Trouble mystery tour (6) byY
抜けるような青い空。なだらかな丘陵に広がる赤煉瓦の屋根。もの淋しいスラムのような雰囲気の道と、一転して開ける華やぎと猥雑さに溢れた通り。
それらを左のガラス越しに、マスカット色の液体で満たされたグラスを右手に、菫色の髪を正面に見ながら、俺は心の中では不信感には程遠い小さな呆れを感じていた。
…金持ちの神経ってわからんなあ。
ハイジャックに遭ってもなお、旅行を続けるなんてな。ひ弱いわりにはずいぶんと図太いじゃないか。ブルマがエアポート管理者に食ってかかった時にも結構呆れたものだが、他の人間も同類だったとはな。
『そんなことより早く行かせて』。着陸後、謝意の表明と事情聴取を兼ねてエアポートの人間が俺たちを別室へと案内しかけた時、そうブルマは言ったものだ。次にトラベルコーディネーターが謝意と説明を口にし始めた時、今度は他の客が言った。『そんなことより早くホテルに行きたい』…
そんなわけで俺たちは、結局のところほぼ予定通りに旅のスケジュールを消化しているらしい(らしい、というのは俺はスケジュールそのものを知らないからだ)のだった。いつもとは違う大都会の空気の中をゆるやかに走り抜ける、仰々しいベンツのリムジン。いつもとは少し違った雰囲気で傾けられる、初めて目にするワイン。
「おまえ、少し飲み過ぎなんじゃないか?さっきから立て続けだぞ」
ゆっくりと、だが着実に減っていくボトルの中のワインを見ながら、俺は言ってみた。ブルマはこれっぽっちも気分を害した風はなく、快活に笑って答えた。
「平気平気。軽いもん、これ。地酒のわりには飲みやすいわよね」
「しかし本当にワインをくれるとはなあ…洒落がわかってるというべきかわかってないというべきか」
「口止め料でしょ。お金持ちのチャーターした旅客機がパイロットにハイジャックされたなんて、航空会社にとっては最悪のスキャンダルだもの」
「なるほど」
「知ってる?レッチェルって葡萄とワインの発祥の地って言われてるのよ。だからってレベルが高いわけじゃないけどね」
安い口止め料だな。それ以上のことを思う間もなく、ブルマは話を先へと進め、さらに新たなボトルを取り出した。
「じゃあ、乾杯しよ。ほら見て『ドン・ペリニヨン・ロゼ』。リムジンに乗ってるって感じするわよね〜!」
「今したばかりだろ」
「今のは無事着陸できた祝杯。今度のが本当の、『この旅行に乾杯』よ」
いかにもそれっぽいことを、まるっきり邪気のなさそうな笑顔で、ブルマは言った。それで、俺はやっぱりそういう心境になって、少し固いコルクを抜いた。
ま、いいさ。
もう何を操縦するわけでもないからな。もし操縦することになったとしても、よほど特殊なものでなければ俺がどうにでもできる。まさか戦車を操縦する破目にはならないだろう。それに、『リムジンにドンペリ』というのは、誰でも知ってる金持ちのお約束だ。
「あっ、パン屋さん!ねえねえ、こっちこっち!」
だが、その公式はすぐさま崩れた。グラスに口をつける間もなく、ブルマがウィンドウを開けて、スクランブル交差点を歩き回っていたパン売りから、見たことのない形のパンをせしめていた。
「レッチェルのパンは世界一おいしいって言われてるのよ。これはね『エクメク』、バターも卵も入ってないの。一番おいしいのは『エクメク』ってパン屋さんのエクメクだけど。とりあえずは気分でね」
「おまえ、さっきからずいぶんと詳しいな」
「そりゃあね。ガイドブック、穴が開くほど読んできたもの。日程も知らなかった誰かさんとは違うわよ」
ちっとも険のない声と笑顔で、ブルマは言った。だから俺は身を縮こまらせることなく、ごく自然にその言葉を口にした。
「悪かったよ」
「じゃ、食べて。はい、あーん」
するとまったく脈絡なく、ブルマはそのエクメクとやらを一口差し向けてきた。それはそれはにこやかな笑顔で。どうやら早くも旅気分を取り戻したらしい。というかもう完全に、手当たり次第に雰囲気を楽しむ観光客になってる。
呆れたというよりは意表を衝かれて、俺は口を噤んだ。朝、西の都のエアポートに降り立った時の心境に、一瞬にして逆戻りしていた。だが、次の瞬間には、黙って口を開けた。
パンを無理矢理口に押し込まれるのは、いかにも苦しそうだ。そう考えたからだ。…ま、いいんじゃないかな。通行人の視線は少し気になるが。他のツアー客に見られることはないわけだし。
それに、悪い気はしないしな。


俺は、人や場所に気圧されるということが、元来あまりない。昔は女に気圧されていたが、それも今ではなくなった。ブルマにはまだ時々気圧されるが、でもこれは俺に限ったことではないと思う。
だから、恭しくリムジンのドアを開けるホテルのドアマンにも、恭しくトランクを部屋へと運ぶポーターにも、階上へと進むほどに深まっていくホテルの静けさにも、それほど気圧されはしなかった。ホテルの非日常的な豪華さに特別感を感じはしたが、心情を変えるほど強いものではなかった。ブルマの好きそうな感じだな、と思った程度だ。
それでも、ロイヤルスィートに一歩を踏み入れた時には、いつもとは違うということを認識した。部屋が豪華だからどうこうという話ではない。俺は本当に一歩を踏み入れただけで、まだそういうものは目にしていなかったから。…予想はしていたけど、ツインじゃないんだな。一緒に住んではいるけれど、こういうのは初めてだ。
照れを感じていたわけではなかった。そんなの今更だ。ただ毎日一緒に寝るというのはやはり感覚が違うということと、あとはあれだ。…ケンカしたら、絶対に俺がソファで寝ることになるんだろうな…
90日間、一度もケンカをしないなどということがあり得るだろうか。俺は自問してみたが、答えはわかりきっていた。さしたる感慨もなく思考を閉じたところで、先に部屋に入っていたブルマからお呼びがかかった。
「ねえヤムチャ、来て来て」
ショーウィンドウの中に、絶対どこにも着ていけなさそうな華美なドレスを見つけた時にも似た、明るい声。さてはお姫様ベッドでも見つけたかな。咄嗟に浮かんだその考えを、俺は瞬時に引っ込めた。ブルマがテラスに出ていったから。そしてその先にあるものが、すでに見えていたからだ。
歴史を感じさせる城壁に囲まれた赤煉瓦の街。その向こうに広がる青い海。限りなく透明な青い空…
「こんな街がまだあったんだな…」
この、テラスに身を置いた時になって、俺はようやく気がついた。市街に入ってよりホテルまで、カプセルハウスが1つも見当たらなかったことに。あまりにも自然過ぎて気づかなかった。
「レッチェルは世界遺産に登録されてるから。きっと朽ちるまでこのままでしょうね」
また一つ、ブルマがこの旅行に対する意気込みを見せつけた。そして次の瞬間には、そこに思い入れが加わった。
「きれいね」
呟くようにそう言って、肩にしなだれかかってきた。流れとしてはそれほどおかしなものではないが、それでも俺は思わずにはいられなかった。
…また、浸っているな。
今日はそういうの、いつにもましてわかりやすいんだから。しかも前触れなく、いきなりきやがる。ブルマはそれほど雰囲気に酔いやすいタイプではないと俺は思うが、どうやら今日は酔いたい気分であるらしい。それにしたって目を瞑ってちゃ、せっかくの景色も見えないと思うが。
俺は少しだけ呆れたが、それは長くは続かなかった。かといって、こういう時大概いつもそうなるように、かわいいな、などと思ったわけではなかった。俺は俺で、目の前にある現実に感動していた。ある意味では、きっとブルマと同じように。
美しい海も、澄み渡る青い空も、見たことなど何度もある。だが、それらをこういう場所から眺めたのは初めてだ。いつもいつも修行の片手間に目にするばかりで。これが『旅』ってやつなんだろうな。
何の理由があるでもなくそこにいて、何のためにでもなく風を受ける。飛行機に乗るまでは無駄だと思っていたそのことが、今ではひどく贅沢なことのように思えた。きっと一人では、こんな風には感じられなかったことだろう。俺はブルマに縛りつけられているからこそ、今この状態に身を置いているのだからな。
どう言えばいいのかはわからない。でも、何か言ってやりたい。そう俺は思った。ま、言葉はゆっくり探そう。さらにそう思い肩に手を伸ばしかけたところ、ブルマが急に体を離した。
「じゃあ、あたし着替えるわね。まずはアンバサダーラウンジに行きましょ。ウェルカムドリンクで乾杯するわよ!」
そして、ちっとも色気のない笑顔でそう言った。一瞬前までの夢見るような雰囲気は、すでに欠片もなかった。
「ヤムチャもせめてジャケット取り替えなさいよ。トランクの中に服の入ったカプセルあるから」
俺は完全に意表を衝かれていたが、すぐにブルマと同じように気分を切り替えた。
「どっちのトランクだ?」
「底にステッカーのついてる方よ」
一応区別はつけていたらしい。そうだよな、同じトランクなんだから、そうしてくれなきゃ困るよな。
とはいえ、そのステッカーを確認する必要は俺にはなかった。その前にブルマが自らのトランクを手に持って、ベッドルームへ消えたからだ。
「急がなくってもいいわよ。アンバサダーラウンジで落ち合いましょ」
やっぱり色気のない笑顔で、そう言い残して。それはもうきびきびとした足取りと口調だった。すでに俺は呆れの心境に達していたが、呆れ果てるとまではいかなかった。
想像の範囲内だ。…本来はな。今はうっかり忘れかけていたが。あまりにも雰囲気があったもんだからさ。でも、ブルマってもともとこういうやつだよ。
それっぽい雰囲気は好きでも、その手の色気はさほどないんだよ。あるようでないんだよ。俺のことよりメカやショッピングを優先したりすることもしょっちゅうだし。
ま、楽だよな。そのくらいの方がいいよ。気休めではなく、本当にそう思う。
じゃないと、夜も眠れなさそうだ。


そんなわけで、俺はブルマのお言葉に甘えて、ゆっくりとさせていただくことにした。
具体的には、ブルマがベッドルームを開け渡してくれるまで、テラスに佇んでいた。リビングに服を巻き散らかすのもなんだし。それと、酔い醒ましを兼ねてだ。俺はブルマの半量ほどしか飲んでいないが、それでも飲み過ぎの自覚はあった。二人でとはいえ、すでにボトルを3本開けている。夜ならまだしも、まだ昼だ。今のうちに酒気を抜いておかないと。ブルマが酔い潰れたら俺は介抱するつもりでいるが、俺が酔い潰れた時にブルマが介抱してくれるかどうかは、甚だ怪しい。一人勝手にどこかへ出かけてしまうような気がものすごくする。できる限り、それは避けたい。一部、治安の悪そうなエリアがあったからな。それに、異国の空の下、ベッドの中に一人取り残されるのはごめんだ。特に、このベッドには。
思いのほか早く開け渡されたベッドルームに入り込んで、俺はそう思った。キングサイズの天蓋付きベッド。木製の天蓋に、白いレース。わりと落ち着いたデザインではあるが、お姫様ベッドはお姫様ベッドだ。女はいいのかもしれないが、男は一人では寝たくないぞ、絶対に。なぜと訊かれても困るが、そういうもんだ。これに一人で寝るのならソファでいいな、俺は。
もし別々に寝ることになったら、ベッドはブルマに大人しく譲ろう。そう俺は心に決めて、トランクを開けた。そして、これと思われるカプセルケースの中身を見て、一瞬手をとめた。
ケースにはカプセルが7つ入っていた。『靴』のカプセルがあるのはわかる。『トップス』と『ボトム』に分けられているのも、まあわかる。でもどうして、『ジャケット』で1つ使ってるんだ?そもそもジャケットとトップスを分けるほどマメなやつだとも思えないのだが…
不思議半分、予感半分で、俺はカプセルを開けた。次の瞬間、俺はまたもや、ブルマのこの旅行に対する意気込みを見た。どう見ても色が違うだけとしか思えないジャケットの山。それと、どう見ても同じ色としか思えないジャケットの山――
…あいつは。一体、何着持ってきたんだ。だいたい、俺こんなにジャケット持ってなかったはずだぞ。一生分、買い足したんじゃないのか?
色と柄を把握しがてら、ゆっくりとジャケットを掻き集めた。すでに俺にはわかっていた。
着せ替えごっこはもう始まっているということに。実際、ブルマはさっき着替えていた。そして俺は、なんとなくだがブルマに付き合うことに決めたのだ。
そうだな。せめて三分の一は着てやろう。三分の一は、言われたら着ることにしよう。そしてもう三分の一は適当に。それが精一杯だ。だってなあ…
今では、旅行の期間に対する意識も変わってきていた。
このジャケットを着尽くすには、90日は短いよな…


朝、修行先のカプセルハウスを出た時にも似た心境で、部屋を後にした。
似たというより、同じかもしれない。なんとなく約束を守ろうと思っていること。なんとなく身なりを整える気分になっていること(理由までも同じだ)。そして、これからどこに行くのか知らないこと。
せいぜい一週間から10日のことと踏んでいた時は軽い気持ちで行き先を訊ねたものだが、90日間と知った今も、その感覚は変わっていなかった。…90日間ものスケジュールなんて、覚えきれるものか。ブルマは覚えているに違いないが。
妙に地に足の着いた旅気分。それを味わいながらアンバサダーラウンジへ行った俺は、そこのソファに一人座っているブルマを見て、さらに地に足を着けた。
「悪い。服片付けるのに手間どって…」
これは旅行というよりも、長いデートのようなものかもしれない。つまらなさそうに空のグラスを弄んでいるブルマの姿は、そう思わせるに十分だった。少し宥める必要があるらしい。瞬時にそう考えたが、ブルマの取った態度は、予想とは違っていた。
「…何だ?」
「べっつに〜」
ひとの顔をさんざん凝視した挙句に、目を伏せてそう呟いた。遅れを咎める言葉はなかった。俺は不思議に思ったが、根掘り葉掘り聞き出すつもりはなかった。今日は虫の居所がいつもとは違うようだから。そのせいなんじゃないかな。
「ウェルカムドリンクはどうする?結構甘めだったわよ。シロップ多い感じ」
俺がその斜め横に腰を落ち着けると、ブルマは実にさりげなくそう言った。それで俺は、自分の感覚が間違っていなかったことを知った。…誘っておきながら、もう一人で先へ進んでやがる。『ウェルカムドリンクで乾杯する』って自分で言ったくせに。本当に事を待てないやつだ。やはりベッドに置いていかれること必至だな。
「甘いのはパスしたいな。さっぱりしてるのがいい」
呆れや不快とは完全に無縁の気持ちで、俺は単純にそう言った。やっぱり、楽だ。何も口にすることなくひたすらに待たれたりするよりはな。そういうのは健気っちゃあ健気なのかもしれないが、正直、男からするとちょっとな。
「じゃ、『フレスカ』にしない?あたしも飲みたい」
「そんなに飲んで大丈夫か?ウェルカムドリンク飲んだんだろ」
「口直しがほしいのよ。甘ったるいだもん」
頬杖をつきながら、溜息混じりにブルマは言った。たいして赤くないその頬を見ながら、俺は思った。
どうやらやっぱり、宥める必要がありそうだ。
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