Trouble mystery tour Epi.12 (11) byY
気取らないレストランでのんびり飯を食った後は、散歩を兼ねてシアターへ。旅先で映画ってどうなんだろうとも思ったが、いつも観ているものとは毛色の違う地元の映画で意外と楽しめた。それから、先日行った屋台村の近くの通りにずらりと連なる露店を見て歩いて、やや街外れまで来たついでにフライブレットタワーに足を伸ばして、今さらながらに街を一望…
…デートだな。おのぼりさん気分のデート。一体こんなことしていていいんだろうかという思いが纏わりついていることを除けば、違和感はない。
「結局、観光し尽くしたわね。ここまで遊び尽くしちゃったら、もう田舎だなんだとバカにできないわ〜」
「俺はバカにしてないぞ。穴場的でいいんじゃないかって言ってただろ」
「はいはい、どうせバカにしてたのはあたしだけですよーだ」
ホテルへの道すがら、ブルマはすっかり上機嫌で、実に素直に自分の非を認めた。ま、しないと言っていた買い物にあんなに熱を上げたんだから、今さら否定もできないわな。
「わー、きれいな夕陽!」
さらにホテルに戻り部屋のドアを潜ると、歓声を上げながら窓際へと飛んで行った。例のスカイビューだ。
なるほど街の向こう、遠くブルーゲート湾の沖合に、今まさに沈まんとしている夕陽が見えた。僅かに見える水面と広い空の両方を真っ赤に染めて、夕暮れを演出している。とはいえ、フライブレットの街には街並みが低いという特徴はあるが、レッチェルなどのように建物が美しいということはない。だからきれいと言ったって目を奪われるほどの景色ではない。それでも、俺はその景色を見続けた。…さすがに、自分の顔を見つめる趣味はないからな…
「今夜はクリアな夜景が見れそうね。やっぱり最後の夜はそうでなくっちゃね〜」
「あ、ここは今夜で終わりか」
「うん、明日からは高速バスで移動よ。それについては、後で食事しながらゆっくり話すわ。今はまずディナーに向けてドレスアップよ♪ふんふんふーん♪」
ふと始まりかけたいつもの会話は、だがすぐさまブルマの鼻歌に吹き飛ばされた。…本当に上機嫌だな。一体何がそんなに楽しいのだろう。
そりゃあ、俺もそれなりに楽しかったけど、そうも気分が高揚するほどではないな。っていうか、少し疲れた。
「…あー、今夜も正装するのか」
そして、そのことを考えると、もっと疲れた。正装自体はいいんだけどさ、女装がなぁ。動きにくいドレスに高いヒール。慣れないし、慣れたいとも思えない、最たる要素だ。
「と〜うぜん!最後の夜だもん、決めるわよ〜。今夜は少し早めにスカイラウンジに行って、フライブレットタワーが点る瞬間に乾杯しましょ。ほら見て、この靴。最後に寄ったシューズショップで買ったのよ。なかなかいいでしょ。職人によるオリジナルデザインよ」
「ああ、うん…」
だが、確かにあのラウンジではそういう格好をすべきだろうなとも、俺には思えていた。状況が状況だし、ここは自重してルームサービスで済ませたらどうだ、なんて言う気も起こらない。そんな自重してみたところで、事態は何も変わらない。ただ空気が白けるだけだ。
「大丈夫。これ履いて格好よ〜くあたしがエスコートしてあげるから、あんたは安心してよろけなさい」
「…………」
しかし、ブルマがクロゼットのあるベッドルームに引っ込む直前、わざとらしいウィンクを飛ばしてきたので、俺自身は軽く白けた。
ブルマのやつ、完全に遊んでるな。一体どういう遊びなのかは、さっぱり解せないが。単純に女装させるのが楽しいってんならまだわかるが、俺の見た目はブルマだから、そういう着せかえごっことも違うし。やっぱり男役が楽しいのかな。まさか、このままずっと元に戻らずにやってくとか言わないよな?
洒落にもならないことを考えてしまった俺の鼻先に、やがて一枚のドレスが突きつけられた。もう何度目かわからない指導の言葉と共に。
「あんたのドレスはこれね。両スリットだから、だいぶん動きやすいわよ。でも、だからって足は開かないようにね」
「これ…ずいぶんスリットが深いな。もう少し浅い…いや、スリットがないのじゃダメなのか?」
「あっきれた。こんな時までそういうこと言うわけ?せっかくあんたのために選んでやったのに。スリットないと、きっと動きにくいわよ。それでもいいの?」
「…いいよ」
苦々しい気持ちになりながら、俺は答えた。ブルマの態度が気に触ったわけではない。なんだって俺がこんなことを考えてやらにゃならんのだと思ったのだ。
そう、別に足を出したって、俺は恥ずかしくない。偏に、ブルマのことを思えばこそだ。
『おまえが』そういう風に見られるんだろ?昼間そう言ってたよな?ブルマって態度はきついけど、身なりは緩いんだからな。っていうか、足を開くななんて言うくせに、足そのものを露わにするのは気にしないとか、わけがわからん。どう考えたって逆だろうが。
意外と貞操観念強いな、なんて昼間のナンパ騒ぎで思った俺がバカだった。
そんなことを考えながら、俺はしばらくの後に手渡されたスリットのないドレスを身に付けた。


今夜の衣装はパープルのロングドレス。ワンショルダーで、上半身に刺繍が散りばめられてる。露出が低いから色っぽいけど上品でエレガント、なんだこういうのも似合うんじゃないかと褒めてやりたくなるようなドレスだ。…自分が着てるんじゃなければ、だがな。
窓ガラスに自分の姿を映した後で、俺はソファに座り込んだ。俺とブルマ、男と女が入れ替わっても、依然として変わらないこともある。例えば、今。ブルマはベッドルームで、俺はリビングで着替えをしていることだ。この旅行始まって以来ずっとそうであるこのことを、俺は男女差によるものだと思っていたのだが(ほら、誰か来た時に、リビングで女が着替えしてたんじゃ困るだろ?)、どうやら違ったらしい。至極単純な、自分優先主義によるものだったみたいだ。
「ヤムチャは?用意できたー?…あっ、何、ドレスで胡坐掻いてんのよ!?」
「いいじゃないか、部屋にいる時くらい。おまえだってタイ着けてないし…」
「これはこういうスタイルなの!」
そう、ブルマの自分優先主義は、断固として貫かれていた。やがてベッドルームから現れたブルマは、思わずズルいと言いたくなるような、非常に緩い格好をしていた。
黒タキシードに白シャツまではまったくもってセオリー通りだが、正装において最も窮屈な思いをさせられるタイがない。俺のドレスと同じような色の千鳥格子のスカーフを、首元から覗かせてるだけだ。
「ドレスコードがあるわけじゃないんだもの、このくらい遊んでもいいのよ。っていうか、むしろこれくらいの方が粋ってもんよ」
どうしたってズルいよな。俺がそんな格好したら、絶対にだらしないとか言うくせに。自分が俺である今に限って、そんなこと言うんだから。
とはいえ、ブルマのそういう自分勝手ぶりには耐性がついてしまっている俺は、そこのところに突っ込みを入れる気にはならなかった。腰を上げ部屋を出ながらも口にせずにはいられなかったのは、もっと根本的なことだった。
「粋とかよく考えていられるな、こんな時に。そこまで楽しめる神経が俺にはわからん」
今日一日、何度も思ったこと。それを、ついに口に出した。ブルマはけろっとした顔をして、話と足を同時に進めた。
「だって、楽しいじゃない。視点が違うし」
「そりゃまあ違うけどさ」
「一度くらい相手の立場になってみるのも悪くないじゃない?それに今んとこ、本気で困っちゃうことって特にないでしょ」
「それはそうだけど」
「誰にもバレてないし、大丈夫よ。どうせすぐに元に戻るんだしね」
よかった。戻る気はあるんだな。
などと、思うはずがない。俺はこの上ない呆れを感じながら、慎重にヒールを踏みしめた。
ちょっとしたお遊び――ブルマの話を聞いていると、うっかりそんな風にも思えてしまうけど。でも、本当は大変な状況なんだ。いや、大変どころか、すごく異常だ。そのことを忘れてしまってはいかん。
っていうか、ブルマは本当に平気なのか?ブルマって、こんなに軽かったかな?やっぱり科学者なんだなと思わされる程度には、掘り下げて考えるやつだと思っていたが…
ふと首を傾げた俺をよそに、ブルマの軽口は続いた。
「あっ、なーんだ、あんたちゃんと歩けるんじゃない。今、歩き方そんなに変じゃないわよ。よろけてないし、蟹股でもないし、ヒールの運び方も自然だわ」
「…下っ腹に力を入れればいいとわかったんでな」
「まあ素敵。そのぶんじゃ、本当のレディになる日も遠くないわね〜っ」
「あのなっ!」
「しっ」
だが、俺が思わず声を荒げたところで、一転して貝になった。またもや自分優先主義の現れかと俺は思ったが、そうではなかった。
「あら」
「おや」
「あっ…」
次の瞬間、エレベーターへと続く廊下の向こうから、リザとエイハンが姿を現した。ほとんどぶつからんばかりの距離に近づくまで、俺はまったく気がつかなかった。…どうもこの体は気配にも疎いらしいな。そして、その証拠にと言うべきか、やはりまったく感知せぬままに、俺はブルマに体を引き寄せられた。わざとらしく俺の肩を抱くブルマに、リザが妖しく微笑みかけた。
「まあ、こんばんは。お二人とも、どうやら仲よくやってるようね?」
「おかげさまで、どうやらどころかこれ以上ないってくらい、仲よくやってるよ。まあ、いつものことだけどな!」
「おや、そうかね。それはよかった」
――またこの修羅場か…
自分の頭上で交錯する視線と言葉に、俺は思わず固まった。みな笑顔だったが、それが本当の笑顔だなどと思えるはずもなかった。わざとらしい笑顔で勘ぐっているリザと、わざとらしい笑顔で牽制する俺(の姿をしたブルマ)と、わざとらしい笑顔で往なしているエイハン。とりわけ、二番目の要素に強く違和感を感じた。そう、この少し見上げたところにある自分の笑顔が妙に爽やかで、それでいてえらく刺々しくって、なんとも言えない気分になるんだ。やっぱり中身と外見合ってないな、そう思わざるを得ない。俺にしかわからんことだが。
「と言っても、邪魔するやつがまったくいないわけじゃないがな。実はさっきも一人、こいつに手を出してきやがったんで、こてんぱんにのしてやったところさ。派手に吹っ飛んだから、骨の一本や二本は折れたんじゃないかなぁ」
「まあ、本当?ヤムチャくんがそんな荒っぽいことをするなんて、意外だわ」
「俺に喧嘩を売る時は命を賭けろってことさ」
おまけに、ブルマのやつ、さりげなく大口叩いてるし。…俺の力を笠に着てな。
「それはそれは。肝に銘じておくよ」
やがて、わりあいあっけなく、リザとエイハンは去って行った。ブルマの言葉に、というよりはおそらく迫力という名の妙な違和感に背を押されてのことだろう。
「べーっだ。ふんだ、なーによ、すかしちゃってさ〜」
一方ブルマも、勝ち気分には程遠いようだった。二人が部屋の中に消えた途端、俺から手を離して舌を出した。朝ラバトリーで見たのにそっくりなガキくさい表情だった。それで、俺の呆れはさらに増した。
「おまえ、何もわざわざあんなこと自分から言わなくてもいいだろうに…」
まったくもって、ガキだな。相手には喧嘩売るなとか言っといて自分からは売るなんて、そんなのありかよ。だいたい、ああいうのは懲らしめてやった後に言うもんだ。昼間、ナンパ野郎にやってたみたいにな。…あの時は、向こうが先に手を出してきたから、様になってたんだな。
「何言ってんの。あたしたちは昨日別れさせられかけたのよ。このくらい言って当然よ!」
考えてみれば、ブルマはもともと手が早いからな。この性格で力も伴ってるっていうのは危険だな…
「まあ、なんだ。あまり気負うなよ。強いやつは自分の力をひけらかしたりしないもんだ」
俺は敢えて下から目線で説得にかかった。それがよかったのかはたまた悪かったのか、ブルマはさっくりと軽口に逃げた。
「ぷっ。しょっちゃって〜。ま、一般人相手になら、強いと言ってもいいけどね」
「…おまえは、俺の力を認めてるのか認めてないのか、どっちなんだ」
「それは相手によりけりよ。だいたいあんた、相手が弱くたって女だったら勝てないでしょ。そういうやつが自分で自分のことを強いなんて言っちゃダメでしょ」
「俺じゃなくておまえが言ったんだろ?」
「あたしは一般人で女だからいいんだも〜ん」
何がいいんだ。
そういう突っ込みを、俺は入れなかった。一体何のことについて話しているのか、自分でもよくわからなくなってきたからだ。ブルマのやつ、いけしゃあしゃあと男と女を使い分けやがって。
俺なんか、女の制約を感じるばかりだというのに。ブルマときたら、男の強さを堪能した上で、自分自身の弱さをちらつかせるんだからな。…男がいいのか、女がいいのか、入れ替わった直後には、そんなことを考えたもんだけど、今ではもう考える必要もない。
『ブルマ』が最強だよ。…ま、とっくにわかってたことだけどな。


その後、俺たちはスカイラウンジへ行って、まさに立場逆転的な時間を過ごした。この辺りで入れ替わってより丸一日が経ったわけだが、特にスカイラウンジは二度目であることもあって、俺はいろいろと認め始めていた。
昨夜は入れ替わった直後で勝手がわからないなんてもんじゃなかったから、こんなこと考えもしなかったが、こういういいレストランで飯を食ってる時が、一番入れ替わったってことを実感させられるな。何しろ、周囲のみんなが俺にかしずくわけだからなぁ。…ちょっと大げさかな。まあ、所謂レディファーストってやつなんだが、このホテルは街随一の高級ホテルだけあって、少し前まで乗っていたあの列車ほどではないにしても、サービスマンがみな慇懃なのだ。その上、俺の連れが常ならぬほどに慇懃だ。
そう、まったく今夜のブルマときたら、ワインはマメに注いでくれるし、ウェイターを呼ぶタイミングも完璧だし、その他にも、うまく言葉に表せないが仕種や態度そのものから細やかな気配りが透けて見えている。俺、こんなに甲斐甲斐しく世話を焼くブルマって見たことないぞ。本人はレディファーストのつもりでやってるようだが、俺はそれはずいぶんと皮肉なことだと思った。どっちかというと、女である時にこうあるべきなんじゃないだろうか。いや別に、普段のブルマに不満があるわけじゃないんだが。それに俺は、どちらかというと、今この時の自分自身のことの方が気になっていた。
「あー、おいしかった。素敵な景色においしい食事。もう言うことないわね〜」
一通りの食事を終え、食後のコーヒーを飲みながら、ブルマは満足そうに息を吐いてそう言った。俺はというと、コーヒーと共に供されたプチフールを摘みながらも、溜め息をつかずにはいられなかった。
「うーん…」
「何よ。何か不満でもあるの?」
「デザートが食べたい…ん、だ」
渋々ながらに俺は認めた。これまでの俺にとってはおまけでしかなかった一皿への欲求を。そう、今日はブルマの提案によりアラカルトでメニューを組んでおり、それにはデザートは入ってなかったのだ。
「食べればいいじゃない」
「口直しのソルベとこのプチフールで誤魔化せるかと思ったんだけどな。朝も昼もデザートなしだったから、食べたい熱が冷めきらなくてさ…」
「だから、食べればいいでしょ」
「こんなに甘いものが食べたくなるのは初めてだよ。でも自分でもどうしようもないんだよなぁ…」
「えぇい!ぐちぐちと女々しいわね!ウェイター!」
ブルマは電光石火で片手を上げた。そして早速やってきたウェイターに、颯爽とオーダーを通した。
「彼女にデザートを頼む。ワゴンサービスだったよな?全種類!」
「かしこまりました」
それはすばらしく男らしい態度だった。それに加え、男に切り替わるのが明らかに早くなっている。
「ったくぅ。そういうぐちぐちした女って、あたし嫌いなのよね!」
おまけに、ウェイターが去ったと見るや口調を戻しつつもこんなことを言ったので、俺は思わず呆気に取られた。
「…いや、俺、男なんだけど」
っていうか、俺『が』男なんだけど。ブルマのやつ、大丈夫かな。いくら何でもなり切り過ぎ…
「どこがよ。今のはどう見たって、誘い受け激しい女だったわよ」
「そうか?…でも、そうだとしたって、それはブルマの体のせいだぞ」
とはいえ、そのブルマに対する危惧は、俺自身への危惧でもあった。
そうさ。俺自身の欲求なら、何もこんなに躊躇わなくて済むんだ。別に甘いもん食うのが恥ずかしいってわけじゃないんだからな。
じゃあどうして頑なにブルマの体の声を拒否してたのかっていうと、それは自我アイデンティティの問題だ。見た目は女なんだから女の格好したり振りしたりするのは仕方がないとしても、考え方や感じ方までが染まっちまったらヤバいよな。入れ替わってしまったことはもうどうしようもないとしてもだ、自分そのものが変わってしまうなんてことは絶対に避けたい。こういうのって、最も基本的な自己防衛本能だと思うんだ。
でも今、それはちょっと崩壊した。ああ、認めるさ。なにせ、苦手なはずのクリームがこんなにおいしく感じるんだからな…
やがてやってきたデザート盛り合わせに手をつけた俺は、残念ながら苦々しい気持ちにはならなかった。ロールケーキに巻き込まれたイチゴ風味のクリームが、ちっともくどくなくまろやかでおいしい。思わず陶然としかけた俺は、冷静さを保つため、これまでとは少し違った角度から現実を考えてみることにした。
「女ってどうして甘いものが好きなんだろうな?」
「女は関係ないでしょ。辛党の女だっているし、甘党の男だっているわよ」
「じゃあどうしてブルマは甘いものが好きなんだ?」
「知らないわよ、そんなこと」
「自分のことだろ?」
裏を返せば、単に誤魔化していたに過ぎない。一人せっせと山盛りのデザートに挑んでいる現実を。
それを見抜いていたのかどうか、ブルマは最初はまるっきり聞き流していたようだが、やがては話に乗ってきて、科学者らしいところを見せた。
「そうね〜…まっ、遺伝子が違うのよね、きっと」
「えっ?…遺伝子?」
「そう。あたしっていうかヤムチャは、甘いもの食べても甘いとしか感じないわけでしょ。でも、今あたしであるヤムチャは甘くておいしいって思ってる。味とか匂いのそういう好き嫌いって、遺伝子で決められるのよ。味覚の優劣は関係ないらしいわ。確かこないだ読んだ雑誌に研究報告が乗ってて…」
しまった…
なんかいきなり話が専門的になった。なり過ぎてわからなさそうな予感がぷんぷんする。俺、そういう人体の仕組みが知りたかったわけじゃないんだが。ただ話をしていたくて訊いてみただけで。これはもう相槌に逃げるしか…
俺はそう思い聞き流しに入りかけたが、その前にブルマの方が投げやりになった。
「…う゛〜…結構ちゃんと読んだんだけどな〜…ダメだわ。忘れちゃった。ま、おいしいんならいいじゃない」
これはなかなか珍しいことだった。ブルマは特に薀蓄を傾けるのが好きというわけではないが、言いかけたことは途中でやめない。単純に性格を鑑みてもそうだ。
「そうだわ。せっかくだから、『あーん』して」
「なんだいきなり。何がせっかくなんだ?」
それが自ら自分の演説を取りやめたばかりか、さらにはそんな突飛なことを言い出した。まあ、ブルマはわりといつも突飛だけど。この時は本当に突飛だった。
「せっかくあんただからよ。してもらう側を味わいたいのよ」
「…あ、俺がやる方か」
でも、すぐに納得した。そういう話なら、言い出した気持ちはわかる。気持ちっていうか、言ってみただけって感じだろうな。思いつき半分、ノリ半分。
「…こんないいレストランでやるのか?…」
「…いいじゃない、どうせ今夜限りよ」
「…じゃあ、一口だけだぞ」
やがて雪崩れ込んだひそひそ話は、完全に惰性の産物だった。そう、俺もなんとなく、その流れに乗ってしまっていた。言ってみれば、ブルマだからだろう。ブルマとして匙を取ってやるくらい、何てことないと思った。この旅行中、ブルマは何度もそうしているしな。無論今のブルマは俺なわけだが、傍目にはわからない。
今夜限りのレストランで、仮の姿で恥を掻く。『旅の恥は掻き捨て』の典型だな。
「ほら、あー…」
「あ、女としてやって。あたしは男として食べるから」
「なんだと…」
だが、それは一瞬の後に、容易ならざる事態へと変わった。
俺にもなりきれというのか。それも第三者のためにではなく、ブルマ相手に女になれというのか。それは、俺のアイデンティティが…
「ほら、早く。クリームが零れるじゃないか。っていうか、こういうこと男に言わせんなよ」
「うう…」
おまえ、本気で男らし過ぎるぜ…
手には匙、目の前には毅然とした男の姿。すでに、事態は引き返せないところまできていた。うっかり同意した俺が甘かったというところか。もうすっかり嵌められたな。
『旅の恥は掻き捨て』――その言葉を胸に、俺は無理矢理しなを作って匙を傾けた。
「…じゃあ、一口だけよ。はい、あ〜ん♪…」
くっそぅ…
恥ずかしいな、これ。何が恥ずかしいって、自然と内股になってしまうところが一番恥ずかしい。なんかこういうぶりっこしてると、タマが縮こまるような感覚になるな(今ないけど)。それなのに、淡々と食ってんじゃねえぞ、俺。…思わずそう言いたくなる。
「ん。ん〜…やっぱり甘いだけだったわ」
「おまえは…」
実際にも言いかけた。だって、自分で頼んだくせに、いくらなんでも淡泊過ぎじゃないか。そもそも本当の意味で味見したかったわけじゃないんだろ?少なくとも、俺はそう教えられたぞ。
だが言いはしなかった。そういうのは指摘してどうこうするもんじゃないとわかっていたし(つまり諦めた)、俺は少しく安堵していた。
ブルマの態度は大変失礼なものではあるが、逆説的にアイデンティティは守られた。
…俺はもう少し、何かを感じてるからな。
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