Trouble mystery tour (10) byY
レストランのドアを後ろ手に閉めて視線を中へと向けた瞬間、俺は首を傾げた。ブルマの先を歩いて席へと案内するディレクトールの後姿を見て、また首を傾げた。手渡されたメニューを見て、さらに首を傾げた。
「南部料理じゃないんだな」
少しだけ声を潜めて俺が言うと、ブルマはこともなげに言い放った。
「南部料理レストランにはあまりいいメニューがなかったのよ。ほら、南部料理ってちょっと荒っぽいから」
…飽きるの、早いな。
まだまだ旅行気分から醒めたというわけではないようだが、それにしても早い。半日前にはリムジンの中からさえも南部の食べ物に手を出していたというのに。…まあ、南部料理がさほど繊細じゃなさそうだってことは、あの時飲んだワインの味から俺にも想像がつくけどな。それに、『どうしてもこれが食べたい』なんて食い下がられるよりは楽かな…
小さな呆れを呑み込みつつ、俺はメニューを開いた。――フレンチレストランのメニュー。初めてブルマにフレンチレストランに連れていかれた時は、これに大変手を焼いたものだ。料理名を見ても何が何だかわからなかったし、説明されても今一つわからなかった。食材の名前を出された時点でわからなくなってしまったものすらあった。でも、今ではほとんどわかる。…そんなに個性的な料理はないな。デザートの幅が広いのが売りってところか。ま、だいたいフレンチってものは、男より女の方が食べたがるものだからな…
俺は努めてそんなことを考えていた。だが、やがて気づいた。気づかざるをえなかった。
「…何だよ」
先ほど俺を困らせたものに似て非なる視線。肉料理に目を通すのをやめて顔を上げると、ブルマがにっこり笑ってこう言った。
「あんた、立ち直り早いわよね」
「放っとけ」
そういう、傷口に塩を塗り込むようなことを言うのはやめろ。
せっかく淑女然とした格好をしてるんだから、せめて表向きだけでもそうしておけ。気合い入ってるんじゃなかったのか。
いつものように心の中で、俺はぼやいた。それからメインを選びにかかった。ブルマがすでにメニューを閉じていることに気がついたから。そして、俺のオーダーに口を出す気配がないことにも気づいたからだ。
フレンチを食べる時は、いつもたいがいメインを別のものにして、シェアしたりするんだよな。したり、というのは時にブルマが俺の皿を横取りすることもあるからだ。『こっちの方があたしの好み』とか言って。…まあ、とにかくそれで俺は考え事をして時間を潰していたというわけなのだった。敢えて昔のことを考えていたのには、また別の理由があったが。
今の気分を流すため。より正確に言うならば、今さっきまでの気分を流すため。…頭にきたってわけじゃない。つい怒鳴っちまったけど。だって、ブルマがあまりにもあからさまに視線を寄こしてくるからさ。意味ありげな視線ってやつを。いい意味ではまったくなくな。結局からかわれたわけだが。…でも、俺はそれを流すことにした。ブルマがこの旅行にうんと気を入れているのを知っていたからだ。これまでの半日、ずっとそうだった。そして、今もそうだ。
目に鮮やかな深紅のドレス。胸元に輝く大きなダイアモンドのブローチ。これまでに見たブルマのドレス姿の中でも1、2を争う完璧に近い派手さだ。あ、『派手』っていうのは嫌味じゃないぞ。こいつ、派手な服似合うから。そこに俺がダークグレーのスーツっていうのは、派手過ぎだなとは思うけど。派手過ぎっていうかキメ過ぎだよな。
「なんか、いつもと雰囲気違うな」
最後に思ったそのことだけを、俺は口に出してみた。一般的にはごく普通であることに、各々食べたいメニューをオーダーした、その後で。普段なら首を傾げるほどのことではないことに、さりげなくグラスを合わせた直後に。
「何が?」
「店の雰囲気がさ。フレンチってカップル客ばかりだと思ってたんだけど、案外、一人客っているもんなんだな」
少し迂遠だったかな。でも、俺は俺たちの服装そのものを気にしたわけじゃないんだ。なんていうか、この内装も客層も落ち着いたレストランの中では、雰囲気を漂わせ過ぎてるんじゃないかと思ったんだ。カップルの雰囲気ってやつをさ。もちろん、嫌だというわけではないが。
でもブルマの反応は俺の意図していた方向のものではなかったので、やっぱり迂遠過ぎたのかもしれない。
「ホテルのレストランだからでしょ。特にここは世界遺産に指定されてる街だし。一人で来る人だっていっぱいいるわよ」
聞いたところ最もなことを言ってから、やや多目に残っていた食前のシャンパンを強引に飲み切った。そこで俺は一端口を閉じた。アミューズ・ブーシュの皿が運ばれてきたからだ。そしてその間に考えもした。
よしんば話が通じたとしても、『目立ち過ぎ』なんてブルマが言うわけがない。ブルマは目立つの好きだからな。
新しいブルマのグラスにドレスと同じ色のワインを注いでいると、耳にこんな言葉が入ってきた。
「あたしだって、本当は一人でくるつもりだったしね。女の一人旅っていうのも格好いいじゃない?」
「え、そうなのか?」
俺は少し驚いて、自分のグラスにワインを注ぐ手をとめた。いや、少しじゃなくだいぶん驚いて。だって、まるでさも当然というような顔をして俺を誘ってきたのに。のみならず、了解も取らずに話を進めたくせに。
「うん。だけどペアチケットだったから。最初はプーアルでもいいかなって思ったんだけどね」
ブルマの答えは、ワインを注ぐことそのものを俺に忘れさせた。
…プーアルと90日?それは…………一体どういう旅になるんだろうか。
想像つくようなつかないような…ブルマはともかく、プーアルは楽しいんだろうか。少し考えてみただけで、『すまないプーアル』といった気持ちになるんだが。
「でも、あんたの方が荷物持ちになると思って」
ブルマは笑ってそう言葉を続けた。俺はというと、気がつけば言っていた。
「ああ、そうですか」
プーアルにその任が当てられなくてよかった。そう思う間もなかった。『気が大きくなってる』。確かにそうかもしれない。だけど、こう思ってしまったんだからしかたがない。
さんざんやきもちを焼いておいて、そういうことを言うのか。だいたい、荷物持ち扱いしてるとは思えないほどに、気分出してるじゃないか。…さっきから妙にカラッとしてきてるけど。それにも飽きたのかな。
結局のところ、俺の怒りは拗ねるというのと同意語だった。…だって、せっかく付き合ってやろうと思ったのに。俺の感じた旅情は一体何だったんだ。そしてそのことに気づいた直後、気がついた。
「…何だよ」
気づきたくなかったが、気がついた。ブルマがものすごく意外そうな目で俺を見ていることに。そして、気づくと同時に言ってしまいそうになった。何も言われてないにも関わらず、また言ってしまいそうになった。
『ああ、そうですか』。その気になっているのは俺だけですか…と。
でも、言わなかった。いくらなんでもそれを言ってしまっては、男の面子が立たな過ぎる。などと思ったわけではなかった。
「あーん」
単に、ブルマに機先を制されたからだった。ただ一言そう言って、ブルマがにこやかに笑ったからだった。今日何度かしてきたように、一口を刺したフォークを俺に差し向けて。俺は一瞬にして呆気に取られて、完全に身を固めた。
だって、全然『単に』じゃない。『ただ』なんてこともない。アミューズなんて、食べさせる必要のない一品だ。…ブルマがこんな風に機嫌を取るなんて。これは夢なんじゃないだろうか。そう思ってしまうほどに、意外だった。
だから、俺は最後まで動けなかった。そしてそれはある意味では、非常に良い結果をもたらした。
「なんちゃって」
その言葉と同時にブルマが、その一口を自分の口に入れたから。それはそれは楽しそうに。あきらかに俺に向けたものではない、上機嫌の笑顔で。
「あのなあ…」
呆気が脱力に、硬直が弛緩に取って代わった。だからブルマが行儀悪くフォークの先を俺に突きつけた時、俺に傷つくほどの繊細さは残っていなかった。
「今、迷ってたでしょ、あんた」
「うるさいな。…その石全然効いてないな、おまえ」
だから、かつての繊細さをも投げ捨てて、そう言ってやった。今ブルマが身につけているものの中で唯一点だけ派手と言いかねる、先ほど買ったばかりのブルーのピアスを揶揄してやった。…ああ、そうさ。聞いてたさ。聞いてない振りして、聞いてたさ。だって、ちゃんと付き合おうと思ってたんだからな。ブルマがピンクを好きだということも、それがない中ではきっとブルーを選ぶだろうことも、でも石の意味なんか気にもしていないだろうことも、全部わかってたさ。そんなの当たり前だろ。だって好きなんだから。
ブルマには、俺の言葉を気にした様子すらなかった。間を置くことも、ピアスに意識をやった気配も、それどころか俺の顔をすらたいして見もせずに、伏し目がちにカトラリーを操りながら言った。
「こんなのに頼ってるようじゃダメよ〜」
俺はすっかり黙り込んだ。開き直ったやつに――しかも笑顔で開き直ったやつに、返す言葉などあるまい。
は〜ぁ。
もういい。いいよもう、荷物持ちで。90日間、立派に務めを果たしてやるよ。


食事をしている間、ブルマはずっとそんな感じで上機嫌だった。俺はというと、できる限りは真っ正面から向き合い、時に少し流してみたり、ふいに無言にさせられたりしながら、ブルマに付き合った。
まあ、だいたいいつも通りだ。…実を言うと、いつもよりはだいぶんあからさまにからかわれたのだが、俺は態度を変えることができなかった。しょうがないよな。好きなんだから。まあ、敢えて機嫌を損ねることもあるまい。…と、考えることにしよう。
最も、そう考えることにしたのは、最後の最後、食事がデザートに差しかかった頃だった。イチゴのデザートを、ブルマが本当においしそうに口にしているのを見た時。俺はこういう単純に嬉しそうなブルマを見るのが好きなんだ。そしてブルマは、好物を食べているからといっていつも笑顔になるというわけではないのだから(機嫌が悪くてもイチゴはほぼ絶対に食べる。悪いままに食べる)、これは大事にすべき時なのだと思った。
そんなわけで俺は、軽い足取りでレストランを出て行くブルマの後をいつものように追い、他には誰もいないエレベーターに乗っても姿勢を崩さないブルマを見て心を緩め、レディファーストからではなく自主的に部屋のドアを開けた。やっぱり見た目だけの淑女より、それなりに体裁も整えてくれている淑女の方が、やりがいもあるというものだ。中身までは要求しない。それは無理…というより、そうなってしまっては別人格だ。
とはいえ、その後目にしたブルマは、少なくとも半分くらいは別人格になっているように思えた。
部屋に入って俺が最初にしたことは、ブルマの姿を探すことだった。といっても、ほとんど一瞬で見つけられたが。ブルマはテラスで夕陽を見ていた。着ているドレスと同じ色の夕陽を。ははあ、このドレスは夕陽用か。そう気づくのに時間はかからなかった。今日のブルマの気合いの入り方は、実にわかりやすい。グランニエールフォールズへ行った時には、ブルーのドレスを着ていた。まあ、本当は水は青ではないんだけどな。そんな重箱の隅をつつくようなことを言う気は、俺にはない。
「すっごく遠くに来たっていう感じがするわ。こんなに遅い夕陽、あたし初めて」
「ああ…」
俺の顔を見ずに言ったブルマに対し、俺は夕陽を見ずに答えた。自然の自然な変化の美しさよりも、前述の通り、ブルマの思考回路の方に頭がいっていたからだ。
ブルマは非常に鋭く俺の心理を読んだ。この時はまったく思っていなかった事実までも読んだ。
「別に無理して合わせなくってもいいわよ。どうせ見たことあるんでしょ。山とか空とかそのへんで」
でもその声は、全然鋭くはなかった。おまけに笑顔まで伴っていた。それで俺はうっかり答えてしまった。
「空からはないぞ」
すぐに自分の失敗に気づいたが、それを後悔することはなかった。ブルマは咎めるどころか、俺から夕陽へと視線を流して、実際に口でも俺の態度を流した。
「見たことあるものをないなんて言う必要はないわよ。何度見たって夕陽はきれいよ」
「…まあ、そうかな」
またもや俺は夕陽を見ずに答えた。いや、この状況で景色を見ろっていうのが無理ってもんだ。だって、同じような会話を、昼間にはまったく逆の展開へと向かってしたんたぞ。一体どうなってるんだ。酔いだけで片づけていいレベルなのか、これは。
するとブルマがいきなり声を尖らせて言った。
「あんた、気遣いがズレてるわよ。ここは『そうかな』じゃなくて『そうだな』でしょ」
思いっきり眉を上げた、顰めっ面で。…難しいな、これは。まさに半分だけ別人格だ。優しいんだか厳しいんだかわからん。
それでも俺は、気圧されていたわけではなかった。呆気に取られていたわけでもない。そうはならないほど、空気が緩やかだった。いつもとは違う場所にいるせいだろうか。今俺の横に立って夕陽を見ているブルマは、普段俺のどこかにくっついて夜景や星空を見ている時とはまるで違っていた。それっぽ過ぎず、元気過ぎず。一般的には、至って普通の感じ…
だから俺もごくごく普通の感覚となって、ブルマの肩に手を伸ばしかけた。するとブルマが急に身を翻した。
「あたしお風呂入ってくる!また後でね」
そして、大変元気な声でそう言った。一瞬前までの夕陽を見ていた雰囲気の名残は、すでに欠片もなかった。俺はすっかり呆気に取られて、黙ってその後姿を見送った。心の中では呟きながら。
どうしていきなりそうなるんだ。…ブルマの気分はさっぱりわからん。


一時間ほど経った頃、ブルマがバスルームから戻ってきた。
「早いとこお風呂入った方がいいわよ。今すっごくいい感じだから」
そして、何でもないような顔をしてそう言った。俺はというと、目を逸らすまでにはならなかったが、それでも言葉には詰まってしまった。
何とも微妙な服を着ているな…
ドレスなんだか下着なんだか、さっぱりわからん。武天老師様にならわかるのかもしれないが、俺にはわからん。わかるのは、やっぱりピンクが好きなんだな、ということだけだ。一体どういう気合いの入り方なんだろう。だらしないわけでも、いやらしいわけでもないから、いいと言えばいいけどさ…
ブルマはそのまま横を通り過ぎていった。まるで廊下で顔を合わせた時のように。すれ違いざま、甘い香りが漂ってきた。俺は深くは考えなかった。それでも充分に思った。
なんか、かわいくなってるな。
少し前からだ。雰囲気が妙にかわいい。妙にというか、普通にかわいい。外されたけど、あの時も実を言うとちょっとかわいかった。女の、というより女の子のかわいさだ。夕陽を見るとそうなるのか?あまり聞いたことのない話だが。
俺はすっかり気を緩めてバスルームへと向かった。そしてブルマの言った『いい感じ』というやつを味わった。いつものものに似て非なる、その感じを。一日の汗を流す心地よさ。いつもと違うのは、窓から地のない景色が見えることと、一人でいながら一人ではないことを感じさせる、この香りだ。男は自分ではバスアロマなんて使わない。C.Cにいる時にも、使ったり使われたりすることはなかった。さらに、通常俺は風呂から夕陽を眺めることはない。一日の終わりはいつだって闇だ。そういう意味では俺も初めてだな。こういう夕陽は。
どうやら俺にとって旅気分というものは、外でのんびりしている時よりも、その他雑事にかまけている時により感じるものであるらしい。だから、外にいる時に反応が悪いなどとなじられてもしかたがないのだ。などと自分を納得させながらバスルームを出た俺は、またもやブルマの姿を探すこととなった。そしてまたほとんど一瞬で見つけた。ブルマはまたテラスにいた。テラスのチェアに腰かけて両頬杖をついて、飽きもせず今だ空に残っている夕焼けを見ていた。
「寒くないか?」
っていうか、その格好で外へ出ていいのか?ホテルの階上じゃなかったら、絶対にとめるんだが。難しいところだ。
俺が声をかけると、ブルマはすぐさま振り向いて、軽い笑顔を閃かせた。
「平気よ。ねえ、ワイン飲も」
その言葉は、俺を少し嬉しい気持ちにさせた。たぶん待ってたんだと思う。たいしたことじゃないんだが、やっぱりかわいいよな。
「TVの下のドアのところに、ワインとグラスが入ってるから」
その言葉にも従うと、なるほど言われた通りの物があった。ワインが3本と、グラスがいくつか。赤が1本に、白が2本。風呂上りはすっきりした白、だったな。
そう思いながら、俺は赤ワインのボトルを取った。記憶が脳裏を掠めたからだ。
テラスへ戻りグラスとワインをテーブルに置くと、ブルマが満足そうに微笑んだ。
「うん、サービスにしては気が利いたもの置いてるわね」
それで俺は、自分の記憶が間違ってはいなかったことを知った。ワインについては、名前はとうてい覚えられないが、ラベルを見ればだいたいわかる。なにせいつも注いでいるから。店ではウェイターが注いでくれることも多いが、それ以外では絶対に俺の役だからな。
「じゃあ、乾杯。そうね、…何に乾杯すればいいかしら…」
やがて発されたブルマの言葉は、少しばかり俺を意外な気持ちにさせた。乾杯するのか。食事の時にしなかったから、もう飽きたのかと思ってた。今日はもう、乾杯ばかりしているからな。…ハイジャックされる前の飛行機の中でだろ。着陸後、リムジンの中で立て続けに2回。ケンカする前、アンバサダーラウンジで…
「今日一日が無事に終わったことに乾杯」
祈るというか感謝するというか、とにかく安堵の気持ちに満たされて、俺は言った。『今ここに二人でいられることに乾杯』。正確にはそう言いたいところだが、ブルマはきっと誤解するだろう。そもそも俺も、そういう意味しか篭めてないしな。
だが、これでもまだまずかったらしい。『無病息災』を祈って乾杯、みたいなものだと俺は思ったんだけどな。とにかくブルマは一瞬にして笑顔を捨てて、軽く詰め寄ってきた。
「…あんた、プーアルみたいなこと言わないでくれる?」
とはいえ、話は全然わからなかったので、俺は当然、訊き返した。
「プーアルは何て言ったんだ?」
「あんたが無事に帰ってこられればそれでいいって。あたしはお土産何がいいかって訊いたのよ」
「…なるほど」
プーアルもわかっているな。そうだろうな。あいつが一番、俺とブルマのケンカを見てきているからな。
俺はすっかり気を緩めていた。一言でいうと、油断していた。それに気づいたのは、次のブルマの台詞を聞いた時だ。
「何が『なるほど』なのよ」
単純な訊き返しではないことは、すぐにわかった。俺は即座にあるべき自分の姿を思い出して、ブルマを宥めにかかった。
「い、いや。だってほら、いろいろあったじゃないか。ハイジャックとか、旅客機操縦しなきゃならなくなったりとか」
「あれはあんたが、犯人の腕を折っちゃったからでしょ!」
「だってあの時はあれがベストだと思ったんだ」
「どこがベストなのよ。考えなしなんだから!」
『おまえら、またケンカしてんのか』。もしウーロンがいたら絶対にそう言うであろう事態に、場はなっていた。そう、それ以上のものではなかった。それが俺にはわかっていた。
「とにかく。ああいうことは普通はないから。そうね、じゃあ明日からに乾杯ね」
「明日はどうするんだ?」
「明日は完全自由行動。北はグランニエールフォールズ以外にたいしたものないから、南を中心に回るわよ」
わかってはいたが、それでも実際に場が沈着した時には、やっぱり胸を撫で下ろした。
あー、危なかった。
雰囲気が柔らかかったから、気を緩め過ぎた。ブルマはかわいくても、厳しさは失わないんだった。おちおち気を抜けやしない。
は〜ぁ、疲れる…
…とは、俺は思わなかった。
男はな、実のところはいつどんな時でも、完全に気を抜いてはいないんだ。一人でいる時以外はな。俺が武道家だからとか、相手がブルマだからとかは関係なく、男なら誰だってそうだ。…言っとくけど、自分に言い聞かせているわけじゃないぞ。
そんなわけで、俺は総括的には心穏やかに、ワインを口にした。今日一番雰囲気なく終えた乾杯のワインを。なんだか、回を増すごとに雰囲気がなくなってきている。やっぱり飽きてきているな。早いなあ。…このワインもな。
赤オレンジ色のワインを一口飲んで、俺はそう思った。俺はワインの味には全然うるさくはないが、これまでに数本飲んだ同種のワインの中では、これは一番味が薄い。まずくはないのだが、正直言って物足りない。所謂、寝かし足りない、というやつだ。でも、ブルマはおいしそうに飲んでいる。それはそれは幸せそうな顔をして飲んでいる。好きなんだよな。その気持ちはよくわかるよ。
だから、俺は何も言わなかった。ブルマの笑顔を肴にして、ワインの味を補強した。少し足りない甘やかさを補った。こういうものは味じゃない。雰囲気なんだ。
やがてまた俺に役目が回ってきた。空になったブルマのグラスにワインを注いでいると、ブルマが頬杖をつきながら水を向けてきた。
「ねえ、今日楽しかった?」
俺は少し考えた。今日のブルマはこういうことに関しては鋭いから。思ってもいないことまで読み取るから。…本当の本当に思ってもいないことまで、そういうことにされてもいたから。
「忙しかった…かな」
本当は『楽しかった』って言ってやりたいんだけどな。でもそれは俺自身、違うと思ってしまっているんだ。その一言を言い切るには、今日という日は難し過ぎるんじゃないか。強いて言えば『いろいろあったけど、楽しかった』というところだが…それを言うにも、いろいろあり過ぎなんじゃないか。
「何それ?」
「少し気忙しいっていうかな。…ああ、疲れたわけでは全然ないんだ。ただ読めなさ過ぎて…うん、楽しかったよ。楽しかったけど」
楽しかったけど、大変だった。ブルマの気分に付き合うのが。いつになく上機嫌で甘えてきていたかと思えば、突然怒るし。やきもち焼いたかと思えば、おちょくり出すし。そして今はまた上機嫌で、でもそのくせ妙にカラッとしてて……いや、よそう。
いいんだ。俺は荷物持ちだから。そう、荷物持ち兼エスコート役兼宥め役だから。どうせいつものことだ。
「けど、何よ?なんかわけわかんないんだけど」
「いいさ、わからなくて。まあ放っとけ。どうせ荷物持ちだから」
俺はすぐには気づかなかった。自分に言い聞かせるその言葉を、うっかりぽろっと溢してしまっていたことに。気づいたのは、ブルマの視線に気づいた時だ。不思議そうな呆気に取られたようなその目にちらと不快が浮かんだのを見て、本当に気づいた。
ブルマは嫌みと捉えかねない。ということに。
「あっ、おまえ――」
だが俺は弁解することはしなかった。むしろ言葉を呑み込んだ。ブルマがいきなりテーブルに突っ伏して、肩を震わせ始めたからだ。両腕で頭を抱え込むようにして、髪で完全に顔を隠して。一体何をしているのか。よもやそれがわからないはずはなかった。――どうしてここで笑うんだ。嫌みと取られなかったのはいいとしてもだ。一体どういう態度なんだ、それは。
俺はすっかりやさぐれた。それでも、ブルマの前に留まり続けた。理由は言わない。さすがにこの状況で、それを口にしたくはない。とにかく、見えないブルマの笑顔を目の前に、ひたすらワインを飲み続けた。あー、薄い。それなのに、渋い…
やがてブルマが顔を上げた。笑顔の余韻をそのままに、こともなげに言い放った。
「あー、苦しかった。…あ、何でもないから」
「ああ、そうですか」
これにはさすがに俺もそう返した。まったく、何てやつだ、こいつは。それで流したつもりか。とことん甞めきってるな。
俺は再びワインに手を伸ばした。するとそれを遮るように、ブルマが口を開いた。
「じゃあ、荷物持ちさん。さっそくだけど、ちょっと荷物運んでよ」
「ああ、はいはい」
まったく俺の心情を読まない指令の言葉。それに俺は、惰性と自分の意思で答えた。まあ、あれだ。今のは俺の失態だ。ブルマは悪くない。…態度以外は。でもそれを言ったらさっきからずっとそうだ。だから、今さらわざわざ自分からソファを選ぶこともない。
「何だ?明日の分か?」
だが、さらに惰性で訊いた俺に返された態度は、さっきまでとはまるで違っていた。
「あたし。ベッドまで運んで。もちろんお姫様抱っこでね」
すでに腰を上げていた俺は、一瞬にして足をとめた。ごく当たり前のように聞こえるブルマの声と、ごく自然に見えるブルマの笑顔がそうさせた。…どうしてそうなるんだ。そんな雰囲気、欠片もなかったのに。もうそういう気分は消し飛んだものとすら思っていたのに。
「嫌なら無理にとは言わないわよ。一人でだって行けるから。でもその時は、あんたはソファで寝てね。『働かざる者食うべからず』って言うでしょ」
ここで一つ、自分の想像が現実のものとなった。でもその声はちっとも厳しくなかったので、俺も緩やかに否定しておいた。
「ソファは嫌だな」
「だったら働くのね」
そんなわけで、俺は自分の役目を遂行した。言われた通りのお姫様抱っこをして、昼間見たあのお姫様ベッドのある部屋へと、ブルマを運んだ。そしてベッドの天蓋から落ちるレースを潜った段になって、ようやく気がついた。
妙にかわいらしい、色気があるのかないのかわからない、ブルマのピンクのドレスの意味に。…そうか、そういう気分だったのか。なるほど気がついてみれば、これは確かにお姫様の下着姿だ。
ベッドにその体を横たえると、尊大さだけはお姫様らしくブルマが言った。
「はい、ごくろうさま」
「どういたしまして」
それで俺は役目を終えた。ここから先は完全に自由意思。宵闇の月明かりに透ける菫色の髪を梳きながら、俺は思った。
お姫様って、こういうことするのかな。しそうにないのがお姫様のイメージなのだが。まあブルマはどう考えてもお姫様じゃないから、いいけどな。
それからブルマの瞳の色を確かめて、キスをした。
当てつけでも、褒美でもなく。宥めるためでも、脅されてするものでもない。
ただ、二人のためだけのキスを。
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