白日の男
テキストはハイスクールのロッカーの中。提出するレポートにペン、ノート、マルチツール…
まずは身支度を整えて、次にとりあえず目についたものから手当たり次第にリュックに放り込んでいると、キーテレホンからウーロンの声が聞こえてきた。
「おーい、まだかよー」
「先行ってていいわよ〜」
あたしは手は止めずに、すぐさまキーテレホンへ向かって叫んだ。途端にウーロンの声がいつにもまして押しつけがましいものとなった。
「何だって!?おまえ、さんざんひとを待たせといて、今さら…」
「うるっさいわね、じゃあ待ってなさいよ!」
今度はわざわざキーテレホンのある壁際まで行って、そう言ってやった。返事は待たずにスイッチをオフにすると、目にはつかなかった2つの物が脳裏を過ぎった。…そうそう、エアバイクのカプセル。それとストロベリーチップス。最後にそれらサボリグッズをリュックに押し込んで、あたしは足早に部屋を出た。
ちょっと寝坊し過ぎたから。そして、今日が何日なのかをすっかり忘れていたからだ。

「お〜い、ブルマ」
まさにエントランスを飛び出そうとしたその瞬間、後ろからそう呼ぶ声が聞こえた。反射的に振り返ると、庭のドアの前に父さんが立っていた。右肩に黒猫が一匹、左肩に白猫が二匹。
「ほれ、お返し。休み時間にでも食べるといいよ」
そう言って、おもむろに白衣のポケットから円柱形の箱を取り出した。それであたしの中で、今日という日が少し変わった。レポートの提出日でもあるだるい土曜登校日から、サボリ用のお菓子を自分で用意する必要のない、一年で唯一の日に。
「ああ、ホワイトデーのね。…何これ?」
初めて見るパッケージのお菓子にあたしが首を捻ると、くれた当人もまた首を捻った。
「さてねえ、何といったかな。ドライストロベリーにホワイトチョコがかかっているやつなんじゃが。ちょっとお待ち、今母さんを…」
「あ、いいわよ。なかなか食べやすそうね。サンキュー」
キーテレホンへと手を伸ばす父さんを軽く止めてから、あたしはさっさとエントランスを後にした。母さんの説明なんか聞いてたら、確実に遅刻しちゃうわ。そうじゃなくても、きっと開けて中を見た方が早いわよ。
「おっせえなあ、おまえ。いくらいつもは休みだからって、堂々と寝坊すんなよ」
「わざとしたわけじゃないわよ」
いつものように小憎たらしいことを言うウーロンと、いつものように黙ってそこにいるプーアルを横目にハイスクールへの道を歩きながら、あたしは思った。
…完全に忘れてるわね、こいつら。今日がホワイトデーだってこと。ウーロンはともかくとしても、プーアルはそういうの、少しは気にしそうなのに。
まあ、しょうがないか。あたしだって忘れてたくらいだものね。なんせ、土曜登校がだるくって。もうそっちにしか気が向いてなかったわ。

ハイスクールへ行ってみると、クラスのみんなが今日という日に文句をつけていた。
「なんでよりによって今日が登校日なのよ。せっかくホワイトデーだってのに」
「教師の講習会なんて、月曜じゃなくて今日やればいいのにね。ムカつく〜」
みんな、というか彼氏持ちの女たちがだ。特にこの前のバレンタインデーに彼氏持ちになったばかりの子。まあ、気持ちはわからないでもないわね。今日は一方的に奉仕してもらえる日だからね。本当はそういう日じゃないんだけど、少なくとも今目の前で怒っている女たちはそう思ってる。
『せっかく今年のホワイトデーは土曜日なのに』
『本当なら一日中付き合ってもらえるはずなのに』
そう思って怒ってる。いつもは放課後デートを自慢したりしてるくせに、今日に限ってそれは棚に上げて怒りまくってる。
あたしはというと、そういうクラスの女たちを我ながら冷静な目で見ていた。あたしはそういう気分じゃ全然なかった。あたしはそういうこと、これっぽっちも考えてなかった。
ヤムチャは、もともとそういうことたいして期待できるようなやつじゃないし。それに、去年よりはずっとマシだわ。
だいたい想像つくでしょ。去年はバレンタインがあれだったんだもの。まあ、ヤムチャはお返しなんかあげてなかったけど、それでも気分いいはずないわよ。っていうか、再燃してたわ。ケンカじゃなくて、怒りが。それでまた、しばらく口きかなかったのよね。ホワイトデーってあれよね。一部の人間以外にとっては、結構嫌なイベントよね。今だって、クラスの隅っこの方で鬱になってるっぽい子たちいるし。ま、あたしはそっちにも加わる気ないけど。
そんなわけで、あたしはレポートを提出すると、さっさと中等部校舎の屋上へと向かった。
授業なんて受けていられるもんですか。本当なら、休みのはずだったのよ。それにお腹空いたわ。寝坊して朝ごはん食べられなかったから。
今日がホワイトデーでよかった。さっそく父さんのくれたお菓子開けようっと。

屋上のペントハウスに寝転んで、あたしはその円柱形の箱を開けた。
中身は、フリーズドライのイチゴをホワイトチョコレートでくるんだやつ。あたしは一瞬ちょっと意外に思って、でもその後はまったくいつもと同じ気分になった。
父さんも母さんも、あたしにはイチゴをあげとけばいいと思ってるんだから。毎年毎年、イチゴのお菓子よ。…それでいいんだけど。まあ、母さんは毎年毎年飽きもせずバレンタインに同じチョコレートケーキを焼き続けてる人だから。そして毎年毎年、ホワイトデーには夫婦揃ってお菓子屋さんにホワイトデーのお菓子を買いに行く。そこであたしへのお返しも用意されるってわけ。あたしが唯一、父さんの父親としての姿勢で悪くないと思ってる部分よ。ついででも何でも、ちゃんとお菓子屋さんで買ってきて返す、っていうのはだいぶんいいやり方よね。外れたもの貰ったことないもの。母さんはスィーツとか流行のものなんかに関しては、かなり目が利くから。
サクッと音をたてて崩れていく内側のイチゴ。外からトロリとホワイトチョコレート。二つの食感と風味を味わいながら、あたしはヤムチャのことを考えた。もし今日ここにヤムチャがいたら、どうしていたかしら。ストロベリーパフェでも奢らせていたかしら。そんなことを考えた。それ以上のことは考えなかった。いない人間のことをあれこれ考えてもしかたがないものね。
それでも、そんな風に考えること自体が珍しかった。いつもは、特にハイスクールにいる間は、ヤムチャのことなんてまずほとんど考えない。ヤムチャが亀仙人さんのところへ行っちゃったばかりの頃は…あたしがカメハウスに出入りするようになったばかりの頃は、わりと考えてたものだけど。今頃どうしているかしら。何の修行してるかな。そんな感じで。でもそれも、季節が変わる頃には、飽きちゃってた。だって考えたって、答えがいつも同じなんだもの。午前だったら、牛乳配達に農作業。午後だったら、土木工事か湖でサメに追いかけられっこ。毎日毎日同じ修行。退屈凌ぎにもなりゃしない。
まあ、毎日同じっていうことに関しては、あたしだって似たようなものだけど。カメハウスに行ってない時は、毎日ハイスクール。なんとなく授業に出て、なんとなくサボって、お弁当食べて。サボってる時は、昼寝したり、おやつを食べたり。そうね、考え事自体をあまりしないっていうのが正確なところかな。
やがて何回目かの終業のチャイムが聞こえてきた。それであたしは広げていたおやつを片づけて、屋上を後にした。
さ、お弁当の時間よ。

もう一度外に出るのは面倒くさかったので、クラスの自分の席でお弁当を食べることにした。クラスの雰囲気は、今ではいつもとあまり変わらなかった。ホワイトデーっていうのはバレンタインデーとは違って、それほど浮足立たないものだから。新たなカップルができるわけじゃないし。少しだけいつもと違うのは、お弁当と一緒にいかにもホワイトデーで貰ったっぽいお菓子を食べている子がいることね。
でもあたしはそれを見ても、もうヤムチャのことを考えたりはしなかった。あたしが考えるまでもなくヤムチャのことを思い出したのは、自分のお弁当の中の一品を見た時だ。
あ、また。
このおかず、あまり好きじゃないって言ったのに。それも一昨日に言ったばかりよ。母さんたら鳥頭なんだから。これはあたしじゃなくて、ヤムチャが好きだったおかずでしょ。
あ〜あ、ヤムチャがいたら、絶対にこれあげるのにな。
一昨日に続いて今日もまた、あたしはそう思った。そう、あたしが唯一ヤムチャのことを『思い出す』といえるのが、このお弁当の時間。特に今みたいに、お弁当に嫌いなものが入っていた時。ヤムチャがいれば食べなくて済むのに、いつもいつもそう思う。それに、ちょっと懐かしいような気分にもなる。一人で食べるのなんて慣れてるし、淋しいなんて全然思わないけど、なんとなくそう感じる。
結局あたしはそのおかずには手をつけずに、お弁当を食べるのを切り上げた。甘いお菓子を食べたせいでたいしてお腹も空いていなかったから。そうしてなんとなく円柱形の箱を取り出したところ、傍を通りかかったクラスメートから声がかかった。
「あ、それ、『カントリースィーツ』のストロベリーチョコね。ひょっとしてホワイトデーのお返し?」
「まあね。父さんからのだけど」
一粒を頬張る手をとめて、あたしは答えた。ごくごく普通に答えた。でも、それに対する反応は、全然普通じゃなかった。
「なーんだ。じゃあ、やっぱりあんたたち別れたんだ」
まるで鬼の首を取ったみたいな顔をして、その子は言った。怒りではなく理解不能の気持ちから、あたしは眉を上げた。
「どうしてそうなるのよ」
「だって、そんなもの食べてるってことは、他には貰ってないんでしょ」
「貰ってなきゃなんなのよ。しょうがないでしょ、ヤムチャは今ここにはいないんだから。来ることだってできないんだから」
「そんなの理由にならないわよ。手渡しできないんなら、普通は送ってくるとかするもんでしょ」
「…送る?」
「そうよ。チョコあげたんなら、ちゃんとお返し貰わなきゃ」
それにはあたしは反論しなかった。その前の言葉に引っかかってしまっていたからだ。
送る…………
それは…何か違うと思う。
別に送るのがダメってわけじゃない。だけど、何か…すごく違和感ある。わざわざ送ってもらわなきゃならないほど、離れてるわけじゃないもの。そりゃ礼儀には適ってるのかもしれないけど、なんとなく他人行儀な感じがするわよ。それにあたしとしては、ヤムチャにそんなことしてもらうより、ウーロンに礼の一つも言ってもらいたいわ。
そんな感じで、あたしのホワイトデーはいつもと同じように終わった。…表向きは。去年もそうだったけど、一緒にいなくても案外心持ちって変わるものね(去年のはもう味わいたくないけど)。
良くはないけど、特に悪くもないと思う。…ちょっと寛大過ぎるかしらね。
きっと、傍にいないからそう思えるんだと思うわ。




翌日、いつもとは違うルートを通って、カメハウスへと向かった。
深い意味はないわ。ただなんとなく。そうね、強いて言えば飽きたってところかしらね。ドライブだって、いつもいつも同じ道じゃ飽きるでしょ。それと同じよ。
いつもとは真逆の方向――北の山岳地帯ではなく南の丘陵地帯から、エアジェットを回り込ませた。たいして違いのなさそうなこの選択は、あたしたちに思わぬ楽しみをもたらすこととなった。
緑の丘を彩る赤や黄色、紫の花。まさに満開の花咲く木々が密集する様は、高度を上げればまるで原色の絨毯のようだった。
「うわぁ、きれいですねー」
「一体何の花かしらね。それにしても、常夏の春って早いわねえ」
「あいつらもこういうところで修行すりゃあいいのにな。そうしたら花見ができるのによ」
ウーロンの穿った感想にも、珍しく賛成することができた。そうよね。いつも同じ修行でも、場所や雰囲気が変われば、少しは違って見えもするってものよね。
とはいえ、歴然とした事実も一つあったので、特に嫌みのつもりはなく、あたしはそれを口にした。
「だけど、あいつらが山で修行する時って、たいがい木を蹴り倒しちゃうからねー」
「そういやそうだな…」
「花見じゃなく果物狩りなら、それでもいいかもしれないけどね」
そんなわけで、あたしたちはすっかり春気分となって、カメハウスへ到着したのだった。

開け放たれた窓から流れてくる男たちの声。それを耳にしながら、あたしはカメハウスのドアを開けた。
「こんにちは〜」
「あっ、ブルマさん。こんちは」
あたしの声に最初に答えたのは、たいがいいつもそうであるようにランチさんではなく、クリリンくんだった。理由は二つあった。もうお茶の時間が始まっていたから。そしてランチさんが、青髪ではなく、金髪だったからだ。
「よう」
「てっきり今週は来ないのかと思っとったわい」
ランチさんが青い髪じゃないと、カメハウスは一気に男所帯くさくなる。出迎え方からしてそうよ。気に障るほどじゃないけど、まー素っ気ないこと。男連中はまるであたしたちを客扱いしてないし、何より当のランチさんがいつもとはまったく逆の意味でハウスに腰を落ち着けているから。
「今日は南から回ってきたんだけど、丘がすっごくきれいね。あの、赤や紫の花つけてるのって何の木?」
「はてさて。それは気づかんかったわい。聞いたところ桜ではないようじゃが」
「桜はこの辺りにはほとんどありませんよ」
せっかく季節の話題を提供してもこの有様。ま、あたしだってちょっと訊いてみただけだから、別にいいんだけどね。
あたしたちがテーブルに腰を下ろすと、ウミガメがコーヒーカップを運んできた。ランチさんが金髪である時の常で、セルフサービスでカップにコーヒーを注いでいると、そのランチさんがおもむろに腰を上げてこう言った。
「そうだ、おまえにホワイトデーの菓子あるぞ。オレが作ったんだけどよ」
「えっ、ランチさんが!?嘘!!」
あたしはものすごく驚いて、浮かせたばかりのコーヒーカップを、再びソーサーに戻してしまった。それはそれは大きな音を立てて。すると隣にいたヤムチャが、あたしの肘をつついて耳元で囁いた。
「違う方のランチさんだよ。青い髪の方の」
「えっ、あ、そう…そうよね」
あー、びっくりした。だって、『オレが』なんて言うもんだから。…天変地異の前触れかと思っちゃったわ。
あたしが未だコーヒーに口をつけられずにいるうちに、ランチさんがキッチンからお皿を一つ持ってきた。そこには一人分としてはだいぶん大きめな、一切れの白いケーキが乗っていた。
「昨日作ったやつだけど、まだ平気だろ。平気じゃなかったら残しとけ」
「うん、ありがとう。いただきます」
あたしに向かって皿を差し出すランチさんは、いつもの横柄な態度だった。おまけに、皿の上にラップがかかったままという無造作さだった。それでも、あたしは嬉しかった。ちゃんと気を遣ってくれてるっていう感じがするわ。だって、あたしにだけなんだもの。今は、だけど。たぶん昨日みんなでこのケーキを食べたんじゃないかしら。ランチさんのことだもの、きっとそうよ。母さんのやり方のまたいとこ、っていうところね。
クリームも何もついていない素朴なケーキを口に入れると、濃厚なチョコレートの味が舌の上に広がった。ふーん、ホワイトチョコレートのガトーショコラか。凝ったもの作ったわねえ。単純にそんなことを思いながらケーキを食べ進めていたあたしは、やがてプーアルがどことなく気落ちしたようにこちらを見ていることに気がついた。
「あのう、ごめんなさい、ブルマさん」
「ん?何?どうかしたの?」
今ではプーアルははっきりとおずおずと、その目を伏せていた。珍しくヤムチャのではなくあたしの隣へやってきて、プーアルらしい告白を始めた。
「えっと、ボクすっかり忘れてて。その、昨日がホワイトデーだってこと…」
「ああ、そのこと。いいのよ別に」
あたしは心から笑ってそう言ってあげた。義理だからお返しはいらない、そんなことを言うつもりはなかった。そういうのとはちょっと違うのよね。義理にしろそうじゃないにしろ、お返しを期待してあげる、っていうのあたしは何だか嫌だわ。それにだいいち、ホワイトデーは終わったんだから。そう、これが大きいわね。
つまるところ、あたしはすっかり平常心なのだった。平常心の、春気分の綯い混ざった軽い気持ちで、自分の思うところを思うままに口にした。
「そういうつもりであげたんじゃないから」
「でも…」
「その気持ちだけで充分よ。…あたしとしては、ウーロンにその態度を見せてもらいたいわね〜」
ええ、これが本心よ。嘘偽りのない本心よ。だって、プーアルがこんなに小さくなってるのに、ウーロンは何の関係もないような顔をして、チョコレートなんかつまんでるんだから。そう、チョコレートをよ。よく食べられるわよね。どういう神経してるのかしら。
あたしが横目を流してやると、ウーロンは顔だけをあたしに向けて、平然と言い放った。
「どうしてそこでおれを出すんだよ。っていうか、おまえ、その態度の違いは何なんだよ」
「ほんっと、かわいくないわね、あんたは」
「どっちが」
やっぱり、ウーロンにチョコあげるんじゃなかった。
などとはあたしは思わず、やっぱりわりあい平常心でコーヒーを啜った。バレンタインデーなんて、もう遠い昔のことよ。少なくとも、ウーロンに対してのバレンタインデーは。いつまでも四の五の言うほど、ウーロンに執着なんて持ってないわ。それより今は、このケーキを味わうべきよ。金髪のランチさんがあたしにくれた、青黒髪のランチさんの作った、このケーキをね。
そんなわけで、あたしは再び白いケーキを口へ運んだ。次にコーヒーカップへ手を伸ばしたその時、ヤムチャがまたあたしの肘をつついた。
「なあ、ブルマ」
「何?」
「ちょっと話があるんだ。話っていうか、教えておきたいことが…」
そこまでしかヤムチャは言わなかった。コーヒーを飲みがてらあたしは待っていたけど、続きも話も始まらなかった。あたしが訊き出そうとした瞬間、ヤムチャが腰を上げた。
「老師様、俺、一足先に湖へ行っていますから」
そしてらしくもなく間接的にあたしを促した。らしくないっていうか、すごく珍しいことよ。ヤムチャがこんな風に、言葉じゃなく態度で何かを伝えるなんて。そしてあたしを待たずに動き出そうとするなんて。
「ごめんね、ランチさん。ケーキの残り、後でもらうことにするわ。ウーロン、食べちゃダメよ。これはあたしのだからね!」
とりあえずそれだけを言って、あたしも腰を上げた。珍しくあたしの一歩前を歩いて行くヤムチャに続いて、外へ出た。
今日はなんだかいろいろと、いつもと勝手が違うわね。
ただそう思いながら。


話って何かしら。家の中じゃできないことなの?
そういうことを訊くつもりは、あたしにはなかった。
ただなんとなく。一日遅れのホワイトデーに、一足早い春。都とは全然違う、温かな風。そういう緩やかな空気の中を、どことなくふわふわとした足取りで歩いていった。今ではヤムチャの隣に並びかけて。
こんな風に二人だけで外を歩くってこと、あんまりないのよね。二人じゃなくみんなでもあんまりないわね。時々やる変わった修行は、たいてい車での移動だし。いつもやってる修行を見にいくことは、最近ではほとんどない。だって、いつも同じなんだもの。同じな上に、視界に入ってくるのはヤムチャやクリリンくんじゃなく、ほとんどが亀仙人さん。わざわざセクハラされに行ったりしないわよ。
「昨日はブルマ、何してたんだ?」
「学校よ。ハイスクール。土曜登校だったの。かったるかったわ〜」
カメハウスへ大声さえも届かないであろう距離まで歩いても、ヤムチャは話を始めなかった。これが本題じゃないってことくらい、わかるわよ。どこまで行くつもりなのかしら。本当に湖まで行くつもりなのかしら。それを訊く気も、あたしにはなかった。どうせ昼間は、あたしは時間を持て余すんだから。ヤムチャが構わないんなら、全然構わないわけよ。
「偉いな。ちゃんと行ったのか」
だからあたしは、このなんてことのない話題をなんとなく受けることにした。さらになんとなく、本当のことを口にする気にもなった。
「全授業サボったわ」
「それは…何しに行ったんだ…」
「レポート出しによ」
サボったのならカメハウスに行けばいい。そう思うかしら。でも、それはちょっとね…あからさま過ぎるじゃない。そういうつもりじゃなくっても、きっとそういう風に取られるわ。ウーロンあたりには絶対にね。
そして自分がそう考えたことを、あたしは全然後悔してはいなかった。そうしておいてよかった。今強くそう思っていた。バレンタインにチョコをあげる時もやりにくかったものだけど、もし昨日ここに来ていたら……それはもうものすごくやりにくそうだわ。あるかどうかもわからない何かを待つなんて、いかにも疲れそうよ。何もなかったら、微妙な気分になるに決まってるし。ベストよりベター、ってところよ。ベストじゃないのは、ヤムチャが傍にいれば、こんなこと考える必要ないからよ。
「ヤムチャは何してた?ランチさんはいつから金髪になってるの?」
少しだけ気になっていたそのことを、あたしは二つに分けて訊いてみた。それに対するヤムチャの答えは一つだった。
「昨日。お茶の時間の途中からだ」
そしてそれは、その時の光景をあたしにまざまざと想像させることとなった。
想像っていうか、見てない記憶って感じかしら。きっと、バレンタインデーの時と同じよ。ランチさんも災難ね。せっかくケーキ作ったのに。どっちもランチさんだとはいえね。
「ちゃんとケーキおいしいって言ってあげた?」
「ケーキ…」
「さっきのホワイトガトーショコラよ。食べたんでしょ?」
「…食べた」
あからさまにヤムチャは口篭り始めた。それであたしは悟らざるをえなかった。どう考えたって、何も言ってないわよ、こいつ。
「いつもいつもとは言わないけど、そういう時くらいは感想とかお礼言わなきゃダメよ」
「うん…」
「バレンタインの時もそうだったし。亀仙人さんもクリリンくんも、全然女の人に気を遣わないんだから。亀仙人さんはエロいだけエロくてさ。そういうのには、あんたは染まらないでちょうだいよ」
「はい…」
頭を垂れるというよりはぼんやりと、ヤムチャは答え続けた。あたしは色々な意味で、地に足がついた気分になってきた。本当にあたし、昨日来なくてよかったわ。絶対に何もなかったわよ、この調子じゃ。ランチさんとのことだって、今だからこんな風に言ってあげられるのよ。何もないのに目の前でホワイトデーのお菓子食べられるなんて、たまったもんじゃなかったわ。まったく、修行バカなんだから。
最後にそう付け足したのは、行く手を塞いだ木立の隙間からちらりと湖が覗いたからだ。…結局、湖まで来ちゃったわ。話って一体何だったのかしらね。例え何でもなくても二人で話せて楽しかった…なんてこと、思わないわよ。こんな話、夜に部屋でいくらでもできるじゃない。どうせ時間作ってくれるんなら、もっと有効なことに使いなさいよ。
あたしはすっかり呆れ果てて、T字路になった獣道を左へと曲がった。途端にヤムチャがあたしの右手を掴んだ。
「ああ、ブルマ、そっちじゃない。こっちだこっち」
「え。泳ぎ始めの岸ってこっちじゃなかったっけ…」
かなりの不覚を味わいながら、あたしは足を止めた。…最後に湖の修行を見に来たの、ずいぶん前なのよね。いつだったかは忘れたけど、少なくとも季節が変わる前…
するとヤムチャが、どことなく楽しげな雰囲気を漂わせて言った。
「いや、あってる。でもその前に行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ?」
なんか話が変わってきたわね。話をするんじゃなかったのかしら。…話をする場所、決めてたのかしら。珍しいこともあるものね。そんな気、今まで遣ったことなんてなかったのに。でも、湖の周りなんて、どこもたいして変わらないと思うんだけど。
なんとなく、あたしはそのまま立ちつくした。ヤムチャの手を解かずに。ヤムチャもまたあたしの手を離さずに、目の前に立っていた。と思ったら、おもむろに目を閉じた。
「武天老師様!!」
そしていきなり叫んだ。あたしはわけがわからずに、目を瞬かせつつ口を開いた。
「へ?」
ほとんど同時にその声が、半瞬の後にその姿が、ヤムチャの背中越しに唐突に現れた。
「ありゃ〜。見つかってしもうたわい」
「もう、武天老師様がもっと近くへ行こうなんて言うから」
「だって近づかんと話が聞こえんじゃないか」
まさについさっき噂していたエロい師匠と、その弟子。二人して、頭を葉っぱに塗れさせて。亀仙人さんに至っては、両手に小枝まで持って。二人して緑の茂みの中に肩から下を埋もれさせて、聞えよがしな内緒話をしていた。
「一体何してるんですか!!クリリンまで!!」
すぐにヤムチャが身を翻して二人のところへ飛んでいった。いつのまにか離された手を宙に浮かせたまま、あたしは次の師弟の言い訳を聞いた。
「す、すいません。でもヤムチャさん、甲羅を忘れていったから…」
「そうじゃそうじゃ。わざわざ持ってきてやったんじゃぞ。わしは師匠だというのに」
確かにクリリンくんは甲羅を脇に持っていた。嘘をついているわけではない。でもだからって、言い訳にはならないわ。おまけに亀仙人さんのその態度。そう思ったにも関わらず、あたしはそれを咎めには行かなかった。
「だったらどうして隠れてるんですか!!」
「いやなに、邪魔をしてはいかんと思うてな。何やらチュウでもしそうな雰囲気じゃったからのう。ささ、わしらに遠慮せんと続きを…」
「そういうんじゃありません!!」
あたしは煙に巻かれていたわけではない。何が起こっていたのかは、わかり過ぎるほどにわかっていた。そして、怒りが湧かないわけもなかった。まあ、どちらかというと、呆れたって感じに近いけど。だけど最後までその師弟の会話に加わることはなかった。
だって、なんか出る幕なさそうなんだもの。ヤムチャがこんなに大声出して亀仙人さんに食ってかかってるの、初めて見たわ。珍しいこともあるものね。
「またまた惚けおって。こんな人気のないところに女子を連れてきておいてそんなわけないじゃろう」
「本当に何もしません!!」
…それにしたってヤムチャのやつ、そこまできっぱり否定することないじゃない。ねえ。


そんな経緯を経て、あたしはヤムチャの後を、さらに後ろに二人の人間を従えて歩くこととなった。
「別について来たって構いませんよ。そういうんじゃないですから。だから隠れてついて来ないで下さい」
そう、ヤムチャが偉そうに言い切ったからだ。…まあいいわ。いい気分はしないけど。ヤムチャが構わないなら構わない…ということにしておくわ。
「一体どこへ行くんですか」
「年寄りをあまり歩かせんでくれんかのう」
「だったら初めからついて来ないでください…」
とはいえ5分も歩かないうちに、あたしの薄い怒りは完全な呆れとなった。一体誰が上位なんだか、さっぱりわからなくなってきたわ。いえまあ、ヤムチャが上位だなんて、初めから思ってないけどさ。
「ねえ、本当にどこまで行くの?」
あたしが訊くと、ヤムチャは足は止めずに顔だけを振り向けて、軽く笑った。
「うん、ちょっとな、いいものがあるんだよ。まあたいしたものじゃないんだが、ブルマなら好きそうだと思ってさ」
「ふーん…」
湖の傍にあって、あたしの好きなもの。何かしら。虹とかそういうのかしら。そうねえ。この辺りもしばらく来てないからなあ。気候も都とは全然違うし、少しは変わったところがあるのかもしれないわね。
少し遠くに何かの跳ねるような水音。頭上の木々の隙間からわずかに零れる眩しい日差し。鬱蒼と繁る林の中の獣道をさらに数分歩いて行くと、ヤムチャがようやくその台詞を呟いた。
「うん、ここだ」
そして緑の草を掻き分けて、道のない木立の間を抜けた。その直後、ふいに視界が広がりを見せた。
これまで歩いてきたところとは一転して、ほとんど木のない広い草地。空に低く上った地面を照らす太陽。左手にはきらめく湖。遠く正面には、南の丘陵。カメハウスへ来る途中で目にした、あの美しい自然の絨毯。うん、なかなかの絶景…
でも、あたしの目を引いたものは、それらのものではなかった。
「あっ!イチゴ!!」
遮るもののない太陽の光を浴びて、鮮やかに輝く紅玉。きっと誰しもが見たことのある野生のイチゴが、あたしがこれまで一度も見たことのない姿で、目の前に生っていた。
「うわ〜大きい。これ野イチゴよね?あっ、よく見たらすっごくいっぱいあるじゃない!」
いっぱいどころじゃなかった。気をつけて見てみると、辺り一面――とまで言ったら大げさかしらね――でもとにかく、目の前に生い茂る緑の塊は、すべて野イチゴの生る茂みだった。
「ほほ〜、こりゃあなかなか立派に生っとるのう」
「本当、大きいっすね。それに早いや」
亀仙人さんとクリリンくんが、感心したようにあたしの傍へと寄ってきた。あたしはそれを無視して、あたしにとっては唯一絶対とも言えるその関心事を口にした。
「ねえ、これ食べられるの!?」
ちょっと意地汚いかしらね。でも、食べられないイチゴなんて、絵に描いた餅よ。そんなもの、見せられない方がマシだわ。
あたしの期待は裏切られなかった。ヤムチャはイチゴを確かめることもせず、笑って言い切った。
「もちろん」
「やったー!」
だいたいわかっていたにも関わらず、あたしは歓声を上げた。まあこれは、ある意味意思表明のようなものよ。これで『食べられない』って言われてたら、絶対に許さなかったわ!
でもやがて、それに近い気持ちが湧き起こった。やがてというより、すぐにだ。ヤムチャの言葉を受けてあたしがイチゴに手を伸ばした、その直後にだ。
ひと際大きな野イチゴとその周囲を飾る葉の陰から、見たことのない動物が顔を覗かせた。何色なんだかわからないほどに色の混ざった、縦とも横とも言えない縞模様を体に広げた、大きなおたまじゃくしのようなもの。
「ぎゃー!何これ!気っ持ち悪ーい!!」
触れるか触れないかのギリギリの瀬戸際で、あたしはどうにか手を引っ込めた。亀仙人さんとクリリンくんはただ黙ってあたしに目を向け、ヤムチャに至っては笑顔さえ浮かべてその台詞を口にした。
「それはイチゴヘビだよ。野イチゴのある場所によくいるんだ」
「えぇー!?何その理不尽な生き物!!」
あたしは思いっきり不満の意思を表明してやった。…そういうことはもっと早くに教えなさいよ!はっきり言って、見たくないレベルの気持ち悪さだったわ!っていうか、これじゃイチゴ採れないじゃない。ぬか喜びさせないでよ!
これには、目論見通りの態度が返ってきた。
「待ってろ。今摘んでやるから」
すぐさま笑顔でそう言って、ヤムチャはイチゴの茂みを掻き分け始めた。…やったね。っていうか、当然よ。あたしがこんな気持ち悪い動物とやり合えるわけないでしょうが。あたしは都会育ちなんですからね。蛇だとすらわからなかったくらいのね。
まあとにかく、ちょろいもんよ。心の中で舌を出しながら、あたしは胸を撫で下ろした。やっぱり、気持ち悪かったから。するとその落ち着きかけた心の中へ、クリリンくんと亀仙人さんが小石を投げ込んだ。
「おれも手伝いますよ。おれもブルマさんにチョコレート貰ったから」
「そうじゃな。どれわしも」
ん?
「それにしても、よくこんなとこ知ってましたね、ヤムチャさん」
「そういやおぬし、昨日の夕陽マラソンの時、やたら時間がかかっておったな。さてはこれを探しておったな。いやらしいやつじゃ」
「どこがいやらしいんですか、どこが!」
…あら?
やっぱり珍しく師匠に向けて声を張り上げているヤムチャは、でもどの台詞も否定してはいなかった。それで、あたしは悟らざるをえなかった。…そういう話だったのかしら。
「ちょっと心当たりがあったから確かめに走っただけですよ」
「ふむ、まあ走っとったんならよしとするかの」
手と口の両方を動かしながら葉に塗れる三人の男たちを、あたしは少し離れた草の上に座って見ていた。傍らには、無造作に転がされた二つの甲羅。草の上に敷かれたオレンジ色のスカーフに、徐々に数を増していく赤い実。修行前の一コマとしては、見たことのない光景。新鮮さと同量の呆れの気持ちを、あたしは噛み締めていた。
まったく、みんなしてあたしにはイチゴをあげときゃいいと思ってるんだから。…まあ、それでいいんだけど。それにしても、ここまでストレートなのは初めてだわ。
「とりあえずこんなもんでいいか?また後で採ってやるから」
「これ以上摘んどると、修行の時間がなくなってしまうからの」
「みんなにも話して、明日採りにくるといいんじゃないっすかね」
やがてイチゴの小山を前に、三人が腰を上げた。その言葉にも態度にも、あたしは異論はまったくなかった。
「やれやれ、少し腰が痛うなってしもうたわい。後でランチちゃんに揉んでもらうとするかの」
「でも、今日はランチさん金髪ですよ。そんなこと頼んだらきっと撃たれますよ」
とはいえ、その後に続いた言葉には、少し思うところがあった。でもあたしは何も言わなかった。クリリンくんの言うように、ランチさんは青髪と金髪の時でバランスを取ってるみたいだから、きっとそれでいいのよ。
師匠と兄弟子が背中を向けると、当然のように末弟子もそちらへ足を向けた。ごくごく自然な笑顔であたしに声をかけてから。
「俺たち、いつもの岸へ行くけど、ブルマはどうする?」
「あたしここにいる。ここで見てる。終わったら教えてね。…ところで、あたしもちょっと話あるんだけど」
だから、あたしも自然な言葉でヤムチャを呼び戻した。そして、今日何度かヤムチャがあたしの肘をつついた後でそうしたように、口元に手を当てた。
「何だ?」
「もっと近づいて」
「うん?」
あたしは言葉を濁さなかった。それでもヤムチャは目論見通り、体を屈めてくれた。今度はあたしは心の中で舌を出さずに、ただ軽くキスをした。
「サンキュ」
もちろん話も忘れずに。ヤムチャは少しだけ驚いたような顔をしてたけど、すぐに表情を戻して頷いた。
「ああ」
「また後でね」
あたしが最後の言葉をかけると、ヤムチャは再び足をそちらへと向けた。いつもの場所。いつもの修行を始める、いつもの岸。いつものように甲羅を背負って、いつものように振り返ることなく歩いて行った。ほんの数分間、あたしはその後姿を見続けた。


やがて、一時は視界から消えていたその姿を、横岸に発見した。いつものようにサメに追われて端から端へと湖を泳ぐその様を、あたしは甘やかな紅玉を味わいながら眺めた。
午後の光に輝く湖。舞い上がる水飛沫。太陽の光に照らされて、虹を背負って泳ぐ姿。どこまでも追いつけない湖の主。
うん。同じ修行でも、気分が変われば全然違って見えるわ。
拍手する
inserted by FC2 system