Trouble mystery tour Epi.12 (8) byY
ドームの外へ出ると、天気が一変していた。
青かった空は厚い雲に覆われて暗灰色に変わり、細い霧雨が降り頻っていた。さっきまでの晴天が嘘のようだ。というか、嘘だったのだ。雨天時にはドームのミラーガラスはスクリーンに切り替わって、晴天を演出する仕組みなのだそうだ。なるほど、俺がうたた寝から目覚めた時に感じた違和感はそれだったのだ――スクリーンに映された、偽物の青い空。
本当の空はいつからかとっくに見えなくなっていたのだ。たぶん風向きのせいだろう、朝引き離した雲に追いつかれ呑み込まれて。朝と同じように霧雨の中を、だが朝とは違って雲のやってきた方向へとひた走るバスの中で、俺は息を潜めながら、水滴の伝う窓から隣の人間へと視線を移した。
「…なあ、帰ってきちまってよかったのか?このことをドームの関係者とかに…」
「言って、どうにかなると思う?」
「そりゃ思わんが…」
「…………」
「…………」
そして、それとなく目を逸らしながら、現実を噛み締めた。
…何とも言えず、おかしな気分だ。
自分と話すというのは。自分に話しかけてくる自分を見るというのは。
「つまり、どういうことなわけ?」
「いや…俺に訊かれてもわから…」
「あんたに訊かなきゃ誰に訊くのよ!?」
そして、自分に問い詰められるというのは。
世界には同じ顔をした人間が三人いるとは言うが、実際目にしてみると気持ち悪いな。酷く落ち着かない気分になる。しかも『似ている』というわけではなく、正真正銘の自分なんだからなおさらだ。
もっとも、その俺の姿に違和感を感じていたのは、俺だけではなかった。俺が何を答える間もなく、後ろの座席から歓声にも近い驚きの声が上がった。
「わぁお、どうしたんですかあ、ヤムチャさん!」
「ヤムチャさんがブルマさんに怒るなんて、めっずらし〜い!」
口をオーの形にしたミルちゃんとリルちゃんが、背凭れに齧りつくようにしてブルマ(見た目は俺)を見ていた。それがわかっていたにも関わらず、俺は答えてしまった。
「いや、何でもないよ。びっくりさせちゃってごめんね」
頭ではわかっていても、心がついていかなかったのだ。例え外見は入れ替わっていても、俺が俺なんだという認識。そもそもが、外見が入れ替わっているという現実の非常識さ。
「いーえ〜。珍しいなって思っただけですからぁ。びっくりと言えばびっくりですけどねー。なんていうか、貴重な感じ?」
「そうだ、珍しいと言えばこれこれ!ブルマさん、これあげます。ジャジャーン!フルーツフラワーパーク名物スーパービッグクッキー!!これ食べて仲直りしてください」
でもリルちゃんがそう言いながら俺にそれを差し出してきたので、俺は意識せざるをえなかった。…そう、俺は今ブルマなんだ。
「何よそれ?」
そしてブルマが俺だ。双子たちにもそう見えるってことは、俺たち二人が狐に化かされてるとかじゃないんだ。
「何ってクッキーですよお。大きいでしょ。ほらほら、顔まで隠れちゃう!」
「アミューズメントガーデンで売ってたの。お土産にするつもりで買ったんだけど、考えてみたら帰るまでに湿気っちゃいそうだから、食べちゃおうと思って。いっぱいあるから、お二人にも一個あげまーす」
「二人で一緒に食べてくださいね。端と端から一緒にねっ」
「っきゃー!クッキーゲーム!!」
…………。
とはいえ、双子に茶化されてはいた。直径20cm程もあるその大きなクッキーをお面代わりにふざけ合うミルちゃんとリルちゃんを見て、俺は真実を告げる気を失った。中身と外見が入れ替わった、普通の人間ならばそんなこと到底信じられないだろうが、この二人の場合は信じた上で軽く流してしまいそうな気がする。『へ〜、そうなんですかあ』『大変ですねえ』とか言って。どちらにしても、告げて事態が進展するとは思えない。無駄な混乱を引き起こすだけだ。たぶんブルマも似たようなことを考えたから、この事態を誰にも言わずにいるんだろう。そしてどうやら言わなければ、みな気づかないようなのだ。
「ったく、バカなこと言ってえ…」
「えっ?」
「今何か言いましたか、ヤムチャさん?」
「いーえいえ、それはどうもありがとうね。でも、あたしたち今大事な話してるから、引っ込んでてくれるともっとありがたいわ」
「『あたし』?」
「ヤムチャさん、なんか変ですよ。さっきからちょっと怖いし」
「ひょっとしてやっぱり怒ってる?えー、なんでー?」
せいぜいがこの程度だ。なんかおかしいと思う程度。しかも、俺がおかしいと思うほどには、おかしくないみたいなのだ。俺はとてもじゃないが目を合わせられないというのに、双子たちは警戒しながらなおも茶化している。…なんかこう、いろいろな意味でやり切れなくなって、俺は口を出した。
「怒ってるわけじゃない――わよ。ちょっと遊び疲れてイライラしてるだけ…ほら、天気も悪いし。道は渋滞してるし。少し休ませてやりたいから、しばらく放っておいてもらえるかな?」
あんまりフォローになってないな。俺はそう思ったが、双子たちは案外素直に納得した。
「はーい。わっかりましたあ。でも意外〜。ヤムチャさんて疲れ知らずな感じなのに」
「でもブルマさんがそう言うなら、そうなんでしょうね〜。じゃあ、本当に何でもないんだあ…ふーん…」
「何よ、その残念そうな顔は!?」
「残念じゃなくて、安心したんだよ。ね、見ての通りこいつ調子悪いから、また後でね。お菓子ありがとう」
だから、さらに強引だとは思いつつも、そのまま押し切った。自分の顔色を窺いながら。…なんかさ、怖いんだよ。さっき双子も言ってたけどさ。自分の顔見て言うのもなんだが、すごく怖い。俺は中身がブルマだって知ってるから、余計に怖い…
「まったく、調子いいんだから。じゃあその調子で、詳しく話してもらいましょうか」
やがて、双子が背凭れから離れた。ブルマがどっかりと足を組んで、声を潜めながらも威圧してきた。俺はすっかりかしこんだが、だからといって一も二もなく応えるというわけにはいかなかった。
「詳しくったって、一体何を…」
「何でもいいから。あたしは何も気づかなかった。他の人はみんな何事もなかったみたいな顔をしてる。気づいたのはあんただけよ。あの時一体何があったの?」
「何があったのかなんて、俺の方が訊きたいよ」
応えようがないんだからな。何かが起こったことに気づかないほど無頓着ではなかったようだが、何があったかわかるほど事を理解しているわけじゃないんだ。
「言い方が悪かったわ。あんたはあんたの知ってることをただ話してくれれば、それでいいのよ。考えるのはあたしがするわ」
「うーん、そうだな…」
幾分冷静になったらしいブルマの言葉に誘導されて、俺は考えた。どうせホテルに着くまでは何もできないんだ――話をすること以外にはな。たぶん何の収穫もないとは思うが、記憶を探ってみるか。それでブルマの気が済むならば。
「…何か違和感を感じたんだ。目が覚めて、空を見た時。その時は、空が偽物だって知らなかったからな。それでしばらく気にしてたんだが…」
「ミラーガラスに映った空ね。その話はもういいわ。それから?ずっと空見てたんなら、何か気づいたでしょ。周りが真っ白になった時、何か見た?」
「その時じゃなく、その前だな。雷みたいなものがちらついた。空の上の方に。それから――」
「雷?ドームの中に?それってドームに落ちたってこと?でも、何も音しなかったわよ。周りにも雷が落ちた形跡なんてなかったし」
「知らないよ。で、とにかく、それでもっとよく見ようと上を向いた瞬間に、ピカッと」
なんか、気が済むどころか、突っ込まれまくってるな。まあ確かに、ブルマの領分なんだろうがな。
そう思いながらも、俺は話し終えた。だが科学者魂に燃えつつあるらしいブルマは、それでは許してくれなかった。
「ピカッと、何?」
「いや、ピカッときて、気づいたら入れ替わってたのさ」
「えー!?それだけ!?それじゃ何にもわからないじゃないの!」
「だからわからないって言ったじゃないか」
まったく、人の話を聞かないやつだ。そりゃブルマが俺の話を聞かないのなんていつものこと だが、こんな時までそうじゃなくたっていいだろうに。
おまけに、話はここで終わらなかった。すでにちっとも潜めていない声でブルマがこんなことを言い出したので、事態は次の段階へと発展した――
「だって見てたんでしょ!?だいたい、そんなんでどうしてあたしを助けようと思ったのよ!?」
「勘だよ。なんとなく、何かが起こりそうな気配がしたんだ。それ以上のことはわからん。あの時、俺は完全に目が眩んでたんだからな」
「ガーン。そんなぁ。役立たず〜〜〜!」
「おま…役立たずとはなんだ、役立たずとは。そもそもが無理矢理喋らせたくせして、なんて言い草だ」
「だぁーって、普通、見てたら何か知ってるって思うでしょ!!」
そりゃそうだが…
――初めから勝負の見えてる口喧嘩。それも、この期に及んでな。我ながら呆れたこの展開を妨げてくれたのは、再び後ろの座席から飛んできた声だった。
「ヤムチャさん、イライラした時は甘いものを食べるといいですよ」
「そうそう、さっきあげたクッキーとかねっ」
「ええい、うるさいわ!」
それでブルマの怒声は双子へ向いた。悪いと思いながらも、俺はほっとした。不毛な喧嘩をしている場合じゃないとわかっていたから。そして何より、自分自身に罵倒されるというのは、決して気持ちのいいものではなかったからだ。
「あたし今から考え事するから、あんたたちはもう絶対話しかけないで!」
「あー、また『あたし』って言った〜」
「はいはいわかったわよ、『俺』!!」
ついでに言ってしまうなら、その自分の声と口調にも慣れられなかった。自分の声が外から聞こえてくるということが不思議な上に、怖いんだかなよなよしてるんだかわからないこの口調。とにかく、すべてが違和感ありまくりだ。まるで悪い夢を見ているようだ。
だが、実際に俺が見ているのは、夢ではなく、鏡に映っているわけではない自分の姿だった。鏡ならぬ窓ガラスに目をやれば、そこにはどこか違和感のある自分の彼女が映っている。
…まいったなあ、もう。


視界の利かない雨の中、バスはのろのろと道を進み、2時間ほどもかかってホテルに辿り着いた。ほぼあれからずっと無言を貫き通していたブルマは、バスから降りてもその姿勢を変えることはなく、一人無言でさっさとホテルへ入って行った。とはいえ、怒ってそうしているのではないことはわかっていたので、俺もまたさっさと後を追った。少しだけ困ったのは、その歩速だった。
俺とブルマにコンパスの差があることはわかるよな。だから、あんまりきびきびと歩かれると、追いつけないんだよ。一緒に行こうとすると、軽く駆け足になる。目くじらを立てるほどのことではないんだが、これが後でちょっとした波紋を呼んだ。
だがまあ、後のことは後のこととして、とりあえずホテルに戻った俺たちは、まずはエグゼクティブラウンジの一角に落ち着いた。というより、部屋へ行く前に通りがかったそこのソファにブルマが腰を下ろしたので、俺も座ったというわけだった。
「エスプレッソ。リストレットでドッピオ」
「マドモアゼルは何になさいますか」
「あ……俺、いや、私はダッチコーヒーを…」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
マドモアゼル…
俺は思わずその言葉を噛み締めたが、実を言うとその言葉を投げかけられたのはこれで四度目だった。一度目はバスを降りた時傘を差しかけてくれたホテルのドアマンに、二度目はその直後ドアを開けてくれた別のドアマンに、三度目はこのエグゼクティブラウンジのカウンターにいたスタッフに。やはり夢ではないらしい。とうにわかっていたはずのそのことを呑み込むと、ブルマが溜め息がてら言った。
「…ねえ、ウェイターに言って電話借りて、うちに電話かけてくれない?」
「俺がか?いいけど、ブルマが電話した方が話早くないか?」
「途中で代わるわ。その前にちょっとコーヒー飲んで、頭をすっきりさせたいのよ」
それで、俺は去ったばかりのウェイターを呼び戻した。細かく訊かなくても、ブルマのしようとしていることはわかった。ブリーフ博士に頼むんだろ。どう考えても、それしかないよな。そして、その先にある展開もわかっていた。どうしたってそうなるだろう。
ホテルのコードレスホンを借り、C.Cに電話をかけた。長い長い通信音の後に耳に入ってきたのは、ちょっと不躾な友人の声だった。
「…いはい、今出ますよっと。――はいよ。もしもし、こちらC.C。どちらさん?」
「ウーロンか。おまえが出るなんて珍しいな。ひょっとして、他のみんなは留守か?」
「なんだあ?ブルマおまえ、ずいぶん荒っぽい口利くじゃないかよ。ま、いつもだって、大してきれいな喋り方じゃないけどよ。まーた喧嘩してんのか?」
一瞬固まってしまった後で、俺は現状を思い出した。そのために電話しているのに忘れるというのもおかしなものだが。
「ああ、悪い。俺、ヤムチャだ。ブルマの声に聞こえるだろうけど、ヤムチャなんだ」
「は?何言ってんだ、おまえ。冗談にしたっておもしろくねえぞ」
「いや、冗談じゃないんだ。信じられないだろうけど、本当にヤムチャなんだ。ついさっき事故があって、今は俺がブルマになってるんだ」
「事故?またかよ。おまえら一体何やってんだ?」
「別に俺たちがやってるわけじゃないんだよ」
「っとにトラブル体質だよな〜、おまえもブルマもよ。じゃ、博士を呼べばいいんだな?」
「ああ、頼む、そうしてくれ」
ともかく、博士がいてくれてよかった。ここで留守だったりしたら、ブルマのことだ、違う愚痴が始まってしまうだろうからな。そう思いながら俺は長い待受音を聞き、やがて聞こえてくるであろう声に備えた。
「…やあ、ヤムチャくんかね」
「はい、ヤムチャです。あ、ブルマの声に聞こえるでしょうけど、ヤムチャなんです」
だが、博士の態度は俺の予想の斜め上をいっていた。博士らしいマイペースさと、父親としては当然とも言える感情から、こんなことを言ったのだ。
「なんじゃ、風邪をひいたのか。きみが風邪をひくなんて珍しいね。それにしても本当にブルマの声に似とるなあ。まるでブルマと話をしてるみたいだよ」
「あ、いえ、そうじゃなくて…」
「で、ブルマの様子はどうかな。すっかり元のブルマになったのかな?」
「え?」
「まあ、次の連絡がこないってことは大丈夫なんだろうと思っとったがね。何らかの影響が残らないとも限らないからねえ」
「あ…っ」
ここに至って、ようやく俺は思い出した。少し前にもこうして博士に助力を求めたことがあったことを。いや、ウーロンとのやり取りもあって完全に忘れていたわけではないのだが、そのことは完全に忘れていた。
「すすすいません、連絡するのが遅くなって。あれについてはもう…はい、ブルマはもうすっかり元通りです」
「いいよいいよ。きっとそうだろうと思っとったんだ。だからドラゴンレーダーも未完成のままなんだよ。途中で部品が足りなくなってしまってねえ。それで今日はどうしたのかね。風邪薬が欲しいのかね?」
「あ、はい、それがですね…」
俺は逡巡しながらも、核心に入った。まさにその時、ブルマが電話を引っ手繰っていった。
「父さん?ブルマよ。声はヤムチャなんだけど、ブルマ」
「何言ってんの。みたいじゃなくて、本当に入れ替わったのよ。一体今まで何話してたのよ。ヤムチャってば無駄口ばかりなんだから」
悪かったな。確かに、ブルマは無駄がないよ。なさ過ぎて乱暴もいいところだ。
とはいえ、『代わって』の一言もなく奪い取られた通話権に、俺は執着しなかった。ここはこの父娘に任せよう。俺の仕事はもっと後――実働の方だ。
「中身の方ね。入れ替わった時、位置が変わってたから」
「知らないわ」
「知らないってば。あたし、今そういうこと言われてもちっともわかんないのよ。だから父さんが調べて…と言いたいところなんだけど、きっかけが何なのかもわからないのよね。気がついたら入れ替わっちゃってて、入れ替わった瞬間のことすら、あたしにはわかんないの。ヤムチャは何か見たみたいなんだけど、てんで話にならなくって」
…悪かったな。
俺は軽く苦虫を噛み潰しながら、冷めかけたダッチコーヒーを飲んだ。ブルマの言葉は不本意でもあり、納得するものでもあった。
『おまえだって何もわからないくせに』。そう思いはするが、言ってやることはできない。俺とブルマじゃ、話が違う。
俺は気づいていたんだからな。なにか異変が起こりそうだと気づいていた。それなのに何もできず、起こった後でもそれが何だかわからないなんて、やっぱり情けないよなぁ。まあ、あの状況では仕方ないと思うが、でも情けない。
結果、何も知らない当事者が二人。これでは、本当にどうしようもない…
「だからそう言ったでしょ。まあ、そういうわけだからさ、ドラゴンボール集めてよ」
「ドラゴンレーダーの作り方はわかるでしょ。すぐに作って、ウーロンたちに探させて。あたしたちもすぐ行くから」
……で、そんな時のドラゴンボール。
そうなるよな、やっぱり。なんか延々と考え込んでたから、他に考えがあるのかとも思ったが…さすがにブルマにもどうしようもなかったか。
そんなわけで、ブルマが行き着いたのは、数日前に俺が取ったのと同じ一手だった。文字通りの神頼み。願いまでも同じ。『元通りにしてくれ』…
「何をぐだぐだ言ってんのよ!とにかく作って探させてよね!」
と、ここでブルマが通話を終えた。何やらぷりぷり怒りながら。博士と話した後は時々こうなる。それと、八つ当たりだな。そう俺は判断した。呆れはしたが、怖くはなかった。八つ当たりするブルマの心理が、わかっていたからだ。
こういう形で終わるっていうのはな。なんていうか、不完全燃焼だよな。台無しっていうかさ。せっかく結構楽しめてたのに…。そんなのんきなことを言っている場合じゃないというのは、重々承知しているが。でも、なんとなく付き合ってた俺でさえこんな気分なんだから、気合いの入っていたブルマが笑顔で旅行を取りやめて、ドラゴンボールを探しに行こうとするはずもない。
最後にもう一杯くらいお茶を飲ませた方がいいかもしれない。俺はそう思い、茶飲み話を兼ねて、ブルマが電話している間ちらと脳裏を掠めたことを言ってみた。
「ドラゴンボールで何とかなるかな?」
「何とかならなきゃ困るわよ」
「俺が気になるのはさ、神龍は一つだけ願いを叶えるってことなんだ」
「それがどうしたのよ」
「俺とブルマの二人を元に戻すことを、『一つの願い』と思ってくれるかな?」
そう、問題提起ではなく、言ってみただけだ。そうは言っても、ドラゴンボールを集めなきゃならないことはわかっていた。だって、それしか思いつく手立てがないんだから。
「…なかなか鋭いこと言うじゃない」
ブルマは途端に眉を集めて、そんなことを言った。さっきまでは役立たずだ何だと文句言ってたくせにな。でもその態度と、おそらくは今飲み干したコーヒーが、俺の思考を刺激した。
「嫌みかよ。…なあ、今考えついたんだけどさ、頭をぶつけてみるってのはどうだ?あの時ぶつかったかどうかははっきりしないけど、接触はしてたわけだろ」
「それは記憶喪失の場合の処置よ。それも科学的根拠のない、ね。どっちにしても現実的な方法じゃないわよ」
「そうか」
俺は空のカップを見下ろした。一刀両断に切り捨てられても、がっかりはしなかった。やっぱり言ってみただけだったから。一応提案はしてみたが、それはただそういう気になったというだけのことで、ドラゴンボールを使うことに反対しているわけではないのだ。ダメ元でもなんでも、やってみるしかない。それはもうはっきりしていた。
「…もう一杯、何か飲むか?」
ふいに落ちた短い沈黙を持て余して俺が水を向けると、ブルマの口からちょっと濁った唸りが漏れた。
「う゛ーん、そうね。…いらないわ。あたし、ちょっとトイレ行ってくる」
「ああ、はいはい」
そうして、すっくと席を立ったので、俺はそれきり口を噤んで、ラウンジの端へと歩いていくブルマを見送った。
もうぷりぷりしてはいないみたいだ。じゃあこれから荷を纏めて、即行で飛んで帰って、ドラゴンレーダーができ次第探しに行く、と。何日くらいかかるだろう?俺、一からドラゴンボールを集めたことってないんだよなあ…
ブルマがトイレから戻ってきたら訊いてみよう。片頬杖をつきながらそう考えたところで、俺はようやく思い至った。
…………ん?トイレ?


う〜ん…………
あの体でトイレ行かれるのって微妙だなあ…そりゃ、行かないわけにはいかないんだけどさ。
「まあ、ブルマさん。お一人なの?」
少しく苦悩していた俺の耳に、女の声が飛び込んできた。さらに、俺が声の主へと顔を向ける間もなく、右の肩に手が置かれた。訝る俺の目に映ったのは、茶化すようなそれでいてどこか妖しげな笑みを浮かべたリザの姿だった。
「珍しいのね。どうやらかなり本気で怒っているみたいね、彼」
「は?」
「大声で怒鳴りつけたり一人で先に行ってしまったり、およそ彼らしからぬ態度で、すっかりお冠ってところかしら。柔和な彼をあんなに怒らせるなんて、あなた一体何をしたの?」
「あ…」
みなまで言われて、俺はようやくリザの言葉の意味を理解した。…誤解されてる。さっき双子たちがしていたのと同じように。
「あら、ごめんなさいね、嫌な言い方しちゃって。あなたを責めてるわけじゃないのよ。相談に乗ってあげたいと思ったの。エイハンもね、心配してるのよ。兄はフェミニストだから、ああいう男性の態度が我慢ならないのね。でも、こういうことは女同士の方がいいでしょう?」
いや、それよりもさらに深く。もうすっかりマジ喧嘩扱いされてるじゃないか。それもこの上なく深刻な喧嘩をしているように聞こえるぞ。
「あの、ええと、…ありがとう。でも違う――のよ。あいつは少し気分が悪いだけで…確かにちょっと怒ってたけど、本当に怒ってるってわけじゃなくて…」
俺は精一杯の笑顔を作ってそう答えた。自分でも引きつっているのがわかるが、それはどうしようもない。
「ええ、そうよね。あなたが言いづらい気持ちはとてもよくわかるわ。でも、他人に相談するっていうのは、恥ずかしいことでもなんでもないのよ。むしろ、他人だからこそわかることだってあるわ。だから、この際そういうプライドは捨てておしまいなさい」
「いやいや、プライドの問題じゃなくて本当に――」
「そうだわ、もうすぐ兄もここへ来るから、そうしたら三人でお食事しましょう。そうすれば周りに気兼ねすることなく、ゆっくりとお話できるわ」
聞いてねえな…
そう言えばそうだった。この人も、人の話聞かない人なんだった。
まったく、どうしようもねえな。俺はすでにげんなりし始めていた。ここで『喧嘩なんかしてない』とビシッと言ってやったとしても、きっとまた同じことを言うんだろう。ひたすらに堂々巡り。こないだもそうだった。今はブルマだからベタベタしてはこないけど――…いや待て。この人、男女の見境ないんじゃなかったか。そうだ、だからこんなにしつこく――
「すっかり元気なくしちゃって、かわいそうに。お食事よりもラウンジバーで寛ぐ方がいいかしらね。こういう時には敢えて寛いでみることも必要よ」
――あなたの手が寛がせてくれないんですよ。いつまでも右肩に置かれたこの手が!
今さらながらに、俺はブルマの気持ちがわかってきていた。お互い同じ人間に気を持たれている同じ立場だと思っていたのだが、少し違ったようだ。ブルマとして接している今の方が、リザからのスキンシップが自然に感じられる。同性だから、リザも男の俺にするよりは堂々と触れるわけだ。それで、一見さりげなく触ってきた手がいつまでもそこにあったりする。要するに、リザは今だに俺の肩に触っていた。そしてさらに、隣に座り込もうとしていた。
リザの魔力か。それとも、ブルマの肉体の方が反応しているのか。どうにも俺は動けなかった。そこへ、エイハンがやってきた。
「あら、兄さん。早かったわね」
「男は女と違って身軽なもんさ。…おや。やあ、ブルマさん。一人なのか。大丈夫かい?」
「今その話をしていたのよ。それでね、お酒を飲みにお誘いしたの。飲みながらお話を聞いてあげようと思って」
「そうだね。それがいい。ブルマさん、何があったかは知らないけど、元気出して。遠慮せず何でも話してくれ。私たちはきみの力になりたいんだ」
そう言うとエイハンは、リザとは反対側に座り込んだ。いつしか俺はソファの真ん中で、兄妹にサンドイッチにされていた。さりげなく肩に手を乗せ続けているリザと、さりげなく俺の手を取ろうとしてくるエイハン。表向きは一切の口説き文句もなく。うやむやのうちに反論する道を断たれて、俺は思わず心の中で叫んだ。
今まで喧嘩して心配されたことってなかったけど、いざされてみると……ものすごく迷惑だー!
「ったく、何やってんだか。ほら、行くわよ」
その時、俺を救いにきた男がいた。いつの間にかブルマがソファの横にやってきていて、腰に手を当てた仁王立ちでガンを飛ばしていた。リザとエイハンと、そしてなぜか俺にまでも。俺にとってそのブルマの態度は不可解ではありながらも珍しいものではなかったが(ブルマはいつも相手と俺を一緒くたにして怒るのだ)、リザとエイハンにとっては目の前にいる男はブルマではなくあくまで俺なので、結果として彼らの意外感と正義の皮を被ったその思惑を強めてしまったようだった。
「やあ、ヤムチャくん。こんなことを言うのはなんだが、きみの態度は感心しないね」
「何の話?」
「先ほどから見ているが、ずいぶんとブルマさんを邪険にしているじゃないか」
「兄さん、いきなりそんなことを言っては失礼よ。ヤムチャくんにだって理由があるんでしょうから」
「どんな理由があったって、人前で女性に恥を掻かせていいはずがない。あんな態度を取るきみには、ブルマさんは任せておけない」
…気障な野郎だ。
さっきからどことなくそんな感じだったが、今や完全にそんな感じだ。まったくもって芝居がかってやがる。
「言い過ぎよ、兄さん。ごめんなさいね、ヤムチャくん。兄はフェミニストだから、女性の扱い方にうるさいのよ。ヤムチャくんたちはちょっと意見が合わなかっただけなのにね?」
そしてこのひとも…
あんたは一体どっちの味方なんだ。俺か?ブルマか?いや、どっちの味方もしてほしくはないが。あわよくばどちらかとうまくやろうというその根性も厭らしいが、男と女を天秤にかけてるってところが、もう何ともな…
「そういうことはすべて俺たちの問題だ。あんたたちには関係ない。さ、行くぞ」
再びげんなりし始めた俺をよそに、ブルマがきっぱりと言い切った。妙にそれっぽい口調で。…なんかなりきってる。慣れてきたというべきか。素直に褒めていいものだろうか。女なのに男らしいなんて…
俺は軽く感心したが、それも長くは続かなかった。席を立ち、自分に手を取られるという尋常ならざる行為を受けた途端に、エイハンとリザが声を上げたからだ。
「ブルマさん!嫌なら無理して行くことはないんだよ」
「兄さん…でも、一理あるわね。ねえブルマさん、ここはみんなで一緒にお話するということにしてはどうかしら。ここのラウンジバーはとても寛げるから、きっとゆったりした気持ちでお話できるわよ」
「いや、…私、は…」
――なんだこの修羅場…
交錯する視線と思惑を感じて、俺は少なからず困惑した。芝居がかった男。男と女を両天秤する女。女の姿をした男と、男の姿をした女。なんて異常な状況だ。とりわけ俺たちが一番異常だ。これでもし、リザがまかり間違ってどちらかをでも相手にしたら、取り返しがつかないほど異常になる。
「お誘いありがとうございます。でも結構です。俺たちこれからレストランに行く予定ですから。今夜は二人きりでゆーっくり楽しむつもりです」
もっとも、そんなことは天と地がひっくり返ってもなさそうであったが。やがてブルマが満面の笑み(でも怖い)でそう言って、俺の手を引っ張った。
この嫌みったらしい言い回し。殺気立った笑顔。俺にはどう見てもブルマに思えるんだが、現実はそうじゃないんだよな…
呆れなのか溜め息なのか、自分でもよくわからない息を吐いてから、俺はブルマと共に部屋へと向かった。
少しばかり駆け足で。


部屋に戻りドアを締めると、ブルマは途端に声のトーンを上げて、怒り始めた。
「ったくぅ。あんなこと言われるなんて。あんたも言い返…さなくてもいいから、せめて断りなさいよね。あんたたち三人が並んで座ってるとこ、すっごい異質だったわよ」
「断りを入れる暇がなかったんだよ。気づいたら二人して座り込んでて…」
「…まあね。あの二人、手が早いからね。特に相手が一人だと見ると即行よね…」
もっともすぐに収束したし、忠告に近い感じではあったが。そしてさらに、俺も思わず頷いてしまうようなことを言った。そう、リザの手が早いということは、俺は知っていた。よもやエイハンにまでああいうことをされるとは思わなかったが…あの男の手の早さも知っていたはずなんだが、もう完全に油断していた。リザは不意打ちだったから仕方がないとしても、エイハンにはされるがままになってしまった。どうしても、自分は男っていう感覚が拭いきれなくて…それと生理的な反応で。気持ち悪いっていうのは当然あるけど、それ以上になんか呆然としてしまうもんだな。そういう意味でも、ブルマの気持ちがわかった気がする。
ブルマとそしてエイハンに握られた細い手を見ながら俺はそう思い、それからトランクを引き寄せた。ブルマがクロゼットを片付けにかかっていたからだ。だが俺がトランクを開けようとした時、振り向いたブルマが服を一枚投げつけながらこんなことを言ったので、俺は思わず手をとめた。
「はい、あんたはこれ着て」
「…どうして着替えるんだ?しかもドレス…」
「レストランに行くためよ。スカイラウンジはドレスコードなしだけど、その服装じゃこの派手なホテルではカジュアル過ぎるわ」
「えっ?」
俺は耳を疑った。自分のではない耳を。
「ちょっと待て。帰るんじゃなかったのか?ドラゴンボール探しに…」
レストラン?この異常時に?…確かにさっきあの兄妹に向かってはそう言っていたが、単なる嫌みだと思ってたのに…
「帰らないわよ。さっきまではそうしようと思ってたけど、やめたわ」
「ええっ?」
さらりとブルマは言った。言いながら、トランクを開けた。そしてそこに服を詰め込むのではなく何やら探し始めたので、俺はブルマが本気であることを知った。
「どういうことだ?ドラゴンボールを集めるのはやめるのか?やっぱり他に何かいい方法が…」
「やめないわよ。ドラゴンボールなんか、誰が集めたって同じでしょ。だったら、ウーロンたちにやらせとけばいいわよ」
「いやいや、そうはいかんだろう。特にウーロンなんかは絶対に納得しない…」
「納得しなくてもやらせるの。あいつらにはグリーンシーニでの貸しがあるもの、ここで返してもらわない手はないわよ」
俺は言葉を失った。うまい反論の言葉が見つからなかった。だが、そのことはわかっていた。…なんか、論点がズレてる。というか、感覚がズレてる。元に戻るよりもレストラン?そんな、悟空じゃあるまいし。だいたい、さっきまではあんなに大騒ぎしてたのに――
「と、いうわけで、今夜はあたしがばっちりエスコートしてあげる」
でも、ここでブルマがにっこり笑って言い切ったので、俺は合点がいった。
…逆撫でされたな。完全に。もちろん、あの兄妹にだ。そんな場合じゃないだろうと言ってやりたいのは山々だが…
だが、俺は口を噤んだ。習性で。そう、俺の姿をしてはいても、ブルマはブルマなのだ。揚々と白いタキシードを宙に広げている自分ならぬブルマを見て、俺はすでにこう思ってしまっていた。
…しょうがない。一晩だけ付き合うか。レーダーはまだできてないって博士も言ってたしな。ここを発つのは明日の朝でも充分だろう…
言わば妥協と服従を同時にした俺に対し、ブルマは、それは妥協させない言葉を吐いてきた。
「だから、あんたも少しはそれっぽく振舞ってね。まず第一に、座ってる時に足開かないで。それから、あたしがレディファーストしてあげたら先に行くのよ。いつもみたいに、後からのこのこついてくるんじゃダメだからね。後は言葉遣いね。少しは気をつけてるようだけど、もっときれいな言葉で喋ってちょうだい」
…自分だって大してきれいじゃないくせにな。
ブルマの言葉は、先ほどのウーロンの軽口を思い出させた。そしてさらにその態度は、その父親の姿勢を思い出させた。
何があってもマイペースなその姿勢。こんな異常な状況になってもなお、女性のマナーなんか説いている。
…揃って危機感のない父娘だよなあ…
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