Trouble mystery tour Epi.3 byY
習慣というものは、案外簡単に破られてしまうものだ。
この朝、俺はごく自然に目を覚ました。頭はすっきり。体も軽い。時刻はわりあい普通の朝の時間――7時。俺にとっては遅めの朝だが、それでも朝食の前に軽く体を解すくらいの余裕はある。でも、俺はそうしようとは思わなかった。
なんとなく快い気持ちになって、隣に眠るブルマを見ていた。深い眠りについているらしいブルマの瞳は固く閉ざされていて、長い睫毛はぴくりとも動かなかった。少しだけ開いたピンクの唇から漏れる息は、とても静かだった。子どものように健やかな寝顔。昨夜の雰囲気は欠片もない。だからきっとそのままであれば、俺は何もしなかった。
ふいに寝返りを打ったブルマの髪が顔を隠すように流れなければ。そうならなければ、ブルマの髪に触れることはしなかった。伏せた睫毛が揺れなければ、頬を撫でることはしなかった。くぐもった声が漏れなければ、声をかけることはしなかった。
「……ん…」
「おはよう」
そこでブルマが目を開けなければ、キスをすることはしなかった。キスをしても何も反応しなければ、それ以上のことはしなかった。
すべてこじつけだ。わかっている。
でも、そういう気分になっちまったんだよなぁ…………

薄明るい部屋に響くブルマの甘い声は、俺をとても幸せな気持ちにさせた。
だから俺は意味もなく苛めてしまった。そう、理由はあったが意味はなかった。
切ない啼き声。小刻みに震え続ける細い体。赤みを増していく頬。 恥じらいの象徴である部分の反応…
ごくごく普通の方法で、俺はブルマを苛めた。やり過ぎではなかったということは、ブルマが俺を呼んだことからもわかる。でも少し意外であったことに、絶対に満足したはずのブルマはどこか不満そうな顔をして、ベッドへと倒れ込んだ。
「…煙草。一本もらうわね」
それから唐突に起き上がると、今日は断言してベッドルームを出て行った。俺はまた意外に思ったが、気を殺がれはしなかった。すっかり満足していたからだ。
そんなわけでブルマが目の前からいなくなったので俺はようやく本当に起きることに決めて、とりあえずジーンズを穿いた。俺は煙草ではなく水がほしいな。そう思った時、ブルマが唐突に叫んだ。
「うわ、何これ、キツッ!よくこんなの吸えるわね」
「いや、俺もほとんど吸えなかった」
何の話をしているのかはわかった。俺が昨夜、ただブルマを待つためだけに火を点けた煙草だ。リビングへ行くと、ブルマが荒っぽくそれを灰皿に押しつけていた。ちなみに全裸だ。昨夜のかわいらしさや恥じらいはおろか、今さっきの余韻もない。だから俺は黙ってフリーザーを開けペリエを取り出した。そうしたらブルマがまた唐突に叫んだ。
「あたしシャワー浴びるから。絶対入ってこないでね!」
そして荒っぽい足取りでバスルームへと消えた。俺は思わず笑ってしまった。
いや、さすがにそこまでする気はないよ。

思いのほか早くバスルームから出てきたブルマが素早くベッドルームに消えてしまったので、俺は苦笑しながら自らもバスルームへ向かった。ブルマの心理は今ではなんとなく理解できた。かなり恥ずかしかったらしい。もう相当恥ずかしかったとみた。でも、嫌じゃなかった。だからきっと余計に恥ずかしいんだ。そして朝になったから、それに強気がミックスされてる。おもしろいやつだな、あいつは。
とはいえ俺が今こんな風に感じていられるのは、ブルマが昨夜なぜかベッドルームを出てきてくれたからこそだ。それが俺にはわかっていたので、もうこれ以上ブルマを苛めるつもりはなかった。さっき少し苛めてしまったが、それだってブルマの許容範囲内でのことだ。嫌だと言われればもうしない。
そんなことを考えながら清新な心に清新な体をあてがって、非常に快い気分でバスルームを後にした。さて、今日は何をするんだろう。次にそう考えていると、ちょうどブルマがベッドルームから顔を出した。この船に乗って以来、俺はベッドルームから出てくるブルマに安心させられたことは一度もなかったが、この時は違った。
派手過ぎず地味過ぎない、シルクならではの濃緑。スラリと流れ落ちるようなドレスライン。程よく入ったスリット。胸元を少しだけ覗かせる黒のレースも単純にデザインとして受け入れられる。上品で女らしくなおかつ凛々しさも感じさせる、趣きあるテイストのチャイナドレス――
「なんだ、そういう服ちゃんと持ってきてるんじゃないか」
「うるさいわね」
思わず放ったその言葉に返ってきたのは、突っぱねるような声音と少し冷たい目つきだった。…今のは俺の言い方が悪かった。もっと素直に褒めるべきだった。でもまさか『チャイナドレスってなんかいいよな』などと本人に向かっては言えないしな…
ともかくも、俺の快い気分は持続された。その感想はいずれクリリンにでも溢すことにして(天津飯はダメだ。あいつはきっとまた薄く笑うに決まってる)、俺は俺の身支度へ取りかかることにした。
「よし、じゃあ俺もそっち系にするか。シャツはあったんだよな」
「いいけど、普段着はダメよ。ちゃんと正装用のがカプセルに入ってるから」
少しばかり釘は刺されたが、それでも快い気分は持続された。足元は黒シルクのハイヒール。両耳の上にみつあみの巻かれたシニヨン。ここまでしっかり着こんでいる人間を隣に手を抜くわけにはいかん。それに、チャイナの正装なら俺も好きだ。特にこの丈の長いカンフー服…
「うーん、落ち着く…」
ひさびさに着たがすごく落ち着く。やっぱり正装はチャイナに限る。男女共々。
「アホな態度取ってないで、さっさとごはん食べにいくわよ」
俺はまたもや釘を刺されたが、快い気分は持続された。ブルマの声に険はなかった。なんというか、いつも通りの無造作さだ。
「レストランはなんだから、昨夜のバイキングカフェね」
「はい了解」
そしてその無造作な言葉には、嫌みの欠片もなかった。『昨夜のカフェ』。すっかり『昨夜の喧嘩』はなかったことになっているな。…そういう効果もあったか。
最も、それは俺も似たようなものだった。昨夜と同じようにさっさと部屋を出て行こうとするブルマの後姿は、昨夜の喧嘩のことではなく、その後に起こった出来事を俺に思い出させた。
…この髪、解きたいなぁ…………
今、一昨日のようにしつこく食い下がられたら、きっといっぱい褒めてやるのにな。こいつも損な性格だ。


「あらあら、かわいいわねえ」
「あなたたち、そういうの似合うわねえ。お揃いでかわいいこと」
部屋を出て少しばかり歩くと、そう声をかけられた。さほど人気のないロビーの真ん中で。同行者の婦人二人に。
「懐かしいわ。私たちも旅行先でこういう格好したことあるわよね、あなた」
「何十年も前の話だがね」
エレベーターを待っている時に、そう声をかけられた。まったく知らないどこかの夫婦に。
「パーティへ行かれるんですか?」
それなりに混雑するエレベーターの中で、そう声をかけられた。ただ横にいただけの見知らぬ男に。
「ひょっとして、俺たち目立ってるのか?」
その男との会話を切り上げてから小声でそう訊いてみると、ブルマはこともなげに言い切った。
「当ったり前でしょ」
ふーん…
チャイナ服ってそんなに派手じゃないと思ってたんだけど。そうか、目立ってるのか…
そんなわけで、エレベーターを出たところで俺はブルマの手を取った。するとブルマが、眉間に皺を寄せて呟いた。
「…ちょっと、何よこの手は?」
「あ、嫌か?」
「そうじゃなくて、何って訊いて…」
「嫌じゃないならいいじゃないか」
それきりブルマが黙ったので、俺も黙って手を取り続けた。こうしていれば触ってくるやつはいないだろう。この船にはそういうガラの悪い人間はいないはずだけど、一応な…
言われてみればなんとなく視線を感じる人込みの中を、カフェへと向かって歩いた。昨日は同じプロムナードを、 非常に姑息な態度で歩いたのだ。 同じカフェでの食事を、表向きは一人で摂った。
「ここのヨークシャープディングおいしいわよね。本格的で」
「そうか?俺はこういうよくわからない食べ物はあんまり…」
「あ、そうなの。じゃあちょうだい」
自分の皿から物を奪っていく人間がいるという事実。こいつマナーなってないな、と遠くからではなく目の前で思うという現実。
最後にブルマがエスプレッソカップの底の砂糖をスプーンですくい出したので、俺のその感覚はいよいよ極まった。
仲直りしたっていう感じがするな。いや実に。
「さてと、今日はどうする?」
まるっきり無意識に、俺はその台詞を言っていた。そのことに気がついた時、新たな感慨が心に湧いた。
…いつの間にか、自分から予定を訊ねるような心境になっている。半ば無理矢理連れて来られたはずなのに。そういうの、これまではブルマの押しが強いからだと思っていた。でも今ではそれは少し違うような気がする。
「そうね〜…」
ブルマはというと、大変行儀悪くスプーンを口に咥えていた。スプーンを口から出しても頬杖は解かずに、珍しく歯切れの悪い言葉を口にした。
「なーんかだるいのよね〜…」
「そうか」
俺はとりあえずそれを流しておいた。そろそろ旅の疲れが出てきたかな。などと思うほど愚かではない。今日は一人で遊んでおくか…
「じゃあ俺、球突いてこようかな」
「ビリヤード?あんた好きね」
「わりとな」
この時俺はもう一つの心境にも気づいていた。時間があるならトレーニングしようかな。とはなぜか思えない。敢えて一人でもできることをしようとは思わない。別に淋しいというわけではない。ただなんとなく。
少しばかりしみじみとした気持ちになって、俺はコーヒーを啜った。するとブルマが依然頬杖は崩さずに、宙を見ながら呟いた。
「じゃあ、あたしも行こうかな」
…仲直りしたっていう感じがするな。本当に。
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