Trouble mystery tour Epi.12 (13) byB
翌朝は、ヤムチャに起こされた。本人にその気はなかったようだけど、間接的に起こされたのだ。
「おっはよっ」
あたしが声をかけると、あたしに布団をかけようとしていたヤムチャは驚いたような顔をして、たちまち動きを止めた。
その顔がね、新鮮だったの。自分の驚いた顔って、あんまり目にしないわよね。たまにそういう顔で写真に写っちゃうことがあるけど、たいてい写り悪いし。ほぼ物理的に見るのが不可能な、自分の一瞬の表情。
でもそれは本当に一瞬で、ヤムチャはすぐにばつの悪そうな顔になった。それであたしは、昨夜のことを思い出した。昨夜も、それに近いものを見たからだ。
昨夜、し終わった後の、ヤムチャの顔。いつもとはまるで違って余裕のなさそうなあの様子。というか、明らかに肩を落としていたわけだけど。
「何を景気悪そうな顔してるのよ。初めてってわけじゃないんだから、どこも何ともないでしょ」
それは今朝になっても続いているようで、ヤムチャは挨拶すら返さなかった。あたしがこう言ってようやく、絞り出すような声を漏らした体たらくだ。
「体の方はな…」
つまり、心の方は何ともあると言いたいわけだ。っていうか、何その顔。朝っぱらから疲れたような顔しちゃってさ。大変だったのはあたしの方だってのに。
そう、大変だったわ。ヤムチャが完全にマグロだったから余計に。まあ、それはあの場合仕方がないとして、それを差し引いての感想はというと…
…正直、女の方がいっかな〜。女の方が、こう、いろいろ、感じ方のバリエーションがあるもんね。でも、あの征服感のようなものは捨てがたいわねえ…
ま、ともかく満足よ。男の感覚を味わえたことも満足だし、それによって逆説的に、女の感覚にも満足できたわ。あたし、女でよかった。そう思えたと言っていいわ。
「体が元気ならいいじゃない。あたしが初めての時なんか、大変だったんだから。あんたにはそんなことないでしょ?」
「それは――そりゃまあ…」
「じゃ、シャワー浴びに行きましょ。昨夜の香りを流しにね」
のろのろと腰を上げたヤムチャの背中を押して、バスルームへ向かった。機嫌悪そうとはいえ、昨日の朝よりはいいわね。これはきっと、される側に回ったのがショックだっただけで、されたこと自体は悪くなかったってことね。そうよね〜。どう見ても、果ててたもんね。ヤムチャは何も言わなかったけど、自分の体だもん、わかるわよ。
「ちょっと待て。ひょっとして、一緒に入る気か?」
やがて、ラバトリーへ踏み込むと、今さらのようにヤムチャが振り向いてそう言った。あたしは笑って、さらにその背中を押した。
「その方が早いでしょ。集合時間があるから、あまりゆっくりしてられないし。大丈夫、何もしやしないわよ」
そう、あたしはヤムチャだけど、ヤムチャじゃないから。ここぞとばかりにがっついたりはしないわ。一度やれば満足なのよ。
もっとも、最近は落ち着いてきてたけどね。いつの間にか、ね。
やっぱりギャラリーが騒がしいからよね、きっと。


そのギャラリーがひしめくエグゼクティヴラウンジへ、あたしたちはほとんど集合時間ぎりぎりに滑り込んだ。
昨夜、荷造りしないで寝ちゃったから。今朝すればいいと思ってたんだけど、ちょっと勝手が違ったのよね。いつもならヤムチャに荷造りさせてあたしはドレッサーに向かっていればいいんだけど、今はそうはいかないんだってこと、忘れてたわ。今のヤムチャは自分で自分のことできないんだもの。フルメイクしろとまでは言わないけどさ、せめて口紅塗るのと眉整えるくらいはできるようになってくれないかしら。男が眉書くのって本当は嫌いだけど、こうなってくるとねぇ…面倒臭いわよね、はっきり言って。本当のヤムチャだってあたしのことここまで面倒みないのに。あたし、本人以上の負担じゃない。
他人の支度と旅の支度に忙殺されてまったく余裕のなかったあたしは、一分一秒を惜しんで、自分より歩くのが遅いヤムチャの手を引いて行った。そしてそのことが、ちょっぴりいい誤解を生んだ。
「おはようブルマさん、ヤムチャくん。今日は二人一緒なのね。どうやら仲よくやってるみたいね?」
「当然!」
何やら含むところのありそうな笑顔で声をかけてきたリザに、あたしは本当の笑顔で答えることができた。リザの少し後ろにいたエイハンは、あたしたちをちらと見ただけで、何も言わなかった。
「よしよし、だいぶ意識が改まってきたみたいね。これならそろそろドラゴンボール探しに行ってもいいわ。さすがにもうレーダーもできてるだろうし、今日一日見せつけたらうちに戻りましょ」
「…ああ…」
そう不景気そうにヤムチャが答えたところで、トラブルコーディネーターがやってきた。だから、続くヤムチャとの内輪話は、ホテルの前に待機する高速バスへと乗り込むべく動き出した一団のやや後方で行われた。
「何よあんた、気乗りしなさそうな声出して。元に戻りたくないの?」
「そんなわけないさ。ただ、もう一日早くその台詞を言ってもらいたかったと思ってな…」
「あんたがあの兄妹に誤解させるような態度を取らなければそうなってたわよ」
「何だよ、俺のせいか?」
「どう考えたってそうでしょ。ほらほら、そんな風に文句言ってるとまた誤解されて、元に戻るの遅くなるわよ」
よって、双子たちから言葉遣いへの突っ込みを入れられることもなかったし、兄妹に余計な詮索をされることもなかった。
どうやら本当に帰り頃ね。今日が最後…もとい、一区切りの一日ってとこか。
こうしてあたしたちは、フライブレットを後にした。高速バスに乗り込むとやがてすぐに、夜景の素敵なホテルが、フライブレットタワーが、フルーツフラワーパークが、遠ざかって行った。
きっともうここには来ない。だからもう永遠に、原因を解明することはできない。
完全に、ドラゴンボールに頼り切るしかなくなったわね。


高速バスは今日はすいすいと街を抜け、やがてブルーゲートブリッジに乗った。あたしたちは、これから二日間をかけて、いくつかの観光ポイントを中継しながら、水の都ウォルビットへと向かう。バス旅行っていうと疲れそうだけど、この高速バスはこの地区には一台しかない特別製だから大丈夫。
そう、もちろん高速バスだって高級仕様よ。座席はガラスで仕切られている半個室型で、5室10シートしかない。ゆったり足を伸ばせるリクライニングシートに、プライベートテレビ、サイドテーブル。二階建てで、二階はドリンクバーを備えたサロン。飛行機のファーストクラスみたいな感じね。
ちなみに、あたしたちのツアーは今や一組増えて6組12人。単純に考えて、全員は乗れない。じゃあどうするのかっていうと……当然、ごり押しで来ている人達は別の車に乗るわけよ。そりゃあね、それくらいの差別はしてくれなきゃ、治まらないわよね。あたしたちは前もって入会してちゃんと準備して来てるんだから。
「今日もいい天気だなー。ブルーゲート湾がキラキラ光ってるぞ」
「あ、ああ…そうね…」
そんなわけで、ウザい兄妹は別車両。あたしはすっかりリラックスして、さっそく二階のサロンに行き、窓からの眺めを楽しんだ。手元のグラスにはレモンイエローのシャンパン。今日はアテンダントはいないから、セルフサービス及びレディファーストであたしが給仕。
「もう、ノリ悪いな〜。たいして興味ないのは知ってるけど、少しは付き合えよ」
「わかってるわよ…」
ヤムチャは相変わらずの態度だったけど、あたしはもう深くは突っ込まなかった。口数が少ない理由も、今に限ってはわかっていた。
「へー、ブルマさん海あまり好きじゃなかったんですか?」
「ひょっとして泳げないとか?」
双子たちが一緒だからだ。女言葉を使わなきゃいけないから、あんまりお喋りしたくないというわけだ。…いつまでも慣れないわよね、ヤムチャも。そんなに女役が嫌なのかしら。あたしはある意味ハマってると思うけどな。
「反対だよ。遊ぶ専門なんだよ、こいつは。見るのなんて、どうでもいいんだよな」
「わっ、ヤムチャさん、ひっどー。そんなことないですよね、ブルマさ〜ん」
「ヤムチャさん、そんなこと言っちゃって大丈夫ですか?ブルマさんに怒られますよぉ」
口も態度も妙におとなしくってさ。まあ、本当は不貞腐れてるだけなんだろうけど、傍目にはすっかり控えめな女に見えるのよね。昨日ナンパに目をつけられたのも、きっとそのせいよ。そして、あの兄妹にいちゃもんつけられたのもね。
「ブルマさんはこのくらいじゃ怒らないよ。心の広ーい女神さまだからね」
「ふーん…あ、あたしジュースおかわりー!」
「あたしもー!」
「二人とも、あまり飲み過ぎないようにね。キャンディカーバンの中でトイレに行きたくなっても知らないよ」
「はーい、これで終わりにしまーす。あ、エイハンさんたちの車だ。すぐ横にいるよ!」
「本当だ。やっほ〜!!」
「そんな大声出しても、聞こえないよ」
ともかくも、そんなわけであたしがすっかり双子たちの面倒をみる羽目になっていた。でも、ちっともイライラしなかった。
最初はね、面倒をみる気はこれっぽっちもなかったの。せいぜい冷たくしといてやろう、そう思ってたのよ。だけど、どうもそんな気起こらないのよ。
この子たちはあたしと知らずにヤムチャに懐いてきてる。そう思うと、むしろ楽しくって。あんまり馴れ馴れしくしてきたら拒否してやればいいし、さりげなくあたしの株を上げたりすることもできるし。
だから同席を許したし、ジュースも注いであげた。ま、レディファーストのおこぼれよ。線引きさえちゃんとしてれば、ヤムチャに懐いてきたって別にいいのよ。
あたしは、それほどやきもち焼きじゃないからね。


双子たちに構っているうちにもバスは進み、やがて初めのポイントに到着した。
キャンディカーバン――旧火山の麓に広がる岩石地帯。火山灰と溶岩が積み重なってできた白く不思議な形をした奇岩群と、それを砦のようにして広がる古の地下都市。地下18層、200m近くまで蟻の巣のように展開している、巨大なダンジョン。
そう、この二日間のバス旅行は、異観の地巡りの旅。この辺りは人は多いし、それなりに大きな街もあるけど、科学はあまり進んでなくって、古い遺跡がそのまま残ってるの。長い年月をかけて作られた不思議な景色なんかも数多い。この間までの列車がロマンティックロードをひた走っていたとすれば、このバスが走るのはファンタジックロード。単純にバカンスを過ごしたい一般旅行者向けじゃなく、旅慣れたマニア向けコースよ。
「へ〜〜〜」
「ふーん…」
まずは岩窟群の中を散歩。というより、ほとんど呆気に取られて、あたしたちはそこを歩いた。
「わー、すごーい。まるで蜂の巣みたいな岩山ね。なるほどこれが、修道士が鳩を飼ってたっていう『鳩の谷』ね」
「あっちには、煙突みたいな岩がたくさんあるぞ」
「あれは確か、妖精が住んでたっていう『妖精の煙突』よ」
ファンタジーというよりはへんてこね。なんとなく、ドラゴンボール探しの旅を思い出すわ。ああいう形のきのこ(一般的には煙突って言われてるけど、あたしにはきのこに見せるわ)いっぱい生えてるとこ、あったわよね。
荒涼かつ壮観な景色の中で、あたしたち人間はとてもちっぽけに思えた。それは実際にもそうで、各々の意思により散らばり始めた同行者たちは、すでにほとんどが視界からその姿を消していた。それであたしたちは心おきなく口調と言葉を緩めて、辺りを探索したのだった。
「わ、なんだこの岩。中に人が住んでるぞ」
「ああ、それはホテルよ。う〜ん、まるっきり洞窟ね」
「気球が飛んでる…」
「あら本当。気持ちよさそう〜。後で乗ってみましょ」
空を見上げ、次いで隣を見下ろしてから、あたしは言った。心配していたわけじゃないけど、やっぱりちょっとほっとした。
ヤムチャのやつ、ようやく機嫌が直ってきたようね。ま、どうせ遊び始めればそうなるだろうとは思ってたけど。でも、何か変に気になってさ〜。やっぱり自分の顔だからよね。いつまでも自分のかわいくない顔見てるのって、嫌なものよ。かわいい顔ならいつも鏡の中で見てるけど、こういう顔は見ることないものね…
やがて、連なる岩石が疎らになり、地面に穴が開いているところにやってきた。いくつかは下から塞がれていたけれど、そのうち人が一人入れそうな穴が見つかった。
「あ、これきっと地下都市の入口だわ。ねえ、ここ入りましょ」
「そんな適当に入っていいのか?」
「塞がれてなければ、どこからでも入れるのよ。入口は何個かあるけど、全部地下で繋がってるから。ほら、灯りもついてるわ」
あたしはさっそく穴の端に手をかけた。ヤムチャがどことなく納得のいかなさそうな顔をしたので、軽く笑って言っておいた。
「今日のところはあたしが最初に入るわ。まだ男だからね」
「はいはい」
答えたヤムチャの声は、明らかに投げやりだった。不満気と言ってもいい。必要ないとなった途端に、騎士道精神を発揮したくなったってわけか。皮肉なもんね。…やっぱり、今のヤムチャはもう逃げないわね。
となると、やっぱり皮肉ね。そういう状態で、旅行をやめなきゃならないなんて。
「ととっ」
「大丈夫?」
「あ、ああ…」
そんなことを考えながら、あたしは後から降りてきたヤムチャの背中に手を回した。穴の中に降りた途端にヤムチャがよろけて、横にあった階段に転げ落ちそうになったから。ん〜、今に関しては、男でよかったってとこかな。ここをあたしの体で降りるのは、ちょっと大変そうだものね。起伏は激しいし、階段の段差も大きいし。もうちょっと穴が大きければ、あたしが抱いて降りてやってもいいんだけどね〜。ま、がんばりなさい。
あたしは先を歩きながら、今日は見ることのない背中を心の中でそっと押した。もっとも、あたしにはあたしで困ったことがあったけど。少し通路の高さが低いのよね。あたしの体であるヤムチャは頭ぶつからないで歩けてるから、170cmってとこかしら。ヤムチャの体で立って歩くのはかなり窮屈。昔ここにいた人たちはずいぶん小柄だったのね。
しかたなく猫背になりながら、あたしは進んだ。中は本当に蟻の巣で、台所らしきところを始め、食糧庫、ワイナリー、教会、墓地と、ありとあらゆる部屋が用意されていた。どこも岩がごつごつだから、あまり快適とは思えないけど。通路と部屋である穴倉の間には、どっしりとした回転石扉。通路のところどころには、2つの入り口がただ裏で繋がってるだけの意味不明な空間。部屋の中にも、棚と思しき窪みがあったり、通気口なのか足元に小さな穴があったり。
「こんなところにドラゴンボールが入り込んでたら、探すの大変ね。レーダーがあっても、相当時間がかかるわよ」
「他人事みたいに言うなよ」
「他人事じゃないから言ってんでしょ。そう聞こえるとしたら、あんたの惚けた声のせいよ」
「ああ、そうかよ。ところで、ドラゴンボール探しってどのくらい時間かかるんだ?俺、一から集めたことないんだよ」
「あら、そうだっけ?」
あたしたちは早くも今後のことを話しながら、先へ進んだ。一言で言うと、飽きちゃってたのよね、二人とも。ヤムチャは物珍しさは感じてたみたいだけど、もともとこういうのにすごく興味があるわけじゃないし。あたしは…あたしも、ヤムチャとそれほど変わらないわね。ところどころに照明の灯された薄暗いダンジョンはそれなりに幻想的だけど、基本的にどこまで行っても同じ景色。むしろ、頭が突っかかるぶんだけ、早く気持ちが萎えちゃってたかもしれない。
ということを、やがてはっきり感じ取る時がきた。二つ目の階段を降りてしばらく行ったその後で、通路が途切れたのだ。
「おっと、行き止まりだわ。…あら?何かしら、この穴。大きいわね。下まで続いてるみたい」
途切れた通路の先には、通路の下半分ほどを塞ぐ鉄の柵。その柵の向こうには真っ暗な大きな穴。
「空気穴だろう。ほら、上」
さらにその光の届かない縦穴のだいぶん上に、ぽかりと光る空間があった。その小さな丸い光は、あたしに意外感と安堵感を同時に与えた。
「なんだ、意外と下まできてたのね。まだ一、二階分くらいしか降りてないと思ってたわ」
「ずっと下り坂だったからな」
「もうあと半分くらいかあ…」
よかったと言えばよかったわ。半分は歩いたみたいなのに、まだ全然疲れ感じてないもの。体力的には、隣の部屋に飲み物取りに行った程度のもんよ。でも…
でも、気分的にはそうじゃない。さっきも言った通り、もうだいぶ飽きちゃってるのよね、あたし。っていうか、何か飲みたいわね…
「ねえ、もうここから飛び降りちゃわない?その方が絶対早いわよ」
そんなわけで、その穴はあたしには格好のショートカットルートに見えた。そう、広ささえあれば一気に降りられるのよ。こいつ、飛べるからね。海も山も、空だってひとっ飛び。だったら地下だって、飛ばない手はないでしょうよ。
でもヤムチャはしれっとして、こんなことを言うのだった。
「ここをか?…そりゃ早いけど、でも下まで降りることが目的じゃないんだろう?」
「…ぐっ…。あんた、本当に時々鋭いとこついてくるわね。はいはい、そうよ、観光が目的ですよーだ。じゃあ、さっさと最後の分かれ道に戻るわよ」
あたしは少しだけ迷った後で、その言葉を肯定した。今はあたしがヤムチャだから、強行することだってできるけど。だけど、そんな風に無理矢理降りてどうすんの、っていう気はするわよね。ヤムチャが言ってるのも、同じことでしょ。
ま、いいわ。どうせあたしは疲れてないから。あたしよりヤムチャの方が疲れるの絶対に早いんだから、その時いじめてやるわ。そうね、飛びながら手を離してやるっていうのはどうかしら?グランニエールフォールズでそういうことやってくれたわよね。滝壺でフリーフォール。だから、今度はあたしがここでフリーフォールしてやるわ。
あたしはそんなことを考えたけれど、実際にしたことはまったくもって逆だった。ヤムチャに意地悪してやるどころか、助けてあげた。手を離すのではなく、掴んでやった。あたしが踵を返しかけたその瞬間、ヤムチャの姿が消えたからだ。
「わっ!」
そう声を上げていなくなったのだ。それはもう器用な動作で、柵を越えて穴に落ちていったの。その柵、ヤムチャの――っていうかあたしの体の半分以上の高さがあるのに。もー、何やってんの?すーぐ足元掬われるんだから。
そう呆れながらに、あたしは穴に飛び込んで、ヤムチャの手を掴んだのだった。ひょっとして飛び降りなくても掴めたかもしれないけど、これはチャンスだとあたしは判断した。このまま飛んで降りていっちゃお。これは不可抗力よ。それに考えてみれば、この縦穴が通路とぶつかってるところが他にもあるとは限らないし――
でも、その判断を、ヤムチャの体が裏切った。ヤムチャならぬあたしを抱え込んだあたしの体を、思わぬ感覚が襲った。
うわ…何この重力!?
なんでこんなに重いの!?落ちてる途中だから?ヤムチャを抱えてるから?でも、それにしても…――っていうか!
「ブルマ、舞空術だ、舞空術を使え!」
胸の中でヤムチャが叫んだ。あたしはすぐさまそれに応えることができた。まさにそうしようとしていたところだったからだ。
「それが使えないのよ!」
「何ぃ!?」
「あたしだってそのつもりで…きゃあああーーーーー!!!!!」
――そう、使えないの。さっきからずっとそうしようと思ってるのにダメなの。そう言えば、あの光の弾も出せなかったっけ。だけどヤムチャは、あたしは気を高めることはできてるって言ってた。そう、熱が入ってたせいで気が高まってたって言ってたわ。買い物してる時と、買い物するって決めた時。それなら――
…ダメよ!こんな時に買い物したいと思えるわけないわーーーっ!!
あたしは思いっきり心の中で叫んだ。永遠とも思える闇の中での一瞬の長い時の後で。いいとこ100m強しかないはずの落下距離が、果てしなく長く感じた。何て言うんだっけ、こういうの――
…………ゾーン現象?

いつの間にか瞑っていた目を開ける前に、感触に気づいた。
肩に触れる感触。ちょっとごつごつした感触。岩?ううん、岩じゃない。岩は抱きついてきたりしない。
「…ヤムチャ?」
目を開けそう呟いたあたしは訊いたのではなく、本当にただ呟いただけだった。訊くまでもなく、わかっていた。
「何?あたしたち元に戻ったの?」
だって、目の前にいるんだから。ヤムチャの姿をしたヤムチャが目の前にいて、あたしを抱いてるんだから。さっきあたしがあたしの姿をしているヤムチャを抱いたのと同じように。
そして、さっきあたしがしようとしたように、体を浮かせていた。ええ、完全に宙に浮いていた。他人には説明しがたいこの解決法。おそらくトリックとしか思われないこの状態。
「どうして?何で?今何が…」
とはいえあたしには、それが舞空術だということがわかりきっていた。わからないのは、どうしてこうなったかということだった。
――どうして急に元に戻ったの?今、何かあった?何があった?
何もないわ。何も聞かなかったし、何も感じなかった。気づいたことは何一つ……共通点だってない。
あの時はドームの中で、今は地下都市の中。近代建物と過去の遺跡、似てるどころかまったくの正反対。場所はおろか、時刻も違う。…何?一体何なの、この現象?
「いぃーやったあぁぁぁーーー!!」
「きゃっ!ちょ、ちょっとヤムチャ!」
突然のことにすっかり唖然呆然としてしまったあたしをよそに、ヤムチャは小躍りせんばかりの喜びようだった。というか半ば躍り出して、思いっきりあたしを離したので、あたしは慌ててその体にしがみついた。
「喜ぶのはいいけど、手離さないで!落ちるでしょ!危ないでしょ!」
「はいはいはいはい!はっはっはっは!!」
「ぐぇっ…ちょっと!苦しい!!」
「あ、悪い」
あたしが気を取り直して窘めても、ヤムチャの態度は変わらなかった。一転して抱きついてきたその腕に、今度は締め落とされかけたあたしは、すでに呆れの境地となりながらも、考え始めた。
「もう、気持ちはわからないでもないけど、はしゃぎ過ぎよ。どうして戻ったのかもわからないのに…」
この場の条件を一から。自分が気づけたことについてだけでも。
どうして、さっきあんなに重かったのかしら。重力異常?近くに密度の高い岩石でもあったわけ?でもこの辺は火山岩地帯だし、火山岩って密度は低いから、どちらかというと低重力異常になるはずだけど。それに、人が体で感じるほど強いなんて。重力加速度のせいで倍加してたとしても…
この時のあたしは、まったくヤムチャを当てにしていなかった。ヤムチャが当てにならないってことは、一昨日のことでもう経験済みよ。だから今は、二日ぶりにあたし自身の明晰な頭脳をフル回転。…しようとしていたのだけど、今のヤムチャは当てにならない以上の存在だった。
「どうでもいいじゃないか、そんなこと!」
全身で喜びを撒き散らして、あたしの思考の邪魔をした。その腰の強いことと言ったら。それでいて軽かった。いつもも軽いけど、今はいつも以上に軽かった。
「どうでもよくはないでしょ。どうして戻れたのか知っておかないと、また同じようなことが起こった時に困るじゃない」
「いや、だって、これは所謂、超常現象だろ。そんなのに、理由も原因もあるかよ。第一、もう起こらないって。こんなことが何度も起こってたまるか!」
「えーっ」
超常現象!?そんな言葉で片付けちゃうの!?
「ここは素直に喜ぶ一手だろ!」
ダメね。もうまったく脳みそ使ってないわ。完全な脳筋人間に戻っちゃった。
「それより、足、地面に着いてるぞ。もうしがみつかなくても大丈夫だぞ」
おまけに鈍い。ここで、ヤムチャがめちゃくちゃ明るい声でそんなことを言ったので、あたしはしかたがなく建前を捨てた。
「だって、なんか怖いんだもん、ここ。変にひんやりしてるし、真っ暗だし…」
そう、これが本音よ。足が着いたのなんて、気づいてる。気づかないわけないわよ。あたしはヤムチャとは違って、繊細な常識人だからね。だからこそ、話をやめなかったのよ。怖い時には他のことを考える、そんなの当たり前でしょ。あたしだって、終わったことをいつまでもぐだぐだ考えていたいわけはないわよ。だけどね、喜びを享受するには、嫌な感じがし過ぎなのよ、この穴の底。
「よくそれで飛び降りようとか思ったもんだな。じゃあ、もう地上に戻るか」
えっらそうに。さっきまであんなによたよたしてたくせに。男になった途端に強気になっちゃってぇ。
瞬時に頭に浮かんだその返事を、あたしは口にはしなかった。違う意味で、ヤムチャの言葉に頷けてしまったから。
どうしてあたし、こんな穴に飛び込もうと思ったのかしら。どうして、下で通路と繋がってるって思ったの?そう、穴底はどこにも繋がっていなかった。僅かな光すら差さない、完全なる闇の世界。どうして気づかなかったのかしら。真っ暗なのは、見てわかってたはずなのに。でもなぜか、引かれるように…気がついたら飛び降りてて…
……
…………
やがて心身共に無言になってしまったあたしは、結果的にヤムチャと同じところへと行き着いた。
あまり深く考えない方がいいわね。確かに、科学的じゃない事象のような気がするわ。超常現象なんかありえないって言い切れる立場じゃないのよね、あたし。空を飛ぶ男と付き合ってるし、超能力を使う知人はいるし、しっぽの生えてるやつだって知ってるし。きっと、ここのもそういう類よ。そうね、妖精でも住んでたのよ、きっと。…そう思っておく方が無難だわ。
「それにしたって喜び過ぎよね、あんた。そんなにあたしが嫌だったわけ?」
「まさか。嫌じゃないからこそ、自分とは別人であってほしいんだよ。自分を愛することはできないだろ?」
「昨夜できたけどね」
「…おまえそれ誰かに言うなよ?」
「さぁね〜」
努めて軽口を叩きながら、あたしはヤムチャに身を任せた。ヤムチャはゆっくりと飛んで行った。徐々に薄明るくなってきた穴の中で、しがみついていた手を緩めて、あたしは思った。
やっぱり、運んで行ってもらう側の方が楽ちんよね。なんてことを。


地上に出た後は、洞窟ホテルで一休み。体の欲求に従って、コーヒーフロートをオーダー。で、そのアイスクリームをスプーンで掬った瞬間、思い出した。
「あっ!」
ほぼ丸二日前、同じようにコーヒーを飲みながら話したことを。とはいえ、その時と今とでは、話相手が違っていた。
「どうしたんですか、ブルマさん」
「何かおもしろいもの見つけましたかー?」
「あ…なんでも!なんでもないわよ」
すぐさま飛んできた同席者の突っ込みを、あたしはおざなりにあしらった。双子たちはきょとんとした顔で、さらなる突っ込みを入れてきた。
「嘘ぉ。だって、今思いっきり声上げましたよ」
「ブルマさん、今日ちょっと変ですよね。あんまりお喋りしないっていうか、おとなしいっていうか」
「ひょっとして口内炎でもできたとか?」
「うるさいわね、放っときなさいよ。だいたいその言い草は何よ。『おとなしくて変』とか、失礼だと思わないの?」
「えー?…じゃあ、怖い?」
「全然違うじゃない!」
あーもう、ヤムチャのやつ、早く戻ってこないかしら。さっさとこの子たちと離れたいわ。
あたしは眉を潜めて、カフェの片隅を見た。ヤムチャはまだ電話をしていた。C.Cに、双子に借りた携帯電話で。そんなの後でいいって言ったのに。わざわざ双子に声かけてまですることないって…それはまあ、言わなかったけど。っていうか、言う前に声かけちゃったのよね。
まったく、いつの間にか気軽に物を貸し借りする仲になっちゃっててさ。この子たちがヤムチャに声をかけてくるのはわかるんだけど、その逆もありとはね。そうと知ってたら、やっぱりうんと冷たくしてやっておいたのに。失敗したなあ。
そして、失敗したことはもう一つあった。それが、先にあたしが声を上げた理由だった。
…早々にヤムチャが言ってたのよね。頭と頭をぶつけてみたらって…あれ、ひょっとして核心だったんじゃない?
頭がぶつかったような気がしたもん、あの時。そうよ、いきなりのことでそれどころじゃなかったけど、確かにぶつかった。それで何か、変な感じした…何ていうか、頭の中が真っ白になったみたいな。それで何かが繋がったみたいな…みたいみたいで、何の証拠もないけど。あの時のヤムチャと同じようなこと言ってるなって、自分でも思うけど…
少し虚しい気持ちになって、あたしは思考を閉じた。元に戻っても、何もわからないなんてね。世の中には科学で計り知れないことがいっぱいあるわね…
やがて、ヤムチャが携帯電話を顔から離した。どうやら終わったようね。それであたしは気分を取り直して、アイスが溶けて茶色く濁ったコーヒーに口をつけた。
そうね、楽しみましょ。終わらずに済んだこの旅行を。もうなーんにも考えずに、ね。
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