Trouble mystery tour (8) byY
俺がそのことに気がついたのは、橋の袂でブルマと体を離した直後だった。
…そういえば、舞空術を使ったこと、怒られなかったな。
来る前は、旅行の雰囲気がどうのこうのとさんざん言ってたのにな。もうすでに2回も使ってるぞ。最初のはともかく、今のはもっと怒られてもいいはずなんだが。…ま、科学と文化の都に住んでいる人間なんて、こんなもんだよな。特にこいつは、その科学を作ってる方の人間なんだから。
「さて、どうする?茶でも飲むか?」
ブルマの手の温度を確かめながら、俺は言ってみた。予想すべきことだったのかもしれないが、滝壺付近は寒かった。自由落下の逆風に加え、水煙の水滴が多かった。とはいえ、衣服が濡れるほどのものではなかったし、底冷えしたわけでもない。…俺はそんな感じだけど、ブルマがな。こいつ、足出してるし。でも、酒は飲ませんぞ、絶対に。
ブルマはそれには直截は答えず、薄く頬を染めて、ぎこちなく呟いた。
「あ。あたし、その…ちょっと化粧直し…」
「ん?ああ、はいはい」
たいしてしてもいない化粧を口実に慌てたように駆けて行くブルマを、俺は軽く見送った。そんなのお茶の後で、などと言うのが無粋であることくらいはわかっていた。だから、飲み過ぎだって言ったのに。恥じらうところが違うよな。いや、ここで恥じらうのはなんらおかしくはないのだが。ブルマの場合、他にもっと恥じらうべきところがあると思うんだが…
そんなことを考えながら欄干に背と両腕を預けていると、視界の端から黄色い声が飛んできた。
「あのー、こんにちはぁー」
「はじめましてー」
ある意味では非常によく知っているとも言える女の子2人組が、小首を傾げながら目の前へとやってきた。『はい、こんにちは』。うっかりそう言ってしまいそうなところを、俺はどうにか踏み留まった。
「こんにちは」
とりあえず挨拶だけを返すと、先に声をかけてきた子が、訊いてもいないのに教えてくれた。
「あっ、リルとミルでーす。双子なんですー」
「ふーん。似てないね」
「おにーさん、すっごく強いですね!びっくりしちゃいましたぁ!何かスポーツやってるんですか?」
おにーさん…
俺は軽く言葉を呑んだ。言い得て妙だな。すごくそういう気持ちになるよ。保育士みたいな…
「うん、まあね」
「その顔の傷はどうしたんですかぁ?」
これには少し意表を衝かれた。脈絡がないから、ではない。
俺自身、不思議に思ってたんだけどさ。顔のこの傷、あまり人に訊ねられたことないんだよな。ブルマとプーアルと…ウーロンも一応訊いてはきたけど、あいつは返事を待たなかったし。傷をこさえたことなんて何の自慢にもならないからいいといえばいいんだけど。
「これは武道の修行をしてて…」
「武道?」
「修行?」
…あー、わからないか。
言葉は違えど同じ仕種で復唱する女の子に双子らしさを感じながら、俺は言い直した。
「うん、まあ、スポーツだよ、スポーツ。体を使ったスポーツ」
「ああ、そういうスポーツなんですね」
どういうスポーツなんだろう…
流れだけは澱みない彼女たちとの会話は、俺に内心での突っ込みを多くさせた。そしてそれは俺にあることを思い出させた。
ブルマとの会話だ。…似てる。この押しの強い感じ…
そんなわけで、俺は押され続けた。
「エアポートのカフェで、彼女さんと一緒にパフェ食べてましたよね」
「…な、なぜそれを…」
この時点で、欄干に凭れていた身を起こした。だって、あれだろ。エアポートのカフェって言ったらさ…
「っきゃー!やっぱりー!」
「仲いいんですねー」
無邪気な笑顔が、俺に額を押さえさせた。…やっぱり見られてた…
「彼女さんとは、お付き合い長いんですか?」
「そうだなあ…何年になるかなあ。…1、2、3、4、5…」
「えーっ、そんなに!?」
「すっごぉーい!一体どうやって知り合ったんですかぁー!?」
ここで俺は言葉に詰まった。ドラゴンボール探しの旅で…
「うーん、そうだなあ…………旅先、でかなあ」
「本当に!?素ッ敵ぃーーーー!!」
「旅先のロマンス!!ぅっきゃーーーーー!!」
いや、そんなにいいものではないと思うんだけど。命張ってたし。獲物だったし。俺、初対面で倒れたし。…………ま、いいか。
すでに体勢は頭を掻くものに変わっていた。薄々わかってはいたことだけど、俺たちって言えないこと多いな。言えないってほどじゃなくても、言葉のニュアンスが普通とは違うというか。非常に伝えにくい。まあ、理解してもらえなくても全然構わないんだが。それにしても、一体どんな風に思われていることやら。
頭の片隅に浮かんだその疑問は、やがてすぐに解けることとなった。
「いいなあー。素敵な出会いに、ラブラブなお付き合い、一緒に旅行かぁー」
「完璧ですねぇー」
「えぇっ…!?」
その瞬間、俺は思わず叫んでしまった。
『完璧』?…初めて言われたぞ、そんなこと……!!
ものすごい誤解に基づいているような気はするが。いや、そんなことはないかな。嘘はついてないしな。ずっと付き合い続けているのは本当だし…
「彼女さん、すっごくきれいですよねー。なんかとっても物知りだしー」
「そうだね〜」
「おにーさんもかっこいいし、隙なしって感じー」
「いやぁ〜」
「理想的なカップルですねー」
「いやいや〜」
俺はひたすらに頭を掻き続けた。ただただその気分に染まりながら。
単に浮かれてるだけじゃないかと見る向きもあるだろう。確かにそれは否定できない。でも、この時俺はこの上なく、旅行気分を味わっていた。
だって、見知らぬ場所で会った見知らぬ人でなかったら、一体誰がこんなことを言ってくれるというんだ。そりゃあもういいだけ付き合ってきてるんだし、今さら周りに認めてもらいたいなどとは思わない。俺とブルマだけがわかっていればいいことなんだと思う。だけどやっぱり、こういうことを言われて嬉しくないわけないじゃないか。
そういえば、バスの中でのやり取りも、わりあい好意的に受け止められていた。知らない人って、優しいなあ。これはもう完全に、旅ならではのものだよな。
「あのー、後で一緒に写真撮らせてもらってもいいですかぁ〜?」
「ははは…………あ」
事ここに至っては俺の頭の中には花が数本咲きかけており、目の前のことなどほとんどどうでもよくなっていた。それでも、ちゃんとわかった。ブルマが戻ってきたということは。そりゃそうだ。それまでどうでもよくなっちゃ、本末転倒だからな。
「ブルマ」
非常にいい気持ちで俺はその名を呼び、その名を持つ人間へと手を振った。女の子が軽い笑顔と共に言った。
「あっ、ブルマさんっていうんですかぁ」
「変わった名前ですねー」
その直後、ブルマが踵を返した。
まるっきり180度体の向きを変えて、俺とは逆の方向へ歩き出した。それはもう荒っぽい足取りで。一体何が起こったのか。俺にはすぐにわかった。
あ…あいつー!
「悪い、写真はパスな」
俺は一瞬にして『おにーさん』の顔を放り出し、女の子たちを尻目にした。
まったく、ブルマのやつ…!
例によって、また誤解してやがる。あいつはいつもそうだ。ちょっと見ただけで、すぐに決めつけるんだ。それにしたって、少しは考えろ。相手は子どもだぞ。同じツアーの子ども。話くらいするだろ。
「おいブルマ、どこへ行くんだ」
その後ろに追いついた時、俺は敢えて間抜けな台詞を口にした。一応は確認しておきたい。そう思ったからだ。
ずかずかと荒い足音を立てていたブルマは、一瞬だけ足を止めて振り向いた。
「あんたのいないところへよ。消えてあげるわよ。お邪魔そうだからね!」
そして、それはそれは意地の悪い笑顔で言い放った。瞳の奥で青い炎が燃えていた。事実を確認した俺に訪れた心境は、いつもとは全然違っていた。
…そりゃあ、こういうことになることがあるだろうとは思ってたさ。普段普通にデートしてる時でさえ、時々あるんだからな。でもいくらなんでも初日からそうなることはないだろう。自分はいいだけ旅行気分に浸っていたくせに。
「ブルマ、ちゃんと話を」
「うるさいわね。放っといてよ!」
自分勝手に事を終わらせようとする時の、いつもの捨て台詞。肩に置いた手を振り払われてそれを口にされた時、俺は自らの意志で口を噤んだ。完全に逆上している。こうなったらもう、何を言ったって通じないんだ。それで俺はもう何を躊躇うこともなく、頭を醒ましてやることにした。同時に、わからせてもやれるだろう。
左手を掴むと、ブルマは振り向きがてら不愉快そうに眉を寄せた。おそらくは反射的に閃かせているであろう右手を、俺も反射的に掴み上げた。そのまま正面に捉えた体を引き寄せて、我ながら乱暴にキスをした。背後の女の子たちが息を呑んだ気配が感じられたが、構わなかった。
わざとだからだ。
「少し落ち着けよ。みっともないぞ」
数瞬の間の後に唇だけを離してそう言うと、ブルマは少しだけ態度を崩した。
「みっともない!?それはあんたでしょ。あんな子どものご機嫌取って――」
瞬時に眉を吊り上げてそう叫んだ。どうやら無視することはやめたらしい。だが、それだけだった。肝心のことは全然わかっていない。だから俺はしかたなく、わざわざそれを口にしてやった。
「あのな。いい加減にしろよ。あの子たちの機嫌取ってるなら、あの子たちの前でこんなことするわけないだろうが」
「そ、それとこれとは話が――」
「違うか?」
思いきり強く、俺は言ってやった。瞳だって睨んでやった。放っておくわけにはいかないんだ。しかもこんなくだらないことで、気分を壊されてたまるか。
「…………」
ブルマはすっかり口を噤んだ。俯き加減の顔の中で、瞳がはっきりと俯いていた。言葉が通じたことも、そして届いたこともわかった。とはいえ、その眉は依然として上がっていた。口元も、まだまだ尖っていた。
だから、俺はもう一度ブルマにキスをした。今度は咎めるためではなく、宥める意図で。本当に、こいつは強情なんだから。雰囲気を求めてくるわりには、自分からはさっぱり雰囲気に入ってこないんだから…
そう思いながら、三度目のキスをした。一度したら、二度も三度も同じだ。こうなったら、もう何度でもやってやる。ブルマの手の力が緩むまで。唇が解けるまでだ。
意識が落ち着き滝の音が耳に入ってきた頃、ようやくブルマは力を抜いた。それで俺はブルマの手を離して頬と背中に手を触れ、五度目のキスをした。まあこれは、自分への褒美みたいなものだ。…うん、俺、よくやった。
唇と手と、体のすべてを離すと、ブルマは俺の顔を覗き込みながら、淡々と呟いた。
「…なんかあんた、気が大きくなってない?」
「『旅の恥は掻き捨て』だろ」
「はっ、恥とは何よ、恥とは!!」
わざとらしく怒り始めたブルマを宥めかけた時、遠目にさっきの女の子たちと目が合った。笑って誤魔化したい衝動に俺は駆られたが、それをすれば話が元に戻ってしまうことは明白だった。
「さ、行くぞ」
「…どこに?」
「どこでもいいから」
俺はなんとなく歩き出した。ブルマもなんとなく隣についてきた。それで俺は完全に気を緩めたのだが、一方では溜息を禁じえなかった。
は〜ぁ。
なんだってブルマは、こうも変わらないんだ。いつもいつもどこへ行っても、同じようなことで焼きやがって。しかも全部見当違いだ。いい加減に学習しないものかなあ。知識は広いくせに、知恵はないんだよな、こいつ。…あの子たち、驚いただろうなあ。一体どんな風に思われていることやら。
女の子たちの目を気にしながらも、俺はそちらを見なかった。そんなことをすれば、話が元に戻るのは目に見えている。いくら何でも、同じことをまたするのはな。それに実のところは、そんなことはどうでもいいんだ。それより気になるのは、このブルマの目だ。
「…なんだよ」
前屈みになりながらあからさまに俺の様子を窺っているブルマを、俺は咎めた。窺っているといったって、機嫌を窺っているとかではないんだ。まるで何事もなかったように、けろりとしている。動じないやつだな、こいつは。その態度を、さっきみたいな時にも取ってくれないものかな…
「ん〜…お願いがあるんだけど。さっきのあれ、最後にもう一回やってくれない?」
「…さっきのって何だよ?」
少し身構えながら、俺は訊いてみた。俺にとって『さっきの』といえば、もうあれしかないんだが…
するとブルマは依然けろりとした顔で、言い切った。
「フリーフォールよ、フリーフォール」
「フリーフォール?」
「橋から飛び降りたやつよ。あれもう一回やってよ。きっと二回目は平気だと思うのよね」
俺はすっかり呆れてしまった。…本当に、何事もなかったことになっている。もうまるきり遊び気分だ。動じないやつだなあ…
でも、ちょっとは怖かったらしい。いや、だいぶん怖かったんだな、これは。最後の台詞でそれがわかった。
「いいよ」
だから、俺は笑ってそう答えた。我ながら単純だとは思うが、悪い気はしなかったからだ。
ブルマがあんな風にキャーキャー言いながら抱きついてくることなんて、そうそうないからな。自分より弱いことを認識することのできる、貴重な一時だ。
まあ、あれだ。武道家の特権だな。
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