二元的な距離はなくとも高度があるので、双子の大声はブルマの囁きを掻き消さなかった。リザとエイハンの二人は俺たちが姿を消したことにすら気づいていないようで、声を上げようとはしない。
「いや、邪魔されないようにと思って。ここなら話聞かれないだろ」
「…それはそうでしょうね」
こうして俺たちは、無事空の上へと逃げおおせた。俺は軽く周りを見渡して、横に張った枝のせいで下からは覗き込まないと見えない、でもこちらからは花畑を真下に見下ろすことのできる一本の高い木の枝にブルマを下ろし、自分も舞空術を解いた。間接的に俺たちを閉じこめんとしていた箱庭と、何よりエイハンとリザの頭を眼下に見下ろすのは、なかなかいい気分だった。ミルちゃんとリルちゃんには、後で適当に誤魔化しておけばいい。リザとエイハンには、誤魔化す必要すら感じない。彼らは完全に行きずりだ。
「…まあ、そうと簡単に割り切れない気持ちもわかるがな」
「え?何?」
「いや、こっちの話――じゃあないな。あのな、ブルマ」
「うん」
俺に答えるブルマの声は、落ち着いていた。食ってかかるような気配も、不貞腐れた様子もなかった。どうやら少し頭が冷えたみたいだ。でも…
だったらなおのこと、言ってやらなきゃな。これでいつも通りだなどと、思うわけがない。
「リザのことだけど…避けたくなる気持ちはわかるんだ。怖いよなあ、ほんっと。俺も怖いよ。口数は少ないけど、そこが余計に…何を言い出すかわからないっていうか。どうやら性別の垣根もないみたいだし……でも、ブルマがそんな風に逃げるのは違うと思うんだ。いや、逃げるのが悪いってわけじゃないんだけど、なんか逃げ方がブルマらしくないっていうか…――」
我ながらぐだぐだと、俺は話を続けた。自分でも何を言っているのかわからない、なんてことはなかった。でも…………難しいよな。こういう感情的なことを伝えるのってさ。
俺は説教したいわけじゃないんだ。慰めようってわけでもない。なんていうか、気持ちを解してやりたい。それで、いつものブルマらしくなってもらいたいだけなんだ。
弱気なのがブルマらしくないなんて――喧嘩を売りつけるくらいの方がブルマらしいなんて、俺も慣らされたものだと思うがな。
「年上だから遠慮してるってわけでもないだろ?…まあ正直、思わず怯んじまうっていうのは俺もそうなんだけど…」
「…怯むどころか、泣いちゃいそうになったわ」
やがて、ブルマがそう言った。ぽつりと、明後日の方向を見ながら。非常に淡々と――でもその顔は、この上なく不愉快そうな不貞腐れ顔だった。それで俺はまずいと思いつつも、笑ってしまった。
「ちょっと、なんで笑うのよ。普通、笑わないでしょ、そこは!」
「あ、いや、悪い…でも、今夜は同じ愚痴を吐きながら酒が飲めそうじゃないか」
ちょっと、衝動に堪えられなくなった。おもしろいもの見たなあ、という笑いの衝動に。俺、ブルマがここまで人を怖がるの、初めて見たよ。もちろん、ピッコロとか、本当に怖いやつを除けばだけどさ。
「気楽な言い方してくれんじゃないの」
「おまえがショック受け過ぎなんだよ。そんなに気持ち悪かったのか?どこだっけ、触られたの。肩…」
「首の後ろ!あんたが跡つけたとこでしょ。都合良く忘れてんじゃないわよ!」
「ああ、そうだったな。じゃあほら、口直し」
忘れてるんじゃなくて、心当たりがないんだよ。という男らしくない(よな。客観的に考えると)言い訳の代わりに、俺はキスを零した。それもこれも、ブルマがだいぶん解れてきたと思えばこそだ。態度だけなら、かなりらしくなってきたよな。もっとも、俺にだけなら割とそういう態度取れてたんだけど。
「…あんた、全然悪いと思ってないでしょ」
「俺は悪くないだろ。…あ、だからって、おまえが悪いわけでもないぞ」
俺は機先を制した。そういう方向に話を持っていくつもりは毛頭なかった。というより、むしろそうじゃないところに話を持っていきたかった。
「えーと、なんだ…そう、あんまり深く考えることないって話さ。これっきりだろ?あの二人はここいらの地主で、俺たちは明日ここを発つんだから、ほぼもう一生会うことはないと言ってもいいだろう」
「そりゃそうなんだけどさ」
「そう思えば、一歩引いて考えられるだろ。あ、引くってそういう意味じゃなくてな」
「…それで、ここはおとなしく合わせとけってわけね」
そう言うブルマは、ひどく不満げに見えた。静かな、だが明らかに怒りを内包した低い声。いつもならビビッてしまっているに違いない、不貞腐れた仕種。だが、何かが足りなかった。それで、俺はビビる代わりに、苦笑を洩らした。
ほんっと、今日のブルマはしょうがねえな。そこまで怒ってるのに、なんで我慢するかなあ。らしくないにも程があるってもんだろ。…なんかブルマって、意外と物事を流すの下手だよな。いや、意外でもなんでもないか。喧嘩した時とか、こいつ、それはしつこく責め立ててくるからなあ。いつもは食い下がる側だから、よかったんだな。
「なに、おまえが一言言えば、飛んでってやるよ」
ことさら客観的な物の見方をしながら、俺は言った。ごくごく当たり前のことを。それに対するブルマの反応は、やはり思った通りだった。
「え?」
「飛んでバックレちまえばいいだろ。カヤックの漕ぎ方も教え込んだしな」
「教え込んだって…」
「リルちゃんが漕げるんだから、俺はもういなくてもいいだろ。俺たちは飛んでどこか行かせてもらおうぜ」
いや、思った以上だった。まるっきり不思議そうな顔をして、ひたすらに首を傾げた。おかげで俺は三度も言う羽目になった。
こないだまでは言わずとも、当然のように飛んで行かされてたのに。ここまで視野が狭くなるなんて、本当の本当にリザが苦手なんだな…
「…ちゃっかりしてるわね、あんた」
やがてブルマが呟いた。どこか気の抜けたような声色で。すぐにはピンとこないほど頭から消し去っていたようなのに、『いい考えね』の一言もない。でも、俺にはむしろそれでいいと思えた。
「しっかりしてると言ってくれ。特におまえよりもな」
「何その言い方?」
「おまえだって、そのくらい考えついてもいいだろうに。いつまでも不貞腐――いや、落ち込んでるから…」
「不貞腐れてて悪かったわねーだ」
さらに、人の温言は流しておいて、失言だけは捉えた。おまけに、それはわざとらしく不貞腐れて見せた。そう、『見せた』――俺にはブルマの不貞腐れが演技だとわかっていた。今日はさんざんそんな顔を見せられたからな、自ずとわかった。
「で、どうする?」
で、わかったので無視してやった。腹が立ったというわけではない。それどころか、今の俺にはやっぱりそれでいいと思えた。その方が断然ブルマらしいってもんだ。嫌なことから逃げるのは当たり前。気に食わないことは責めるのが当たり前。俺に宥めさせるのも当たり前…
…だけどな。ブルマ自身はそれでいいが、いいからといって必ずしも俺が頭を下げる筋合はないのだ。だって、ブルマは今日、本当に悪かったんだからな。『そんなことないよ』とか言わんぞ、俺は。ここでそんなこと言うくらいなら、初めから見て見ぬ振りしててやるさ。
「そうねー…、…とりあえず、お茶会には参加するわ。あの列車のレストランのデザートおいしいから。それでお腹いっぱいになったところで消えさせてもらおうかしら」
「そうそう。それくらいちゃっかりしてるくらいでちょうどいい。じゃないと、あの面子の中じゃやってけないぞ」
そして、ブルマもあっさりとポーズを捨てた。俺はちょっと胸を撫で下ろしながら(筋合いはなくとも、まったく怖くないわけではやはりないのだ)、その建前のなさっぷりを喜んだ。
「ここ、湖面と山は見えるけどその他はほとんど見えないから、飛んでくにはちょうどいいわね。もうたっぷり歩いたしカヤックも十二分に乗ったし、考えてみればどうしたってここは飛ぶべきところだわ」
「その感覚はわからんが…まあいいや。もう下りるか?」
もっとも、だからといってやはり、どこまでも手放しで喜ぶというわけにはいかなかったが。なんていうか、当たり前の顔し過ぎじゃないか?自分が飛ぶわけでもないのにさ。もうすっかり勝手知ったる乗り物扱いだな。
もちろん、俺はそれでいいと思っているわけだが。それでも、らしいと思うと同時にちょっとは思うところ出てくるのが、人の心ってやつでな…
「うん。よーし、食べるための席で、取って食われないようにしなくちゃね」
「ブルマを食べるのは俺だけで十分だよ」
安堵と呆れ、その二つが同時に湧いてくる会話を、俺は軽口で締めくくった。そう、軽口だった。本気でこんなこと言えるか。…まあ、嘘じゃないけど。だがしかし、ブルマはそうは取らなかったようで、たちまち顔を真っ赤にして、俯きがちに上目遣いで見上げながら、引き絞るような声で言った。
「…………あんた、よくそういうこと恥ずかしげもなく言えるわね。他に誰もいないとはいえさ…」
「…ちょっと恥ずかしかった」
っていうか、今恥ずかしくなった。ブルマの顔を見ていたら。こいつ、本ッ当に流すの下手くそなんだから……それにしてもその顔を、昨夜シャンパンを吹き出す代わりにしてくれればよかったのに。そしたらいい雰囲気に……あ、でもその後、リザとエイハンが来たんだっけか。
だが、今は誰も来なかった。来るはずがないとわかっていた。やがて顔を上げたブルマと、ブルマを見続けていた俺との目が合った。…いや、気が合ったのだ。
俺たちはお互い何も言わずに、唇を合わせた。見つめ合うほどの時間もなかった。俺がブルマの頬に触れるのと、ブルマが唇を寄せてくるのが同時だった。――俺たちにだって、そういうことちゃんとあるんだよ。…本当に時たまだけど。
でも言わせてもらうなら、時たまだからこそ嬉しくなるんだ。いや、負け惜しみじゃなくてな、本当に。
その奇跡的な自然さには、余韻がなかった。俺も、きっとブルマも、それでよかった。どちらからともなく唇を離した後には、どちらからともなく体を離した。それからちょっと間を置いて、再びくっついた。
「じゃ、行きましょ。あんまりのんびりしてるとあの子たちのことだから、人のことなんてお構いなしにおいしいものから食べ尽くしちゃうわ」
「うーん、見事に色気より食い気だな」
地面へ降りるために。長くて短い秘密の時間を切り上げるために。ちょっと覚悟の必要な秘密の花園へと踏み出すために。その後に予定する、秘密の時間を得るために。
俺がブルマを抱く腕に力を入れ、反対に体から力を抜きかけると、ブルマは笑って言った。
「お菓子はなくなっちゃうけど、あんたはそうじゃないからね。ヤムチャが逃げないのはもうわかってるもの」
俺はそれには答えず、そのまま地面に飛び降りた。冗談で逃げる振りをしてやろうかという気さえ湧いてこなかった。ブルマの言う通り、俺はすっかり飼い慣らされていた。どうしてなのか、それはわかっていた。
ブルマが危なげだからだ。巻き込まれたり自業自得だったりいろいろだけど、何かっちゃ危ない目に遭うんだから。もっとも、今に始まったことではないが。ブルマはドラゴンボールを集めようとする程には冒険気質で、頭いいわりにはヒロイン気質で、おまけに女王様気質だから高を括るところがある。それでいて今日のこの、捻くれた弱さ。これで放っておけるわけがないだろ。
まあ、目につくところにいなければ、放っておけるかもしれないがな。でも、一緒にいると嫌でも目につくんだから、これはもうどうしようもないよな。ブルマって、本人が主張するのとは違う意味で、守ってやるやつが必要な人間なんだよ。そのくせ、騎士道精神はまったく刺激されないけど。だって、自分より強い人間を守るなんてな…
「あれーっ、ブルマさん。ヤムチャさんも」
「二人ともいたんだぁ。どっか行っちゃったんだと思ってたのに」
「いて悪かったわね。ちょっと話すだけだって言ったでしょ。ここまで付き合った分の報酬はいただくわよ」
俺がそんなことを考えている間に、ミルちゃんとリルちゃんは俺たちを見つけ、ブルマとやり合い始めた。ブルマのやつ、もうすっかりいつも通りだな。そう思ったところで、エイハンが出てきた。
「やあ、待ってたよ。仲直りの乾杯はできそうかな?あいにくジュースしかないがね」
「それはお気遣いありがとう。でもそんな乾杯は必要ないわ。ケンカなんかしてないんだから」
「そうだね。旅先で意見が食い違うなんて、よくあることだよ」
「本当にしてないのよ!」
ある意味ではまったくいつも通りに、ブルマはエイハンに触発されていた。この男は本当に曲者だ。何だかんだと言いながら、自分のペースに持っていくのが巧いんだよ。一昨日だって、何やかやと言い合ってて気づいたらチェスなんかしてたし…そういえば、あの時『もうブルマには構わない』っていう約束を取り付けたんじゃなかったか?あれはどうなったんだ。
遅まきながら俺はそのことに気づいたが、ブルマは今この時になっても気づいていないらしかった。そしてそこへ、リザが出てきた。
「ふふ、私は信じるわよ。あなたがたが意外と大人だってことはわかってますもの。お二人ともこちらへいらっしゃい。座ってゆっくりお話ししましょう」
これに対するブルマの言葉はなかった。だからといって、聞き流したわけじゃない。それはブルマの態度を見ていればわかった。
「おいおいリザ、ブルマさんは私と話をしているんだよ」
「いいじゃない。私だって彼女とお話ししたいのよ。それと、もちろんヤムチャくんともね」
リザのその最後の言葉に顔色を失いかけながらも、俺はなんとか平静を保った。眉を上げ、拳を握り、どこからどう見ても怒ってるのに、何も言わないブルマ。ここまであからさまに俺に誘いをかけて、何も言われなかった女性がかつていただろうか――
「…じゃあ、とりあえずお茶をいただこうか。ブルマ、おまえはここに座れ」
「え…う、うん」
よもや『泣いちゃいそう』には見えないが、気後れしているのははっきりわかるブルマを双子と自分の間に挟んで、俺は考えた。
これはもうどうしようもないな。いつも通り、一歩引いててこれじゃあな。っていうか、『引く』の意味が違うし。ブルマのやつ、本当の本当の本当にリザが苦手なんだな…
しかたがない。ここは一つ、ブルマがノーマルでよかったとでも思うことにして、俺が矢面に立ってやるか。
…………本当は、俺だって怖いんだけどな…