Trouble mystery tour (9) byY
グランニエールフォールズを後にし復路のバスが発車すると、これまでのことはすべて過去のこととなった。轟々とした滝の音も、逆さまに見た水の流れも、耳に響いたブルマの悲鳴も、何もかもが思い出となった。感傷に浸るとまではいかないまでもそれなりにいい気分で窓の外へ目をやると、その間にいたブルマが元気に声を上げた。
「あ〜、思いっきり叫んだから喉乾いちゃった。何飲もうかな。さっぱりしたものがいいわね。スパークリング・ワインあるかしら」
俺は一瞬にして往路と同じ気持ちになって、その言葉を否定した。
「ワインはやめろ。また気分が悪くなるぞ」
「気分悪くなんてなってないわよ」
「何言ってんだ。さんざん俺に…!」
いや、往路とは違っていた。往路では俺はブルマのことを心配していたが、今では自分のことを心配していた。それで思わず声を荒げてしまったわけだが、そのことにはがなってしまう前に気がついた。
このバスの座席はほぼ完全に他人の目を気にしなくてもいい作りになっているのだが、他人の耳はそうではないということに。
「…とにかくワインはやめておけ。もう酒を飲むのは夕食の時だけにしろ」
すかさず小声で続けた忠言は、すぐさまブルマに跳ね返された。
「何それ。何でそこまで決められなくちゃならないのよ」
「何でって。…俺はおまえのことを心配して…」
嘘くさい台詞だ。言った俺がそう思ったくらいだから、もとより俺の言うことを軽視するブルマが感激してくれるわけがない。ブルマはわざとらしくも白々しい目つきで俺を見て、横柄に言い放った。
「ふーん。あっそ。そうね〜。じゃあ、キスしてくれたら考えてあげてもいいかな〜」
「どうしてそうなるんだ…」
俺は呆れつつも不思議に思った。脈絡がないとかあからさま過ぎるとか言いたいことはいろいろあるが、一番気になったのは、なぜ今そういうことを言うのか、ということだ。いかにもそういうシチュエーションである時を除けば、ブルマは自分からそういうことを言ったりしない。そういうシチュエーションであることに俺が気づいていないということはよくあるが、今はどう考えてもそういう時ではないと思う。そもそもブルマ自身に雰囲気が全然感じられないじゃないか。
即行で俺から視線を外して答えたブルマの言葉は、まるっきり答えになっていなかった。
「じゃ、そういうことで。あっ、すみませ〜ん。飲み物を…」
「こら!」
「何よ?」
それでも俺は気づいた。気づきたくなかったが気づいた。どうやら見透かされているらしいということに。こいつ、どうしてこういう知恵だけは回るんだ…
飲むとか飲まないとか、すでにそういう話ではなくなっていた。少なくとも俺の中では。これは男の面子に関わることだ。ここで引き下がってしまっては、男が廃るというものだ。
「これきりだからな」
そんなわけで、俺はブルマにキスをした。アテンダントを呼びかけていたその手を掴まえて。まあいい。どうせ周りには見えない。アテンダントには知られるだろうが、数十分後には赤の他人だ。
ブルマはというと、まるっきり目を丸くして、身を固くしていた。それで、嵌められたのでも何でもなく、完全に高を括っていたということがはっきりした。さらに唇を外しても何も言わなかったので、先ほどのブルマの呼びかけに応じてやってきていたアテンダントに、俺はブルマに代わって頼んでやった。
「バドワを2つ。レモンを入れて」
気分的には俺もワインを飲みたくなってはきていたが。今はこれこそが勝利の味だ。


――それから約一時間半後。
レッチェルの高級ショッピング街のとあるカフェを、俺は入った時とはまるで反対の気分で後にした。
…いや。別に、何もなかった。そう、何も。
は〜ぁ。
勝ったんだか負けたんだか、わからん…
少しだけ長くなった自分の影を見ながら息を吐くと、ふいにブルマが足をとめて呟いた。
「そうだわ。『レチル』に行かなきゃ。母さんのお土産」
まるで何事もなかったかのような落ち着いた声で。まるで何でもないような淡々とした口調で。
それで俺もいつもの調子を取り戻して、ただただ普通に呆れた。
「なんだ、もう土産買うのか」
気の早いやつだな。早過ぎだ。まだ初日なのに。あと90日もあるのに。
「頼まれてるものがあるのよ」
ブルマはそれだけを言うと、さっさと歩き出した。俺は呆れというか拍子抜けというか、曰く言い難いいつもの気持ちとなって、その後ろを歩いた。
いつもの説明不足。ブルマが俺を一方的に付き合わせる時の常套手段だ。
やがて他のショップとさして変わらない、煉瓦造りのショップへとブルマは入っていった。ブルマに続いて中へと入ってから、俺はようやく店の正体を知った。
ジュエリーショップか。それもかなり高級店だな。
ほとんどないことだが時々連れられて行く時にすかさず傍へと寄ってくる店員が、ここにはいない。…ジュエリーショップの店員って、中途半端に男に話を振ってくるよな。少なくとも、服を買っている時よりは振ってくる。困りものというほどではないが、あれはなかなか面倒くさい。目論見はだいたいわかるんだけどさ、そういう一般論は俺たちには当てはまらないんだよ。
だが今は、そういうことを考えている間に、場が推移していった。ブルマが単純に要件を告げただけで、店員は要求に応じる姿勢を見せた。俺が店内で一番でかい宝石を昔の癖で鑑定していると、次なる言葉が聞こえた。
「当店には、オリジナルのレッチェル石で作られたアミュレットアクセサリーがございます。どうぞごらんになってお待ちください」
それで俺は実りのない惰性行為を打ち切った。ブルマが素直にその声に従ったから。ちょっとした予感がしたからだ。
『オリジナル』とか好きだからな、こいつ。話を合わせられる程度には付き合っておかねば。
ブルマの後ろからショーケースに目をやりかけた時、そこにいた店員がとうとうと説明を始めた。
「最も高級なのはこちらのブルーの『ピュアリーズ』で、沈着冷静・穏やかな心という意味があります。イエローの『レリーズ』は知性、成功…」
ああ、そういう種類の石か。所謂、無価値なやつだな。それで俺はケースを見るのをやめたのだが、するとほとんど同時にブルマが話を振ってきた。
「ねえ、どれがいいと思う?」
もう買うことに決めたらしい。早いな。それだけを思いながら、俺は言ってやった。
「おとなしくなるやつ」
「…何よ、その言い方は」
何って、そういうことだよ。
このくらいは言わせてもらわなきゃな。このくらいじゃ、ケンカにはならん。…たぶん。それにどうせ、こいつはなんとなく訊いてみてるだけなんだから。結局は自分の好みを通すんだから。しかもその時々の気分でな。
俺の感覚はすべてにおいて(よかった)当たっていた。一時は声を低めたものの、ブルマはすぐに明るい声で言い切った。
「じゃあブルーのにするわ」
そしてそれすらも、俺の予想を裏切りはしなかった。ほとんど聞いていなかったが、宝石ってものは、たいがい値段と見た目が釣り合っているものだ。何より今は着ている服がブルーだからな。
「そうね、…どれにしようかしら。ブローチが一番きれいだけど…」
「おまえ、ブローチなんかほとんどつけないだろ」
「そうよね。じゃあ、ピアスにするわ。ここでつけていってもいいかしら」
軽い客だよな。たぶん店員は、ものすごく売り甲斐ないだろうな。
どうやら話は終わったようだったので、俺はブルマから目を離した。たいして間を置かず、次の会話が聞こえてきた。
「お待たせいたしました。こちらの三点が、マルヴァージアの作品では現在手に入る唯一のものとなります」
「大きさはあまり変わらないのね。じゃあ、このピンクのやつ」
「かしこまりました」
決めるの早いな。さすが、自分のものではないことだけある。
こうして、わりあいスムーズに一幕は閉じられた。ショップを後にし、また少し長くなった自分の影を見ながら、俺は息を吐いた。
さて、今日はどんなもんかな。少なくとも『少しは話に乗った』とは思うのだが。つい余計なことも言ったけど。…いつもはまったく前振りないからな。突然振られても困るんだよな…
一幕の後のもう一幕。たいして心を竦めることなく、俺はそれが開くのを待った。ブルマは軽い笑みを浮かべて、片手をひらつかせた。
「ねえ、手繋いで」
だから俺も軽く笑って、その手を取った。どうやら合格点だったらしい。よもやそうじゃなくても平手が飛んでくることなどないが。まあ、とにかくよかった。
店員さん、わかりやすい商品を売りつけてくれてありがとう。


俺たちはそのままホテルへと帰り着いた。さらに部屋へ行くまでずっと、手を繋いでいた。ブルマが離してくれなかったから。そして俺が、離すタイミングを見つけられなかったからだ。手を繋ぐことって、あまりないからなあ。まあいい。どうせ行く時にも手を引いて通った。一度も二度も同じだ。
部屋へ入ると、レストランへ行くために着替えるとブルマが言い出した。さて俺はどうしようか。そう考えた次の瞬間、ブルマから指令が飛んできた。
「あんたはトロピカルダークグレーのスーツね。それに黒地にイエローのレジメンタルストライプのシルクレップ・タイ。後は適当に考えて」
俺はすっかり呆気に取られた。…そこまで指定しておいて、適当もくそもあるか。だいたい、トロピカルダークグレーって何だ。
そう思いながらも俺はブルマの言葉に従った。従うことができた。…スーツ、少なくてよかった。ブルマはというと、赤のロングドレス。裾はフリフリしているくせにスリットは深いという、かわいいんだか色っぽいんだか判断に困る代物だ。ともかくも気合いが入っていることは充分に感じ取れたので、俺はレディファーストを思い出しながら部屋のドアを開けた。階上のレストランへと向かうべくロビーのエレベーターのコンソールに手を伸ばしたところで、ストップをかけられた。
「こんばんは、おにーさん、ブルマさん。なんかすっごくオシャレしてますねー」
「ブルマさんのドレス、ステキー」
先ほどあんなところを見せてしまったにも関わらず、何事もなかったかのように笑っている双子の女の子。完全に無意識の反射で、俺は動いた。
「あ。…こ、こんばんは…」
躊躇しつつ、そう返した。納得させたはずなのに、躊躇した。意外を衝かれたにも関わらず、言葉を返した。…いつもは、あの手のことに続きはないんだよ。たいていトラブルの元は赤の他人だからさ。パッケージツアーの弊害だな、これは。
ブルマはあからさまに女の子たちを無視していた。言葉を返さないことはもちろん、顔を合わせないだけではなく、体そのものを向けていなかった。それでも依然として場に留まり続けた。それで俺は、ブルマが一応は納得してくれているということを、改めて認識した。もしそうじゃなかったら、きっとこの時点でどこかへ行ってしまっているだろうからな。でも、そうとわかってても、怖い。その物言わぬ後姿が怖過ぎる…
俺がようやく忘れかけていたエレベーターのボタンを押した時、双子の一人が口を開いた。
「あのー、おにーさん。おにーさんの名前は何ていうんですかぁ?」
「え?あー、えーと…」
俺はまたもや躊躇した。名前を教えたくなかったからではない。なし崩し的に会話が始まってしまっていることに気がついたからだ。さっきと同じように。…普通だよな。一緒のツアーなんだから普通だよ。だけど、ブルマはそれでも怒ってる。…本当にやきもち焼きなんだから…
いつもと少し違う心境に、俺はなり始めた。するとブルマが、いつもとは少し違う姿勢を見せた。
「ヤムチャよ」
態度だけはいつも通り偉そうに、でもわりあいおとなしく話に割って入ってきた。いや、本来割って入るような立場ではないのだが(この子たちは俺たち二人に話しかけてるんだからな)、でもやっぱりどう見ても割って入ってきた。
「で?あなたたちは?」
「あっ、リルとミルでーす」
「双子なんですー」
「あたしたち、これからレストランに行くから。邪魔しないでね」
そしてものすごく強引に、でもブルマにしては充分におとなしく会話を切り上げにかかった。おまけに最後の台詞。俺は結構な感心を抱いて、今さっきまでの躊躇を捨てた。
「はーい、わかりましたぁー」
「ごゆっくりー」
今では俺には双子の笑顔は、ただの2つの笑顔に見えていた。やがてやってきたエレベーターにさっさと乗り込むブルマの後姿も、ただの後姿に見えた。
「あの子たち、やたら話しかけてくるわねえ。まだ一日目だってのに。あんなに馴れ馴れしいの、あの子たちくらいよ」
だから、エレベーター奥の壁に背を凭れてだるそうにブルマが言った時、俺は何を考えることもなく言葉を返した。
「そうか?俺、他の人にも話しかけられたぞ」
「いつ?誰によ?」
「グランニエールフォールズへ行ってすぐに。バスから降りた時だな。名前はわからないけど、夫婦の婦人の方、2人に」
結果的に考えれば、俺は少し油断していた。ブルマが俺に、こう返してきたからだ。
「それはおモテになりますこと」
あからさまに呆れを漂わせて。まるきり言い捨てるように。だがその聞き慣れない嫌味の言葉は、俺にとっては何ら意外なものではなかった。
「またそんなこと言って…」
「何よ。褒めてあげたんでしょ」
どこが。
さらに、まるで竦まない心でそう考えた。露骨だなあ、こいつ。いや、そんなことわかってたけどさ。わかってたけど、あまりそういう考え方したことなかったからなあ。つい怖さが先に立っちまって。だって、本当に怖いから。…でも、さっきみたいなことにならなければ、結局はただのやきもちなんだよな。今くらいの態度でいてくれれば、悪くないんだけどなあ…
とはいえ、俺はそれを口にしようなどとはまったく思わなかった。そんなことをすればどうなるか、もう目に見えている。まず、やきもちを否定するところから始まるだろ。それからたぶんケンカになって、数日放置されて、苦労して仲直りできたとしても、最後は結局やきもちを否定されるんだよ。目に見えてるというより、ほとんど経験済みだ。理由はいつも違うけどな。だから、そんなことはどうでもいい。それより、気になるのはこのブルマの目だ。
「…何だ?」
「べっつに〜」
ブルマはひとの顔をさんざん凝視した挙句に、無表情に近い顔つきでそう言った。相変わらず壁に背を凭れたまま。両手を背中で組んで、今では片足までも組み出して。はっきり言って、めかしこんでる女の取るポーズではない。おまけに今このタイミング。俺にブルマの言葉を信じることができようはずはなかった。
「おまえ、さっきもそんな風に誤魔化したよな。まだ何かあるのか?」
あるなら言ってしまってくれないものかな。今なら臆せず受け止められる。…ような気がする。
俺は本当にブルマの言葉を待っていた。まあ、それほど深く考えてはいなかったが。心当たりがなかったからだ。でもブルマは、俺が何もしていなくても怒ったりする(さっきみたいに)んだから…
困ったものだな。心の中で首を竦めた時、ブルマがまた困ったことを言い出した。
「何でもないわよ。…でも、そうね。キスしてくれたら教えたげる」
「あのな…」
どうしてそうなるんだ。
初めにそれを言われた時とほとんど同じ心境になって、俺は口を噤んだ。少しだけ違うのは、今ではブルマがそれをダシにしているとはっきりわかっているということだ。二度目の時には『してやられた』という感じでなんとなくしてしまったのだが、三度目ともなるとちょっとな。それに、今の場合は少し性質が違うような気がする。
言いたいことがあるなら、言えばいいじゃないか。俺は訊いてるんだから。それまで俺が聞き出さないといけないのか?こんな手に乗ってまで?
それはちょっと…いや、ちょっとどころかものすごく、男の沽券に関わる。だいたいブルマは、宥められないと何も言えないような珠じゃないんだから。まだ酒飲ませたくなければキスしろ、って言われる方がわかる話だ。
やがてブルマが組んでいた足を解いた。そしてどことなくしおらしげに聞こえる声で呟いた。
「しないの?」
「…もう、しない」
「あっそ」
俺が答えると凭れていた背を壁から離して、今さらのように乱れていた足を隠した。…ひょっとして誘ってたのかな?でも、全然そんな感じしなかったよなあ。今日のブルマの感じだったら、もっとストレートにくるんじゃないかと思うんだが。そもそもいつだってストレートだし。だいたい――
「だから何だよ!?」
この目。この目は絶対にそういう目じゃない!
俺が怒鳴るとブルマは思いっきり噴き出して、声を立てて笑い始めた。口に手を当ててはいたが、腹を抱えて笑うに等しい勢いだった。
それで俺はようやくわかった。…こいつ、ダシをダシにして、さらにからかってやがる。どうしてそういう知恵だけは回るんだ…
やがてエレベーターが階上についた。するとブルマが何事もなかったかのような顔をして、でも明らかに今の場を楽しんだらしい上機嫌の足取りで、さっさとエレベーターを下りて行った。俺はというと、言葉を失いながらもその後をついていき、レストランのドアを開けた。
レディファーストだから。敢えて機嫌を損ねようとまでは思えなかったから。
でも一番の理由は、結局はいつもとたいして変わらないポジションだったからだ。
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