Trouble mystery tour Epi.11 (4) byY
南の湖畔に白いホテル。少し離れたところに青い屋根のカヤック小屋。
それら二つの建造物と、背後にそびえる山々、そこここにある緑の森を、エメラルドグリーンの水が鏡のように映していた。長く短い散歩の末に辿り着いたシルビー湖は、これまでに見たどの湖よりも、美しい湖だった。
「うっわぁー!」
「きっれぇー!」
「これはボート乗るっきゃないね!」
「エイハンさん、あの青いのがボート乗り場?」
「そうだよ。ボートじゃなくてカヤックだけどね」
「わーい、一番乗りぃ!」
「あっ、ミル、待てー!」
「ははは、元気だなあ」
「ほーんと、かわいらしいこと」
賑やかに駆けていく双子。笑ってその後に続くエイハンとリザの兄妹。そして最後尾を行く俺とブルマ。湖の畔の細い道を歩く三組のテンションは、後続になるほど低くなり、ブルマに至っては、完全に笑顔を消していた。
「怖いよなぁ、実際」
とはいえ、元気がないわけでも怖いわけでもなかった。それがわかっていた俺は、自身の心境をも乗せて、水を向けてみた。
「何がよ?」
「リザだよ。『蛇に睨まれた蛙』の気持ちになるっていうのがわかっただろう」
「そんなことないわよ。確かに、すっごく気分が悪くはなるけどね」
「ふーん。じゃあさっき、手を叩いてやればよかったのに。ほら、リザが手を繋ごうとしてきた時さ。いつもやってるみたいにこう、ビシッとさ」
「嫌よ。あんな女殴ったら手が腐るわ」
「さいですか」
言う言う。口だけは健在だな。…俺に対しては。
もはや俺の腕は取らずにのんびりと隣を歩くブルマを、まったくいつも通りだなどと思うほどには、俺は鈍くはなかった。どこか逃げ腰の雰囲気。 みんなから――特にリザから距離を取ろうとしていることが、はっきりわかる。もっともそれに関しては、俺も大賛成だが。双子たちと一緒になってさっさと行ってくれないかな、とさえ思う。…飛んで逃げてしまおうとしないだけ、良識的だと思ってもらいたいものだ。
「んも〜、ブルマさんたち、遅いですよぉ!」
「早くー!もうボート借りましたよ!」
「いちいち人のこと待ってないで、先に行ってりゃいいじゃないの」
「そーんなこと言って、どっか行っちゃうつもりでしょ!」
「ダメですよ、そのバスケットにはあたしたちの今日一日が詰まってるんですからねっ」
…あ、俺が足枷だったのか。
やがて合流したカヤック小屋で、俺はようやく自分の不覚に気づいた。同時に、その事実にも気づいた。ブルマがそのことで俺を責めなかったこと。『あんたが荷物持ちなんか引き受けるから』『あんたのおかげでバックレることもできない』――そういうこと、いかにも言いそうなのにな。確かに最初に話を受けたのはブルマだが、それでもいつものブルマならまず間違いなく言っている。決していい気分じゃないってことは、はっきりしてるんだから。
「はいはい。わかってるわよ」
「は〜い、ヤムチャさんはこっちですよぉ」
「バスケット、倒れないように置いてくださいねえ」
それが今はいかにも気の入らない生返事をした挙句、双子に俺を先導させるがままになっている。現実としてはその示されたカヤックに乗るしかないのだが、俺はちょっと首を捻った。そしてやっぱり結局はそのままカヤックに乗り込んだところ、その騒ぎが持ち上がった。
「じゃ、乗りま〜す」
「きゃ〜、揺れるぅ」
「ちょっと!そのカヤック三人乗りでしょ。あんたたち二人ともヤムチャと一緒に乗ったら、あたしはどうすんのよ!」
続いて飛び乗ってきた双子に、一人岸に残ったブルマが叫んだ。もっともだ…言ってることは。少しだけもっともじゃないのは、その態度だ。
「もう一つの方に乗ればいいじゃないですかぁ」
「そっちも三人乗りですよ?」
「どうしてそうなるのよ!あたしとヤムチャが一緒に乗るのが普通でしょ!あんたたちがどっちかあっちに移りなさいよ!」
「え〜。でもぉ」
「あたしたち、別行動しちゃダメって言われてるんだもん」
「アホか!こういうのはいいの!じゃあ何、あんたたちはお風呂もベッドもずーっといつも一緒なわけ!?」
「はい、一緒ですよ」
「だって、約束だもん」
「じゃあ、世の中のお約束ってやつも守りなさいよ!」
…ふー、やれやれ。
一人蚊帳の外に追い出された気分を味わいながら、俺は溜め息をついた。俺と一緒に乗る相手を決めるのに、俺には一言もないんだもんなあ。いや、もちろん俺はブルマの意見を尊重するし、引き合いに出されても困るけど。しかしそれにしても、ミルちゃんとリルちゃんの動じていないことと言ったら。本当に全然まったく平気なんだろうか。
「大丈夫、きみたちのパパやママには内緒にしておいてあげるから。それにパパやママよりブルマの方がずっと怖いと思わないかい?」
内心では首を傾げながら、俺は水を向けた。自身の感覚をも乗せて。それに対する反応はこうだった。
「それはそうなんですけどぉ」
「ヤムチャあんた、何てこと言うのよ!」
ちっともそうは思っていなさそうな顔ででも一応は頷いた双子の声を、ブルマの怒声が掻き消した。荒っぽくカヤックに飛び乗り、荒っぽく双子と俺との間に割って入り、鼻息荒く俺の眼前に迫りくるブルマの様子は、俺の想像を越えていた。
「あたしが怖いって何よ。あたしは当たり前のことを言ってるだけでしょ!」
「おい、本気で怒るなよ。俺は説得しようとして…」
「だったら、もっとマシなことを言いなさいよ!」
「わっ、ブルマさん、あんまり動かないで」
「ひゃあああ、揺れるぅ。怖ぁい」
「なら降りればいいでしょ!」
まるっきり感情むき出しで喚き散らしている。まるで子どものケンカだ…
俺はすっかり呆れた。怒りの矛先を向けられても、不思議と怖くはなかった。呆れる気持ちの方が強すぎて、怖さの入り込む隙がなくなったのかもしれない。…ちょっとムキになり過ぎだよな、ブルマのやつ。皺寄せが双子にいってるというか…こんなの、いつもなら一睨みして終わるところだろ。なのに、そんな八つ当たりみたいな態度取って、挙句に俺を睨んでどうするんだ。
「はっはっは。まあまあ、そう喧嘩しないで。せっかくみんなで来たんだから、仲よく楽しまなくちゃ」
ふいに響いたエイハンの笑い声が、一瞬、その場の空気を止めた。その空気の隙間を縫うようにして、今度はリザの渇いた笑い声が流れた。
「ふふっ、そうね。戯れはそのくらいにして、そろそろ出発しましょう」
「花畑の場所は私しか知らないんだから、私たちが先に行くとしよう。さて、一番乗りしたい子は誰かな?」
「あっ、あたし。あたしが先に行くー!」
「ずるーい、あたしが先に行く〜」
二人の兄妹の介入で、騒ぎは見事に収縮した。疲れる宥め役の任をエイハンにさりげなく肩代わりされて、だが俺はありがたさを感じたりはしなかった。
最初っからそう言ってくれ。そこまで双子の性格を読んでいるのならな。火の粉がここまで広がる前に。などと言うと逆恨みに聞こえるかもしれないが、俺にはちゃんとわかっていた。
遊んでるよな、完全に。高みの見物ってやつだ。まったく、いけ好かない野郎だ。なーにが喧嘩だ。…確かに、喧嘩だけど。だけどなあ、それだって元を正せばおまえたちが…
「花畑があるのは東側の岸だ。ヤムチャくん、ちゃんとついてきてくれよ」
「あ、ヤムチャさん。本ッ当ーに内緒にしてくださいね。バレたらお小遣い減らされちゃうんですからぁ。じゃあねリル、おっ先〜」
「じゃあねみなさん、また後で」
…ブルマより、小遣いを減らされることの方が怖いのか。
その意外な事実を耳にしても、俺の気は逸れなかった。颯爽と漕ぎ出したカヤックの上から、どこか上から目線の笑顔を寄こすエイハンと、対照的に正面から見据えて笑うリザに、気持ちを持っていかれた。好意という意味では全然なく。…どうしてここで呆気に取られてしまうのか、自分でもよくわからない。
やがてカヤックが遠ざかると、間接的に『ブルマはたいして怖くない』と言った双子の片割れが、まったくいつも通りに笑って言った。
「じゃっ、あたしたちも行きましょうか。ヤムチャさん、がんばってねー。花畑が見えたら、追い越しちゃえ!」
「…なんであんたが仕切ってんのよ」
冷ややかな声でそれに突っ込みを入れるブルマは、わりといつものブルマに見えた。それで俺は、少しだけ気を取り直して、パドルを握った。とりあえずは一つのことを、心の中で決めながら。
リルちゃんの言った言葉ではなく、ブルマの言わない言葉に従おう。あの二人がいなければ、ブルマも少しは落ち着くんだから。もっともそれは、俺自身についても言えることだが。
だから、エイハンの挑発は蹴る。例え非力だと思われてもいい、ここは絶対に追いついてしまわないように、できるだけゆっくり漕いでいくことにしよう…


…まあ、『逃げる』っていうのは正解だよな。
消極的にカヤックを前へ進めながら、俺はいつしかブルマの態度に同調していた。
そんなのらしくないと最初は思ったけど。でも、単純に方法として考えるなら、それはありだ。っていうか、むしろ妥当だ。嫌いなやつの相手を好んですることはない、無視してりゃいいんだよ。
ブルマが文句を言いながら双子に絡んでいく様を見るたび、思っていたことだ。それなのに、実際そうされるとおかしく感じるなんてな。俺もたいがい勝手だなあ。
「あー、気っ持ちい〜い」
ふと、カヤックの中央に座っていたその双子の片割れが、声を上げて大きく伸びをした。岸を離れる前にくすぐられた競争意識はいつの間にか薄れたらしく、今ではこんなことを言うようになっていた。
「ヤムチャさん、もっと真ん中の方行ってみて。真ん中」
「ああ、いいよ。真ん中だね」
俺は一も二もなくその言葉に従った。反対する理由は何もなく、それに加えて今のリルちゃんの声には、いつもに比べると幾分、逆説的に言うことをきいてやりたくなるようなおとなしさがあった。
ついでに言うと、いつもより声の音量も小さい。合いの手を入れる片割れがいないと、淋しそうとまでは言わないが、いつもより落ち着いて見える。思えば、この双子を一人ずつ相手にしたことはなかった。いつも二人でワンセットで。一人だと案外言動が変わったりするのかも…
「あたし、ボートって大好き。公園デートの定番ですよね。ここってロケーションはいいし人は少ないし、シチュエーションとしては最高ですよね〜」
…全然、変わらなかった。
それともいつもの言動は、常に先陣を切っているように見えるミルちゃんのものではなく、ひたすら追随しているように見えたリルちゃんの指図によるものだったのだろうか。と、俺はちょっと捻くれた考え方をしてみたが、本気でそう考えていたわけではなかった。
「そうだね。俺はあまりしたことないけど。わざわざ公園にボート乗りになんて行かないからなあ」
というか、そんなに深く考えていたわけではなかった。なんとなく考えなんとなく言葉を返しながら、宛がわれた仕事――カヤック漕ぎ――を楽しんでいた。こんなことをするに至った経緯や背景はともかく、こういうこと自体は決して嫌いじゃなかったのだ。そしてリルちゃんも、俺同様、単純に今の時間を楽しんでいるようだった。
「そうなんですかあ。あたしも、パパ以外の男の人とこういうところでボートに乗るのは初めてですよ」
「へえ、そうなの。お父さんと仲いいんだね」
「だって、おじいちゃん腰悪くて漕げないからぁ。あっ、あの、あたしちょっと漕いでみたいんだけど、そっち行っていいですか?」
「ちょっと!さりげなく触るのやめなさいよ!」
その時、俺が返事をする間もなく、前から文句が飛んできた。俺から見て前、リルちゃんから見て後ろだ。それまで黙ってカヤックの前部に後ろ向きに座り込んでいたブルマが、俺のいる後部へとやってこようとリルちゃんが立ち上がりかけた途端、声と腰を上げた。そして、すでにリルちゃんの片腕を掴みながら、取ってつけたように言葉を加えた。
「パドルはもう一つあるんだから、それ使えばいいでしょ。ぶつからないようにもっと離れて、そうね、前に来て漕ぎなさい」
まあ、なんだ。想像の範囲内の言動だ。正直、今そうくるとは思っていなかったが。すっかりクールダウンしてたっていうか、俺たちのことなんか全然構ってないように見えたからさ。会話にもさっぱり入ってこなかったし、例のカヤックの入り込まない角度の景色ばかり見ている、そう思っていたのだが…
…っていうか、俺じゃなくパドルに触ったんだと思うがな。
最後にいつもの心境になって、口には出せない突っ込みを呑み込んだ。こういうことを、それこそまだ一度も女とボートになんか乗ったことがなかった頃は、バカ正直に口に出して余計に怒られたりしたものだ。だが今は、思うと同時に余計な一言だということが(半分くらいは)わかるし、言葉の流し方も少しは覚えた。『俺はブルマとしか乗ったことない』という余計な一言は言わない。ブルマには逆らわずに理不尽な要求以外は受け入れる。
だが、今ここには俺以外にも人がいた。ブルマをちっとも怖がらない天性の強さを持った女の子が。リルちゃんは、これは空気を読んでいると果たして言っていいものか、正面向いて指差すというアクションつきで、笑いを含んだ明らかなからかい口調でブルマに向かって言い放った。
「あーっ、ブルマさんたら、妬いてるぅ〜」
「何言ってんの、違うわよ!あたしは教えてあげてんの。誤解させないやり方ってやつをね。あんたにはまだわからないでしょうけどね、自分の彼氏にそうやって触られたりするのって、すっごく気になるものなのよ!」
「それを妬いてるって言うんじゃないですか〜」
「違うってば!あーもういいわよ、勝手にしなさい!」
投げ出すの早いな…
俺は笑いを噛み殺すのに苦労した。…やはりリルちゃんはミルちゃんより鋭いな。間髪入れずに気づくもんな。それでまた話がぶれずに続くんだ。あくまでミルちゃんよりは、っていう程度だけど。それでも、ブルマが早々に反論を止めたのは、リルちゃんに負けたからではないということが、俺にはわかっていた。
初めから図星だったからさ。これほどわかりやすい嫉妬もないよな。…昔の俺はわからなかったものだが。いまいち実感の湧かないブルマの説明に、頭を抱えたもんだ。
だが、今の俺にはすっかりわかる。実感が湧かないのは当たり前、だって建前なんだからな。だから俺は言質を取られないことだけに注意して、リルちゃんの申し出を受けた。
「そうだな、じゃあリルちゃんはブルマと代わって。リルちゃんは前、俺は後ろ、二人で漕ごう。何も難しいことはないから、まずは好きなようにやってごらん」
『一緒』には漕がない。『手取り足取り』教えなきゃいいんだろ?カヤックに乗ることは許したんだからな、いつにも増して把握しやすいよ。
俺の言葉に二人は素直に従った。そう、ブルマもだ。もっとも席を移った後に、前を向くか後ろを向くか決めかねている素振りはあったが。そして、やがて向けられたのは顔ではなく背中だったが、俺は落胆しなかった。目の前のブルマに何か言う代わりに、やや距離のできたリルちゃんに少し音量を大きくして声をかけた。
「ゆっくりでいいからね。まっすぐ進まなかったら、後ろで修正するから」
こんなもんだろ。リルちゃんがいる今はなおさらな。少しの間放っておくさ。本気で怒ってるわけじゃないんだから、そのうち落ち着くよ。
と、ひとまず腹を括ったところで(そう、やっぱり多少腹を括る必要はあるんだよな。情けないことに)、俺は思い出した。
「あっと、ぶつかると危ないから、他のカヤックには近づかないようにしようね」
「はーい」
そう、例のカヤックには近づかないようにしなきゃな…
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