Trouble mystery tour Epi.9 (6) byY
ブルマがe4にポーンを進めると、エイハンはその正面にポーンを置いた。
ブルマがf3にナイトを走らせると、エイハンはその対角線上にナイトを置いた。
ブルマがb5にビショップを滑らせると…………
一見にこやかに駒を動かすブルマと、余裕の笑みでそれに応じるエイハン。口の端に笑みを浮かべてこちらを見ているリザと、にこにこしながらすべてを見ている双子たち。
場は、一種異様な雰囲気に包まれていた。
同じ一つのテーブルを囲んでいる6人の間の空気が、ものの見事に分断されている。列車の進行方向を背に、二人掛けのソファに並んで座る俺とブルマ。その向かいのソファに、やはり並んで座っているリザとエイハン。そして俺たちの真後ろのソファに齧りついているミルちゃんとリルちゃん。三者三様ならぬ三ソファ三様の様相で、だが一見したところ全員が笑顔を浮かべていた。かといって、もちろん和んでいるわけではない。まあミルちゃんとリルちゃんは文句なく和やかではあるが、その他の人間は違った。お互いを牽制する笑顔、余裕をふかしながらもどこかぴりぴりした空気。カジノの雰囲気に似ていると言えないこともない。だが、ここで賭けられているのは金でもチップでもなく、プライドだった。それも、チェスの名人としてのプライドではないところが、またややこしいのだ。
「あれぇ、リザさん、何占ってるの?」
とはいえ、おそらくは心の底からにこにこしている双子はそういうことにも無縁なわけで、やがてリザの方へと身を乗り出して――すなわち俺とブルマの左右から顔を覗かせる格好で――瞳を輝かせた。
「このゲームの勝者はどちらか、よ。でも、結果は言わないでおくわ。先にわかっちゃったらつまらないでしょう?」
意味ありげな笑みを浮かべながら上目遣いでこちらを見てくるリザの視線を、俺は撥ね退けることができなかった。相変わらずの目力。それに、もともと女のこういう仕種は苦手なんだ。ブルマにされたって困ってしまうくらいのものだ。
「リザさんの占い当たるもんね〜」
「ゼンメルさんのことも当たっちゃったしね〜」
ある意味ではそういう気まずさを掻き消してくれる双子の声を聞きながら、俺はことさらにチェス盤へと目を走らせた。早打ちと明言していただけあって、エイハンの打ちは早かった。ブルマもいつもながらに早いのでゲームは実にスピーディに展開し、すでに序盤は終わり中盤へと差し掛かっていた。
ブルマがc4にポーンを置くと、エイハンはh4にポーンを押し上げた。
ブルマがf1ナイトでh2のポーンを守ると、エイハンはf6にナイトを動かした。
ブルマがf3にクイーンを進めると、エイハンはgポーンを押し上げた…………
「あのね、ブルマさんヤムチャさん、すごいんですよ、リザさんの占いもう当たっちゃったの!」
「さっき、ゼンメルさんのこと話しましたよね。奥さんの失くした宝物が戻ってくるってやつ。あれ、宝石だったんだって!」
「ほらぁ、美人泥棒に盗まれたっていう宝石。あれがね、戻ってきたんだって。泥棒から取り返したんだって!」
「ふふ、ご存じよね?取り戻した当人ですもの。ねえ、ヤ・ム・チャ・く・ん」
「えっ…あ、はあ、まあ…」
意味ありげにウィンクしながら水を向けてきたリザを、俺は無視することができなかった。そのウィンクを見てしまっている時点で、すでに無視できていないのだ。人の心理って不思議なものだ。見たくないのに見てしまっているとは。そう、やっぱり俺はリザから目を、逸らしたくとも逸らせなかった。この人、占いが趣味って言ってるけど、実はそれだけじゃなくて、催眠術師かなんかなんじゃないのか…
と、俺が自分の不甲斐なさを思わず相手のせいにしたところ、ブルマがその相手とやり合い始めた。
「でも、ヤムチャが取り戻すってことまでは、わからなかったのよねーえ?」
「私が占ったのは、あくまでゼンメルさんご夫妻のことですもの。本人の身に起こらないことはわからなくて当然だわ」
「あーら、そうなの。それじゃ、例え当たっても、あんまり物の役には立ちそうにもないわね」
うーむ、女の戦い…!
それとも蛇と何かの戦いだろうか。とにかく火花が散ってる。すごく怖い。はっきり言って口出しできない。
「無知な人はそう思うでしょうね。でも、私くらいになるとそうでもないのよ。ゼンメルさんの宝石についても、あらかじめ盗まれたことを知らされていたら、具体的に占ってあげられたでしょうね。占いってそんなに単純じゃないのよ」
ふん。
最後にブルマの漏らした鼻息が、隣にいた俺には聞こえた。それはすごく荒々しかったが、それ故に俺は感心した。『無知とは何よ、無知とは!』――そう言って、食ってかからないんだな。よく自制できていると言うか、何と言うか……理性と感情の向かう方向が完全に一致している。こんなブルマは珍しい。
「ブルマ、大丈夫か?なんだか調子が悪いみたいだが」
だが、本来喜ぶべきであるそのことに、俺は少なからず不安を覚えた。だって、なんだかブルマらしくないじゃないか。エネルギー不足っていうか…。そりゃあここで食ってかかられちゃ格好つかないことこの上ないが、経験から言うと、ここでブルマが怒って俺が宥めるっていうのが、いつもの流れなのに。
「だーいじょうぶだって。あたしを信じなさい」
俺に答えたブルマは、いつもの強気なブルマだった。それで俺は、とりあえずは黙って見ていることにした。とりあえずも何も、俺にはそれしかできないのだが。ブルマに代わってやるわけにもいかないし(プライドの問題ではなく、能力的な理由でな)。見てるだけって歯がゆいな。天下一武道会なんかでも他人の試合を見ている時は歯がゆいものだが、今はそれ以上だ…
しかし、そういう歯がゆさは、すぐに掻き消された。エイハンが、訳知り顔でこんなことを言ってきたからだ。
「おいおい、横から口出ししないでくれよ。チェスってのは、ゲームであると同時にスポーツでも芸術でも科学でもあり、それらのセンスを総合する能力を競う『個人の』遊戯なんだ。他人が教えるなんてナンセンスだぞ」
「教えてなんていませんよ。ただ声をかけただけです。そっちこそ、占い頼みはなしですよ」
「何だい、占い頼みって」
「いやあ、一緒に旅行するほど仲のいい兄妹だ、きっと以心伝心することもあるんだろうなあと思ってね。その気になれば、リザさんは具体的に占えるんでしょう?それともサインか何かありますか?」
俺は非常に不快をそそられて、そう返してやった。あまり見くびるなよ。ブルマは本当にチェスが強いし、俺は男になら何だって言ってやれるんだ。
「バカ言っちゃいかんよ、きみ、何てこと言うんだ。チェスクラブ会長たるこの私がイカサマなど。だいたい、リザはチェスはてんでわからないよ」
「そうですか。それは失礼しました。でも、そういう心配をするのは、ボディガードとしては当然のことですからね」
「なかなか言うね、きみ」
ふん。当然だ!
リザに対する鬱憤も込めて、俺は思いきりエイハンを睨んでやった。後ろで双子が何やら顔を輝かせていることに気づいたが、構わなかった。『ドラマみたいな』展開で結構。手は出せなくとも、言うべきことは言ってやるさ。…リザはブルマに任せるけど。
そんな感じで、俺たちは互いの相手を牽制しながら、時を過ごした。そして、ゲームが終盤へと近づいていくにつれ、各々段々と口数が少なくなっていった。ブルマとエイハンはゲームに集中。リザはきっと、結果を知っていたから。ギャラリーである双子たちは飽きてきたのか、時々はこちらを覗き込みながらも、自分たちのテーブルに向かって菓子を食べたりしていた。で、俺はと言うと……正直、よくわからなくなってきていた。
ブルマが押しているのは確かだ。さっきまではエイハンの方が先手を取っていた感じだったが、終いにきて一転して攻めに回った。ようやく実力の差が出てきたというところか。しかしエイハンがよく凌ぐ。死角になりがちなところから駒を持ってきてよく守る。もっとも、ブルマには見えているんだろうが。平気な顔して畳みかけていくからな。
「参った。…リザインするよ」
やがてエイハンがキングの逃げ場を残したまま、眉を下げて両手を上げた。俺が思っていたのと同じことを、ブルマがまったく違うニュアンスで口にした。
「あら、いいの?まだ手は残ってると思うけど」
「ああ、もうお手上げだ。こうなってしまったら、どう転んでも私の負けだ。遅かれ早かれチェック・メイトされる運命さ。粘るだけ時間の無駄だよ」
「あ〜ら、それがわかるなんて、さすがね〜。アマチュアクラブの会長なだけはあるわ〜」
うん、確かに。ブルマはともかく、俺よりは数段上の打ち手だ。もっとも俺はブルマ以外とはまずやらないから、アマチュアでさえないのかもしれないがな。
「はは…どうせ田舎者の道楽だよ。やっぱり都の人間には敵わないね」
「言っとくけど、あたしは道楽ですらないわよ。時々暇潰しにやるだけだもの。ね、ヤムチャ」
「そうだな。おまけに、まだまだ本気出してないしな」
その暇潰し相手であるところの俺は、ブルマの意を汲み取って、そう付け足してやった。うんと叩きのめしておいてやるさ。前にブルマが言っていた通り、こいつだいぶん面の皮厚いみたいだからな。
「そういうこと。こんなことに田舎も都も関係ないわよ。だいたい、チェスはいろんなセンスを総合した能力を競う『個人の』遊戯なんでしょ」
さらにそこをブルマがきつく揚げ足を取った。すると、エイハンは頭を掻き掻き笑って言った。
「やれやれ。あんまりおじさんを苛めないでほしいなあ」
「何言ってんの。先に絡んできたのはそっちじゃない。…とにかく。これからはもうあたしに構わないでもらいたいわ。サービスマンに言づけたりもしないで。あたしが勝ったんだから、言うこと聞いてもらうわよ」
「かしこまりました、お嬢様。すべて仰せのままに致します」
「……そういうのもやめてちょうだい」
…本当に厚いな。
ブルマの留めの言葉にも、芝居がかった口調で笑って応えるエイハンに、俺は思わず絶句した。なんだか、何を言っても効かないというか…ひょっとして、勝負を受けてしまった時点で、ブルマの負けだったんじゃないだろうか。まんまと接触の機会を作ってやっただけのような…少なくとも、これで面識のない赤の他人ではなくなってしまった。いや、この狭い列車のことだ、10人しかいない客と一週間も缶詰にされて、まったく言葉を交わさないことの方が不可能だ。現にここまでまったく話す機会のなかったゼンメルさん夫妻とも、言葉を交わすことになった。それに――
「あー、エイハンさん、負けちゃったんだ。残念だったねえ」
「もうやらないの?じゃあこっちに来て、あたしたちとお茶飲もうよ」
ふいに状況に気づいたらしい双子たちが、ソファの後ろから顔を覗かせた。そして場の空気に左右されないマイペースなコミュニケーション能力を発揮し始めた。
「おお、ありがとう。きみたちは本当にいい子だねえ。まるで天使のようじゃないか」
「ねえ、エイハンさんが持ち込んだキャンベルジュースって、まだあるかなぁ?」
「あれおいしいよね。今までに飲んだフレッシュジュースの中で一番好き!」
「そうかそうか。嬉しいことを言ってくれるね。まだまだたっぷりあるから、好きなだけ飲みなさい」
「わーい、やったぁ!ウェイターさーん!」
「エイハンさんっていい人〜」
――ミルちゃんとリルちゃんなんか、話をするどころか、すっかり懐いてしまっている。正確にはエイハンにじゃなくて、キャンベルジュースとやらになのかもしれないが。物で釣るっていうやり方は、子どもには絶大な効果があるからなぁ。
そして双子よりは大人であるブルマに対しては、プライドを突くというやり方できたわけだ。まあ手を替え品を替えよくやるな。っていうか…………対象範囲広いな…
「ふふっ…それじゃ、私も失礼するわ。またね、ヤムチャくん。今夜はとても楽しかったわ」
「はぁ…」
やがて意味ありげに笑いながら席を立ったリザを、俺はどきりとする気持ち半分、ほっとする気持ち半分で、見送った。いろいろな意味で呆れてしまうエイハンとは違い、俺にはこの世代の異なる女性と親密になる気はなかった。年齢のせいだけじゃない。エイハンは要注意人物ながらも少しは人柄がわかってきたが、その妹の方についてはさっぱりわからん。むしろ妖しさが増すばかりだ。
「ではお嬢様、またの機会に。今夜はこの子たちと楽しむことにするよ。グッナイ!」
「…………」
リザがラウンジから出ていくと、その要注意人物の兄が、最後にそう声をかけてきた。ウィンクをも飛ばしながら。今では俺のみならずブルマも言葉を失っていた。ウィンクに対する文句さえ言わずに、苦虫を噛み潰したような顔になると、どっかりとソファに座り直した。
「は〜ぁ。本当に言うこと聞いてくれるのか、怪しいものね。…ねえ、最後に一戦やらない?」
「あんないいゲームしといてまだ物足りないのか。だいたい俺とじゃたいしたゲームにはならんぞ」
俺もその正面のソファに座り直しながら、そう答えた。気分を変えたい気持ちはわかる。なんとなくすっきりしないからな。やっつけたはずなのにかわされた感があるというか。だが…
おまえの相手ができるくらいなら、そもそも俺がエイハンとやりあってる。少し迂遠にそう思った俺に、ブルマは言った。
「あたしはあんたとやりたいのよ。チェスがしたいんじゃなくて、『あんたとチェスをする』っていう遊びよ」
「…なるほど…………?」
「要するにね、あたしはマニアじゃないから、レベルの高いゲームじゃなくて、楽しいゲームがしたいわけ」
「楽しいのか…」
その言葉は、俺にはちょっと意外だった。そりゃあ全然楽しくないわけはないだろうが、ブルマはてっきり暇潰しで俺を相手にしてるんだと思ってた。さっきもそう言ってたし。実際、『簡単に勝負ついちゃってつまんない』とか言うしな。
「あら、あんたは楽しくないの?」
「いえいえ、大変楽しませてもらってますよ」
「でしょー?じゃあやりましょ」
ブルマは知らず俺はすでに半分くらいは気分を切り替えて、駒を並べ直しにかかった。感激するというほどではない。だが、やっぱり嬉しいことだ。なんとなくはわかっていても、実際に口にされるとな。ブルマの口の悪さを俺はわかっているつもりではあるが、わかっているからって何も感じないわけじゃないのだ。だいたい『俺とやること自体が楽しい』なんて、例え言ったのがブルマじゃなくても実にかわいい台詞じゃないか(もっとも、実際にはそうは言ってないのだが)。
「ふんふんふーん、じゃ、あたしは昼間の約束通り、ルークとビショップ落とすからね」
だがやがてブルマが鼻歌交じりにそう言ってきたので、俺はまたもや訊いてしまった。
「…おまえ、本当にそれで楽しいのか?」
念押しではない。今、心の底から湧いた疑問だ。ルークとビショップ落ちなんて、例え負けても悔しくも何ともないと思うのだが。 いまいちやり甲斐ないというか…いいとこ『しょうがない相手してやるか』って感じだよな。俺だったら絶対にそう感じると思うのだが。
ブルマは片手で駒を並べ片手でドレスの胸元を直しながら、笑顔で言い切った。
「楽しいわよ〜。あんた反応いいもん。負けたらすっごく悔しがってくれるじゃない?そういうやつを負かすのって楽しいのよ。例え弱くってもね」
「…ああ、そうですか」
訊かなきゃよかった。俺はそう思った。こんなことだけ素直に言い過ぎだ。おまけに一言余計でもある。
「その点、エイハンはダメね。変に駆け引き上手であしらい慣れてて、つまんないったらないわ」
「危機感のないやつだなあ。そりゃまあ、たいしたもの賭けてなかったけどさ」
もはや過去のことになりつつある一件は、同時になんてことのない一件にもなっていた。プライドを賭けた戦い、さっきはそう思っていたが、あれは俺の思い違いだった。ないよなあ、プライド。ブルマにじゃなくて、エイハンに。考えてみれば、だからこそああもしつこく言い寄ってこれるんだよな…
「あんたはなんでそんなに危機感持ってんの?さっきエイハンに喧嘩売ってたわよね。昨日までは全然そんな感じじゃなかったのに」
「えっ。いや、あいつが絡んでくるから…」
「単なる対抗意識か。ま、そんなもんでしょうね」
対抗…はしていなかったと思うが…
もっと言うなら、危機感までは持っていなかったと思うが。だって、ブルマははっきりと拒否していた。押され気味だなとは思ったけど、負けるとまでは思ってなかった。
反射的に心に思ったそれらのことを、俺は敢えて呑み込んだ。全然ちっとも隠すようなことではない。しかし……
こういう話自体を、今はあまりしたくないな。少し前にもクルーズ船で似たようなことがあったばかりで、なんか誤解されそうだ。俺は嫉妬しているわけではないのだから…………たぶん。
そうするうちに、各駒が配置についた。ブルマはわざとらしくビショップを摘み上げ、横に除けると言った。
「さ、じゃあ、その対抗意識を燃やしてもらいましょうか。弱いくせにそういう根性はあるのが、あんたの唯一の取り柄だもんね。そしてまたうんと悔しがってね〜」
「こいつ、言ったな」
「言うわよ。このハンデが縮まらない限りはね」
「よーし。見てろよ。そこまで見くびったことを後悔させてやるからな。さすがに4枚落ちで勝てないほど、俺は弱くはないんだ」
だから、俺は追い込んだ。ブルマと自分の両方を。
これでもう、負けるわけにはいかなくなった。謂わば背水の陣だ。これもすべてブルマのせいだからな。
俺は負けてもいいと思ってたんだ。今の今まで――それでブルマがすっきりするなら。でも、今ので気が変わった。これ以上甞められてたまるもんか。何が何でもハンデをチャラにしてやる。ブルマはあくまで楽しんでやってるんだ。そのくらいできなくてどうする。
俺は燃えた。今だ少しは残るすっきりしない気持ちを糧に、燃えた。
…よし決めた。そうするまで、今夜は寝かさないぞ。
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