはすっかりいい気分になっていた。それなのにヤムチャは、それは非難がましい顔をして、非難がましい口調で怒り出した。

「ブルマ、おまえなあ！運転代われ！！」

「えー？なんですって～？」

だから、またアクセルを踏んでやった。そしてそのまま一台抜いた。きっちりその車だけを避けるように、ぎりぎりのところでハンドルを切った。何も悪いことしてない前の車には悪いけど、ちょーっと見せつけさせてもらうわよ。

そこまでしてもわからないほどには、ヤムチャは鈍くはなかった。怒りで赤くなっていた顔を即座に青ざめさせながら、ヤムチャは言った。

「…………代わってください、お願いします…」

「そこまで言われちゃしかたないわね～。じゃ、ブルーゲートブリッジに入る前にいったん車降りましょうか。あのね、『スカイウォーク』っていう歩行者専用通路があってね、ブルーゲートブリッジの真下を歩けるのよ」

そうそう、せっかくの気分に水を差すような言動は慎むことね。だいたい、ヤムチャが悪いんだから。あたしにハンドルを任せたヤムチャが。そりゃあたしが自分で運転するって言ったんだけどさ、普通は男が運転するもんでしょ？こういうシチュエーションでは特にね。それなのにヤムチャってばさ～…

「ったく、調子に乗りやがって」

…こんなこと言ってるんだから。

「へっへ～。でも、調子悪いよりはいいでしょ？」

その、本来ならば頭にくるはずの態度に、あたしは笑顔で応えた。なんとなくわかっていたからだ。ヤムチャはそう思うに違いないと。そして、やっぱりそうだった。一拍遅れて呟いたその言葉が嘘だなどと思うわけはなかった。ヤムチャの嘘ってバレバレなんだから。それにしてもタフよね。この状況でそんな風に頷けるやつなんて、そうそういないわよ。一歩間違えば防音壁に激突してたんだからね、今。まあ、あたしの知り合いには、そういう神経の太いやつ結構いるけどさ。

「わあすごい。湾が360度で見渡せるのね」

ブルーゲートブリッジの真下にある歩行者専用展望通路『スカイウォーク』からは、ブルーゲート湾が一望できた。西に沈みつつある太陽は、街の建物の影になって姿は見えない。でも、薄暗くなってきた空の端を赤く染めて、強烈に存在を主張していた。ゆっくりと通路を歩きながら、あたしは夜に呑まれつつある空の彼方に思いを馳せた。

――みんなは今頃、何をしてるかしら。孫くんはご飯の時間？クリリンくんは亀仙人さんと、また碌でもない話？天津飯さんは修行よね。そして、ランチさんがそれを追いかけて――

あたしはここにいるわよ～。ここでヤムチャとドライブしてるの。旅行先で。初めてきた街のデートスポットで。

そ。ここ、デートスポットなの。地元ではね。この街って本当に田舎都市。観光スポットっていうのが、ほとんどデートスポットに毛が生えた程度のものなのよ。でも、それもそう悪くないと思う。恋人であるあたしたちには、楽しめる街だわ。

そう思えるほどに、あたしは気分を切り替えていた。ひさしぶりに吸う都会（田舎の都会だけど）の空気が、自分のペースってやつを取り戻させたのかもしれない。なんとなくデート気分になれるところもいいわよね。

「じゃ、ドライブの続きしましょ。続きっていうか、メインね。海と落ちゆく夕陽を眺めながらブルーゲートブリッジをドライブ！」

「なんか、旅行に来てるというよりデートしてるみたいだな」

「もともとそのつもりよ」

ヤムチャも少しはわかってるみたいだし。それともわかってないって言うのかしらね、これは。わかってたら口に出して言わないような…いえ、ヤムチャの場合は言うか…

のんびりとそんなことを考えながらあたしはヤムチャの腕を取り、踵を返して、止めた車の方へと歩き出した。どっちでもいいわ、そんなこと。ヤムチャが本当にわかってるかどうかなんて、どうでもいいの。ヤムチャはもうすでにあたしに付き合ってるんだから。

まったく、慣らされたもんだわね、あたしも。

夜の帳がすっかり降り切ってしまった頃、あたしたちは街に戻ってきた。

「あー、髪ぐしゃぐしゃ。レストラン行く前に直さないと」

「あんまり派手にかっ飛ばすからだよ」

「ヤムチャだって、結構飛ばしてたじゃない」

「俺はちゃんと安全運転してたぞ」

気分よくドライブを終え、気分よくホテルに戻った。ちょっとまずい時間に戻ってきちゃったなって街に入った時には思ったんだけど、思ったほど道混んでなかったわ。西の都だったら絶対に渋滞してる時間帯なのに。いいわねー、この街。気楽に遊ぶにはなかなかいい街だわ。

そんなわけで、文句ではなく軽口を叩きながら、エレベーターに乗った。二人っきりで乗った部屋までのエレベーターは、特別ロマンティックじゃなかったけど、嫌なこともなかった。それもそのはず、今夜は鬱陶しいやつらは全員揃って一杯飲みに行ってんのよ。あの時間からだから、きっとホテルのラウンジバーにね。

「ねえ、夜ごはんどうする？あんまり道混んでないみたいだし、車で街に出てみない？あんたの食べたいもの食べに行くってことでいいから。ね？」

だから、エレベーターを降りながら、あたしはヤムチャにそう言った。気分と実の両方から、そうしようと思ったの。せっかくここまで気分よく過ごせてるんだもの、最後までそうさせてもらおうじゃない。別行動を取れるっていいわよね。

「いいよ。そうだなあ、俺、さっぱりと麺物とか食べたいな」

「麺か。じゃあネオ屋台村ね。一度は行こうと思ってたから、ちょうどいいわ」

う～ん。なんか今日、すっごくスムーズじゃない？…途中からだけど。この街に着いてから。淹れたてのコーヒーじゃなく、缶コーヒーを口にしたあたりから。高級旅行が田舎都市でのデートに成り下がってから。柄じゃないってことなのかしらね。あ、あたしがじゃなくて、ヤムチャがよ。あたしは生まれついてのお嬢様なんだからね。

そして、そのデートマジックは部屋に入ってからも続いた。というより、部屋に入ったその時が最高潮だった。

あたしは思わず息を呑んだ。リビングに足を踏み入れるなり目に飛び込んできた窓の外の光景に、すっかり心奪われた。

すごい夜景。高い建物が少ないから、一面光の海みたいに見えるわ。海岸線の形もきれいだし、はっきり言って言葉にならない美しさ…

このあたりの人って控えめなのかしら。地元発行の雑誌に載ってた『夜景もきれい』なんて言葉じゃ全然足りない。都の夜景なんて目じゃないわ。美しさが断然違うもの。都のはビルの明かりが中心の大都市の夜景だけど、ここのはまるで宝石をちりばめたように小さな明かりが煌めいている…

「…本当にきれいねえ。これ、360度から見たら素敵でしょうね…」

それは半ば独り言だった。窓ガラスにヤムチャの顔が映ったので、なんとなく口に出してみただけのことだ。まあ、口に出した直後には考えていたけれど。ご飯食べに行った後、フライブレットタワーに行ってみようか。ネオ屋台村のある中心街とは反対方向だけど――

「じゃ、見に行くか？」

おもむろにそう言ったヤムチャの視線は、窓枠のさらに上へと向いていた。その仕種の意味するものを、あたしは読み取った。

「屋上なんかないわよ、ここ」

「なくたって行けるだろ。俺たちだけの特等席だよ」

けど、それは間違っていた。一瞬固まってしまった後で、あたしはそれを悟った。

…相変わらず恥ずかしいことを真顔で言うやつね。それもいきなり。いきなり過ぎて、そういう雰囲気全然感じられないじゃないの。

そう思いながらも、あたしは乗った。茶化すことも突っ込むこともせず、笑顔で言ってあげた。

「そうね。じゃあ、食前酒はそこで飲みましょうか。夜景を見ながらワイン飲むのなんて普通だけど、ビルのてっぺんでそれをやる人なんてきっといないわよ。待ってて、何か一本持ってくる」

雰囲気なんてものはね、後からどうとでもなるものよ。その気持ちが大切なのよ。気障な台詞の一つでも言って、そういう空気を作ろうとする積極的な気持ち。そう、ヤムチャにしては珍しいことに、格好のつけどころも間違ってないわ。

サービスで置いてあったワインとグラスを用意して、窓のロックを外した。高層ホテルだからね、がっちり施錠されてるのよ。ま、あたしにかかれば、何てことなく開けられるけどね。そしてヤムチャにかかれば、何の苦もなく上がって行ける。最上階をさらに超えた、屋上のないビルのてっぺんに。

ヤムチャに抱えられて部屋からてっぺんへと空を飛んで行く途中、あたしはその背中越しに、彼らを見た。最上階のスカイラウンジでグラスを傾け合う一団。リザとエイハンと、ミルとリル。それと老夫妻が二組に、コーディネーターの女性。知っていながら忘れていた光景をまざまざと見せつけられたわけだけど、あたしの心は苛立たなかった。こんな風に目にするなら悪くないわ。むしろ声をかけてやりたいくらいよ。『こんばんは、ご機嫌いかが？』――驚くでしょうね、きっと。

その悪戯は空想の中だけに留めて、あたしは何も言わずにヤムチャに身を任せた。ヤムチャは静かにあたしをビルの上に下ろした。あたしはやっぱり何も言わずに、柵も何もないその端に腰を下ろした。それから足を宙へ投げ出すと、ヤムチャが慌てたように声を上げた。

「おい、危な…」

「くはないでしょ、あんたがいるんだから」

あたしは一刀両断に切り捨てた。…いえ違う、事実を言ったまでよ。ヤムチャを切ったら助けてもらえなくなっちゃうんだから、そんなことしたりしないわよ。それより今はこの景色よ。この、360度の絶景。どの角度に目を向けても広がっている、信じられないような夜景。見渡す限りどこまでも続く光の海。

「きれいね。今まで見たどの夜景よりもきれいだわ」

ヤムチャはあたしの傍らに立ったまま、すました顔で頷いた。その態度に、あたしの悪戯心が疼いた。今度はあたしはそれを抑えなかった。

「ヤムチャってば、本当にそう思ってんの？どうせ夜景なんか碌に見てないんじゃないのー？」

「冗談よ。っていうか、別にいいのよ。こういうのは付き合ってくれれば、それでいいの」

むしろマジに夜景について語られたりする方が困っちゃうわ。その方が雰囲気ぶち壊しじゃない。ヤムチャがこういうことにたいして興味ないことだって、とうにわかってるもの。だからそれよりも…

――あたしたちだけの場所で、美しく輝く夜景を見る。なかなかロマンティックなシチュエーションよね。ここでさっきの台詞を言えばすごくいいんじゃないかと思うけど、ここに連れてきてくれただけで充分だとも思うから、とりあえずそれはいいとして――

あたしはワインを開けた。ゆっくりとグラスに注ぎ、揺らめくワインに夜景を透かして見てから、それを飲んだ。ヤムチャが依然横に立ったまま、ちょっと不服そうに訊いてきた。

「俺の分は？」

「ないわよ。だって、グラス一個しか持てなかったんだもん」

「注いでくれたら、次の一杯はあんたにあげるわ」

――気が利かないと思わない？ヤムチャってばすました顔して、でもちっともそういう素振り見せないんだもん。あたしがワイン持ってきてるの知ってるくせに。このシチュエーションで手酌はないでしょ。珍しく気の利いたことしたと思ったら、後が全然続かないんだから。口だけっていうか…

「最初から言えよな。黙って手酌してないでさ」

ニ、三度瞬きした後で、ヤムチャは腰を落としてそう言った。呆れを隠そうともしない口調で。どうやら、言外の意は伝わったみたい。でも、気持ちは全然伝わっていなかった。

「そういう無理強いしてるみたいなのは嫌なのっ」

そりゃ、なんとなく持ってきただけだけどさ。言わばオプションだから、忘れてたのかもしれないけど。…でも、この言い方はないわよね。そうよ、ヤムチャのこの言葉が悪かったのよ。ここで黙って注いでくれればよかったのに…

「なんだ今さら。そんなのいつものこ……っと」

「ちょっと、なーに！何言いかけたのよ、今！」

っていうか、態度が悪いわ！

わざとらしく口を押さえたヤムチャの仕種は、あたしを完全に逆撫でした。ううん、逆撫でじゃない、当然の怒りよ。そりゃあヤムチャが空気読めないやつだってことはわかってるけど…そこまで読めなくていいわけないでしょ！あんたが『無理強いされてる』って思っちゃダメでしょ！！つーか、そんな風に思いながら付き合ってたわけ！？

「な、何も言ってないよ。ほら、ワイン注ぐから…」

「そんなこと言って、誤魔化さないで！」

「誤魔化してなんかいな……おい、ちょっと待て、どうして喧嘩になってるんだ」

「喧嘩じゃないでしょ。あたしは当たり前のことを言っただけ。それをあんたが…」

誤魔化そうとするから。ワインなんかで誤魔化そうとするから。こんな時にワインなんか…

憑き物が落ちたと言うのか。ふいにあたしは我に返った。そして気づいた。本末転倒みたいなことになってるってことに。

…本当にね。なんでこんなことになってんの？夜景を見ながらワイングラスを傾ける、そんなロマンティックなシチュエーションが、どうしていつの間にか、お酒で誤魔化すみたいなことになってるの。いくら柄じゃないにしたってさあ…

怒りが呆れに変わった。ヤムチャから目を逸らすと、あらゆる意味で熱の醒めてしまった目に、それが映った。どこを向いても目に入ってくる、光の海。と、その海の中に一つの島が現れた。

それはかわいらしいピンクのハートの島が。フライブレットタワーの手前、あるビルの屋上に灯ったハート型のネオン。ナイスタイミング…………いいえ、バッドタイミングよ。

長く短い沈黙を、あたしたちは味わった。そう、ヤムチャも何も言わなかった。それもあって、今や呆れを情けなさに変えながら、思わずあたしは呟いた。

「…バッカみたい」

「まったくだ」

…じゃ、ないでしょうが。

どうしてくれんのよ、この雰囲気。せめてフォローしなさいよ。せっかくのロマンティックなシチュエーションが台無しじゃない。…周りを取り巻く夜景。計ったように輝き始めるハートのネオン。気がつけば夜空にも星が鮮やかに瞬いている。もうそら恐ろしくなっちゃうほどシチュエーション揃ってるっていうのに、あんたときたら…

その文句を、あたしは口にはしなかった。別に、文句言ったら降ろしてもらえなくなっちゃうからとかじゃないわよ。ヤムチャがどう思ってようが降ろしてもらうわよ。そうじゃなくって、あたしはただ――

…ただ、思ったの。本当にわかってないのかしらって。だって、さっきはあんな歯の浮くような台詞言ってたくらいなのよ。ここに来ようって言い出したのだって、ヤムチャだし…

要するに、文句を言って切り捨ててしまうには、心当たりがあり過ぎたの。だから――だから、ちょっとだけ時間をあげた。そんなところよ。

ヤムチャはそれきり何も言わないまま、ゆっくりとあたしの隣に座り込んだ。そのうち視線がこちらに向いてきた。でもやっぱり、何も言わなかった。一瞬目が合った時でさえ、何も。何も言わずにあたしの頬に触れて、何も言わずにあたしの顔を覗き込んで、何も言わずに…………

なんで何も言わないわけ。そう思いながらも、あたしは目を瞑った。あたしは空気が読めるから。ここでキスを拒むほど、無神経じゃないわ。拒むほど、怒っていたわけじゃないの。そして、いつもの軽いフォローの言葉が聞きたいわけでもなかった。早い話が、合格ってところよ。キスした後で、こんなことを言わなければね。

「これでいいんだろ？」

「…その一言が余計よ」

あたしはすっかり呆れ果てて、そう呟いた。まったく、もう。足りなかったり、余計だったり。もう少しうまいこと配分できないわけ？せっかくいい感じになってたのに、ぶち壊しじゃないの。

「さてと。ワイン飲むか？」

酷い態度よね、本当に。そこまであからさまに『やれやれ』感を醸し出すやつなんて、あんたくらいよ。

「うーん…そうねえ…」

誤魔化し感に今や惰性感をも加えてワインボトルに目をやったヤムチャを見て、あたしはグラスを手にするのを躊躇った。そりゃそうよ。あたしは別に、ワインが飲みたいわけじゃないんだからね。雰囲気がほしいのよ。わかるでしょ？ヤムチャにだってわかったと思ったのに…だから言葉じゃなくキスで応えてくれたんだと思ったのに。なのに、なーんかノリ悪いんだから。いつもだったらこういう時って、むしろノリよくなるくらいなのにな。ヤムチャって気は利かないけど、わかった後はそれなりにしてくれるもん。なのに今は肩を抱いてもくれないし…

っていうか、気がついたら胡坐なんか掻いてるし。自分から話振ったくせして、ボトルを持とうともしないし。白けた目でグラス見てるだけだし。何よ、その態度。本当にワイン注ぐ気あるわけ？

たいして飲みたくもないワインを、そう言って催促しようとした直前、あたしは悟った。

…………ヤムチャってば、もしかして、拗ねてたりする？…

何にって？あたしの持ち込んだ現実によ。この、一つしかないグラスに。すっごく考えにくいけど。っていうか、バカバカしいけど。でも、この態度は…

「やめとくわ。どこかで一緒に乾杯しましょ」

あたしはちょっとだけ反省しながら、そう言った。夜空の下、夜景に囲まれて、優雅にワインを注ぎ注がれる男女。それはそれで絵になると思ったんだけどなあ。そう、あたしはそういうシチュエーションを楽しみたかっただけなの。ワイン自体はどうでもよくってね。

だけど、ヤムチャは違ったみたい。そうね、今日は珍しく自分から誘ってきたくらいだものね、あんな恥ずかしい台詞まで使ってね。一緒にグラスを合わせたい気分なのよね、きっと。

「で、飲むんだから、車は取りやめね。もうここから飛んで行っちゃお。誰かに見られたって、どうせ知り合いいないんだからいいわ」

それでも、ヤムチャを扱き使う気がなくなったわけじゃなかった。だって、ヤムチャも悪いもの。それこそ、言えばいいじゃない。さっき偉そうにあたしにそう言ってたでしょ。っていうか、自分だって言わないくせに、人にはあんな風に言っちゃうところがもうね。無神経っていうか、鈍いわよね。

「現金なやつだな」

「あんたがぐずぐずし過ぎなのよ。それに、旅先では臨機応変でしょ」

ぼかしながらも、あたしははっきり言ってやった。直截的に言わなかったのは、もうバカなことで喧嘩をするのはごめんだったからだ。もう白けるのはごめんよ。せっかくヤムチャが腰を上げたんだから。

そう、ヤムチャはようやく腰を上げた。本当に腰を上げた。それがあたしにはわかった。そして同時に、ここまでは腰が入ってなかったんだってこともはっきりした。

「どの辺だ？あのハートのネオンのある方か？それとも…」

「あっちは市街地。フライブレットタワーに行くんじゃなきゃ用はないわ。あのハート、きっとタワーの上から見える仕様なのよ。でもあたしたちには昇る必要ないから、反対側の街の方行きましょ。今夜はひさしぶりに夜遊びよ～」

「本当にひさしぶりだな、そういうの」

「嫌なら嫌ってさっさと言わなきゃダメよ」

「嫌じゃないよ、全然」

態度も声も、すっかり軽くなったから。目つきも表情も、すっかり見慣れたものになったから。あたしの知ってるいつものノリになっていたから。

やっぱり拗ねてたのね。そういえば、初めの頃あたしが『一人で来るつもりだった』って言った時も拗ねてたっけ。結構つまんないことで拗ねるわよね、こいつって。普段は自分だって一人で好き勝手してるくせにね。

それについては、例えぼかしてでも言うつもりはなかった。今は旅行中。普段の愚痴を持ち込んだりはしないわ。そうじゃなくても、この再び盛り上がり始めた空気を壊す気はない。