Trouble mystery tour Epi.5 (6) byY
少し疲れた昼食の後には、気だるい午後が待っていた。
「ランチさん、水着は?あたしの貸そっか」
「そうですわね…ふあぁぁ…あら、ごめんなさい。なんだか眠くなっちゃって。お食事の後だからかしら」
どうやらランチさんは酒を飲むと眠くなる性質らしい。まあ、らしいと言えばらしいかな。酒乱になったり全然変わらなかったりするのも、同じようにらしいけど。ともかくもランチさんは砂浜で昼寝と決め込んだ。ブルマはそれに近い態度で、ランチさんの隣に寝転がった。だがうつ伏せになったり仰向けになったり足を組んだり頬杖をついたりいろいろとポーズをつけた挙句に起き上がり、やや離れたところに座っていた俺の足元に砂をかけ始めた。俺はなんとなく横になりながら、それを見ていた。事実上の容認だ。ブルマの砂遊びは延々と続いた。少しずつ少しずつ俺は砂に飲まれていった。初めに足が、それから腿が、やがて腹が、そのうち胸が…
「ランチさんって大変よね」
ついには鎖骨までが砂に覆われた時、ブルマがさらりと呟いた。何ら脈絡のないことを。脈絡どころか、会話自体がここまでなかったのだから、唐突もいいところだ。
「自分が何してたかわからないなんて。もう当たり前のことのように思ってたけど、やっぱり困っちゃうわよね」
それは言葉のわりには、淡々とした口調だった。とりあえず言ってみた、そんな雰囲気がひしひしと感じられた。きっと退屈しのぎの会話だろう。ランチさんが眠ってしまった今、他に話し相手はいないのだから。さっきからすごくヒマそうにしてるんだから…だが俺はというと、わりあいそれどころじゃなかった。まあ、なんだ。…暑い。いや、熱いというべきか。サングラスがなかったら、目が焼けていたかもしれん。
すでにブルマの手は止まっていた。文字通りの手持ち無沙汰だ。しかしそう思った次の瞬間には砂山のてっぺんへと移っていて、今度は砂を固め始めた。そしてそんなことをしておきながら、またもやさらりと呟いた。
「ねえ、そんな風に砂に埋まってて暑くないの?」
「すごく暑いよ」
「ならそう言いなさいよ」
言おうかどうか迷ってたんだよ。
おもむろに注がれた非難がましい視線を外して、俺は体を起こした。砂に埋められてやったことを怒られるやつなんて、きっと俺くらいのものだろう。とはいえ、理不尽だなどと言うつもりはなかった。そんな気は、もうとっくに失せていた。
「いつまでもこんなところにいても退屈でしょ。なんかやってきたら?いい風吹いてるじゃない」
「そうだな」
いなくなったら、怒るくせに。
さらに、さして気を入れることなく、そう心の中で呟いた。そしてすぐに、自らその感覚を取り消した。…ひょっとしたら怒らないかもしれない。それでもやっぱり、ブルマの傍を離れるつもりはなかった。もうあんな仲裁役はごめんだ。何と言われても、これだけは譲らないぞ。
まさかこの心の言葉が聞こえたのだろうか。最後の砂を払い落してブルマの隣に座り込んだまさにその時、ブルマがそこのところをついてきた。
「…何よ」
たった一言だったが、俺にはわかった。なんというか、ニュアンスで。それと、探るような険しい瞳。もちろん俺には、この喧嘩を買うつもりはなかった。とりあえずは外したサングラスを弄ぶ振りをしながら、先ほどのブルマに倣ってさらりと答えておいた。
「別に」
「言いたいことがあるなら言えば」
「別にないよ」
まあ確かに自分でも、うまい言い方だったとは思えない。でもそれは、ブルマにだって言えることだ。
「じゃあどうしていつまでもここにいるのよ!?」
「あんな野郎がうろついてるところに、こんな女二人置いていけるか!!」
まったく、どうしてそういう言い方をするんだ。普通に訊けないのか、普通に。なんで守ってやりたい女を怒鳴りつけなくちゃいけないんだ。だいたい俺が傍にいて何が悪い!?
「何それ!こんなとは何よ、こんなとは!!」
「おまえは不用心過ぎるんだよ!」
ブルマは電光石火の勢いで噛みついてきた。だから俺も思わずはね返した。心の片隅では嘆きながら。こんなことが喧嘩の種になるなんて、俺たちくらいのものだろう。本当に、なんて理不尽なんだ。
「どうして用心しなきゃならないのよ。ここプライベートビーチでしょ!」
「そういう不用心じゃないんだよ!わかるだろ!?」
「な、何よ〜〜〜…」
だが、それは思わぬ事態を引き起こした。やがてブルマが両の拳を握りしめ、一瞬口篭った。そうして俺が身構えた次の瞬間、喧嘩が売られたものじゃなくなったのだ。
「…あたしは!あたしはただ、最後だから…もうここも最後だから、ちょっとロマンティックにしたいなって…それだけなのに。なんであんただけそんなにケチつけるのよ!」
「え?…いや、でもそれは…」
…そりゃあ、気づいてはいたさ。きっとそういう気分なんだろうなってことは、わかっていたさ。ブルマってそういうの、すごくわかりやすいんだから。だけど、少しわかりやす過ぎるっていうか…ちょっとエスプリ漂い過ぎてて、関係ないのまで寄ってきちまってる。――…とは、言えなかった。それどころか、何も言えなくなった。ブルマの表情を見ていたら。
だって、どうして俺がブルマを泣かさなきゃ…………
まだ涙は出ていない。ブルマが堪えるように眉尻をきゅっと上げるのを、俺は非常に困った気持ちで見つめた。怒っているような、悔しがっているような、拗ねているような。睨んでいるような、刺しているような、すがっているような…そんな微妙な上目遣いに潤み声。何だかよくわからなくて、どうしていいのかわからない。だいたい、ブルマがこんな風に言い負かされたくらいで泣くなんて……
気づくと辺りはすっかり静まり返っていた。風の音が妙に大きく脳裏に響いた。と、次の瞬間、予想外な大声が耳に飛び込んできた。
「はあぁぁぁぁぁっくしょい!!」
俺はそれはもうびっくりして、思わず胸に手を当てた。…ランチさんのこと、忘れてたぞ。それにしてもすごいくしゃみだな。さすが金髪のランチさん――
「…あ?オレなんでこんなところで寝てるんだ?…あ?おまえら…」
半眼でシートから起き上がるランチさんは、さながら雌豹のようだった。うつ伏せの姿勢から起きるその仕種といい、気の立っているような表情といい、よくも悪くもあらゆる意味で。やや離れたところに立っていたカップルの男の方が、どこか浮ついた視線をランチさんの後ろ姿(たぶん尻…だと思う)に注いでいた。だが、その顔が逸らされるのに時間はかからなかった。
「…やべぇ!手回しさせた密航機…!!おい、おまえら!今日何日だ!?」
ものの数秒も経たないうちにランチさんは睡魔を吹っ飛ばして、おそらくは男の色魔をも吹っ飛ばす雷声を上げた。それは俺とブルマの間の空気からも何かを吹っ飛ばす効果があった。
「え?」
「何日だって訊いてんだよ!!」
「あ…30日…だけど」
「…そうか。よし、まだ一日しか経ってねえんだな…げっ!もうすぐ4時じゃねえか!こうしちゃいられねえぜ!」
さらに、実際にはランチさんは至近距離にカプセルを一つ飛ばした。たちまち砂塵が舞い上がり、現れたバイクと近くにいた俺たちは砂塗れになった。
「ちょ、ちょっとランチさん、こんなところでカプセル戻さないで…」
「悪ぃ!急いでるんだ!」
とどめに数回の空ぶかし。嫌というほど砂を浴びせて、最後にランチさんは言ってのけた。
「なんか世話になったんなら今度返すぜ!あばよ!!」
ギュィィィーーーンンン…
ある意味清々しい流れのままに、ランチさんは去って行った。…男前だな。女性だけど。俺は少しの間呆然と、もはや見えないランチさんの残していった軌跡を見つめた。やがてふと、先ほどランチさんを見ていた男が今はこちらを見ていることに気がついた。さらに、俺ではなく、ブルマを見ているということにも…
それで俺は、当面の問題に引き戻された。俺と、ブルマと、もう一つ第三者間の問題に。…やっぱり、言わないと。もうさんざん言ったはずなんだけど、きっちり言い切らないと。わからなくても、わからせないと…
俺は再び身構えて、ブルマの横に腰を落ち着けた。今やブルマはすっかり無言になっていた。もう眉尻は上がっていなかった。でも、下がってもいなかった。ただ淡々とした表情で、海を見ていた。…これは、無視に入られたかな。そう思った時、ブルマがこちらを向いた。ふっと、その口元から笑みが漏れた。
…んん?
俺が思わず目を瞠ったりなんかしている隙に、ブルマは動いてしまっていた。やけに素早くにじり寄ってきて、俺の片腕を取った。そして、はっきり言って思いっきりそこに胸を押しつけながら、にこやかに言ったのだった。
「どきどきする?」
はい…!?
俺はすっかり固まった。思考が、なんというかこれまでとはまったく正反対の方向に飛び始めていた。…おまえは一体何を考えているんだ…
呆れ半分焦り半分。心の中で大汗を流していると、ブルマがまた笑った。それは実にからりとした笑顔で俺はそれに救われたが、その口から出てきた言葉には閉口させられた。
「いいでしょ、この水着。そんなに肌出てないのにセクシーなのよね。大人の魅力って感じ?」
…わかってて着てたのか。たまらんな…………
いろいろな意味で、俺は逃げ場を失った。そう、すでにそういう立場に追い込まれていることに気づいていたが、やはり言わねばならなかった。
「あのさ…」
「うん、何?」
ブルマはまたまた笑った。今度はちょっと小首を傾げて。仄かに色香の漂う緩やかな視線、それがとどめだった。構えた中に辛うじて保っていた意志を捨てさせられて、俺はすっかり他力本願になった。…そこのカップル、そろそろいなくなってくれないかな…本当はそういう問題じゃないんだけど。どうにか外した視線の先にあるカップルのことを敢えて考えていると、ブルマが少し腕を緩めてくれた。
「わかったわよ。着替えればいいんでしょ。じゃ、いったん部屋に戻りましょ」
はーーーーー…
溜息と安堵の息を同時に吐き出して、俺はブルマの言葉を受け入れた。こうして俺は辛うじて自分の意思を貫きながら敗者となった。部屋へ戻る道すがらブルマはずっと俺の横にくっついていたが、そこに突っ込む気力はもうなかった。まあいい。いっそこの方が変なのを寄せつけずに済む。俺にだって、このくらいの耐性はある。
素知らぬ顔でカップルの横を通り抜けビーチを後にすると、ようやく気分が落ち着いた。諦めがついた、という意味でだが。しかしブルマもまた素知らぬ顔でこんなことを言い出したので、再び呆れが湧いてきた。
「ねえ、この後どうする?日が落ちるまでにはまだ時間あるけど。何して遊ぶ?」
「…ああ、どうするかな。俺はもう遊び尽くした感があるかな…」
まったく、よくもそうころころ切り替えできるもんだ。さんざん怒った挙句に色仕掛け。終わったと見るやまるで何もなかったかのように…
「そっか。じゃあのんびり散歩でもしましょ。それでね、日が落ちてきたらパティオで食事したいの。ちょっとお洒落に正装してね。ダメ?」
それでも俺はついていけた。ブルマの気持ちの流れはいま一つわからないが、どういう神経してるんだ、とまでは思わなかった。一つだけ、最初からはっきりしていたことがあったからだ。だからこそ俺は、怒声を怖れずここで言ってやることができた。
「それ、訊いてるんじゃなくて命令だろ?」
ブルマはわりあい俺の予想通りの反応を示した。今日何度か見たものにも似たふくれっ面をして、当然のように開き直った。
「あっそ。じゃあオーケーね!」
まあ、俺の腕を離したことだけは予想外だったが。でもこの時の俺はそれにかえって安心して、頭を撫でつけてやることができた。
「まあそうふくれるな。冗談だよ、冗談」
「そんなのわかってるわよ!」
そう、俺だってわかってたさ。ブルマが本気で怒ってるわけじゃないことくらいな。そんなこと、きっとランチさんにだってわかっていたはずだ。
なんとなくランチさんのことを思い出した俺は、俺にとっては当然の成り行きで、そのランチさんがいなくなる直前のことを思い出した。ブルマが最初に態度を変える前。俺が最初に言葉に詰まった時に見せたあの表情。結局は途中で終わったが、ひょっとしてあれは…………
…………泣き落とし?


やがて部屋に着いた時、ブルマはまた腕を絡めてきていた。ホテルのロビーは通らずパティオから直接部屋に入ったので、俺も許すことができた。逆に言うとパティオから出入りできたからこそ、ブルマにこんな格好までも許してしまったわけだが。
「ね、楽しかった?」
リビングへと俺を引き入れながら、ブルマがそう訊いてきた。腕を放してくれる気配はまだない。たぶん即行でバスルームに飛び込むに違いないと踏んでいた俺は、もうすべての呆れが揃った状態で、ブルマに言葉を返した。
「なんだ、やぶからぼうに」
よくもこのタイミングでそんなことが訊けるな。まさかさっきまで喧嘩してたこと忘れたのか。そりゃ修羅場に発展しないだろうことは俺だってわかってたがな、あれはどうしたって喧嘩だぞ。それも『楽しい喧嘩』では絶対になかったぞ。
「うん、だってここも明日で終わりだし。ちゃんと楽しんだかなって」
わかっているのかいないのか。そう言うブルマの声も笑顔も、実にからりとしていた。でも次の瞬間ちょっと小首を傾げた時には、少し違っていた。
「さっき『遊び尽くした』って言ってたけど」
どこか含みのある瞳で、俺を覗き込んだ。そして声のトーンを落としながら、俺の腕を離した。
「あたしはもうちょっと遊びたいなぁ…」
は……
返事をする暇はなかった。気づけばブルマの目線は俺の上にあった。いつしかそれは巧妙に、俺はソファへと追われていた。思わず座り込んだ俺の足の間に、ブルマが両膝をついていた。指が胸の下に流れる黒い紐へとかかった。
「気づいてた?ここ解けるのよ」
気づいてました…………
俺が言葉を呑んだ時、飾りではない紐がするりと解けた。その瞬間、この水着の最も気になる部分がなくなった。まさに『いらないんじゃないか』と思っていたところ――胸の下にあった何をも見せていない無意味なキーホールと、そのくせなぜかへそなんかを隠している小さな布が、肌から離れた。けれどもそれは下のショーツ部分に繋がっていたので、完全になくなりはしなかった。少し開いた太腿の間に垂れ下がったところを、ブルマが指先一つで掬い上げた。
「不思議ね。ただお腹出しただけなのに、なんか脱がされてるみたいな気分になるわ。あんたの言う通りちょっとやらしいかもね、これ」
「…………俺のせいにするなよ」
選んだのも着たのも脱いだのもおまえだろうが。
俺はまた言葉を呑んだ。言わない方がいいと思った。特に最後の要素…俺にもそう見えるということを。ブルマの気持ちの流れはわからない。でもしようとしていることはわかった。仲直りのセックス?いや違う。一体何と言えばいいのか。まるで試しているみたいな…体は誘ってるんだけど、心はきっとそうじゃない。少なくともブルマは『抱かれたい』とは思っていない。俺に『抱かせたい』と思っている。そんなことをして何の得があるのかは知らんが…
とにかく、ブルマは俺に脱がせようとしているのだ。この、脱いでないのに脱いでいるように見える水着を。俺はというと、素直にそれに乗る気にはなれなかった。そこで敢えて目の前のことにだけ目を向けることにして、我ながらすっぱり言ってやった。
「シャワー浴びるんだろ?」
「浴びるわよ。後でね」
…何の後でだ。
俺はまたまた言葉を呑んだ。言ったら終わるということは明らかだった。だけど、黙っていても終わるかもしれない。いらない布をわざとらしく片手で押さえながらブルマが今度は腰の紐を弄び始めたので、俺はもう言葉を濁すことをやめた。
「そういうのは後にしろ。だいたいおまえ、さっきはやらしいって言ったらあんなに怒ったくせに」
「あんなの照れ隠しよ。人前でやらしいなんて言われて喜ぶわけないでしょ。本当はぜーんぜん怒ってなかったわよ。…ね、ダーリン」
嘘つけ…
もはや呑み込むというより絶句して、俺は足の上に乗るブルマを受け入れた。そして軽く仰ぎ見ながらキスをした。それから、脱いでいるのに脱いでいないように見える水着を剥ぎ取った。断っておくが、俺はブルマの色香に負けたのではない。このくらいの耐性はある。
最後の、どう考えてもみえみえの殺し文句に負けたのだ。


…………遊ばれた。
その一言が脳裏に浮かんだのは、後で、ブルマにこう言われた時だった。
「とりあえず今はここまでよ。じゃ、シャワー浴びてきて。あたしたちのロマンティックな夜のためにね。ダ・ア・リ・ン♪」
「…………」
同じ人間の発した同じ言葉でありながら、この時は全然感覚が違った。終わった後でクールダウンしてるからっていうのもあるけどな。こんなこと言ったら絶対に怒られるから言わないけど。
「シャワー浴びたらパティオでディナーにするんだから、ちゃんと準備しといてよ」
俺がシャワーを終えるとブルマはさっくりそう言って、バスルームに消えていった。どこか上から口調であること以外は、いつもとなんら変わらなかった。いや、その上から口調自体がいつものことか。
「あーもしもし、ディナー頼みます。コースはスペシャル、ワインは適当に赤白一本ずつ、夕暮れ時にスタートするよう、パティオにセッティングしてもらいたいんですが」
すっかり慣れた電話をかけてから、ソファに腰を落ち着けた。やがてバスルームから水音が漏れてきた。パシャパシャと静かな部屋に響くその音は、数十分前の感覚を俺に思い出させた。
よかった…………
なんかすごく色っぽかった。肌が少ししょっぱくて、それが余計に艶かしかった。肌に残る潮の香り。入り混じる蜜の味。自分から誘ったわりには強い恥じらい。なのに、敏感なんだよな。あいつ、どうしてあんなに図太いのにあんなに敏感なんだろう。矛盾してるよなぁ…
やがて感覚と思考の境が曖昧になり、いつしか瞼も重くなった。こんな風に、しかもシャワーを浴びた後で眠くなることなど、ほとんどないのだが。そんな不覚を夢の中へ持ち込もうとした瞬間、すぐ傍で何かが鳴った。
「はーい、起きて起きて。そろそろルームサービス頼むわよ〜。だから着替えて!」
「ん?ぁー…」
気づけば水音が止んでいて、滴を纏ったブルマが目の前で笑っていた。バスタオルを巻きつけただけの姿で、きびきびと手を打ち鳴らしていた。
…元気だなあ…
足りなかった、とは思いたくないが。むしろかわいがり過ぎてしまったきらいが俺にはあるのに…
寝惚け頭のまま、そんなことを考えた。するとブルマがウィンクしながら一歩にじり寄ってきた。
「それともまだ遊びたい?」
そしてバスタオルの裾をはだけさせ、腿の上をちらりと見せた。本日三回目の色仕掛け。おまけに今度のは冗談だとわかっていながら、俺は情けないほど素直に反応してしまった。
「い、いや…!…それはまた後で…」
「ふーん。後で、ね」
うぐ…
慌てて口を押さえたが遅かった。ブルマはまさに勝ち誇ったような顔をして、それは白々しく繰り返した。俺は何も言えなくなったが、だからといって何も思わないわけではなかった。
…おまえが先に言ったんじゃないか、そういうこと。『あたしたちの夜のために』…って。だから俺はそれを尊重してやったのに…………?
「どうやら起きたみたいね。じゃあ着替えて。そうね、オーシャンブルーのジャケット。あれ似合うし好きだから」
我ながら説得力のない文句を噛み締めているうちに、ブルマが話を進めた。跳ねるような足取りで、今度はきっと無意識のうちにバスタオルの裾をひらひらさせながら、ベッドルームへと歩き出した。まるで何事もなかったかのようなその雰囲気。それで俺はもはや何を考えることもなく、その後ろ姿を追った。ちょっとバスタオル捲り上げてやろうかとか、そんな悪戯心が湧いてくることもなかった。
『好きだから』…か。じゃあせっかくだから、ちょっとキメてやろうかな。
ただそんな風に思いながら、ベッドルームの隅にあったスーツケースを手に取った。少し離れたところでは、ブルマが鏡を前に毎夜の儀式に取りかかろうとしていた。肌の手入れという名の、すり込み作業。女っていろいろ面倒くさいよな。何日か前にこれやってるのをちらと見た時、男でよかったとひしひしと思ったよ。
「そうだ、ルームサービス頼んでおいたぞ。夕暮れ時にスタートでいいんだよな?」
「あら、ありがと。なかなか手際いいわね」
ふと思い立って訊いてみると、少し上から目線の感謝の言葉が返ってきた。『どういたしまして』、軽く嫌みにそう返してやろうと思った俺は、俺を見ているブルマの瞳が妙に柔らかく笑っていることに気がついた。
「なんだ?」
「…うん。ほんと言うとね、今日の夜までランチさんがいたらどうしようかと思っちゃってたの」
さらに声も柔らかに、ブルマは言葉を溢した。俺はちょっと呆れて、心の中で呟いた。
ひどいこと言うなあ。自分で呼んだくせにな。しかも本人がいた時には俺そっちのけで相手をしてたくせに。今さら俺にだけそういうことを言うなんて…………かわいいやつめ。
それ以上のことを言うことはなく、ブルマの視線は外れた。再び鏡に向かって、件の作業を開始した。俺はキスくらいしたい気持ちになっていたが、ブルマが今はそれを求めていないことは明らかだった。忙しなく動く手に、すり込まれていく香水。だから黙って近づいて、その手が耳へと動いた時に端的に言っておいた。
「そこ、その頭の横になんか花つけとけ。その方が雰囲気出るからな」
南国の、爽やかな雰囲気がな。そういう雰囲気の方が、俺は好きだ。陽が出てるうちはな。
ブルマはふと手を止めたが、それも一瞬のことだった。同時にくれた視線をもまた鏡の中に戻して、それは無造作に言ってくれた。
「あんたって結構少女趣味よね。何かというとすぐ花でさ、ベタっていうか、チープな情緒だわ」
「何言ってんだ。南国と言ったら花だろ。おまえこそ貝のネックレスばかりねだってきて芸がないぞ」
それで俺は鏡の中のブルマに向かって突っ込みを入れることとなった。比較的無難な突っ込みを――おまえも乗ってきてただろとか、水着が全部花柄だったとか、この期に及んで言う気はなかった。そういう本気のやり取りをする気には、まったくなれなかった。そしてそれなりの言葉を返したせいか、ブルマからもそれなりの態度が返ってきた。
「えー、だって、南の海だもん。まあ、別にダメって言ってるわけじゃないのよ。その感覚は否定しないわ」
言いながら鏡越しに笑みを寄こすと、ゆっくりと後ろ髪を掻き上げた。ふわりと甘い香りが漂ってきた。朝感じたものにも似た麝香の香り。なんとなく、それが俺にとっての切りとなった。いつもいつも違う香水をつけたりして、マメなことだ。そう思いながら、その場を離れることにした。
「あ、ドア閉めないで。ちょっと暑いから、しばらく風通しておいて」
ドアに手をかけると、ブルマが非常にどうでもいいことながらわりと象徴的なことを言った。まったく、この旅行中、俺は何度このベッドルームのドアを閉ざされたことか。まさかこんなことが感慨深いわけはないが、ある種の予感は感じる。…たぶん今日はお姫様抱っこの日だな。お姫様ベッドまでお姫様抱っこ。
パティオに接する窓にシェードを下ろしてから、スーツケースを開けた。いくつかカプセルを弄って、ブルマの言っていたジャケットとそれに合いそうなドレスシャツを探し出した。自分でも珍しいと思うことに、俺はこの正装に乗り気だった。こういうのもひさしぶりだしな。少しは気合いを入れてやるさ。
スラックスまでを身につけると、俺にはもうすっかりやることがなくなった。考えることも何もない。乾杯の言葉も、すでにもう決まっている。
それでただ居眠りしないことだけに気を配りながら、ソファに座って待つことにした。ブルマと、夕暮れと、『俺たちのロマンティックな夜のために』グラスを傾ける瞬間を。
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