Trouble mystery tour Epi.9 byY
町外れのある崖の先。町はもちろん、黄金色の葡萄畑、こんもりとした森、その向こうに横たわる小さな湖、それらすべてが、まさに一望のもとに見渡せる山の切っ先。
「ん〜、思った通りのいい眺め!爽快ね〜」
スカートを大きく風に煽られながらそこに立つブルマを、俺は止めはしなかった。ただ少し注意を深めて見ていただけだった。
そこはビアリで最も高く、眺めのいい場所だった。町で一番高いところにあるという、山の上の城を改造したホテルよりもさらに高い。そしてそこに至る道などはなく、他に人はいなかった。だから俺たちは何を気にすることもなくその話をすることができた。
「何よ、にやにやして。気持ち悪いわね」
「うん、本当に戻ったんだなぁって思ってさ」
そう、今だ感慨の中に俺はいた。短い間のこととはいえあんなことの後では誰しも甘くなってしまうものだと思うが、それに加えて今の俺には、ブルマのわがままを許したい理由があった。
「もしほんの少しでもあの王女の気配が残っていたら、そんなとこに立ったりできないはずだもんな」
わがまま且つ無造作さこそが、ブルマがブルマである証。だから野を越え山を越え空を飛んで、こんなところにやってきたというわけだった。今日ほどブルマのわがままを歓迎できる日もないだろう。
「…おかげさまでね」
とはいえ、そんな気持ちも長くは続かなかった。やがてすぐにまた、いつもの心境に陥りかけた。
「おかげさまで、無事、自力で元に戻ることができました!」
「もう言うなよ。俺だって、ちゃんといろいろ考えてたんだからさ」
「そうよね。双子たちと楽し〜くお茶を飲みながら、いろいろ考えてたのよね〜え」
「あれは電話借りただけだって…」
「電話なんか列車の中にだってあるでしょ」
「おまえから目を離したくなかったんだよ」
一体何度言ったらわかるんだ。
喉元まで出かかったその台詞を、俺は大変苦労して呑み込んだ。何度言ってもわからないだろうことが明白だったからだ。少なくとも日が変わらない限りは言われ続けるに違いない。この際本気で何度言ったか数えていってやろうかな。ちなみに今ので三度目だ。
「口では何とでも言えるわよね〜」
「だったらどうしろって言うんだよ?」
「さぁねー」
そして、三度目の今も、話はそこから先へは進みはしなかった。だから、ブルマはわかっていて言ってるんだと思う。っていうか、思いたい。だってこいつ、頭はいいはずなんだからさ…
そくそくと湧いてくる呆れを隠して、俺はブルマの額にキスをした。そしてそのまま肩に手を回した。半ばは必要に迫られて。そしてブルマもすっぽりと腕の中に収まったので、次の行動は決定された。
「じゃあ、降りるか。次はどこへ行くんだ?」
「そうねえ。あの湖はどうかしら。あんまり人いなさそうよ」
「了解」
山の次は湖か。本当に何の遠慮もなく、扱き使ってくれるぜ。
それは不満ではなかった。ただそう感じたというだけのことだ。だから、そのいかにも自然そのままといった感じの湖がある方へと向かって、俺は飛び降りた。
「わぁおっ」
もちろん最後まで落ちることはなく、途中から飛んだ。ブルマがちょっと声を上げたので、しっかりその身を捕まえて。
最初に飛んで行こうと言い出したのはブルマだが、今では俺はそれに従うというよりは自分から買って出ていた。足元を見られているわけではない。手玉に取られているのとも違う。
さっきも言ったな。俺の心境は至極単純。
ブルマのわがままに付き合ってやれることが、嬉しかったのだ。


とはいっても、何もかもを受け入れられるわけではないのだから、この町が田舎だったことは、俺にとってはかなりの幸運だった。
つまり、ここが大都市でブルマがショッピングに燃えたりしてたら、俺はどこまで付き合ってられたものか、自信がない。第一そんなんじゃ、余韻もあっという間に吹き飛んでしまうというものだ。
妖精でも住んでいそうなひっそりとした雰囲気に包まれた湖畔の森なんかを歩いていたりしているからこそ、俺の感慨は保たれていたのだ。先ほどの山といい、この町は本当に人の手が入っていなくて、そのくせ計算されたようにあるべきところに美しいものがちゃんとある。その計算された美しさが偶然にでき上がったものではないということを、俺は今では知っていた。きっと、神様が作ったそのままの形に残されているんだろ。
「素敵ね〜。失敗したなぁ。こんなにいいところなら、お弁当作ってもらえばよかった!あっ!見て見て、あそこ。リスがいるわ。かわい〜」
ブルマは声も高らかに、森の方へと駆けて行った。菫色の髪と薄桃色のドレスが、深い緑の中でひと際映えて見えた。でもそれは今に始まったことではなくこの町に入ってからずっとのことなので、今さら見とれたりはしない。俺が目を瞠ったのはもう少し後、そのブルマの姿を目にした時だった。
深い緑の森の中。腰を落としながら、そっと樹に手を添えるその仕種。遠くを見る目は優しく細められて、ピンクの口元には薄い微笑――
感慨が悪夢に取って代わった。背筋に冷たいものが走った。俺は急いでブルマの元に駆けより、頬に手をやるのももどかしく、その耳を引っ張った。
「いたっ。ちょっと、いきなり何するのよ」
その声を聞いただけでわかった。さらに、こちらを向いたブルマの顔を見て、完全にそうであることを知った。
「よかった、ブルマだった」
単なる気のせい。ちょっとした光の加減による見間違い。所謂刷り込みによる思い込み…
「何言って……あっ、あんたまだそんなこと気にしてるの」
「いや、気にしてるっていうか……今、あまりにも構図が似てたからさ。あの、列車の隣部屋にある絵に…」
似てるどころか、服の色と髪の長さを除けば、完全に同じだった。今気がついたけど、こいつら体つきも似てるぞ。ブルマの方が多少肉感的だが、肩とか腰の線がそっくり…
でもそのことは言わないことにして(どうせやらしいとか言われるに決まってる)、俺は実際王女に会った後で感じることになったことを一つ、口に出した。
「王女がおまえに見えたことは一度もなかったけど、おまえは時々、本当に時々だけど、それっぽく見えることがあるんだよなあ…」
「何それ。どういう意味よ?」
「…要するに、おとなしくしてればおまえもお姫様に見えるってことさ。あくまでおとなしくしていれば、な。…あたっ」
感慨を心の隅に追いやって、俺はオチをつけた。あんまりくどくど話したくなかった。そしてブルマは実にブルマらしく、俺のオチに口ではなく手で応えたので、ある意味俺はホッとして、弾かれた額を抑えた。
「この乱暴者」
「どっちがよ。だいたい、どうせ痛くも痒くもないくせに大げさよ」
「何だと。デコピンは結構痛いんだぞ」
「あらそう。それはいいことを教えてくれてありがとう」
「てっ!」
あくまで口で対抗すると、予感はしたが理由のない二発目が飛んできた。理不尽だ。非常に理不尽だよな。
「鬼!」
「鍛えてあげてんのよ。感謝しなさい」
偉そうにブルマは言い、俺の額を弾いた自分の指の爪に息を吹きかけた。どうやらやった方も痛かったらしい。フィフティ・フィフティだな。そうしてその後もブルマは立つ素振りを見せなかったので、その斜め正面に俺は横になった。さっきとは違った角度から、ブルマを視界に収める。森ではなく湖を背景に花畑に座り込むブルマは、鼻歌交じりに花輪なんかを作り始めたこともあって、あの王女とは全然違って見えた。森の奥天使のように佇む王女ではなくて、湖の周りで遊んでいるただの女の子だ。あれだ、赤ずきんちゃんだな。先日見た双子みたいのじゃなくて、童話のな。道草食ってるところも同じだ。
「ほ〜ら、かわいいでしょ。どう、お姫様に見える?」
やがて完成した花冠を仰々しく頭の上に乗せて、ブルマがにっこり微笑んだ。前半部分には同意してもいいと、俺は思った。仕種も含めて、今は全部がかわいく見える。作り笑顔だということを差っ引いても。
でも、そうは言わなかった。例え話だとしてもお姫様みたいだなんて言いたくない。なんて、意固地に考えていたわけではない。
「そういうこと言わなければな。自分で自分のことかわいいなんて言うやつがあるか」
ただの意地悪だ。それも、再三繰り返されるブルマの意地悪に対抗した、な。その証拠に、一応は肯定してみせた。
「ふんっだ」
だがブルマはそれには気づかずたちまち作り笑顔を捨て去って、それは無造作に花輪を投げた。湖の奥へと流されていくそれを見ながら、俺はブルマの頭を撫でた。きっとさっきそうするべきだったんだろうなということは知りながら。でも、冠はない方がいい。ただの女の方が、俺は好きだ。
「そろそろ行くか?」
「そうね、ぶらぶらしながらお茶飲めるとこでも探しましょ」
「どこまで飛んで行く?」
「いいわ、もうここからは歩いて行くわ」
「腹ごなしのためだな」
「ま、そんなところよ」
何事もなかったかのように、ブルマは歩き出した。いや、実際何事もなかったよな。ちょっと俺が杞憂に囚われただけだ。だから、これからも何事もないようにと、俺はブルマの手を取った。
別に何かを用心していたわけではない。男が女の手を取るのなんて、普通のことだ。こういう足場の悪い場所では特に。こんな旅行の最中ではさらに。
俺はブルマの同行者なんだから。荷物持ち兼運搬係兼お目付け役兼エスコート役兼彼氏なんだから。
ボディガードとばかりは、今は胸を張っては言えないけど。まあ、がんばるよ。


結局、お茶ではなく酒を飲んで、ビアリの町を後にした。
茶を飲めるところがなかったからだ。あの、城を改造したというホテル以外には。そしてブルマがそこをパスしたので、開放された農園の一角でワインとチーズを食べたりした。
大きなガジュマルの木の下、無造作に置かれた石のテーブルと木で造られたイスに、陶器のワイングラス。花に舞う蝶。しっぽを振って足下にまとわりついてくる子犬。なんともほのぼのとした午後の時間を、俺たちは過ごした。
「しっかりシャワー浴びてね。あんた、犬くさいわよ。ヤムチャってば本当に、子どもと動物には好かれるわよね〜」
部屋に戻った俺は、ブルマの皮肉めいた言葉にせっつかれて、シャワーを浴びた。浴びてもなお、ブルマはわざとらしく匂いを嗅いできたりしたが、ちっとも腹は立たなかった。ブルマは機嫌が悪いわけではない。むしろその逆なんだから(きっとワインのせいだ)、今は『アイロニーに富んでる』、そう思っておいてやるべき時だ。
そしてそれからレストラン・カーに行くとまた一人――いや二人、アイロニーに富んだ子たちが現れた。
「あはっ、ブルマさん、ヤムチャさん、お二人とも仲直りしたんですね〜」
「ヤムチャさん、よかったですねー」
「うん、おかげさまでね」
喧嘩じゃないって言ったのに……俺は一瞬そう思ったが、すぐにその気持ちを引っ込めた。なぜなら、言ってなかったからだ。…たぶん。正直言って、あの時この子たちと何を話したのか、全然覚えていないんだ。そればかりか、もうずいぶん前のことのような気さえする。ついさっきのことなのにな。
「ほら、早く自分たちのテーブルにつきなさい。いつまでもそんなところに立ってられちゃ、他の人も迷惑よ」
「大丈夫ですよ、もうみんな席に座ってますから〜」
「だったらなおさら、あんたたちも座りなさい」
「ブルマさーん、なんかこの列車に乗ってから、あたしたちに冷たいですよぉ」
「そんなことないわよ。ずっと同じ扱いでしょ」
…確かにな。何度目かのブルマのその『同じ扱い』を約一日ぶりに目にして、俺は思わず笑いを漏らした。相変わらずの犬を追い払うようなあしらい方が、この時は微笑ましかった。この際、俺もアイロニーを添えてやろうか。『きみたちがフリーである限りブルマは冷たいよ』、そう言ったらどうなるだろう。…たいしてダメージ受けないか。そうだな、俺以外には。俺がやぶへびになる以外のことはきっと起こらん――などと考えている俺の背を、ブルマはやがて強引に押し、物の見事に双子を無視して奥のテーブルへと誘導した。
…なんかエスコート役でもなくなってきた。自分で自分にアイロニーをぶつけつつ席に着くと、ふと聞き慣れない男の声が耳に飛び込んできた。
「こんばんは、かわいいお嬢さん。私たちのテーブルはそこの後ろなんだけど、座らせてくれるかな?それとも一緒に座るかい?」
俺はその声の主にではなく、その声を耳にした目の前の人間に目を向けた。ブルマの体がぴくりと硬直したことに気づいたのだ。その瞬間なんとなくわかった俺は、できるだけさりげなく、ちらと横目で声のした方を見た。
「こんばんは、おじさん。すいません、今どけまーす」
「奥さんもこんばんはー。それと、初めまして、ですよね。お二人ともビアリから来たんですか?」
あれ?夫婦だったのか?でも、それじゃ…
俺は首を傾げながら、その他人の会話に聞き耳を立てた。情報収集と、ひいてはこの後の自分たちの行動を決定するために。そう、その二人連れの男の方は、さっきブルマがぶん殴っていたやつだったのだ。
「ええそうよ、こんばんは。かわいらしい方たちね。でもね、一つだけ。あたしたち、夫婦じゃないのよ。ね、エイハン」
「ああ、私たちは兄妹だよ。こいつはリザ。きみたちは何て名なのかな?」
「あっ、リルとミルでーす。双子なんです〜」
「よろしくお願いしま〜す」
「まあ、元気なお嬢さんたちねえ」
「元気な子は大好きだよ。それで、ご両親はどちらにおられるのかな?」
「あ、パパとママはここにはいません。あたしたち二人だけです」
「あたしたち二人で旅行してるんです〜」
「…へえ、それはそれは。じゃあ、おじさんたちと一緒に食事しようよ。ワインを何本か預けてあるんだ。お話しながらみんなで飲もう」
…何とも言えないなあ。言葉だけ聞いてると普通だが、べたべたした喋り方とのらりくらりとした雰囲気はかなり怪しい。一つだけはっきり言えることは……俺も、こいつと話をさせるのは嫌だということだ。
とはいえ、果たしてそういう生理的嫌悪感だけで殴ったりしていいものか。と、敢えて冷静に考え始めた俺に対し、ブルマは俄然熱り立って、チェアを蹴り声を荒げた。
「ちょっと、おっさん!そんな子ども口説くのやめなさいよ。通報されるわよ。その子たちは未成年!未成年にお酒を飲ませるのは、それだけでもう犯罪よ」
まるで鉄砲玉だな。一応、理論武装してはいるが。
俺は軽く呆れたが、ブルマへの呆れが男に対する嫌悪感を上回ることはなかった。けれどもやはり参戦するつもりはなく、むしろ、もう少し穏便に、などと思った。だって、今はまだ何も起こっていないんだからな。
「おや、お嬢さん。またお会いしましたね」
「同じ列車で会うも会わないもないでしょ」
「ははは、こりゃまたはっきり物を言うお嬢さんだ。私はエイハン、ここらのワインの元締めだ。よろしく」
「…あたしはブルマ。C.Cの一人娘よ」
だけどすでに、起こりつつあった。もう確実に起こりつつあった。一見するとやはりまだ何も起こっていないんだけど、空気が…
そう、ブルマと男、二人の間に漂う空気が。……なんだろう、これは。火花が散ってる……地方と都市の上流階級者同士による上位を決める争いか?
「C.C?西の都の?どうりで洗練されていると思ったよ。それに改めて見てみると、絵の彼女よりもずっときれいだ。さっきは失礼なことをしたね。お詫びにワインを一杯どうだい?」
「せっかくだけどご遠慮するわ。連れがいるから。こっちは恋人のヤムチャ!武道やってて、すっごく強いんだから!」
「なるほど、きみのボディガードというわけだ。覚えておくよ」
「まあ、素敵な彼氏だこと。あたしもよろしくね、ヤ・ム・チャ・く・ん」
「は…」
立ち上がりはしたもののなんとなく場の空気に押されていた俺は、ブルマによって表舞台に引き摺り出され、横から入ってきた人間によってさらに引き込まれた。自分の片腕にブルマがくっついているにも関わらず、離れたところにいる人間の目力に吸い寄せられた。
俺は女に免疫こそついたものの、やっぱり本質的には女に弱い。それはブルマと付き合っている限り変わらないと思う。そして、この時男の隣にいたのは、ものすごく女だった。
どう見ても俺より年上……どう見ても経験豊富……どう見ても男を必要としているタイプではなく、どう見ても俺の相手ではないにも関わらず、女に見えた。妖艶なウィンク。舌なめずりしているかのような唇の動き――それも、ものすごく苦手なタイプだ。こういう、肉感的であろうとして肉感的であるタイプは…………
「ちょっと、ヤムチャ!」
目を離せないというよりは軽く呑まれかけた俺の耳元で、ブルマが囁いた。そうして我に返った時、忘れかけていた明るい声が場に響いた。
「みなさん、ダメですよ、ケンカしちゃ〜。まっ、あたしたちがかわい過ぎるのが問題なのかもしれないけど〜。なんなら、一人ずつお相手しましょうかぁ?あはっ」
「ダメだよ、ミル。絶対別行動するなってパパに言われたでしょ」
「あっ、そっか。じゃあ、食事の後ラウンジでトランプなんかどうですかぁ?それならみんなでできるし。ねっ」
実はこの双子たちは、ものすごーくコミュニケーション能力が高いのかもしれない。空気が読めないということも、この際はプラスに働いている。なるほど、ブルマも毒気を抜かれるわけだ。
そう、ブルマはすっかり毒気を抜かれていた。俺が促すまでもなく自分から席について、すっかり冷静な口調になって双子に言った。
「…そうしなさい。あたしたちは遠慮するけど。ほら、ヤムチャ、早く座って。食前酒頼むわよ」
「えーっ、何でですかぁ。みんなで一緒に遊びましょうよ〜。ブルマさんてば、クールダウン早過ぎ!今の今まであたしたちを取り合ってたくせに〜」
「お酒飲むなって言っただけよ。親のお金で旅行してるんだから、親がいないからって羽目外すんじゃないわよ」
「親じゃなくて、おじいちゃんですよ」
「おじいちゃんが誕生日プレゼントにー…」
「はいはい、わかったから。ほら、あんたたちも早く席につきなさい。ウェイターが困ってるわよ」
おまえが困らせたくせに…
今では俺もすっかり冷静な気持ちになって、完全な呆れ目を俺の相手である女に向けた。やがてやってきたウェイターにてきぱきと食前酒をオーダーした後で、ブルマはだらだらと内輪話を開始した。
「あー、やだやだ。遊び慣れた中年ってあれだから。ヤムチャ、あんたはあんな男になっちゃダメよ!」
「…何でそういう話になるんだよ?」
こういう時いつもなら宥めに回るところだが、この時はそうはいかなかった。さもありなん。不完全燃焼だったのはわかるが、だからといって俺に八つ当たりすることはないだろう。
ブルマは片頬杖をつきながら、さっくりとこう言った。
「あんた、素質がありそうだからよ」
「何の素質だよ…」
「遊び人のに決まってるでしょ。あんたさっき、あの女に見とれてたでしょ。信じらんない。何考えてんの?っていうか、どういう趣味してんの!あんな年増の化粧お化けのどこがいいの!」
「…目が怖かったんだよ…」
俺は思わず本音を漏らした。いつもなら何が何でも否定するところだが、この時ばかりはそうする気になれなかった。ブルマの怒りのポイントが、いつもとはちょっと違う、ということも理由の一つではあった。
「あの目は怖過ぎだ。いいか、おまえは絶対何があっても、あんな化粧はするなよ」
俺は今まで、ブルマの化粧に口を出したことなどない。化粧なんて訊かれたってわからないし、ブルマの場合してもしなくてもそれぞれによく見えるから、ぶっちゃけ気分の問題だろうと思っていた。その時々の気分。着飾りたいか、ラフに過ごしたいか。所謂TPO…それは間違っていないと今でも思うが――でも、例外的な化粧が存在することを、さっき知った。
簡単に言うと、『美人の厚化粧は怖い』。簡単に言い過ぎだろうとは思うが(美人にもいろいろあるからな)、さっきは本当にそう思った。
あのリザって女の迫力あることと言ったら…目力の強いことと言ったら。それも、色っぽいとかそういうのではなく、精神が不安になるような強さだ。結構美人で肉感的であるだけに、余計に怖い。取って食われるかと思ったぞ。もしブルマがあんな化粧をしていたら、俺は即行で逃げるだろう(さっき逃げなかったのは相手が初対面の他人だからだ)。
「…あんたこそ、いきなりどうしてそんな話になるのよ?」
「とにかく、さっきのは怖いもの見たさみたいなもんだ」
「何よ、やっぱり見たいんじゃないの」
「違う。見たくなくても逸らせないんだ。蛇に睨まれた蛙みたいなもんだ」
「…ま、蛇ってわかってるならいいわ」
「そう、蛇女だあれは。うん」
その言葉を見つけると、妙に落ち着いた気分になった。大変失礼なことながら。そう、あの唇の真っ赤な女性は、きっと夜になると生卵の代わりに男を飲み込むんだ。…いかん、笑えない。
「思い詰めてるところ何だけど、料理がきたわよ。とりあえず向こうは見ないようにして、ごはん食べましょ」
「うーん、賛成」
やがて示されたブルマのものすごく失礼な提案に、俺は一も二もなく乗った。もとよりそのつもりはなかったが、さらに輪をかけて、自分の相手だけを見ることにした。そしてそうしていると、ちょっぴり昔を思い出した。
ブルマが初めて化粧をした時には、それなりに驚いたものだが。この紅い唇に、どきどきしたりしたものだが。長い睫毛の間に線を引く様も色っぽい、なんて思ったものだが。
まさか今さら、こんな風にどきどきする羽目になろうとは、思いもしなかったよ…
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