Trouble mystery tour Epi.2 (2) byY
グランニエールフォールズで俺が指折り数えた時、双子たちは驚いていた。その程度には俺とブルマの付き合いは長い。ブルマと付き合うことになって――というより会ったことによって、俺の生活は大きく変わった。ブルマの生活に引き摺られて。荒野にいては見られないこともたくさん見てきた。そればかりか、きっと相手がブルマでなかったら知りようもないだろうことも。ブルマのステータスはかなり特殊だからな。でも、こういうものを実際に間近にするのは初めてだった。
――照明の落とされたフロアに点在する、柔らかな灯り。重々しく緩やかなテンポで奏でられる生演奏。華やかな衣装に身を包んだ数組の男女。ウェルカムパーティと銘打ったダンスパーティ――
そこに漂ういかにもな金持ちの雰囲気は、ある意味俺にとって最も縁遠いものだった。だって、ブルマはこういうものには無縁の金持ちだから。こういう上品さとか、優雅さとか、格調の高さみたいなものには。どちらかというと、下町のちゃきちゃきっ娘…
「じゃあ、とりあえず一周ね」
だが、そのちゃきちゃきっ娘がけろりとした顔でそう言ったので、俺はかなり驚いた。
「俺、ダンスなんかやったことないぞ」
「あたしだってないわよ。いいのよ適当で。他の人だって、どうせ格好だけなんだから。気分よ、気分。とりあえず片手繋いで、もうかたっぽはこう腰において…」
でもすぐに安心した。やっぱり、ちゃきちゃきっ娘だった。それとも、きっぷのいい下町女かな。とにかくそれで、俺の注意は元に向いた。やっぱりけろりとした顔で、ブルマが俺の右手を、普段外にいては絶対に置かない場所に置いたからだ。
「何かやらしくないか?」
「そんなこと言う方がやらしいの」
ああ、そうですか…
こいつ、さっきのこと根に持ってるな。これはしばらく言われるな…
そんなことを考えながら(念の為断っておくが、ブルマの言う『そんなこと』ではない)公明正大に体をくっつけ合っていると、おもむろにブルマが吐息と文句を吐き出し始めた。
「だいたいそんなこと気にするくらいなら、朝みたいなこと言うのやめなさいよ」
「朝みたいなことって?」
「寝不足がどうとか言ってたでしょ」
俺はすぐにはピンとこなかった。すでに気分は切り替わっていたし、眠気もとうに抜けていた。そもそも起き抜けの眠気が残っていただけで、寝不足というほどではない。…今のところは。
「…ああ、あれな。でも俺はただ、昨夜は遅かったって言っただけだぞ。普通はそんな深読みしないだろう。俺があのくらいの時はそんなこと全然考えなかったけどな」
甘い髪のにおいに鼻腔をくすぐられながら、俺は少しだけ過去の自分を思い出していた。こんな会話をしているということ自体、あの頃の自分には信じられなかっただろう。ダンスという名目があるとはいえ、人前でこうも女と体をくっつけ合っていることも。こんな情緒溢れる雰囲気の中に身をおいていることさえも。
「それはあんたがガキだったからよ」
つまるところ、俺は結構な感慨を味わっていた。だから、ブルマのこの言葉に反応したのは、当然と言えば当然だった。
「そのガキと付き合ったのは誰だよ?」
俺はブルマの感覚を否定したかったわけではない。あの頃の自分がガキだったということは、自分自身がよくわかっていた。今それを認めたばかりだ。だから、俺の神経に障ったのは、ブルマの言葉ではなく態度そのものだった。要するに、『ここでそれを言うか?』というやつだ。ブルマの口が悪いことなんて知ってる。お嬢様らしく振る舞えなどと無理なことは言わない。愛を囁くという奇跡だって望まない。でも、それにしたって…
そうしたら、ブルマはこんなことを言ったのだ。
「何偉そうに拗ねてんの。だいたい、あたしは付き合って『あげた』んでしょ。あんたが付き合いたいって言うから」
ちょっと待て。
ここで俺は足を止めた。フロアを一周したからでは、当然ない。
「何言ってんだ。おまえだってそういうこと言っただろ。一緒に住もうって言ったのはおまえだぞ」
だいたい俺は、そういうことは口に出しては言っていない。気がついたらそういうことになってたんだ。それもどうかと思うが…いや運命的、そう運命的だよな。
「あたしはただ、西の都に家があるから来ないか、って言っただけよ」
「同じだろうが!」
「それがわかるんなら、自分の言ったことの意味もわかりなさいよ!」
すでに俺たちは鼻先つき合わせていた。そんな距離にも関わらず、大声を張り上げていた。そしてここは、雅な音楽に人の囁き声のみ混じる静閑なダンスフロアだった。だから、周囲の視線が俺たちに注がれたのは当然だった。でも、俺がそれに気づいたのは、ただの偶然だった。
単に、その音楽が一時途切れたからだ。曲と曲の合間の沈黙が、人の囁き声を際立たせたからだ――視線を伴う囁き声を。
「…カジノ行くか」
「そうね〜…」
できるだけさりげなく肩に手を回して俺が言うと、ブルマは笑顔を引きつらせながらも、思いのほかおとなしく一歩を踏み出した。俺はかなり安堵して、その態度を受け入れた。
…こういう、周りの雰囲気を損なう役はブルマの専売特許だと思っていたのだが。俺もひとのこと言えんな。
それにしても危なかった。過去最高にバカバカしい理由で、ベッドを追い出されるところだった…


「あー、恥ずかしかった!」
ダンスフロアから一歩を出ると、途端にブルマの足取りが荒くなった。おまけに肩をいからせて、思いっきり怒気を撒き散らし始めた。ロビーにいた人間が数人こちらを振り向いたが、俺はそれには構わないことにした。
これくらいなら慣れっこだ。これくらいの態度なら、単にうるさいカップルだ。下手につついて喧嘩を再開されるよりずっといい。
そう、すでに喧嘩は終わっていた。それが俺にはわかっていた。どうしてなのかもわかっていた。売り言葉に買い言葉。それだけのことだったからだ。
「せっかくいい雰囲気だったのに台無しよ。もうあそこには行けないわ!」
「悪かったよ」
「わかればいいのよ、わかれば」
ブルマはすんなりと許しの言葉を吐いたが、俺は胸を撫で下ろしはしなかった。俺はすっかり反省していた。
さっきの言葉。ブルマが俺を逆撫でしたあの態度。そして俺の足を止めさせた一連の台詞。あれこそ、『ああそうですか』で流してしまうべきだった。いつもの俺ならそうできていた。絶対にそうしていた。ブルマが怖いからじゃない。ブルマはただいつものように憎まれ口を叩いただけなんだ。わかりきっているはずのそのことが、なぜかさっきはわからなかった。そして、わからないことがもう一つ。
…この、手。
ブルマの肩に置いている、この手。ただ促すためだけに置いたはずの左手。もう必要ないはずのこの手が、どうしてここにあり続けるのかがわからない。肩を抱いて歩くなんて、普段絶対しないのに。…なんとなく外せないんだ。そして、それほど違和感があるわけでもない。
いつもながらの軽口。いつもならしないはずの喧嘩。いつになく感じられない違和感。いつものようでもあり、いつものようでもなく…
ひょっとして、浮き足立ってるのかもな、俺。
「これからどうする?」
情けないというよりは妙に落ち着いた気分となって、俺はブルマに水を向けた。ブルマは当然のように俺に答えた。
「どうするって、カジノに行くんでしょ」
というより、当然だな。俺が行くって言ったんだから。だが、俺は至極当然のこの流れを、一度断ち切っておくことにした。
「それは後でいいさ」
「じゃあ外に行きましょ。あたしジャグジー入りたい!」
ブルマはすぐさま笑顔となってそう言った。俺は一も二もなくその態度を受け入れた。
俺はブルマに遠慮したわけではない。なんとなく、この方が自然だと思った。別に、自分がでばっていたなどとは思わない。それでも、なんとなく。
…それに正直言って、やっぱりそのドレスは脱いでもらいたい。


ジャグジーは船首デッキにあった。他にはプール、ウォータースライダー、ダイブショップ、プールバー。少しばかり海の風を浴びると、ブルマは宣言通りジャグジーへと向かって行った。俺は脱ぎ捨てられていったパーカーワンピースとサンダルと共に、デッキチェアへと座り込んだ。特に何を思うこともなく。
強いて言えば、本当にピンクが好きなんだな、というところかな。落としていったものもそうだし、そのビキニの水着も、少し強烈過ぎるくらいのピンクだ。派手というかなんというか、リゾート感溢れまくりだ。でも、別に違和感はない。さっきのドレスもピンクがポイントではあったようだが、あれとは感覚が全然違う。うん、やっぱりこういう健康的な方が好きだな、俺は。
そんなわけで、俺はすっかり気を抜いて、宙を見上げた。青い空。その下にある白い高層の建物。周りを走る特殊舗装のジョギングトラック。海を見下ろす巨大なプール。実に人工的だ。でも全然、無機質には感じない。そこかしこに溢れ返る人々が、みな楽しそうに見えるからだ。そして俺も、退屈というわけじゃない。こうして太陽の光を浴びながらただ周りの風景を見ているだけでも、なかなかにいい気分だ。そうだな。たまにはのんびりするのもいいかもな。ところどころに好きそうな要素が見当たることもわかったし…
ちょっとジャグジー入ろうかな。俺はそんなことまで考えた。小さな問題としては、ブルマと同じジャグジーに入るか否かだ。あんまり大っぴらにいちゃつきたくないんだけど、別のところに入ったら文句言われそうなんだよな。そう思い、今さっきとは違った理由で周囲を見回したところ、違和感が視界を掠めた。
高層物の中階、客室のある辺りから、妙な速さで落ちて行く黒い点。鳥ではない。ゴミにしては大き過ぎる…
それが船の右舷へと消え去った時、どこかから声が聞こえた。
「人が落ちたぞー!!!」
「人か!」
俺はすぐさま腰を上げて、自分の領域へ踏み込んだ。
やれやれ。のんびりするのも簡単じゃないな。
心の片隅でそう思いながら。


「エンジンを止めろ!」
「救命具を下ろせー!」
叫び立てるスタッフと集まり始めた野次馬を無視して、海中へと飛び込んだ。水はわりあい温かかった。視界もさほど悪くなかった。だから、その少年は苦もなく見つけることができた。デッキへ上がるとすぐにスタッフがやってきたので、俺は少年を引き渡してできるだけさりげなくその場を離れた。
スタッフはそうでもなかったが、周りの乗客たちが少々微妙な視線を俺に送ってきていたからだ。驚いているというか唖然としているというか呆気に取られているというか。不愉快ということはなかったが、そう嬉しいものではなかった。物陰からこっそりと飛んで船首へ戻ると、例によってブルマが軽口を叩いた。
「おかえり。それにしても、ほとんど条件反射ね〜」
「普通は助けるだろ。…あ、サングラスなくしちまった」
「一体どういう感覚よ、それは」
そういう感覚なんだよ。
一体いつサングラスを投げ捨てたのか、それすら覚えていないようなな。無我夢中という意味ではない。俺はあらゆる意味でまったく気をつかうことなく、今、人を助けた。…理解されなくてもしかたがないよな。でもそれにしたって、ああも目を丸くしてひとのことを見ることはないだろう。動物園の動物になったような気分だったぞ。飛んで行ったのは失敗だったな。ハイジャックの時もそうだったけど、どうも報われないよなあ。まあ、そんなに苦労してるわけじゃないからいいんだけどさ。
さして深くもない気持ちを片付けると、喉元から無意識の圧力がやってきた。
「っくしゅっ!」
「ちょっと大丈夫?風邪なんかひかないでよ」
「鼻に水が入っただけだよ」
俺は本当のことを言った。そして絞ったシャツをデッキチェアの背にひっかけようとすると、ブルマがおもむろにパーカーの前を合わせ始めた。
「じゃあ、部屋に戻りましょ。どうせ泳がないんでしょ?」
「でもジャグジーは?」
「もう充分堪能したわ。あんたがパブロフの犬みたいに飛んで行ってる間にね」
ブルマはまた軽口を叩いた。非常にわかりやすいその嘘を、俺は笑って受け入れた。『充分に』堪能してないことなんて、わかってる。俺はそんなに時間をかけていない。そもそもデッキに上がったのが、ついさっきだ。
俺が自分で自分を特別に思わないのはこのためだ。ああいう目で見られても、不快も特別感も湧かないのはこのためだ。俺を特別扱いしないやつが、俺の周りには大勢いるからだ。
そして、それにも関わらず心配してくれるやつもちゃんといるからだ。
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