Trouble mystery tour Epi.12 (8) byB
帰り道は、暗澹としていた。
バスの外も内も。外は霧雨。朝見たのにも似たどんよりと重たい灰色をした空から、水滴がとめどなく落ちてくる。透明なはずの空気はそれにすっかり侵食されて、視界はゼロに近い。スピードが全然出せないので、ホテルに着くまではかなり時間がかかりそう。自分で運転してないってことだけが、唯一の救いね。
とはいえこれっぽっちも『よかった』などとは思えずに、あたしは我ながら不機嫌な声を投げかけた。
「…つまり、どういうことなわけ?」
ヤムチャがなかなか口を開かなかったからだ。はっきり言って、暗澹とする以前の問題よ。ヤムチャは相変わらず煮え切らない態度で、もごもごと呟いた。
「いや…俺に訊かれても…」
「あんたに訊かなきゃ誰に訊くのよ!?」
あたしは思わず声を荒げた。すると、後ろの席から黄色い声が飛んできた。
「わぁお、どうしたんですかあ、ヤムチャさん!」
「ヤムチャさんがブルマさんに怒るなんて、めっずらし〜い!」
同時に背凭れから覗いた二つの顔。それを見て、あたしは一端口を噤んだ。
双子たちに言う気には、とてもなれない。言ったって信じてもらえないに決まってる。そもそも、何を言えばいいのか、それすらわからないんだから。
「いや、何でもないよ。びっくりさせちゃってごめんね」
ヤムチャがあたしの声で言った。…自分自身を見るってだけでもかなり違和感あるけど、喋られると相当くるわね。
「いーえ〜。珍しいなって思っただけですからぁ。びっくりと言えばびっくりですけどねー。なんていうか、貴重な感じ?」
「そうだ、珍しいと言えばこれこれ!ブルマさん、これあげます。ジャジャーン!フルーツフラワーパーク名物スーパービッグクッキー!!これ食べて仲直りしてください」
笑いながら双子がそれを手渡した相手は、ヤムチャだった。あたしの姿をしたヤムチャが、ヤムチャらしい従順さで受け取った。その仕種とタイミングそして行動そのもの、要するに今この時のすべてに呆れて、あたしは眉を上げた。
「何よそれ?」
「何ってクッキーですよお。大きいでしょ。ほらほら、顔まで隠れちゃう!」
「アミューズメントガーデンで売ってたの。お土産にするつもりで買ったんだけど、考えてみたら帰るまでに湿気っちゃいそうだから、食べちゃおうと思って。いっぱいあるから、お二人にも一個あげまーす」
「二人で一緒に食べてくださいね。端と端から一緒にねっ」
「っきゃー!クッキーゲーム!!」
顔ほどもある大きさのクッキーを片手に、恥も外聞もなく双子が言い放った時には、さすがにヤムチャも呆れていた。思わず言っちゃったのは、あたしだけだったけど。
「ったく、バカなこと言ってえ…」
バカバカし過ぎて、もはや怒る気にもなれないわ。こんなのにいちいち付き合ってらんないわよ。だからさっさと消えてくれないかしら。あんたたちがバカなのは一向に構わないけどね、あたしたちの邪魔はしないで。特にあたしの明晰な頭脳の回転を妨げるような真似はね。今すっごく大変な時なんだから。
とはいえ、何も知らない双子が空気を読んでくれるわけはなく、ヤムチャとしてのあたしとの問答は続いた。
「えっ?」
「今何か言いましたか、ヤムチャさん?」
「いーえいえ、それはどうもありがとうね。でも、あたしたち今大事な話してるから、引っ込んでてくれるともっとありがたいわ」
「『あたし』?」
「ヤムチャさん、なんか変ですよ。さっきからちょっと怖いし」
「ひょっとしてやっぱり怒ってる?えー、なんでー?」
…なんでじゃないでしょうが。あんたたちのせいじゃなかったら何なのよ!?
ここであたしは頭にきた。だって、『怖い』とか言ってるわりには、嘗め過ぎじゃない。『怒ってないよ』って言わせたいの、丸わかりよ。だけどお生憎様ね、今のヤムチャはそんなこと言わないわよ。今のヤムチャはヤムチャじゃなくてあたしだからね、そんな見え見えの手には乗らないの。
今はヤムチャに見えるあたしは、ことさら無言を通した。この際だから、うんと冷たくしてやるわ。これ以上ヤムチャに甘えてこないように、今のうちに突き放しておくのよ。ささやか過ぎるメリットだけど、せいぜい行使させてもらおうじゃないの。
そんなわけで、ヤムチャは双子を突っぱねた。…目に見える事実としては。でも、本当はそうじゃないということを、あたしだけが知ることとなった。ヤムチャがまたもや、あたしの声と笑顔でそういうことを言ったのだ。
「怒ってるわけじゃない――わよ。ちょっと遊び疲れてイライラしてるだけ…ほら、天気も悪いし。道は渋滞してるし。少し休ませてやりたいから、しばらく放っておいてもらえるかな?」
…もう、あんたってやつはぁーーー!
どうしてそうなの!なんであたしの姿してる時まで、そういうこと言うの!…格好つけとかの問題じゃないのね。根っからわかってないんだわ。良くも悪くも、まるっきりのお人好しってとこか…
「はーい。わっかりましたあ。でも意外〜。ヤムチャさんて疲れ知らずな感じなのに」
「でもブルマさんがそう言うなら、そうなんでしょうね〜。じゃあ、本当に何でもないんだあ…ふーん…」
「何よ、その残念そうな顔は!?」
「残念じゃなくて、安心したんだよ。ね、見ての通りこいつ調子悪いから、また後でね。お菓子ありがとう」
…もっとも、それだけならあたしだってそう怒らずに済むんだけどね。このお調子者!
「まったく、調子いいんだから。じゃあその調子で、詳しく話してもらいましょうか」
ともかくも、双子は追い払った。そしてあたしは、目的を履き違えるほどには怒っていなかった。怒りを堪えてヤムチャとの会話を再開すると、ヤムチャはまた最初の煮え切らない態度に戻って、困ったように呟いた。
「詳しくったって、一体何を…」
「何でもいいから。あたしは何も気づかなかった。他の人はみんな何事もなかったみたいな顔をしてる。気づいたのはあんただけよ。あの時一体何があったの?」
「何があったのかなんて、俺の方が訊きたいよ」
「言い方が悪かったわ。あんたはあんたの知ってることをただ話してくれれば、それでいいのよ。考えるのはあたしがするわ」
「うーん、そうだな…」
こうして、ようやくあたしたちは現状を打開すべく、行動に入った。まずは情報収集よ。この暗澹たる状況を分析するためのね。そう、双子が茶々入れてきたからそんな雰囲気じゃなくなってたけど、本当はとても暗澹たる状況なのよ。外見と中身が入れ替わるなんて、ドラマや映画の中でしか見たことないわ。まさに世紀の大珍事。学会に発表したいくらいよ。…自分が当人じゃなければね。
「何か違和感を感じたんだ。目が覚めて、空を見た時。その時は、空が偽物だって知らなかったからな。それでしばらく気にしてたんだが…」
「ミラーガラスに映った空ね。その話はもういいわ。それから?ずっと空見てたんなら、何か気づいたでしょ。周りが真っ白になった時、何か見た?」
この、ドームのミラーガラスの件については、バスに乗る前、ドームの外に出た時にもう話していた。フルーツフラワーガーデンのドームに使用されているミラーガラスは、マジックミラーとして以外の機能もいろいろと備えていて、内部の表面をスクリーンに切り替えることもできる。悪天候時には外の景色をカットして、青天の映像を映すってわけ。つまり、昼寝から目覚めた時には、外はもう雨だったのね。偽物っぽい空だなんてあたしは全然思わなかったけど、ヤムチャはそれに気づいた。
きっと、野性の違いよね。あの瞬間にも反応してたし。今回だけはヤムチャ様様ってところかしら。…結局、こんなことになってはいるんだけど。
「その時じゃなく、その前だな。雷みたいなものがちらついた。空の上の方に。それから――」
「雷?ドームの中に?それってドームに落ちたってこと?でも、何も音しなかったわよ。周りにも雷が落ちた形跡なんてなかったし」
「知らないよ。で、とにかく、それでもっとよく見ようと上を向いた瞬間に、ピカッと…」
「ピカッと、何?」
あたしは身を乗り出した。ヤムチャの言うことだけが手がかりだから。本当に、あたし何にもわかんないのよ。気づいた時にはもう入れ替わっちゃってて。その『入れ替わった』ってことさえ、すぐにはピンとこない有様で…
だから当然、唯一の証言者であるヤムチャのその先の言葉に期待したわけだけど、ヤムチャはそんなあたしの気持ちをあっさりと裏切った。
「いや、ピカッときて、気づいたら入れ替わってたのさ」
「えー!?それだけ!?それじゃ何にもわからないじゃないの!」
「だからわからないって言ったじゃないか」
「だって見てたんでしょ!?だいたい、そんなんでどうしてあたしを助けようと思ったのよ!?」
「勘だよ。なんとなく、何かが起こりそうな気配がしたんだ。それ以上のことはわからん。あの時、俺は完全に目が眩んでたんだからな」
「ガーン。そんなぁ。役立たず〜〜〜!」
「おま…役立たずとはなんだ、役立たずとは。そもそもが無理矢理喋らせたくせして、なんて言い草だ」
「だぁーって、普通、見てたら何か知ってるって思うでしょ!!」
期待したあたしがバカだった。そう割り切るには、ちょっとショックが大き過ぎた。だって、ようやく考える姿勢になれてたのに。そこへ後ろの席から、ダメ押しとも言える声が飛んできた。
「ヤムチャさん、イライラした時は甘いものを食べるといいですよ」
「そうそう、さっきあげたクッキーとかねっ」
「ええい、うるさいわ!」
すかさずあたしは怒鳴りつけた。『イライラさせてるのはあんたたち』、そう言わないだけ優しいと思ってほしいわ。
そう、あたしには双子とやり合うつもりはなかった。今はそんなことをしてる場合じゃないわ。ヤムチャが役立たずで何もヒントは得られなくても、あたしの頭脳は残ってる。
「あたし今から考え事するから、あんたたちはもう絶対話しかけないで!」
「あー、また『あたし』って言った〜」
「はいはいわかったわよ、『俺』!!」
言葉遣いなんか気にしてる場合じゃないっていうのに。半ば不貞腐れながらあたしはその言い慣れない一人称を口にし、固く口を結んだ。明晰な頭脳をフル回転させるために。
それに、これ以上面倒臭い会話をするのだって、ごめんだわ。


たはぁ…
その後2時間ばかりかかって帰り着いたホテルのエグゼクティブラウンジで、あたしは聞いたことのある溜め息を漏らした。
理由は二つあった。一つには、体が覚えてんのよ。それとも頭が、かしらね。ほら、心はあたしだけど、それ以外はヤムチャだから。そしてもう一つは――
「…ねえ、ウェイターに言って電話借りて、うちに電話かけてくれない?」
「俺がか?いいけど、ブルマが電話した方が話早くないか?」
「途中で代わるわ。その前にちょっとコーヒー飲んで、頭をすっきりさせたいのよ」
――それを説明する前に、もう一度よく考えてみるわ。あたし、起き抜けっていまいち頭が働かないのよね。確かに起きてから2時間以上経ったけど、まだ目覚めのコーヒー飲んでないし。うんと濃いコーヒーを飲めば、何か閃くかも。
やがて運ばれてきたエスプレッソを口にしながら、あたしは考えた。ウェイターに電話のことを伝えているヤムチャを横目に、いろいろ考えた。ずいぶん考えてみたんだけど…
「たはぁー…」
やっぱりまたその溜め息をつく羽目になった。たぶん間抜けな声に聞こえるとは思うけど、あたしは間抜けどころか非常にやり切れない気持ちになっていた。
…ダメなのよ。
全ッ然、考えが纏まらないの。っていうかね、思い出せないの。考えたことを補強するためのいろいろな知識が。基本的な定理とか、可能性のある理論とか、関連してそうな現象とか、その他多くの知ってるはずのことが、まったく思い出せない。きっとヤムチャだからよ。ヤムチャの鳥頭だから、思い出せないんだわ。…ううん、思い出せないというより、そもそもそういう知識がないのよね。考えてみれば当たり前だわ。脳みそはヤムチャの脳みそなんだもの。
じゃあ、今あたしの脳みそを持っているヤムチャはそういうことがわかっているのかというと、そうじゃないみたいだった。さっきの話聞いてたってわかるでしょ。きっとそんな知識が蓄えられてることにすら気づいてないわ。気づいてなけりゃ、取り出せないのよ。知識ってそういうものよ。実際、あたしの脳みそ持ってるはずなのに、要領悪いところはそのままだし。
「ウーロンか。おまえが出るなんて珍しいな。ひょっとして、他のみんなは留守か?」
「…ああ、悪い。俺、ヤムチャだ。ブルマの声に聞こえるだろうけど、ヤムチャなんだ」
「いや、冗談じゃないんだ。信じられないだろうけど、本当にヤムチャなんだ。ついさっき事故があって、今は俺がブルマになってるんだ」
「別に俺たちがやってるわけじゃないんだよ」
「ああ、頼む、そうしてくれ」
今だって、父さんに電話を繋いでもらうだけでこの有様よ。まったくいつも通りにだらだらしてて、本当に危機感持ってるのか怪しいくらいのものじゃないの。
すでに、あたしは考えるのをやめていた。ちょっと妙な気持ちになりながら、自分が話すのを見ていた。
エスプレッソは飲み終えた。カップの底に溜まった砂糖を残して。いつもならスプーンで掬って舐めるところだけど、なんだかそんな気になれないの。そんなことしてる場合じゃないっていう危機感からじゃなく、単純に、舐めたいと思わないのよ。なんていうか、体が拒否してる感じ。あたし、本当にヤムチャになってんのね。
じゃあ、あたしになってるヤムチャは、どんな感じなのかしら。なんかあんまりいつもと態度変わらないけど――
「はい、ヤムチャです。あ、ブルマの声に聞こえるでしょうけど、ヤムチャなんです」
「あ、いえ、そうじゃなくて…」
「え?」
「あ…っ」
「すすすいません、連絡するのが遅くなって。あれについてはもう…」
「あ、はい、それがですね…」
――…変わってなさ過ぎよね。
なんだって、そうぐだぐだしてんのよ。っていうか、何の話してんの?今がどういう時かわかってないの?見た目が自分なだけに、なおさらイライラするわ。
「父さん?ブルマよ。声はヤムチャなんだけど、ブルマ」
そんなわけで、考えが纏まらないまま、あたしは電話を奪い取った。以下、思いがけずすることとなった、娘と父親との会話――
「なんじゃ、おまえも風邪ひいたのかね。だけどおもしろいねえ、ヤムチャくんの声がおまえで、おまえの声がヤムチャくんか。まるで入れ替わったみたいだね。それともなりきりごっこかね?」
「何言ってんの。みたいじゃなくて、本当に入れ替わったのよ。一体今まで何話してたのよ。ヤムチャってば無駄口ばかりなんだから」
「入れ替わった?それは本当かい。外見がかね、中身がかね」
「中身の方ね。入れ替わった時、位置が変わってたから」
「一体どうしてそんなことになったんだい。素粒子実験でもしたのかね」
「知らないわ」
「それとも量子転送実験かな?」
「知らないってば。あたし、今そういうこと言われてもちっともわかんないのよ。だから父さんが調べて…と言いたいところなんだけど、きっかけが何なのかもわからないのよね。気がついたら入れ替わっちゃってて、入れ替わった瞬間のことすら、あたしにはわかんないの。ヤムチャは何か見たみたいなんだけど、てんで話にならなくって」
「なんじゃ、何にもわからないんじゃないか。それじゃあわしにだってどうしようもないよ」
「だからそう言ったでしょ。まあ、そういうわけだからさ、ドラゴンボール集めてよ」
いつもと同じようで違う。…なんかあたし、さっきのヤムチャと同じようなこと言ってない?あ〜、やだ。嫌だわっ。
「ああ、そういう話かね」
「ドラゴンレーダーの作り方はわかるでしょ。すぐに作って、ウーロンたちに探させて。あたしたちもすぐ行くから」
「しかしあれは2SCのチップがなくてじゃなあ…パーツショップに探しに行こうにも、今着るものがないんだよ。ほら、こないだまで旅行に行っとったじゃろ、その間にわしの服がまるごとカビてしまってな。ベンチレーターが壊れておったんじゃな。しょうがないから冬の服着とるんだが、これが暑くて暑くて、さっき母さんが新しい服を買いに行ったから明日にでも…」
「何をぐだぐだ言ってんのよ!とにかく作って探させてよね!」
あー、もう、疲れるぅ。話が通じないって、なんて疲れるのかしら。父さんだけのせいじゃないから、余計にストレス溜まるわ。…ああ、情けない。
溜め息をつきながら通話を切り電話をテーブルに置くと、あたしが電話している間コーヒーを飲んでいたヤムチャがカップから口を離して、こんなことを言い出した。
「ドラゴンボールで何とかなるかな?」
「何とかならなきゃ困るわよ」
「俺が気になるのはさ、神龍は一つだけ願いを叶えるってことなんだ」
「それがどうしたのよ」
「俺とブルマの二人を元に戻すことを、『一つの願い』と思ってくれるかな?」
「…なかなか鋭いこと言うじゃない」
この上なく微妙な気持ちになりながら、あたしは呟いた。どうしてヤムチャがそんなことを考えたのかはわかっていた。…あたしの脳みそ使ってんのよ。そうに決まってんじゃない。なんでかは知らないけど、目覚めたんでしょ。
「嫌みかよ。…なあ、今考えついたんだけどさ、頭をぶつけてみるってのはどうだ?あの時ぶつかったかどうかははっきりしないけど、接触はしてたわけだろ」
「それは記憶喪失の場合の処置よ。それも科学的根拠のない、ね。どっちにしても現実的な方法じゃないわよ」
だけど、それでもこの程度。拠り所となる知識が引き出せてないからね。うーん、人の頭の中って、一体どうなってるのかしら。所謂、脳の働きってやつ。すごーく興味あるわ。これ以上考えられないのが残念だわ。
「そうか」
なんとも興味を刺激されたあたしをよそに、ヤムチャは少し俯き加減に、空になったカップへと視線を落とした。それはヤムチャの癖だった。なんとなく会話が途切れた時にやる癖。お代わりがほしいわけでもなければ、言ったことが否定されてがっくりきてるわけでもないの。これで一つはっきりしたわね。今この状況には全然関係ないけど、真実としてはすごく大きなことが。例え能力があっても関心や意欲がなければ、宝の持ち腐れになるってことが。
「…もう一杯、何か飲むか?」
やがて、ヤムチャがどことなくおずおずとそう言った。それが単に、なんとなく落ちた沈黙を誤魔化してのものであることは明らかだった。あたしは少しだけ考えて、それに答えた。
「う゛ーん、そうね。…いらないわ。あたし、ちょっとトイレ行ってくる」
最初の一音を発した時、ちょっと喉が痛かった。例の、屋台村で痛めた喉ね。それが、こう、喉の奥から声が出るような時にだけ、痛いような重いような感じになる。そしてそのことが、ダメ押しのように、あたしに現実を感じさせた。
…あたし、本当にヤムチャになってんのね。


――そう思っていたはずなのに…
なのに、あたしは無意識に、女性用トイレへ入ってしまっていた。おまけに、入ってしばらく、その個室から出てきた中年女性と顔を合わせるまで、そのことに気がつかなかった。
自分が男だってこと。男は個室待ちなんかしないってこと…
「ちょっと、何なのあなた。ここは女性専用よ!」
「…し、失礼しましたぁっ」
あたしは弁解しなかった。急いで踵を返して、一目散に逃げ出した。ええ、弁解の余地がないことくらいは理解してるわ。非常に不本意だけどね。それにしても、もしこういう立派なホテルじゃなかったら、痴漢扱いされちゃってたかもしれないわね。気をつけなきゃ。
「う゛ーん…」
とはいえ、気をつけたからといって、男性用トイレに入るわけにはいかなかった。ちょっといきなり男のやり方するっていうのも抵抗あるし、さらに他の男がいたりなんかしたら…
「部屋まで我慢しよ…」
これもまた、ホテルでよかったってところかしら。そう思いながら、あたしは再びラウンジの毛足の長い絨毯の上に、終わりへの一歩を踏み出した。
そ、もう終わり。この後は、部屋に戻って荷物を纏めるだけ。…ドラゴンボールを集めるのに、何日くらいかかるかしら。ウーロンたちと二手に分かれるから、一週間でなんとかなるかな。できるだけ早く集めてしまいたいけど、こればっかりはねえ。
「あーあ…」
すでに決めていたこととはいえ、具体的に考えてみると、溜め息が零れた。せっかくひさしぶりに都会っぽい雰囲気のところにきてて、いい感じだったのにな。そりゃ、元に戻れたら続きを始めるつもりだけど、途中で中断すると気分が殺がれるわよねえ。…もうすでに殺がれてるけど。なんだってこんなことになっちゃったのかしら。わからないのが本当に悔しい…
「ん?」
そんな最後の最後に、それは起こった。
ちょっと席を外しただけなのに。遠目にヤムチャのいるソファを見た時、あたしはそう思った。目敏いわね。それとも、ヤムチャが要領悪過ぎなのかしら。そんなことを考えながら、あたしはそのソファに近づいた。近づくとその様子が、よりはっきり見えた。
ソファの右側にはリザ、左側にはエイハン。そしてその真ん中に、二人に挟まれ目を白黒させてるヤムチャ。リザの手はヤムチャの肩へ、エイハンの手はヤムチャの手元へ。ったく…
「何やってんだか。ほら、行くわよ」
ヤムチャ、と最後に呼びかけそうになったのを、あたしはどうにか抑えた。わからないことを説明するのも面倒だから、もう何もかも内緒。もっとも、エイハンには言ってやりたい気するけどね――それはあたしじゃなくて、ヤムチャだって。男の手握って楽しい?って。リザには…教えてやんない。まったく、馴れ馴れしく肩なんか抱いちゃって。相手が男だったら、絶対そんな風にしないくせに。この女、馴れ馴れしいくせに回りくどいからね…特にヤムチャなんかに対しては、誘いながらも誘わせようとするのよね。本ッ当、兄妹して厭らしい性格よ。
そして、その兄妹に左右を固められてるヤムチャは、情けなさ過ぎ。はっきり断れとかもう言わないけどさ、いくら何でもその図はないでしょうよ。片手に男、片手に女。おまけにその二人は兄妹。なんていびつな両手に花、不健全この上ないわ。この兄妹も何考えてんのかしらね…
「やあ、ヤムチャくん。こんなことを言うのはなんだが、きみの態度は感心しないね」
「…何の話?」
やがて、ヤムチャの手を離しながらもエイハンがそう言ったので、あたしの疑念は強まった。なんか、今までとは違った感じで、エイハンの目が笑ってない。口調にどこか棘があるのも気に障る。
「先ほどから見ているが、ずいぶんとブルマさんを邪険にしているじゃないか」
「兄さん、いきなりそんなことを言っては失礼よ。ヤムチャくんにだって理由があるんでしょうから」
「どんな理由があったって、人前で女性に恥を掻かせていいはずがない。あんな態度を取るきみには、ブルマさんは任せておけない」
…何言ってんの、あんた。
あたしがブルマだっつーの!何も知らないくせに、勝手なこと言ってんじゃないわよ。っていうか、何偉そうにそれっぽい台詞口走ってんの?人がいなくなると途端に本性を出すような男が。親切にかこつけて体を触ってくるようなせこいやつが!
「言い過ぎよ、兄さん。ごめんなさいね、ヤムチャくん。兄はフェミニストだから、女性の扱い方にうるさいのよ。ヤムチャくんたちはちょっと意見が合わなかっただけなのにね?」
そしてリザ、あんたは何が言いたいの?
――あたしが女の扱い方なってないって?そりゃそうよ、そこにいるあたしは男なんだからね!――あたしたちの意見が合わなかったですって?ええ、合わなかったわよ。でも、それが何なのよ。
あたしはめちゃくちゃ頭にきた。エイハンの気障ったらしい喧嘩の売り方と、リザの回りくどいやり方に、すっかり腹が立った。それでも、それがわからないほど、頭に血が上っていたわけではなかった。
その時その場ではなく、わざわざ今になってこんなことを言ってくる、兄妹の思惑。こいつらは、あたしたちを喧嘩させたいだけなのよ。親切面してうまいこと間に入ってね。その手には乗るもんですか!
「そういうことはすべて俺たちの問題だ。あんたたちには関係ない。さ、行くぞ」
あたしは理性を総動員して、ヤムチャを呼んだ。…いいわよ。わかったわ。自分に向かって自分の名前を呼ぶのだけはまだ抵抗あるけど、その他のことはやってやるわ。ヤムチャとして。男としてね。
「あ、うん…」
おずおずと立ち上がったヤムチャの手を取ると、エイハンもまた立ち上がって、しつこく食い下がってきた。
「ブルマさん!嫌なら無理して行くことはないんだよ」
「兄さん…でも、一理あるわね。ねえブルマさん、ここはみんなで一緒にお話するということにしてはどうかしら。ここのラウンジバーはとても寛げるから、きっとゆったりした気持ちでお話できるわよ」
「いや、…私、は…」
…まあ、おモテになること。もっとも、リザがヤムチャ(この場合はあたし)だけを狙ってるとは思えないけど。
なおもおずおずとしているヤムチャを見て、あたしはそんな嫌みを言いたい気持ちになった。でも、口ではきっぱりはっきり言ってやった。
「お誘いありがとうございます。でも結構です。俺たちこれからレストランに行く予定ですから。今夜は二人きりでゆーっくり楽しむつもりです」
めいっぱい慇懃無礼に。もちろん笑顔で。 そしてヤムチャの手を引いて、そのまま歩き出した。
部屋に向かって。
もうこれ以上、何も言われたくないわ。


「ったくぅ。あんなこと言われるなんて。あんたも言い返…さなくてもいいから、せめて断りなさいよね。あんたたち三人が並んで座ってるとこ、すっごい異質だったわよ」
部屋に入ってクロゼットを開けながら、あたしは男モードを解いた。
「断りを入れる暇がなかったんだよ。気づいたら二人して座り込んでて…」
「…まあね。あの二人、手が早いからね。特に相手が一人だと見ると即行よね…」
同時に、ヤムチャへの怒りも解いた。まあ、もともとそんなに怒ってるわけじゃなかったけど。あたしがリザにちょっかい出されたからって大して怒る気にはなれないし、エイハンなんかは言わずもがなよ。それに、確かにあの二人の手の早さは折り紙つきなのよね。あたしが初めてエイハンに会った時、ロキシーマウンテンでヤムチャがリザに捕まった時。どっちもすかさず実力行使に出てきてたわ。
「はい、あんたはこれ着て」
だから、あたしはさっさと不毛な話題を切り上げて、次なる場面のための身支度にかかった。適当なロングドレスを一着クロゼットから取り出すと、ヤムチャが不思議そうな顔をして呟いた。
「…どうして着替えるんだ?しかもドレス…」
「レストランに行くためよ。スカイラウンジはドレスコードなしだけど、その服装じゃこの派手なホテルではカジュアル過ぎるわ」
次にヤムチャのトランクを開けながら、あたしは答えた。うん、もう。せめて一着くらいクロゼットに出しときなさいよ。旅行を始めてから何週間も経ってるってのに、いつまでも要領得ないわね。
「ちょっと待て。帰るんじゃなかったのか?ドラゴンボール探しに…」
「帰らないわよ。さっきまではそうしようと思ってたけど、やめたわ」
「ええっ?」
ヤムチャの叫び声をよそに、あたしはタキシードの入ったカプセルを取り出した。うーん、白と黒、どっちがいいかしら。
「どういうことだ?ドラゴンボールを集めるのはやめるのか?やっぱり他に何かいい方法が…」
「やめないわよ。ドラゴンボールなんか、誰が集めたって同じでしょ。だったら、ウーロンたちにやらせとけばいいわよ」
「いやいや、そうはいかんだろう。特にウーロンなんかは絶対に納得しない…」
「納得しなくてもやらせるの。あいつらにはグリーンシーニでの貸しがあるもの、ここで返してもらわない手はないわよ」
――そう。そして、ここで帰るなんて手もないわ。
ここで帰ったら、絶対に仲違いして旅行を取りやめたって思われちゃうじゃない。ちょっと想像してみただけで、双子とあの兄妹が訳知り顔で吹聴してくれてる様が目に浮かぶわ。そんな風に思われてるところに後から合流するなんて嫌よ、あたし。
「と、いうわけで、今夜はあたしがばっちりエスコートしてあげる」
エイハンの言葉を思い出しながら、あたしはヤムチャと自らに宣言した。ええ、思いっきりスマートな男になってやろうじゃない。違う意味で『どうしたの』って言われるような、完璧な男を演じてやるわ。あ、嫌々じゃないわよ。そりゃエイハンに言われたことがきっかけだけど、どうせ男になってるんならそこまでやってやろうって、今は思ってる。少し楽しい気持ちにさえなってきたわ。足取りが軽いせいもあるかしらね。
そう、すごく軽いの、この体。もう陽も落ちた頃だっていうのに、一日の疲れみたいなものをちっとも感じないの。これから一晩遊びに行こうって言われてもきっと平気よ。
「だから、あんたも少しはそれっぽく振舞ってね。まず第一に、座ってる時に足開かないで。それから、あたしがレディファーストしてあげたら先に行くのよ。いつもみたいに、後からのこのこついてくるんじゃダメだからね。後は言葉遣いね。少しは気をつけてるようだけど、もっときれいな言葉で喋ってちょうだい」
入れ替わったのが、ヤムチャでよかった。
ヤムチャに文句をつけながらも、あたしはそう思い始めていた。そうよ、ウーロンなんかとは絶対にごめんだけど、ヤムチャと入れ替わるんなら、大して問題ないわ。そりゃ、まったく不便がないわけじゃないけど――
「そうだ、忘れてたわ。あたしトイレ行ってくる。あんたは用意しててね」
我ながら楽天的だとは思う。でもその理由を、あたしはすでに見つけていた。
きっと、ヤムチャだからよ。
ヤムチャの脳みそが、こんな風に考えさせるのよ。
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