Trouble mystery tour Epi.10 byY
言霊というものがある。
あることを口にするとそれがしばしば現実になるという、言葉にあると信じられた呪力のことだ。登山客で賑わうホテルのカフェテラスの一角でパフェを三分の二ほど食べ進めたあたりから、俺はそれを感じ始めていた。
『旅の恥は掻き捨て』――言い出したのはブルマだが、今の俺はまさにそんな気分だった。ここには俺とブルマのことを知る者はいない。…ミルちゃんリルちゃんと、それからあのリザ、もしかするとどこかにいるかもしれないツアーの同行者たち以外には。その人たちだって、よくよく知ってるわけじゃない。ドラマの中のカップルと重ねて見ていたり、端から疑ってかかっていたり、良くも悪くも誤解している人たちばかりだ。だったら、この際うんと誤解させるように振舞ってやればいいじゃないか。
――俺たちは、この世で一番幸せなカップルだ。いい歳して、公衆の面前でパフェを食べさせ合ったりするんだぞ。
俺はすっかり開き直った。ブルマのやつもまんざらでもなさそうなのが、大きな理由の一つではあると思う。
そう、確かに一見したところ、ブルマはパフェに夢中であるかのようにも見えるが、実はそうではないことは明らかだった。その証拠に、パフェグラスの底に残る最後のクリームを掬い取ると、ブルマは満足そうに笑って言った。
「はい、これで最後ね。あーん、っと…。ん〜、おいしかった!だけど本ッ当に珍しいわね。あんたが最後の最後まで付き合ってくれるなんて」
「…なんとなく、な」
最後の試練を飲み下してから、俺は答えた。そのクリームのくどさに閉口せずに済んだのは、それほど口にしていないからだった。パフェ全体の容量から見れば三分の一ほど、クリームの容量だけで言うなら2、3口分しか、俺は食べていないのだ。前半はブルマが一人で食べていたし、後半のクリーム部分はほとんどブルマが食べてくれた。ブルマのやつ、さりげなく気遣ってくれたってわけだ。ブルマのさりげない気遣いなんて、おいそれと目にできるものじゃないぞ。まんざらじゃないことの、何よりの証拠だ。
「じゃ、行きましょうか。そうね、もう少しそこらへんを歩いてから、列車に戻りましょ。ここ、珍しい高山の花がいろいろ咲いてるのよ」
そんなわけで、それは甘く恥ずかしい一時を乗り切った俺は、その場の調子に乗って、半歩先を行くブルマの手を掴んだ。『一緒に』歩いて行くために。そう、だいたい普通に歩いている時からして、ブルマは前を行ってるんだよ。俺が引っ張ることがまったくないわけではないが、普段普通にしている分には、まず間違いなくブルマが前だ。こういうなにげないところから、きっと他人は立場関係を悪推量していくに違いない。
俺が手を取った時、ブルマは何も言わなかったが、意外に思っているらしいことは、一瞬見せたその表情から見て取れた。俺はと言うと、カフェを出た時点では周りの人目が気になったが、深い緑に包まれた庭を歩いてしばらくすると、何も気にならなくなった。
いいんだ。手を繋いで歩くっていうのは、カップルの基本的なあり方なんだ。腕を組んで引っ張り回されたり、後を追うことにばかり慣らされていたが、本当はこれが当たり前であるべきなんだ。
「きれいねえ」
「きれいだけど、ちっとも自然そのままじゃないよな。とても山とは思えない手の入れられ方だ」
「しかたないわよ。自然を保護するためにはね。例えばこの花、たぶん絶滅危惧植物だと思うけど、こうやって管理しないと、登山者に摘み取られてあっという間に絶滅しちゃうのよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんよ。ちなみに、さっきあんたが双子を追っ払うダシにした花も、絶滅危惧植物よ。あの子たち、摘み取ったりしてないといいけどね。摘んだら罰金だから」
「面倒くさい自然だな」
軽く気分を高揚させながら、俺はブルマとなんてことのない会話を交わした。この『なんてことのない会話』っていうのがポイントだよな。すなわち、いつもと何ら変わらないということ。これはいつものことなんだという雰囲気――
――あ…
だがやがてその場所へ出た時、俺のその姿勢は崩された。木立の道の正面に現れた階段を上がり、ドーム型の東屋に足を踏み入れて、俺は絶句した。その先に続いていた細長いテラスからは、先ほど目を背けた風景が、すっかり見渡せたのだ。
俺がブルマとクソ恥ずかしい時を過ごす理由ともなった庭園迷路。俺にとってもブルマにとっても不愉快な一件が起こった場所。テラスには中二階ほどの高さがあったこともあって、迷路の形状はおろか、あの噴水のある広場までもが、誤魔化しようのないほどに視界に入った。
「…………」
時が逆行したような気がした。曰く言い難い沈黙が流れた。俺の手を離しゆっくりとテラスの先へと向かったブルマは、そのままテラスの手摺りに両腕を置いて、半ばうつ伏せるように頭を乗せた。何を考えているのかはわからない。でも、何を思い出しているのかはわかる。わかるだけに気まずいのだ。そう、はっきり言って気まず過ぎる間…
先手を心がけようという俺の気持ちは、とうに四散してしまっていた。だから、目の前の風景を薄目で睨みつけながらブルマが口を開いた時、俺は完全に受け身だった。
「ねえ、空気の読めない色男さん?」
「は…はい?」
「今こそ口直しがほしいんだけど?」
そして、完全に意表を衝かれた。てっきりまた怒られると思っていたのだ。『色男』という言葉に込められた嫌みに気づかなかったわけもない。だから思わず考え込んだ。わかっていたはずの『口直し』の意味を。
「えっと…」
「嫌なら無理しなくて結構よ」
だが、ブルマがあまりにも早く態度を翻したので、かえって触発された。わかりやすく言うと逆撫でされたのだ。だって、ブルマまでそういうこと言うことないだろ!ちょっと確認したい気持ちになっただけだろうが。えらく突飛だったから!
「嫌なわけないだろうが!」
本人に当てつけるために本人にキスをするという不自然な行為を、俺はした。何が不自然って、今さら過ぎる。しかし、これではっきりした。やっぱり俺じゃなくブルマの態度が問題なんだ。
なんだって、キスを強請る時まで、そんなに偉そうなんだ。まあ、いつものことだけど。なんて思ってちゃダメだよな。それじゃいつまで経っても立場は変わらない。
俺はいろいろ考えた。ブルマとのキスを貪りながら。それ故、キスの時間が必然的に長くなった。部屋の中ならともかく、野外でこれはちょっと…と自分でも思うくらい長いことしてしまった。
それでも気恥しい思いをせずに済んだのは、キスを終えた視界に人影が見当たらなかったからだ。それとブルマが何も言わなかったから。つまり受け入れられたわけだ、我ながら強引とも思えるこの行為は。それで、俺の気概は回復した。むしろ前より強まった。再びブルマと手を繋ぎその場を離れながら、俺は思っていた。
俺だってやればできるじゃないか。なんかもう、怖いものなしな気分だ。


そんなわけで、一時素に戻ってしまいはしたが、結果的にはなんとか気を取り直して、列車に戻った。
部屋に入った後は、もはや恒例となりつつあるバスタイム。だが、長いその時間の後でバスタオル一枚で飛び出してきたブルマが漏らしたのは、いつもの鼻歌ではなかった。
「はー…」
「どうした、溜め息なんかついて」
「体がだるいの。太腿のとこなんかすっごく痛いし。明日になったら筋肉痛になってそうな予感がひしひしするわ…」
「そりゃあ、日頃の運動不足だな。おまえ普段、全然体動かさないだろう。その点、俺はどこも何ともないぞ」
「この体力バカ」
ブルマは吐き捨てるように呟くと、勢いよくベッドに飛び込んだ。無造作にバスタオルを捲れさせただらしない姿を尻目に、俺は二番風呂を頂きに上がった。男であるが故に先手を取れないこともある。こういう時の風呂の順番、レストランのドアを潜る順番……所謂レディファーストというやつだ。まあ、ブルマの場合はそんなものとは関係なしに、素で優先権を主張してくるんだけどな。
でも、これからはちょっと違うぞ。いや、レディファーストは守るけど、それ以外のところでは引かないぞ。引かないっていうか、示しておくんだ。ブルマが優先権を持っているなら、俺には所有権があるということを。俺『が』所有権を持っているのだ、ということを。わかりにくいか?つまりだな…
「あれ?」
と、そのように勢い込んで風呂を終えた俺であるが、バスルームを後にし部屋に戻った途端に、出鼻を挫かれた。俺が所有権を持っているはずの相手が、さっそくいなくなっていた。
「ブルマー?」
ラバトリーに気配はない。水回り以外はワンルームとなっているこの部屋で、他に探すところなどない。ベッドの上に無造作に投げ捨てられた湿ったバスタオルを摘み上げながら、俺は何とも言えない気持ちを味わった。黙ってどこか行くなんて、と文句をつけるほど束縛屋じゃない。この狭い列車の中で離れ離れになることを心配するわけもない。ただなんとなく…
…気が抜けた。いくら先手を取ろうと思っても、相手がいなくちゃ話にならん。という基本的な事実を目の前に突きつけられて。再び素に戻って、ブルマの残していったバスタオルをクリーニングシュートに放り込むと、直後、部屋のドアが開いた。
「ふー…」
ラフなワンピースを翻して、ブルマが部屋に戻ってきた。溜め息混じりにドアを閉めるその後ろ姿を見ながら、俺は当然の質問をした。
「どこ行ってたんだ?」
ブルマは聞いたところなんてことのない口調で答えた。
「ちょっとスパにね。満員で追い返されちゃったけど」
「ふーん。途中で誰かに会ったか?」
「会ったっていうか、老人連中は大方いたわよ」
「…リザには会ったか?」
だが、その質問の後には、少し声が強まった。
「なんとか会わずに済んだわ」
さらに、一拍の間を置いて、お説教が始まった。
「どうせ夕食の時に会うでしょうけどね。いいこと、あたしは無視するからね、今度言い寄られたら、あんた自分で何とかしなさいよ。次ちゃんと断れなかったら、その時は見捨てるからね」
再三話したはずの俺の話をまったく踏まえていない、一方的な説教が。俺は半ば呆れながら、その御託を頂戴した。…きっとそういうことを言われるだろうと思っていたよ。でも、訊かないわけにはいかなかったんだ。
あんなことのあった後で、リザがこれまで通りに接してくるとは思えない。何かしら言ってくるだろうことは容易に想像がつく。そして、その話の内容によっては、俺は非常なダメージを被ることになる。簡単に言うと、それはこっぴどく怒られるだろう。どうして俺が、といつも思うが、現実いつもそうなのだ。
いや、それどころか、すでに怒られているような気もする。それも非常に理不尽な理由で。そう思いながら、俺は再びその台詞を口にした。
「…ああ。でも、さっきだって、ちゃんと断ったんだぞ」
「あれのどこが断れてたって言うのよ?」
「いや、本当に俺ははっきり断りを入れたんだ」
「ふうん。じゃあ、もっとはっきり断ってやるのね。とにかく、あたしはもうあの女と関わるのはご免だから!」
このブルマの態度を受けて、俺の心にふいに気概が戻ってきた。きっと逆撫でされたのだ。ブルマがあまりに偉そうだから。
――おまえに何とかしてくれなんて、頼んでない。あの時だって、俺は何とかできかけていた。そうさ、ちゃんと避けた。あんな風に乱入してきたりしなければ、おまえだってそれを見ることになってたはずだ。それを自分のドジであんな目に遭っておいて……そう、ドジだ。あれはどうしたってブルマのドジだよな。
「…………それで?今夜のタキシードは黒か白か?」
だが俺は、その気概を男のプライドで包み込んで、ことさらにそう訊いてやった。俺は男だから、例え事実がどうであれ、女のせいにしたりはしない。お望み通り、すべて責任被ってやる。今までのことにも、これからのことにもな。
ある意味では風呂上がりの際の気分に、俺は戻っていた。やがてブルマがこう答えたので、さらに拍車がかかった。
「それが何着るか、まだ全然決めてないのよ。なんか気乗りしなくって。たまにはあんたに選択権あげるわ。ピンクのとパープルのとグリーンのとブルーのと、どれがいい?」
「…気乗りしないわりには選択肢が多いな」
っていうか、俺の礼服の色を決めるんじゃないのか。あくまでブルマのドレスに合わせるのか…
「ピンクと…あとなんだって?」
「ピンクとパープルとグリーンとブルー。あ、レモンイエローのと黒いのもすぐ出せるわね」
「…………。じゃあピンク…」
突っ込みを入れたい気持ちを抑え、さっくりと俺は答えた。話を引っ張るほどに選択肢が増えていくだろうことが、簡単に予想できたからだ。気乗りしないわりには、元気そうじゃないか。だるいと文句言ってたくせに、正装する気は満々だし。ブルマって本当にバイタリティあるよな。…こういうことにだけ。山ではあんなに根性無しだったのにな。
「ピンクね、オッケー。それならあんたは黒でも白でもどっちでもいいんじゃない。好きにすれば」
最後に俺自身についての選択権を預けられて、着替えの時間に雪崩れ込んだ。宣言通りピンクのドレスをクロゼットから取り出すブルマを横目に、俺は黒のタキシードを引っ張り出したが、それは自由意志というよりはすでにブルマの意向に染まったものだった。好きにしていいというよりは、面倒くさいから自分で考えろという話のニュアンス。しかも自分のドレスを決めさせた上で。まあ、いいけどさ。正装の場では男より女の方がメインになるのは、事実だからな。
それでも、いつもよりは丁寧にタキシードを身に着けた。ブルマの方が断然支度に時間がかかるということもあって、ゆっくりとカマーバンドを巻き、カフスを指で磨き、慎重にブラックタイを着け、それでも時間が余ったので、ポケットチーフの折り方に凝ってみたりもした。そうしてすべての準備を終え、靴の汚れをチェックした後で、俺は満足の息を漏らした。
「うん。わりとシンプルだな」
ブルマのドレスに対してだ。そう、男の服装などどうでもいいのだ。ここまで念入りに着込んでおいて言うのもなんだがな。男の礼服なんて、女のドレスを引き立てるだけのものでしかない。そして今ブルマが着ているドレスは、なんというか非常に奇を衒わないものだった。淡過ぎず濃過ぎずちょうどいいピンクで、スカート部分はしっとりとしたシャーリングで、派手に広がるでもなく体のラインを出すでもなく、ただウェストの細さがわかるくらい。胸は出てるけど、強調されてるわけじゃないから、まあいい。まったく、いつになくいい意味で『ただのお嬢さん』って感じがするじゃないか。この普通っぽさは、きっと気が乗らないことの賜物だな。
「えー、そう?このお腹のとこについた大きなリボンがかわいいと思って買ったのに」
「ああ、うん。かわいい、かわいいよ。さて、それじゃ行くか」
ブルマはあんまり自己を誇示せず普通にしてる方がかわいいんだ。ふいにはっきりと自分の好みを自覚しながら、俺はブルマの腰に手を回した。
そうしようと最初から決めていた。そしてブルマのドレス姿を見て、さらにやる気が湧いた。これがもっと大人っぽいドレス――露出が多かったり、胸や体のラインが出てるやつ――だったなら、躊躇していたに違いない。そういうドレスを着た女の腰に手を回すっていうのは、ちょっと大人の雰囲気過ぎるよな。少なくとも、人前でしたくはないなと俺は思う。でもこのドレスなら、誇示してもいい。いや、むしろ誇示したい。
『俺が』ブルマをエスコートしているんだということを。『ブルマに』エスコートさせられているわけじゃないんだということを。
ドアに手をかけた俺に、ブルマはそれは物言いたげな顔を見せた。でも何も言ってこなかったので、俺は視線ごと無視してそのままドアを開けた。
こういうのは、偏に慣れだ。何度かそうしているうちに、それが当たり前になるんだ。今は感じる気恥しさも、いずれは大人のエスコートと割り切れるようになる。ブルマだってきっとそのうち、当たり前のように俺に体を預けてくるようになる。
――たぶん…
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