Trouble mystery tour Epi.12 (13) byY
はあぁ…………
ベッドの端に座り込んで、俺は深い息を吐いた。恥ずかしさと悔しさの入り混じった溜め息を。
くっそぅ…………
自分の体だけあって、すごくよくわかってやがる。まさに、そういう感じだった。正直なところ、すごくよかった。はっきり言って、いつもより感じ方が数倍上だった。でも…
…なんだろう、この敗北感は。
ブルマにしてやられるなんて、いつものことだが…それにしたって、今までで一番かもしれない。
「あっ。ねえねえ、喉治ったわよ。ほら」
がっくりとうなだれる俺に対し、ブルマはとても元気だった。俺の隣に腰かけながら、満面の笑顔でそんなことを言ってきた。俺は我ながら苦々しい声で、それに応えた。
「…それはよかったな」
「もっと喜びなさいよ、自分のことなんだから」
…喜べるわけねえだろ。
この状況で。この心境で――ったく、ブルマがあんなに声出すわけがわかったよ。やっぱりいろいろ違うよなあ、男と女だと…
はーーーぁ…。…なんか、ものすごく大事な物を失ってしまったような感じだ。
「そうだ、あんた、煙草持ってたわよね。一本ちょうだい。こういう場面で煙草を吸うと、いかにも男って感じするじゃない」
俺が黙ってナイトテーブルの棚に目をやると、ブルマはさっそくそこにあった煙草を取り出し、手際よく火を点けた。いつもはなんとなく、俺が火を点けてやるのを待っていたりするものだが…
「ふーーーっ…」
…さすが男だな。ああ、まったく、クールなことで。
わざとらしく煙を吐き出し始めたブルマをよそに、俺はいつになく強い事後の虚無感に襲われて、ベッドに潜り込んだ。


…そういう気分を引き摺っていた。翌朝、目が覚めてもなお。
酒は残っていなかったし、前日に比べれば頭もすっきりしていたから、完全に精神的なことによるものだと言い切れる。この暗澹たる気分は…
自分が裸であることが、より気分に拍車をかけた。否が応にも昨夜のことを思い出してしまった俺の目に、その姿が映った。
寝腐れるのもいいところな、男の姿が。それは無防備な寝顔で布団を蹴り飛ばして寝息を立てている、ブルマならぬ俺の姿が。
しどけねえな…
よもや自分のこんな姿を見る羽目になるとはな。前くらい隠せ、まったくもう。
暗澹たる気分を抱えたまま、俺は布団をかけ直した。そう、俺がそうしたのは偏に習性と羞恥によるもので、気分は全然回復していなかった。
「おっはよっ」
だから、ぱちりと目を覚ましたブルマが満面の笑みでそう言った時、俺は思った。
…なんで俺、あんなことされたのに布団かけ直してやったりしてるんだろう。いや、それはいいのだが、今朝はそうしてるところを見られたくなかった…
いつもの毎日の中に、流されてしまいたくなかった。流されてたまるか。謝れとまでは思わないが、こう、ちょっとは自分のやったことを考えやがれ。
もっとも、その思い自体は裏切られなかった。ブルマもさすがに何事もなかったように振舞うつもりはないようで、体を起こしてこんなことを言ってきた。
「何を景気悪そうな顔してるのよ。初めてってわけじゃないんだから、どこも何ともないでしょ」
「体の方はな…」
それで、俺は今や恨みがましい気持ちにすらなって、そう答えた。ブルマなりの慰めの言葉は、完全に逆効果だった。
初めてじゃないだと?おまえの解釈じゃそうなってるのか。確かに俺の今の体はブルマで相手は他ならぬ俺だから、物理的な現実としてはそうだけど――
「体が元気ならいいじゃない。あたしが初めての時なんか、大変だったんだから。あんたにはそんなことないでしょ?」
「それは――そりゃまあ…」
「じゃ、シャワー浴びに行きましょ。昨夜の香りを流しにね」
さらに、まったく悪びれたところなくブルマは笑い、俺の背中を叩いた。俺は渋々その意見に従った。
流されたくはないけど、いつまでも話題にしていたくもない。わざわざ自論を展開して、さらに虚しい気持ちになりたくもない。
それに、『ブルマの初めて』を持ち出されては、俺に勝てる見込みはない。心身共に大変だったことを、俺はよく知ってるから…………それにしても、さんざん男の立場を利用しておいて、今さら女の大変さを持ち出すとは。本当にずるいんだから…
俺はかなりもやもやしてきた。苛立ち。恨み。呆れ。その他様々なものがない混ざった、しかしこれまで何度か感じていた感覚だけが含まれていない、まったくもって健全なるもやもや。そのもやもやを溜め息に変えたのは、バスルームのドアに手をかけた俺の後ろにぴったりとくっついている、俺をもやもやさせている張本人だった。
「ちょっと待て。ひょっとして、一緒に入る気か?」
「その方が早いでしょ。集合時間があるから、あまりゆっくりしてられないし。大丈夫、何もしやしないわよ」
即行で答えたブルマの声には、まるっきり邪気がなかった。昨夜あんなことをしたやつと同一人物とは思えん。それとも、昨夜したから今朝はすっきりしてんのか…?
昨夜あんなことをしたせいか、俺の思考は簡単にそういう方向へといくようになっていた。とはいえ、妄想相手は男で、しかも自分であるという不健全さ。俺は溜め息を漏らしながら、シャワーのコックを捻った。
早くこういう不毛なことを考えなくてもいい立場に戻りたいものだ…


…ああ、早くこういうことをしなくてもいい立場に戻りたいものだ。
俺が溜め息をつきながらドレッサーの前に座ると、昨日のショッピングバッグの中身を漁っていたブルマが、取り出したジャケットを肩に引っかけながら傍に来て、今度は化粧ポーチの中身を漁り始めた。
「ああ、もう、あんまり時間ないんだってのに。あんたもそろそろ自分のことぐらい自分でできるようになってよね」
そしてはっきりと文句を言ったので、俺はこれ幸いと提言してみた。
「別に化粧しなくてもいいんじゃないか?顔色悪いわけでもないんだし」
「ダメよ。あんなんでもみんな一応上流の人たちなんだから。最低限のマナーは守んなきゃダメ!」
そんなもんかな…
納得はできなかったが、俺は口を閉じた。ブルマが口紅を塗り始めたからだ。でなければ、言っていたに違いない。
そんなことより気にするべきことがあるだろうと。言葉遣いとか、態度とか。とりわけ昨夜の態度なんかは、マナー以前にひどいもんだと思うんだかな。俺があんなことしたら、絶対引っ叩かれてると思うんだが。いや、そんなもんじゃ済まないか。下手すりゃ絶交もんだよな。俺はそれがよくわかってるから、いつもいつもそれは気を遣って始めてるというのに。どうやらそういうこと、全然理解されてなかったみたいだ。とはいえ、身をもって知らしめるなどということはできないのが、本来の俺の立場だがな…
時間が経ち冷静になってきたせいか、俺は違う意味でがっくりきていた。だから、まったくブルマ任せに、化粧を施され、指定された服に着替え、手を引かれて部屋を出た。
いろいろあったこの街で過ごすのも、もうあと僅か数十分。まったく何の解決もせぬままに、俺たちは次の街へ行く…
こんなことでいいんだろうか。俺は今日もそう思ったが、それをブルマに言うどころか、自分の中で考える気さえ失せていた。表向き一方的に手を引かれて、だが内心渋々ではなしに、俺は次の街へ行くためエグゼクティヴラウンジに集っている同行者たちの輪の中に入った。
「おはようブルマさん、ヤムチャくん。今日は二人一緒なのね。どうやら仲よくやってるみたいね?」
「当然!」
さっそく、俺だけにわかる女同士の戦いが交わされた。しかし、ブルマの短く、だがきっぱりとした返事に、リザはそれ以上追及する気を失くしたようで、エイハンと共にトラベルコーディネーターの方へと行ったので、今日は修羅場が勃発することはなかった。
「よしよし、だいぶ意識が改まってきたみたいね。これならそろそろドラゴンボール探しに行ってもいいわ。さすがにもうレーダーもできてるだろうし、今日一日見せつけたらうちに戻りましょ」
「…ああ…」
勝ち気分を堪能しているブルマに、俺はおずおずと、だがその実、一も二もなく同意した。まださらに一日遊ぶのか、そう突っ込む気は毛頭なかった。今このタイミングでC.Cに戻る気は、俺にもなかった。
あんなことのあったすぐ後で、おめおめと顔を出せるか。プーアルの目をまっすぐ見れるかどうかも微妙だし、そういうところからウーロンに感づかれでもした日には、いたたまれないなんてもんじゃない。
言わば苦渋の選択(権はないのだが)をした俺に、ブルマはしこしこと塩を磨り込むのだった。
「何よあんた、気乗りしなさそうな声出して。元に戻りたくないの?」
「そんなわけないさ。ただ、もう一日早くその台詞を言ってもらいたかったと思ってな…」
「あんたがあの兄妹に誤解させるような態度を取らなければそうなってたわよ」
「何だよ、俺のせいか?」
「どう考えたってそうでしょ。ほらほら、そんな風に文句言ってるとまた誤解されて、元に戻るの遅くなるわよ」
どういう話の持っていき方だよ、それは。強引にも程があるぞ。だいたい、それを強迫のネタにするかぁ?
とはいえ、そういうことは口には出さずに、俺はブルマに促されるまま、バスに乗るべくホテルを出た。ブルマの強迫を無視できなかったから。まあ、二夜目があるよりはマシか、そう思えたことも事実だったから。
…しかし、こいつはアフターフォローという言葉を知らんのかな。男にしても女にしても、ひどいやつだ。
何より、最も強く思ったことは、とうてい口には出せないようなことだったからだ。


俺の精神的な靄は、なかなか晴れなかった。
この地に来てから一番とも言える青々とした晴天の下、あの日とは打って変わってスムーズにバスが街並みを抜け、見晴らしのいいブルーゲートブリッジを走っても、俺の心は動かなかった。まあそれも、無理からぬことと言えるだろう。
「今日もいい天気だなー。ブルーゲート湾がキラキラ光ってるぞ」
「あ、ああ…そうね…」
「もう、ノリ悪いな〜。たいして興味ないのは知ってるけど、少しは付き合えよ」
「わかってるわよ…」
わかってるけど…
っていうか、かなりがんばって付き合ってるんだけど。言葉が滞るのは偏に女言葉のせいで、それだって精一杯なりきってやってるつもりなんだけど。そりゃあおまえは、自然過ぎるくらい男だがな。
俺たちは――いや、俺を除く一行は、乗り込んだ高速バスで各々寛いでいた。そろそろ旅の疲れが出てきたのか、中高年組は揃ってそれぞれに割り当てられた半個室のシートに落ち着き、若年組は二階にあるサロンに集っていた。
「へー、ブルマさん海あまり好きじゃなかったんですか?」
「ひょっとして泳げないとか?」
そう、俺を咎めるブルマの向こう隣には、ミルちゃんとリルちゃんがいた。俺のグラスにはレモンイエローのシャンパン、双子たちのグラスにはオレンジジュースと、二つを器用に注ぎ分けながら、ブルマは窓に面したカウンター席で、俺だけにわかる女同士の会話を交わし始めた。
「反対だよ。遊ぶ専門なんだよ、こいつは。見るのなんて、どうでもいいんだよな」
「わっ、ヤムチャさん、ひっどー。そんなことないですよね、ブルマさ〜ん」
「ヤムチャさん、そんなこと言っちゃって大丈夫ですか?ブルマさんに怒られますよぉ」
「ブルマさんはこのくらいじゃ怒らないよ。心の広ーい女神さまだからね」
「ふーん…あ、あたしジュースおかわりー!」
「あたしもー!」
「二人とも、あまり飲み過ぎないようにね。キャンディカーバンの中でトイレに行きたくなっても知らないよ」
「はーい、これで終わりにしまーす。あ、エイハンさんたちの車だ。すぐ横にいるよ!」
「本当だ。やっほ〜!!」
「そんな大声出しても、聞こえないよ」
…なんだな。言葉遣いが違うのはわかるんだけどさ、なんで態度まで変わってんだろうな。明らかに、今までで一番優しくこの子たちに接してるじゃないか。何だかんだ言いながらも、おかわり注いでやってるし。こないだまであんなにキツく当たってたのに…いやもうただのやきもちだってことはとっくにわかってたけどさ…
現金なやつだ。俺が男じゃないから、もう何も気にならないというわけか。すでに俺自身に構ってないし。
こういう気持ちを、何と言えばいいのだろう。ともかくも、気づけば俺はこんなことを考えていた。
…なんか、ブルマが男やってる方が、外見にはスムーズに回ってるよな…こんなひどい男、絶対に彼女できないと思うけど。俺だから、我慢して付き合えてるんだと思うけど。いやまったく、あんなことされても付き合ってる俺はどうかしている…
…まあ、そういう力関係は変わらないというわけだな。情けないことにな。


次なる街ウォルビットまでの道のりは、異観の地巡り。田舎ゆえ、街を離れると何やらファンタジーな雰囲気に浸れるポイントが目白押しなのだと、昨夜聞いた。すでにファンタジーな展開にハマってしまっていると思うがな。その言葉とワインを飲み込みあんな目に合った俺は、今日も何も言わずにシャンパンを飲み、その場所に降り立った。
ブルーゲート湾を越えたその向こうに広がる、超自然的な風景。火山灰でできた真っ白な奇岩の山。
「へ〜〜〜」
「ふーん…」
俺たちはおのぼりさんよろしく、そこらじゅうを歩き回った。団体行動とはいえ例によって制約はなかったので、すぐに二人だけになった。
「わー、すごーい。まるで蜂の巣みたいな岩山ね。なるほどこれが、修道士が鳩を飼ってたっていう『鳩の谷』ね」
「あっちには、煙突みたいな岩がたくさんあるぞ」
「あれは確か、妖精が住んでたっていう『妖精の煙突』よ」
ともすれば城のようにも見える形の岩山に穿たれた、無数の穴。まるで彫刻のように屹立する巨大な岩石群。
確かに、これはファンタジーかもしれないな。歩くたびに変わっていく景色を目で追いながら、俺は思った。この何とも言えない感じ。例えようのないこの場の雰囲気。
「わ、なんだこの岩。中に人が住んでるぞ」
「ああ、それはホテルよ。う〜ん、まるっきり洞窟ね」
「気球が飛んでる…」
「あら本当。気持ちよさそう〜。後で乗ってみましょ」
まあ、そんなところにも、現代人は入り込んでいるのだが。ホテルに関しては、俺も似たような家を構えていたことがあるから、そういう意味でも何とも言えないが。
やがて、ごつごつとした足元に気をつけながら、俺は景色のみならずブルマの姿をも追うようになった。そう、いつもとは違う理由で、俺はブルマの後ろを歩く羽目になっていた。…ちょっと疲れてきた。本当に柔な体だ。まさにそう思った頃合いだった。
「あ、これきっと地下都市の入口だわ。ねえ、ここ入りましょ」
地面にぽっかりと口を開けた、直径1mほどの穴を覗き込んで、おもむろにブルマが言った。俺は軽く息をついて訊ねた。
「そんな適当に入っていいのか?」
「塞がれてなければ、どこからでも入れるのよ。入口は何個かあるけど、全部地下で繋がってるから。ほら、灯りもついてるわ」
やれやれ、もうひと頑張りか…
俺は新たな息をつきながら、地下都市とやらへの一歩を踏み出しかけた。詳細を訊ねる気は毛頭起こらなかった。そう、俺はここのことをほとんど知らない。ここいらに点在するファンタジカルな場所の一つだということしか、教えられていない。景色は語るものじゃなくて見るものだ。そんな意見により、ブルマは昨夜すると言った説明をおざなりに、あんなことをしでかしたのだ。
「今日のところはあたしが最初に入るわ。まだ男だからね」
「はいはい」
その償い――では絶対にないと思うが、ブルマはこれまで時々見せていた男っぷりをここで発揮して、穴の端に手をかけた。きっと、まだ全然疲れてないんだろうな。いいなあ。ずるいよな。そういう体を作り上げたのは俺なのに…
本来のブルマが、こんな穴倉に嬉々として入って行くはずないのに。 いつもだったら絶対に泣き言や文句を言ってるところなのに――
「ととっ」
「大丈夫?」
「あ、ああ…」
――なのに、今はそれは悠々と、よろける俺の体を支えたりしてるんだ。っていうか、なんでいちいちよろけるんだよ、この体は。腹筋ってものがないのか。
足元とさらには体の重心にも気をつけながら、俺は歩いた。内部は狭く、人一人分の幅しかなかった。全体的に下り斜面で、入り組んでいた。都市というより迷路だな。それもかなり長い。行きは下りだからまだ楽だが、復路のことを考えると結構な労力だ。後で筋肉痛になるんじゃないかな、この体。
「こんなところにドラゴンボールが入り込んでたら、探すの大変ね。レーダーがあっても、相当時間がかかるわよ」
「他人事みたいに言うなよ」
「他人事じゃないから言ってんでしょ。そう聞こえるとしたら、あんたの惚けた声のせいよ」
「ああ、そうかよ。ところで、ドラゴンボール探しってどのくらい時間かかるんだ?俺、一から集めたことないんだよ」
「あら、そうだっけ?」
いろいろと考えあぐねる俺をよそに、ブルマはひたすら淡々と、話と足とを先へ進めた。初めはその流れに任せていたものの、次第に俺は、疑問に思い始めた。
ブルマはどこまで行くつもりなのだろう。ちゃんと道がわかって歩いてるんだろうか。そして、俺は必要なのか?
道は先導してもらい、これからのことも訊ねる一方で、実働で返すこともできそうにない。それでもブルマは俺を付き合わせたがっている――そう思いたいところだが、こっそりいなくなっても気づかないんじゃないだろうか。ブルマの態度を見ていると、そう思えてならない。
無視されてるわけでもなく、それどころか思いっきり会話していながら、どうしてそんなことを考えたのかはわからない。…そうだな、この場の冷やかさのせいかもしれない。石造りの地下洞窟の、荒涼とした雰囲気。足元から忍び寄ってくる冷たい空気。それらが女であるこの体を本能的に怯えさせているに違いない。女が男に抱きつきたくなるのは、このような時なのかもしれない…
「おっと、行き止まりだわ。…あら?」
ふいにブルマが足を止めた。思わずその背中にぶつかった俺をよそに、ブルマはやはり淡々として、目の前に現れた通路を塞ぐ柵に身を乗り出した。
「何かしら、この穴。大きいわね。下まで続いてるみたい」
「空気穴だろう。ほら、上」
そこには真っ暗な穴が、上下それぞれに続いていた。上に見える光の遠さで、この場所の深さが窺い知れた。きっともう声も届かない。地の底へと続く暗い穴…
「なんだ、意外と下まできてたのね。まだ一、二階分くらいしか降りてないと思ってたわ」
「ずっと下り坂だったからな」
「もうあと半分くらいかあ…」
まだ半分もあるのか…
非常に情けないことに、俺は心の底からその事実を恨んだ。それだって、俺自身のせいじゃないけどな。そう、偏にこのブルマの体のせいだ。
「ねえ、もうここから飛び降りちゃわない?その方が絶対早いわよ」
「ここをか?…そりゃ早いけど、でも下まで降りることが目的じゃないんだろう?」
だから、さっくりと言ってやった。そう、ブルマの目的が何なのか、本当にわからないわけじゃなかった。そして、俺自身は根性で歩き続けることに決めていた。
「…ぐっ…。あんた、本当に時々鋭いとこついてくるわね。はいはい、そうよ、観光が目的ですよーだ。じゃあ、さっさと最後の分かれ道に戻るわよ」
ブルマの手は借りない。体に引き摺られて心が弱るなんて、冗談じゃない。体は女でも、俺は男だ。女の弱さを笠に着ることだけは絶対にすまい……
俺は改めて気合いを入れた。踵を返したブルマの背中を追いがてら、最後になにげなく穴を覗いた、その時だった。
「ん?」
何か…光った…?
そう見えた。…でも、光も届かない穴の底で?上でならわかるが…
俺はまったく無防備に、穴を囲む柵に身を乗り出した。その次の瞬間、視界が横転した。
「わっ!」
何かに体を引かれた。それとも、押されたのか?どちらにせよ、俺はすでに空中に投げ出されていた。そしてその時、驚きの声を上げながらも、俺の胸中に湧き起こっていたのは、実のところは驚きではなく、情けなさだった。
そう、俺はわかっていたのだ。心では感じていた。何かが起こりそうな、おかしな気配を。だが今はブルマの体だったから、その予感を確信に変えることができなかった。自分を信じ切れなかったんだ――今の自分は自分じゃないから…
情けなさに浸る間もなく、今の自分が目の前にやってきた。俺の姿をしたブルマが、いつもの俺よろしく、ブルマならぬ俺を助けようと飛び降りてきた。情けなくもその懐に抱かれながら、俺は叫んだ。
「ブルマ、舞空術だ、舞空術を使え!」
それは俺としてはせっついただけに過ぎなかった。思ったより反応が遅かったから、忘れているのかと思ったのだ。だが、ブルマからの答えは思わぬ危機感を呼んだ。
「それが使えないのよ!」
「何ぃ!?」
「あたしだってそのつもりで…きゃあああーーーーー!!!!!」
何だってぇーーーーーっ!!
…そういえば、こいつ気を使いこなせないんだった。すっかり俺になりきってたから失念していたが…なら、どうして飛び降りてくるんだよ!?
それまでの薄い不安感は、たちまち強い緊迫感に取って代わられた。結局のところ心の底ではブルマを当てにしていたことを俺は思い知らされたが、それを後悔している暇はなかった。思わず叫び出しそうになるブルマの体の本能を振り切って、俺は馴染みのある長い時の中に心を置いた。
――果たして、この状態で受け身を取れるだろうか。俺も…ブルマも。もし取れなかったら…このブルマの体は、きっと衝撃に耐えられまい。俺の体だって、受け身なしでは無傷でいられるわけがない。そのダメージは少なからず痛みを伴うだろう。俺ならば耐えられるだろうが、慣れていないブルマが耐えられるかどうか…そんな痛みをブルマを味わわせたくはない。やはりここは俺が盾になるべき…だが、このブルマの体では――
一体どうすればいいんだ!?
落下中のスローモーション現象。さらに、0に近い真っ暗な視界の中で、何かが近づいてくるのを、俺は感じた。地面だと、その時は思っていた。
だが、違ったのだ。まったく覚悟できぬままに目を瞑った瞼の裏で何かが瞬いた、そのことから考えれば。俺にこんな不毛な決断を強いるような状況を作り出した、あの時のことを鑑みれば。

俺たちは受け身を取ることができなかった。どちらも、互いの体を離さなかったためだ。
そして、それにも関わらず、何らの衝撃もなかった。
そのことが俺の目を開かせる理由となった。その時目を開けて初めて、俺は自分が飛んでいることに気がついた。あまりにも当たり前の感覚過ぎて、気づかなかった。
「…ヤムチャ?」
そう、俺が飛んでいた。ブルマではなく、俺が。
「何?あたしたち元に戻ったの?」
俺がブルマを懐に抱え込んでいた。俺の胸の中にいるのは、正真正銘のブルマだった。
「どうして?何で?今何が…」
甲高く響く声。ぱちくりと瞬く大きな目。少し眉の上がったその表情。何もかもがブルマだった。…ということは。つまりは俺も…………
「いぃーやったあぁぁぁーーー!!」
「きゃっ!ちょ、ちょっとヤムチャ!」
俺は文字通り諸手を上げて喜んだ。そして直後、慌ててすがりついてきたブルマに怒られた。
「喜ぶのはいいけど、手離さないで!落ちるでしょ!危ないでしょ!」
「はいはいはいはい!はっはっはっは!!」
「ぐぇっ…ちょっと!苦しい!!」
「あ、悪い」
だから今度はその体を抱き込んだら、息の根を止めかけてしまった。うーむ、なんだか力の加減が難しい。ついさっきまで全力で動いてたからな。
まあ、一番の理由は嬉しいからだけどな。嬉しいから、つい全力で喜んでしまうんだ。まったく、自分の思うままに動けるって、なんてすばらしいんだ。このたくましい体!みなぎる気力!でも、もうそんな自分に見惚れたりはしない。そう、もはや鏡の中以外では、自分を見ることはない。自分じゃない振りをする必要もない。
天にも昇る気持ちで地の底に足をつけた俺に、ブルマはそれは冷ややかな目を向けてきた。
「もう、気持ちはわからないでもないけど、はしゃぎ過ぎよ。どうして戻ったのかもわからないのに…」
「どうでもいいじゃないか、そんなこと!」
「どうでもよくはないでしょ。どうして戻れたのか知っておかないと、また同じようなことが起こった時に困るじゃない」
「いや、だって、これは所謂、超常現象だろ。そんなのに、理由も原因もあるかよ。第一、もう起こらないって。こんなことが何度も起こってたまるか!」
「えーっ」
「ここは素直に喜ぶ一手だろ!」
まったく、ブルマも根っからの科学者だよな。ここでどうして戻れたのかとか、もう素直じゃないとかいうレベルじゃないぞ。俺と同じで、自分自身の資質を味わっているのかもしれんが…だって、そういうのは入れ替わってる最中に考えるはずのことだろ。本当に今さら過ぎるじゃないか。
「それより、足、地面に着いてるぞ。もうしがみつかなくても大丈夫だぞ」
でも、だからといって、かわいくないというわけじゃなかった。それどころか、ブルマの態度は俺を非常に満足させた。
「だって、なんか怖いんだもん、ここ。変にひんやりしてるし、真っ暗だし…」
「よくそれで飛び降りようとか思ったもんだな。じゃあ、もう地上に戻るか」
うん、女だ。どこからどう見ても女だ。まったくもって女の本能を発揮している。俺もさっき同じ感覚を味わったから、よくわかる。ここで躊躇いなく抱きつくのが女だよな。やっぱりブルマは女の方がいいな。男だとどうもかわいげがなさ過ぎていかん。
確かに、ハマっていると言えなくもなかったけど。でも正直なところハマり過ぎて、本気でかわいくなかった。なんていうかな…女に生まれつくにはそれなりの理由ってもんがあるんだな。
俺はそんなことを考えながら、二日ぶりに気を使った。同時に違う意味での気をも遣いながら。
この二日間でよくわかったからだ。ブルマの目に映る自分の力の大きさが。何より、昨夜ブルマに乱暴に扱われたおかげで、逆説的に思ったのだ。
もっと優しくしなきゃな、と。いつも以上に、労わってやる気になっていたのだ。
だから、ゆっくり舞空術を使った。ブルマの言葉にも正面から応えた。
「それにしたって喜び過ぎよね、あんた。そんなにあたしが嫌だったわけ?」
「まさか。嫌じゃないからこそ、自分とは別人であってほしいんだよ。自分を愛することはできないだろ?」
「昨夜できたけどね」
「…おまえそれ誰かに言うなよ?」
「さぁね〜」
それをブルマはさらにあけっぴろげて、そんなことを言っていた。
まったく、恥知らずだなぁ…っていうか、C.Cに帰らなくてよかった。もし帰っていたら、本人の口からバラされかねなかったぞ、これ。
そんなわけで、ここ三日ほどの異常事態は早くも旅の記憶の一つとなった。もちろんその中の異常な一夜も――果たしてよかったのか悪かったのか。ともかくも、口止めする以外に言うべきことは、俺にはなかった。本能的なわだかまりを感じることのないブルマの顔に向かって事実そのものを非難する気は、まったくなかった。
そうなんだ。何だかんだ言っても結局のところ、男のブルマを相手にする一番のネックは、姿形が俺だったってことなんだ。単純にブルマが男になっただけだったなら、俺はきっともっと素直に対応できた。それなら自分が女役であることも肯定できただろう。
自分が目の前にいるという事実が、どうにもこうにも釈然としなかったんだ。逆に言うと、もしブルマが俺じゃなければ――俺はいっそ元の自分への未練を捨てて、すっぱり腹を括ってしまえたと思う。そしてそうしてしまえば、きっと女はそう悪いことばかりじゃなかった…
…なんかちょっと危ないなあ、俺。本当に、元に戻れてよかった。よもやもう一晩過ごすことにでもなっていたら、いろいろな意味で戻れないところまで行ってしまっていたかもしれん…


「おまえら、いい加減にしろよ…」
「はっはっは…」
「『はっはっは』じゃないだろうが!おまえらが大変なことになってるっていうから、おれたちはもう少しでわざわざドラゴンボールを集めに行くところだったんだぞ!」
地上へ出た後、俺は岩をくり抜いて造ったホテルのカフェの一隅から電話をかけた。
C.Cに。電話に出たのはまたもやウーロンで、やつはしこたま怒っていた。
「だからこうして電話したんじゃないか」
「そんなの当たり前だろ。とにかくもういちいちこっちに話振るのやめてくれよな。おれたちはトラブル相談センターじゃないの!トラブるにしたってだな、せめて喧嘩するぐらいにしておけよ」
拍子抜けして怒ってるというか、呆れて怒ってるというか、よくわからんが怒っていた。振り回されて怒ってるんだと、きっと本人は言いたいところなんだろうが、それはちょっとな。だって、ブリーフ博士なんかはともかく、ウーロンは何もしてないんだから。少なくとも何かをさせる前に電話したんだから、そんなに怒らなくてもいいだろうに。
「プーアルなんかめちゃくちゃ心配してたんだぞ。なあ、プーアル」
「ヤムチャ様!ご無事でなによりですー!」
「ははは…心配かけたな、プーアル」
まあでもそれは、単純に性格というものだろう。それがわかっていた俺は、たいして反論しようという気も起こらなかった。今だに心の底から湧き上がってくる安堵感をプーアルに分け与えるために再び笑うと、ウーロンがかわいげのない激励の言葉を放った。
「もう電話してくんなよ!」
直後に通話が切れた。少しばかり呆然と手の中の携帯電話を見つめた後で、俺はこちらからも通話を切り、何やら少々微妙な空気が流れているそのテーブルへと目を向けた。
そこにはブルマと、この携帯電話の持ち主である双子たちが座っていた。まったく勝手なことに、女に戻った途端にブルマは双子たちに冷たくなり(本当にわかりやすいやつだ)、今この時も明らかにつんけんあしらっていた。せめてこういう、世話になってる時くらい(世話になったのは電話だけど)優しくしてやれんのかな。俺はそう思ったが、気持ち自体は下降せず、むしろ浮き立っていた。
――さぁてと。
では、続きを楽しもうか。
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