Trouble mystery tour Epi.8 byY
「おーい、起きないのか?約束してるんだろ?」
カーテンを開けながらそう声をかけると、ベッドの中からくぐもった返事が聞こえてきた。
「…………ん〜、もうちょっと〜…」
やれやれ。
心の中で呟きながら、窓を開けた。最上階に近い俺たちの部屋の窓からは、周囲の景色がよく見えた。昇りつつある朝陽に照らされて輝く海。視界の端、波のない静かな水面を割っていく白い飛沫。立ち上る白煙…
「ん、左舷の海に何かいるな。ひょっとしてクジラか、あれは」
「えっ、本当?」
たちまちブルマは起き上った。布団を跳ね除けるようにしてベッドを飛び出し、俺の隣へやってきた。
「ねえ、どこどこ!?あー、よく見えない。あっ、ちょっと!」
そして大声を上げて窓から身を乗り出したので、俺は慌てて窓を閉めた。
「どうして窓閉めるのよ!?」
「…服を着ろ、服を」
遠くのクジラより近くの女。その方が絶対、隣の部屋の人間にとっては気になるに違いないからだ。特にこんな大声を上げて素っ裸でいるような女なら。
「いいじゃない、ちょっとくらい」
「ちょっとも何もない。それに約束してるんだろ?」
「はーいはい、わかったわよ、さっさと着替えてデッキに行けばいいんでしょ」
「ああ、そうしてくれ」
まったく、恥知らずなんだから…
…裸で寝かせてしまった俺が悪いなんて、絶対に思わないぞ。


昨日よりも幾分遅めに足を運んだデッキには、昨日よりはだいぶん人が少なかった。
「あっ、来た来た。ブルマさーん」
「もう、遅いですよ〜。あ、おはようございます、ヤムチャさん」
「やあ、おはよう」
今朝は舳先のいかにも眺望がよさそうな場所ではなく、左舷中央のテーブル席に三人はいた。手を振る双子に俺が声だけで答えると、ブルマがすかさず肘で俺の体を突いた。そのことの意味は俺にはすぐにわかったが、だからといってどうすることもできなかった。
愛想を振りまくなとか、軽々しく手を振るなとか(だから今は手を振らなかった)、なんだか昨夜いろいろ言ってたけどな。挨拶くらい普通にさせろ。さりげなく無視できるような間柄でも場面でもないだろ。
そもそも今朝のこの約束を受けたのはブルマだ。俺に構うなって言うなら、自分も構わないようにすべきだろうが。
…ま、確かにもはやキールにはあまり構ってないみたいだけどな。
「ふぁ…」
まともに挨拶すら返さず欠伸を漏らしたブルマを横目に、俺は海へと目をやった。相変わらず左舷の海に煙る鯨影が四つ…
「眠そうですね」
「そうね、ちょっと…昨夜遅かったから。ねー、ヤムチャ」
「ふん」
だがやがてブルマがそんな言葉を投げてきたので、俺はすぐにあらぬ方向を向くことになった。不自然だろうが何だろうが、ここは無視する他に手がなかった。
…恥知らず。
この前まではそういうこと言うなって言ってたのに。完全に化けの皮が剥がれてきてるよな…
「はは、かく言う僕も、少し前に起きたばかりでして。みなさん昨日の今日でお疲れなんでしょう、さっきまでデッキガラガラだったんですよ。おかげで席は取れたし、クジラの第一発見者になれました」
「残念。第一発見者はこの俺だ」
別にキールに喧嘩を売る気はない。だから海に向かって、俺は呟いた。先ほど部屋の窓からクジラの姿を見かけた時、デッキに何者の姿もなかったことはわかっていた。
「相変わらず熱いわねー。それで、潮吹きは見れた?」
「それがね、残念ながらまだなんですよ。クジラの潮吹きって、本当に見る機会ないんですよねえ。潮吹き自体はそう珍しいものじゃないはずなんだけどなあ。僕って運悪いのかなぁ。前回ここに来た時も…」
「俺見たぞ、それ」
今度はブルマに向かって、こっそりと呟いた。ちょっと思うところがあったからだ。間が悪いのなんだのと、そんなことも言ってくれた。それに関しては今に始まったことじゃないが。
「はいはい、わかったから。じゃ、朝食にしましょ」
あからさまに流すなよ…
せっかく俺よりも運の悪いやつを見つけたのに。いや、別に俺の運が格別悪いというわけじゃない。ただ悟空なんかと比べると多少劣るというだけで…
「あ、五頭目が来たよ。あれ?あれって潮吹き?ねえそうでしょ、キールさん」
「なんか霧みたいだね〜。ひゃ〜、こっちまで飛んでくる。つめたー」
だがやがてその事実も崩れたので、俺はおとなしくブルマの言葉に従った。海を見ながらの最後の食事。といって、次からは何を見ながら食事するのか、俺は依然として知らないわけだが。
「見れてよかったですねー、キールさん。ところで、またチョコレートフォンデュ頼んでもいいですか?」
「さんせーい!フルーツ増量でね!」
どちらにしても、あまり変わらないだろう。これまでの――昨日までの食事と。ブルマと二人、或いは四人。明日からは、きっと再び俺がこの子たちの面倒を見ることになるのだろう。
…今のうちにのんびりしておくとするか。


これでいくつ目の港だろう。
レッチェル、ルートビア、グリーンシーニ、ディーブル。ちょうど片手の指を使い切ることになるパヴァの港は、強いて言えば一番最初に訪れたレッチェルの港に近い雰囲気だった。
遠目では一見何の変哲もない、だが近づくほどに感じられる年季の入った佇まい。やや殺風景な波止場に漁船が並び、古びた倉庫の前ではカモメが何かをつついている。なかなかに生活感のある港だ。
「キールはこのままブール海を抜けるんでしょ?長い船旅になるわね」
下船を控えたデッキの上。旅人らしくこれから踏む地のことを考えていた俺をよそに、ブルマは雑談に花を咲かせていた。ブルマはきらびやかな街や歴史ある建物なんかには興味を示すが、こういう現実的なところにはまるで目が向かないのだ。最もそれはブルマに限らず他の人間にしても同じようで、デッキに待機している人間はそう多くはなく、ブルマの話相手であるキールも、やや離れたところにいた双子も、目の前に広がりつつある風景にではなく、見る予定もない場所について話していた。
「ええ。僕のスケジュールはまだ半分を消化したばかりです。この後ロワ湾を通ってブール海を抜けて…ロワ湾が次のウォッチングポイントなんですよ。あそこにはクジラだけじゃなくサメもいて…」
「サメ!?すっごーい、見てみたーい!!」
「機会があったら来てみるといいよ。この西周りの航海コースはお勧めだよ。海が荒れることもまずないしね。ウォッチングクルーズとしては一番だね」
「何なら今そっちに行ってもいいのよ。あんたたちも楽しいし、あたしたちもすっきりするわ」
「あ〜、ブルマさんてばいっじわる〜!」
「あら、ようやく気づいてくれたのね。嬉しいわ」
「化けの皮…」
そこまで聞いて、俺は思わず呟いた。まったくこれで、どうして何も思わずにいられるだろう。
最後の時が近づいた途端、尻尾を出しやがって。どうせもう一時間もないんだから、最後まで格好つけときゃいいのに。…化けの皮が剥がれたら剥がれたで、気になるもんだな。そう、俺は別にブルマを貶めたいわけじゃないんだよ。
わざわざ困ったところを見せつけるより、美人でかわいい彼女ですって言う方がいいに決まってる。それなりに見栄を張りたいと、俺だって思ってるんだ。
「ん、何か言った、ヤムチャ?」
「別に」
それにしても、故意犯か…
いつものようにブルマの追及を流しながら、俺は今度は双子のことを考えた。
ここまで俺は、この子たちは単純に目上の女としてブルマを慕っているのだと思っていた。でもひょっとして、性格を知った上で慕ってるよな。これは俺が思っているよりも強い子たちなのかもしれないぞ。
感心と寒心のない混ざったものを抱きながら、やがて着港した船を降りた。今度こそ本当に本当の下船だ。初めてとも言える旅先の別れは、あっさりとしたものだった。
「じゃあ、キール、さようなら」
「キールさん、バイバーイ」
「さようなら。今度は社交界でお会いしましょう」
社交界…ね。
まったく別れの雰囲気を感じさせずに軽く手を振り合うその様を見て、俺の心は少しだけ働きかけたが、それもすぐに治まった。…ま、それについては俺が口を出すことではないな。どうか俺の目の届かないところで、適当にやっててくれ。
今では俺もあっさりとそう思った。おかしな話だが、目につかなきゃ何とも思わないんだ。完全に感覚的なものなんだよな。だからもう何も言わなかった。わざわざそこのところに触れたのは、当の本人だった。
「と、いうわけで、ジ・エンドね」
「…何が」
「またまたー、しらばっくれちゃって〜」
「何だよ、それ」
半ばはわかりつつも、俺は訊いた。しつこいよね、こいつも。結構さっぱりした性格してて他人とはあっさり付き合うくせに、俺に対してはやたらしつこい。
「何だよってことはないでしょ〜。あからさまにキールのこと無視してたくせに〜」
うりうりと肘で俺をつつきながら、ブルマは言った。あいにく俺は両手が荷物で塞がっておりやり返してやることができなかったので、その分口でやり返してやった。
「それはだな、ただ見てられなかっただけだ。あいつじゃなくおまえの、目も当てられない態度がだな…」
「…何言ってるのか全然わかんないんだけど」
それは偉そうにブルマは言った。そしてその据わった瞳を見た途端、俺にはそれ以上説明する気がなくなった。理由を言うのももう飽きた。でも一応言っておくなら、どうせ言っても無駄だからだ。
「まあいいわ。これ以上は言わないでおいてあげるわよ。あ、あのバスに乗るわよ。ここから先は陸路!それもあんたの好きそうなところよ」
はいはい。それはありがとうございます。
心の中で呟いてから、俺も気持ちを切り替えた。いや、自ずと切り替わった。
「リムジンバスで街を越えていくのか?どこまで行くのか知らないが、かなり時間がかかりそうだな」
なんかこういうこと話すのひさしぶりだよな。ずっと船の中にいたから、というのももちろんあるけど、なんていうかこういうどうでもいいことを話す時間が…
「バスで行くのは駅までよ。そこからはエアレールで、7日間かけてロズを抜けるの。途中いくつか寄り道はするけど、ロズって基本的に田舎だから、まあ荒野を旅するみたいなもんね。あんた好きでしょ、そういうの」
「別に俺、田舎が好きってわけじゃないんだけど…」
「そうなの?でも、いつも辺鄙なところにばっかり行くじゃない」
「あれは修行しやすそうな場所ってだけで…」
目の前にある景色ではなく、これから目にする景色でもなく、かつて目にした景色のことを口にしながら、俺たちはリムジンバスに乗り込んだ。この上なく現実的なことを口走るのは、気分が元に戻った証拠。
…ということにしておいてやることに、俺はした。
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