徐歩の男
年。
誕生日。
住んでたところ。
何も知らなかった。名前以外は何も。何もかも後で知った。付き合うと決まった後で。
だからっていい加減なわけじゃない。ちゃんと全部覚えてる。
あの時は…特にあたしのことを話した時は、ヤムチャよりもウーロンがうるさかった。


孫くんと別れて、エアジェットが地を離れてより数十分。
「へー、同い年なんだ。偶然ね〜!」
それを知った時あたしは、これは神の思し召しかなって思った。
ちょっと大げさかしらね。でもステキな偶然よ。別に年の差なんて気にしないけどさ、共通点は多い方が嬉しいでしょ。少し年上かなって気がしてたから余計にね。
「ボクは9歳。2年前からヤムチャ様と一緒にいます」
「そろそろ西の都が見える頃だな。家はどのあたりにあるんだ?」
「あ、いいわよ、ここからはあたしが操縦するわ。長い時間操縦してくれてありがとう」
「おまえ、おれにはそんな礼一度だって言ったことないくせに…その態度の違いはなんなんだよ?」
物の見事にいちいち遮られる会話。そればかりか完全に邪魔者だと言える一匹のブタ。プーアルはともかくとしても、ウーロンは置いてくるべきだったかもしれないわね。或いは一人徒歩で来させればよかったのかも。そうね、今からでも遅くないわ、ロープに括って機外へ出しちゃおうかしら。
それまであたしの座っていた前左席へと下がるヤムチャを視界の端に置きながらキャノピー開閉ボタンへ目を向けると、その傍に記されたナンバーが目についた。
「あら。製造番号270102。これ一号機ね。こんな地方から出回り始めるんだ。意外ねー」
「なんのこっちゃ」
なんの気なしに口にした言葉には、またもや余計な合いの手が入った。生まれつきのごとく白けきった声のブタ。最後席にいるその顔へ向かって親切にも説明してあげようと振り向いた時、手前から思わぬ横槍が入った。
「乗機製造番号だよ。頭の二桁がキーナンバーで、その後が通算機数。量産機の場合100に試作機からの通算製造数を加えた数から最初の製造番号が始まる。闇屋なんかが気にするんだ。一般の人間はまず読めないものだが…」
感心したようなヤムチャの笑顔は、あたしをまた嬉しい気持ちにさせた。どうしてヤムチャがそんなこと知ってるのかなんて、気にしない。今までどんな生活をしてたのかなんてどうでもいいことよ。これからどういう毎日を送るかっていうのが大切なことなのよ。
「これくらい当然よ。そのへんの素人と一緒にしないでね。っていうか自社製品だもん。読めなきゃ困るわよ」
「自社製品って何が?」
「このエアジェットがよ。ライセンス表示なかったけど、これうちのよね。1年くらい前のやつかしら」
「うちの?」
「C.Cよ。知ってるでしょ。ま、知らなくてもどうせこれから行くからいいけど」
こんな風にまるっきりその場の流れだけで、あたしは自分の家のことを話した。だってヤムチャ、ちっとも訊いてこないんだもん。これから自分もそこに住むっていうのにさ。家のことだけじゃなく、あたしのこともぜーんぜん。でもあたしは、そのこと自体は気にもならなかった。訊いたらちゃんと答えるわりにちっとも訊いてはこないその訳が、すっかりわかっていたからだ。…なんかちょっとかわいいのよね、この人。見た感じはしっかり男なんだけど、中身が案外照れ屋さん♪っていうか…少し硬派ぽいっていうか。でも、固い感じじゃ全然ないの。すごくお得な拾いものをした気分。問題は――
「C.C!?C.Cって、カプセルを作ってるC.Cか!?珍しい名前だと思ったら、おまえ本人かよ!?」
あたしの話に真っ先に食いついてきたのはウーロンだった。そう、問題は、拾いものは一つじゃないってことよ。そういえばこいつにも話してなかったわね。今になってそう思う程度のやつのくせして図々しいのよ。あたしたちの記念すべきお近づき会話を邪魔しないでほしいわ。
「何よ、その言い方は」
「先月何かの雑誌に載ってたろ。世界のトップファミリーがなんたらかんたら…」
「ああ、あのスキャンダルばっか載せてる週刊誌。あんた、あんな大人の雑誌読んでるの?やらしいわね〜」
この時にはあたしはもう、誰の顔も見てはいなかった。正面の計器類だけを見て、着陸に備えていた。…はずなんだけど、やっぱりヤムチャの顔は目に入った。気にはしていないつもりでも、勝手に意識に入った。短い時間の間に教えてくれたいくつかのことと、それらを教えてくれた時の顔が、いつまでも意識に残った。
数週間前、あたしは一人でうちを出た。ドラゴンボールを一つ持って。残りのドラゴンボールと、そしてステキな恋人を手に入れるために操縦桿を握った。
そして今、帰ってきた。ドラゴンボールは集められなかったけど、操縦桿を握るあたしを見ている人はいる。ちょっと奥手っぽいけど、あたしのことが好きだっていうのはすごくよくわかる。
「ブルマ、痛めた足は大丈夫か?ラダーペダル踏めるか?」
「平気よ。それにここからならだいたいエルロンで行けるから」
「しっかり頼むぜ。都に来るなり病院送りだなんておれはごめんだからな」
…二人きりだったら、きっともっといいのに。
視界の外から飛んできたウーロンの声を聞きながら、あたしは思った。それほど気は入れずに。うるさいなあとは思うけど、イライラしたりはしない。焦らなくても大丈夫。時間はいっぱいある。なんたって、これからずっと一緒にいるんだから。――これよ、これ。この余裕。ウーロンの無駄口も流してやれる寛容心。自然と湧いてくる期待感――
なんかすっごく、彼氏がいるっていう感じがする。
もうすっごく、恋人ができたっていう感じがする。




そのことを、前日の夜に思い出した。
実をいうと、朝にも一度思い出していた。ベッドルームのカレンダーにつけられた印を見た時に。あの日、一日を終える前にわくわくしながらつけた印を見た時に。自分以外の誕生日が待ち遠しいなんて初めて。少しの間年上になるのか。なんてことを、朝には思った。そして今、その日を控えて一日を終える前には、こう思っていた。
…やっぱり、今日のことは流してやるべきよね。
せっかくの誕生日にごたごたするのは嫌よね。ヤムチャはきっと嫌だろうし、あたしは絶対に嫌だわ。
別にそんなたいしたことじゃないわよ。『そんなことどうでもいい』なんて、今でもやっぱり思わないけど、許せないほどじゃないわ。そう、あたしはそれほど『どうでもよくない』って思ってるわけじゃないのよ。ただ『どうでもいい』って言った時のヤムチャの顔が嫌だっただけで……だってなんだか素っ気ないような気がして……でも、それ以外に思うところはないのよ。ウーロンは『そんなくだらないことでケンカするなよな』なんて言ってたけど、あたしだってそう思ってたのよ。だから怒鳴ったりはしなかった。言い返したりもしなかった。…ただちょっと無視してやった。でもそれだって、ウーロンがわざわざそんなこと言って逆撫でするから…
でも、明日は無視しない。あたしはそう決めて、ベッドに潜り込んだ。あたしはすっごく楽しみにしていた。『恋人の誕生日を二人でお祝いする』ってことを。だって、初めてだもん。『生まれてきてくれてありがとう』とまでは思わないけど(いやー、そこまで思う人はそういないでしょ)、やっぱりステキだもん。恋人同士って感じがするもん。…それに。それにそれに……
あたしはまたあの時のことを思い出した。あの時のヤムチャの言葉と、ヤムチャの顔を思い出した。思いっきり照れてたあの笑顔。かわいかったわよねー。それに嬉しかった。あの瞬間すっごく実感が湧いたの。今思うと、あの時のヤムチャは結構それっぽいこと言ってた。あれでどうして『硬派』なんて感じることができたのか、不思議になっちゃうくらい。…あの時はあたしも浮かれてたのよね…
まったく皮肉めいたところなく、あたしはそう思った。思い出に感化された。そうかもしれない。でも、しょうのないことよ。
だって、初めてだもん。あたしたちにとっては初めてとも言えるイベントだもん。彼の誕生日って言ったら、一番大きなイベントだもん。『相手にとっての特別な日』をお祝いできるっていうのが、恋人の特権だもん。
明日、どこに行こうかな。プレゼントは何がいいのかしら。そんなことを考えていたら、今日のことは本当にどうでもよくなってきた。自然と湧いてくるわくわく感にお楽しみ感。あたしはなかなか眠りには落ちられずに、ふとそのことを思った。
やっぱり彼氏がいるって違うわね。自分の誕生日でさえ、こんなに浮かれたりしたことなかったわ。


翌朝、あたしはものすごくすっきりと目を覚ました。昨夜はわりと寝つけなかったんだけど、それでも勝手に目が覚めた。それで、あたしは昨夜とはちょっと違う昔のことを思い出した。
自然と湧いてくるわくわく感にお楽しみ感。それと、どこかドキドキするような気持ち。ドラゴンボールを探しに出かけた日にそっくりよ。ドキドキ感の質はちょっと違うかもしれないけど(ドラゴンボール探しの時は『大変そう』っていうのもあったからね。銃を持ってもいったし)、悪くない感じだわ。
薄く雲のたなびく青い空。明るい日差しの差し込むリビングの片隅では、本日の主役を含む我が家の居候三人を相手に、母さんが熱弁を奮っていた。
「パーティはハイスクールから帰ってすぐにする?それとも夜?誰か呼びたいお友達はいるかしら?ヤムチャちゃんのお誕生日パーティなら、きっと来たがる女の子がいっぱいいるわよ〜。お料理たくさん用意するから、どんどん呼んでね。何かお料理のリクエストはあるかしら?ケーキはもうお店に頼んじゃったんだけど…」
もう、どうしてみんな黙ってるのよ。娘の彼氏に女の子を薦める母親がどこにいるのよ?
「おっはよ!ねえ、プレゼント決めた?」
あたしはすっかり呆れ返りながらも、笑って母さんの声を遮った。今日は怒らない。そう決めたの。何があっても怒らないってわけじゃないけど、ヤムチャには絶対に怒らない。そしてできれば、ヤムチャの前でも怒らない。
健気なあたしの態度は、素っ気ない反応で報われた。あたしを見るヤムチャの顔には、あの時のかわいさの欠片もなかった。
「プレゼント?」
「誕生日のプレゼントよ。一緒に買いに行こうって言ったでしょ」
「えっ…」
っていうか、忘れないでほしいわ。そりゃあ何ヶ月も前の話だけどさ、付き合い始め最初に言ったことじゃない。確かにヤムチャは物事に拘らない性格だけど……まさか自分の言ったことまで忘れてるんじゃないでしょうね?
記念すべき初イベントの青写真。それに早くも修正が入った。あたしは思いっきり肩透かしを食らったけど、それほど気分は壊れなかった。
「しょうがないわね。じゃあ、放課後までに考えておいてね」
まあいいわ。もし忘れちゃってるとしても、そう思ってたってことに変わりはないもの。あの時のあの言葉はおべっかじゃない。それくらいわかるわよ。
だからあたしはすっぱり気分を切り替えて、朝食の席についた。でもカトラリーを手にしたところで思い出した。
「母さん、パーティは夜からにしてね。放課後はあたしたち出かけるから。それと、女の子は誰も呼ばないわよ!」
ものすごく大事なことを一つ流しかけていたことに。本当に余計なこと言わないでほしいわ。あんなこと言ったらヤムチャにその気はなくっても、ウーロンが勝手に呼んだりしちゃうじゃないの。
「そうなの、残念ね〜。パーティは賑やかな方がいいのに〜。でもそういうのもアットホームでステキかもね〜」
まったく悪びれた様子のない母さんの笑顔を、あたしは無視した。いつものことだから。一応はわかったみたいだからいいわ。再び気分を切り替えて、今度こそ朝食を始めようとした。その時だった。
「ははーん。ブルマのやつ、女の子呼ぶって聞いて焦ったな。でもいつもだったら怒鳴りまくるところだろうによ。案外かわいいところあるな。勝手だけどよ」
余計なお世話よ!
ここぞとばかりにウーロンが、おもしろそうな顔をしてそう言った。斜め正面のあたしにではなく、その隣のヤムチャに向かって。あたしは並々ならぬ努力によって、それを無視した。カトラリーを手放してフレッシュジュースで口を塞ぎながら、固く決めた。
今日の放課後は絶対にウーロンは同行させない。お邪魔虫なのはもちろんだけど、それだけじゃない。
ヤムチャに怒らないのは何とかなりそうだけど、ウーロンに怒らないようにするのはきっと至難の業だわ。


…訊かれても教えちゃダメって釘を刺してることがある。
肩幅。誕生日。そして血液型。
肩幅なんて露骨もいいところだけど、堂々と訊いてきそうなバカな女がこのハイスクールには結構いるから。そしてヤムチャはそういうのに気づかなさそうなやつだから。誕生日もそれに同じ。この二つは、もう訊く理由がはっきりしてる。たまに誕生日を訊かれてるのを目にすることがあるけど、だいたいは心の中で『残念でした』と呟いて終わらせることができる。もちろん実際にも会話を終わらせてやる。
厄介なのは血液型よ。ある意味では、これが一番嫌だわ。だって、何がしたいのかわからないんだもの。
一ヶ月ほど前のことよ。ヤムチャが訊かれて教えちゃったらしいのよね。それもあたしのクラスの女に。…ま、血液型なんて隠す必要どこにもない。そう思うわよね。あたしもそう思ってたわ。…その時までは。まったく、うっとうしいったらなかった。
『相性100%』『最高の相性』って、たかが雑誌に載ってる程度の占いでうるさいのよ。付き合ってもいないあんたがそうなら、付き合ってるあたしは何なのよ。それを超えた運命の相手?ま、それもいいけどさ。事実を無視してどうしてそんな非科学的なことに喜べるのか不思議だったわ。
つまり何が言いたいのかというと、あたしはヤムチャに『誕生日は教えるな』って釘を刺していた。そして、どうやらヤムチャはそれを守っていたようだった。
ハイスクールのゲートを潜ってエントランスへ入っても、プレゼント攻撃がなかった。そこまではあたしが一緒にいたからだとしても(でもあたしがいても声をかけてくる女がたまにいる)、ロッカーからプレゼントが転がり落ちてくることもなかった。プレゼントはラブレターと違ってロッカーの隙間からは入れられないからだとしても、机の上にプレゼントが置いてあったりとか、廊下の陰に女が隠れてたりとかいうこともなかった。ヤムチャと別れて自分のクラスへ行っても、何も変わったことはなかった。相性がどうのと騒いでいたクラスメートも、今日は全然うるさくなかった。
そんなわけで外庭で過ごした昼休み、あたしは実に穏やかな気持ちでそのことを口にした。
「そっちのクラスの6限目って体育よね。じゃ、帰りはあんたが迎えにきてね。いつもと同じ…ううん、今日はあたし屋上にいるから」
「ああ、わかった」
答えるヤムチャの口ぶりも、いつも通り穏やかなものだった。そう、この昼休みにもやっぱり何も起こらなかった。お弁当の中がヤムチャの好物ですっかり埋め尽くされていたこと以外には、何の問題もなかった。あたしは悪くない気分で5限目の授業を終え、なかなかいい気分で6限目の授業をサボった。
6限目が家庭科だったから。そして前述の通り、ヤムチャのクラスの授業が体育だったからだ。
宣言通りの屋上のペントハウスの上。どこまでも広がる青空の下にうつ伏せて、あたしは地上へと目をやった。ヤムチャがハイスクールへ来る前には目もくれなかったグラウンドに、そのヤムチャの姿を探した。
うん、この行為はなかなかに『恋人がいる』って感じがする。特に今日のこの気分では。ヤムチャがグラウンドでボールを蹴っているのを見ながら、ヤムチャがあたしを迎えにくるのを待つの。…なんかあたしが祝ってもらうみたいかしら。でも体育が最後だと終わるの遅いからなあ…
今日という日が本当に始まるまであと少し。どこ行こうかな。一体何がほしいのかしら。ちょっぴりわくわくしながら頬杖をつき直した時、ヤムチャが四つ目のゴールを決めた。相変わらずさりげなく無茶苦茶やってるわね。クラブの助っ人とかじゃないからまあいいけどさ。思った通り、歓声は観客がいないので上がらなかった。さらにホイッスルとチャイムがほぼ同時に鳴ったので、あたしは頬杖を解いてグラウンドから目を離した。それから仰向けになって、いつも通りに空を見た。微かに戦ぐ風に頬をくすぐられながら目を閉じた。すっかり平常心となってしばらくうつらうつらしていると、真下から音が聞こえた。シュッと微かに風を切ってドアが開く音。それと――
「ヤムチャくん、ヤムチャくん!」
あたしが待っていた人間を呼ぶ声。その女の声に、あたしは聞き覚えがあった。
「これ、あたしが作ったクッキーなの。食べてください!」
無視したくともできない、ハイテンションなキンキン声。そのクラスメートの声は、今日は耳にうるさいだけでなく、押しつけがましくもあった。
「…あー、悪いけど、俺そういう物は貰わないことにしてるから――」
「えぇー。だって、ヤムチャくんのためだけに作ったのよ!」
やがて聞こえてきたヤムチャの声を即行で掻き消す強気な調子。さっすが『最高の相性』と信じてるだけあるわね。まるで聞く耳持ってないわ。
「うん、ごめん。でもその気持ちだけで充分だから――」
「そう思うんなら食べて!ねっ、一口でいいの!」
「いや、そういうわけには…」
あたしは再びうつ伏せて、ほぼ真下にいたヤムチャを見下ろした。まぁったく。相変わらず押しに弱い…いえ、ヤムチャにしては上出来か。一応言い負かされてはいないものね。それにしても、早いとこドア閉めてくれないかしら。ここでサボってるってことがバレちゃうじゃないの。
あたしは努めてそう考えながら、体を前へと乗り出した。ヤムチャにではなく、クラスメートの女に向かって言ってやる必要があった。
「いいんじゃない?一口くらい食べてあげれば〜?」
めいっぱい明るい声を投げてやると、途端に二人の顔が曇った。
「…あ、ブルマ…」
「何よブルマ、あんたどうしてそんなところにいるのよ!」
「あたしは最初っからずっといたのよ」
ここにも。あんたの狙ってるその男の隣にも。本当に図々しいったら。姑息な手段もいいところよ。勢いだけでどうにかできると思ってるの!?
みなまでどころか何も言わずに、あたしはペントハウスを下りた。ヤムチャの隣まで行っても、女は立ち去らなかった。ヤムチャはヤムチャで、あからさまに引け腰となってあたしの様子を窺っていた。
「ええとあの、ブルマこれは…」
…もう、ヤムチャってば、いっつもこうなんだから。あたしを気にするのはいいけどさ、もう少しどうにかならないものかしらね。ここはあたしじゃなくて、そっちの女に何か言ってやるべきところでしょ。これだから最後の台詞を言ってやれないのよ。
「一口でいいのよね。じゃあ一個貰うわね」
ヤムチャの言い訳を聞く気はなかった。女に口を開かせるつもりもなかった。だからあたしは、あたしを睨みつけながらも依然として引っ込めない女の手から、さっさとペーパーバッグを取り上げた。ピンクのペーパーバッグの中にはさらにリボンのついたギフトバッグ、それで出てきたものといえば予想通りのマーブルクッキー。変なものが仕込まれていないことだけはわかっていたので、あたしはその一個をまずはヤムチャの口に入れてやった。
「はぁいヤムチャ、あ〜ん」
思いっきり甘ったるい声と共に。この時の女の顔ったら。願いが叶ったというのに、全然嬉しそうでないんでやんの。あたしはあたしを睨みつける女の顔を見ながら、ヤムチャの口から食べかけのクッキーを取り出し自分の口に放り込んだ。
「はい、一口終わり。んー、あんまりおいしくないわね。ま、授業で作ったものなんてこんなもんか。あんた今度はちゃんと味見してから持ってきなさいよ。ひとの彼氏に変なもの食べさせないでよね」
感じ悪い?おあいにく様。それで結構よ。目の前で堂々と横恋慕しようとするやつに、感じよくしてやる必要なんかないわ。
「…な、何よ!彼女面してんじゃないわよ!」
「彼女面じゃなくて彼女なのよね〜」
さらに笑ってヤムチャの腕を取ってやると、女は完全に尻尾を出した。
「このサボリ魔!言いつけてやる!」
そしてまったく繕うこともなく、走り去っていった。あたしは少しだけ気を抜いて、忘れ物のペーパーバッグを床に放り投げた。やれやれ。どうにかうまいこと笑顔でやっつけてやれたわ。食い下がられなくてよかった。態度はしつこくても口はそうじゃないのね。根っからバカな女だこと。
「あーブルマ、少しやり過ぎ…あれはかなり逆恨みしてたぞ。言いつけるって――」
わかってるんだか、わかってないんだか。いえ、ちょっとはわかってるみたいね。ともかくもヤムチャがそう言った時、あたしが考えていたのはこの後の展開のことだった。
「別にいいわよ。鍵替えられたって開けられるし。それよりさっさと行きましょ。呼び出し食らわないうちにね」
そう、この上教師とやり合うなんてまっぴら。せっかく誕生日がバレてないっていうのに、ちっともおとなしくしててくれないんだから、ここの女たちは。
それともそういう嫌がらせなのかしら。神様の。


例えそうだったとしても、今日のあたしはそれを振り切った。ハイスクールのゲートを抜けて完全に放課後気分となったところで、もう一つの気分を呼び込んだ。
「ねっ、それでプレゼントは何がいい?一体何がほしいの?」
誕生日気分。もちろん、あたしじゃなくてヤムチャの。今ではあたしは、こんな会話をすることさえも楽しくなっていた。男の人にこういうこと訊くのって初めてだもの。…正確には3回目だけど。だって、ヤムチャがなかなか決めないから。それどころか忘れてたみたいだし。…忘れるなんてひどくない?あたしは昨夜寝付けないくらい楽しみにしてたっていうのに。いろいろ考えてたのに。張り合いないんだから…
うっかりそこまで考えてしまってから、あたしは慌てて思考を閉じた。笑顔、笑顔。余計な突っ込み入れなくていいのよ。
「何でもいいよ。ブルマのその気持ちだけで」
「今さら遠慮しないの。ほしいものくらいあるでしょ」
「うん、でも本当に何でもいいんだ」
でも、すぐにそうすることはできなくなった。理由は聞いての通り。ヤムチャは非常に柔らかな笑顔で、『何でもいい』を繰り返した。融通が利くんだかそうじゃないんだかわかりゃしない。あたしは否も応もなく、最初の時のことを思い出した。あたしたちが付き合い始めて数十分、都へと向かうエアジェットの中で初めにそのことを訊いた時のことを思い出した――

「あら、誕生日もうすぐね。プレゼント何がいいか考えといてね!一緒に買いに行きましょ」
ちょっぴり身を乗り出してあたしが言うと、操縦席にいたヤムチャではなく後席のウーロンが口を開いた。
「どこがすぐなんだよ。おれの方がずっと近いぞ。おれにも訊けよ、プレゼント」
「どうしてあたしがあんたにプレゼントあげなくちゃならないのよ」
「おまえ、それはないだろ。ひとの誕生日訊いておいて…」
「あんたのなんか訊いてないわよ。あたしが訊いたのはヤムチャの誕生日!当然、プレゼントもヤムチャのだけ!」
「おっまえ、露骨に贔屓するなあ〜」
「贔屓じゃないでしょ。ごくごく当たり前のことよ」
あの時はすっかりウーロンに邪魔されてしまっていた。あたしもすっかり、ヤムチャではなくウーロンにかまけてしまっていた。ヤムチャはやがて会話に入ってきたけれど、それは割って入るというよりはむしろその逆だった。
「あ、いや、俺、別にプレゼントはいらないから。その気持ちだけで充分…」
「何言ってんの。誕生日にプレゼントはつきものでしょ。遠慮しないで。あたしたち恋人同士じゃない!」
機内にいる全員に向かって、あたしは言った。ウーロンはもちろん、プーアルにも。だってプーアルってば、黙って聞いてるだけで全然ウーロンを止めようとしないのよ。そうしたらヤムチャが言ったのだ。
「…うん。あー、いやでも本当に。そうだな、ブルマが笑って祝ってくれればそれだけでいいよ。――なんて…」
それまで慎重に握っていた操縦桿から手を放して。おそらくは無意識に頭を掻いている危なっかしいその仕種と、ウーロンとプーアルの視線に照れた頬がすごくかわいかったの。
「けーっ。ぺっぺっぺ」
「あーもう、ウーロンってばうるさい!ところでヤムチャ、年いくつ?」
ほんの短い間のことだったけど。すぐにそんな雰囲気はなくなっちゃったけど…

――まあとにかく、かわいいなってあの時は思った。言うことも、その態度も。だけど、今改めて考えてみると損な性格っていうか。自分の誕生日くらい我儘言えばいいのに。
「物じゃなくてもいいのよ。何かしたいことはない?ヤムチャの誕生日なんだから、ヤムチャの好きなことしましょ!」
門戸を広げることも兼ねて、あたしはもう一声かけてみた。ちょっとしつこいかしら。でも『何にもいらない』から『何でもいい』にまではなったんだもの。きっと何かあるはずよ。それに、一緒に何かしたい。こんな日くらいウーロンたちに邪魔されずに、人並みにカップルっぽいことしたい…
…なんかまた、あたしが祝ってもらうみたいになってるわ。もう、ヤムチャが何も言わないから。そう、ヤムチャが素っ気なさ過ぎるのよ。もうちょっと盛り上がってくれたっていいじゃないの。っていうか、絶対そうするべきだと思うわ!
あたしの不満が伝わったのかどうかはわからない。ともかくも、ヤムチャはようやく自分の意思を口にした。それは非常に意外なことだった。
「じゃあ、マリンパークに行こうか」
「マリンパーク?って昨日行ったとこ?」
「ああ。昨日はほとんど見ずに帰っただろ?」
「…………。…そうね。いいわね。あたしも結構好きだったし…」
あたしはさっきクラスメートとやり合った時よりも遥かに強い自制心を発揮して、本当のことを言った。ええ、見てなかったわよ。だって途中で帰っちゃったからね。好きなのにも関わらず切り上げたからね。どうしてかなんて言いたくないわ。今日は怒らないって決めたんだから。今日はヤムチャの誕生日なんだから、ヤムチャが行きたいところならどこでも行くわ。…ということにしておくわ。
そんなわけであたしたちはマリンパークへと行くべく、昨日と同じ道を歩いた。昨日と違うのは、ウーロンとプーアルがいないということだけだった。それ以外はまったく同じ――なんとなくつかず離れずの距離にいるということまでも。
本当は腕組んだりしたかったんだけどな。さすがにそこまでの気分にはなれないわ。

そんな自分ではどうすることもできない拘りは、マリンパークに一歩を踏み入れた途端に薄まった。
まだ記憶に新しい、青い光に満たされた360度トンネル型水槽。揺らめく水の中を悠々と回遊するエイにサメ。黄珊瑚の海を泳ぐ色鮮やかな熱帯魚。
「わー、きれーい!」
昨日とまったく同じ台詞を、あたしは今日も口にした。昨日ほど感心している素振りはないにしても(だって二回目だから)、ヤムチャも楽しんでいるように見えた。ガラス越しに鼻を擦りつけてくるサメを、ちょっぴり遠くから笑って見ていた。やがて辿り着いた巨大な水槽のあるフロアの、床面に写り出されたモノクロの水面模様の上に佇むその姿を見た時、身近な口コミというやつを信用する気持ちにあたしはなった。
クラスメートが口を揃えて言ってたのよね。ここが今一番のデートスポットだって。できたばかりだっていうのを別にしても絶対にオススメだって。あたしはどちらかというと水族館よりは遊園地の方が好きだけど、でも確かにここに関してはそう思う。他の水族館と全然違うもの。雰囲気がとっても大人っぽいの。魚を見に来たっていうよりも海中散歩してるみたい。『遊んでる』んじゃなく『デートしてる』って感じがすごくするの。これは重要なポイントよ。そういうの、いつもはなかなか味わえないんだから。なのにプーアルもウーロンもちっともわかってなくってさ。わかってないから当然遠慮しなかった。さらにはヤムチャもわかってなかった。ちっとも二人をを咎めなかった。その上――
ふいに昨日の怒りが蘇った。あたしはそれをどうすることもできなかった。だって、何か言ってもらったわけじゃないんだもの。ただ流してやっただけだもの。そりゃあ自分からそうしたんだけど。だけど……
――はぁー…
あたしは再び自制心を発揮して、深呼吸を一つした。笑顔どころか、怒らないだけで一苦労ね。そう思いながら次のフロアへと進んだ。360度水槽、巨大水槽の次は、連続ドーム型水槽。天井がドーム型になっているトンネル型水槽が七色の水を湛えて連なっているというもの――
「わぁ…」
爽やかなフィヨルドグリーンから深いバイオレットへ。緩やかに切り替わる水の中を泳ぐ色とりどりの華やかな魚。フロアのドアが閉まる音を後ろに聞きながら、あたしはその台詞を口にした。
「すっごーい!きれーい…」
今日二回目の、でもこの場所では初めての言葉を。そう、これ見るの初めてなの。どうしてかなんて言わないわよ。怒らないって決めたんだから。
あたしのそんな繊細な気持ちは、次の瞬間踏みにじられた。軽く上を見上げながら、ヤムチャがおもむろに呟いた。
「昨日はこれ見ないで帰っちまったんだよなあ…」
「誰のせいだと思ってんのよっ!」
あたしは思わず怒鳴ってしまった。でも、しまったとは思わなかった。これを流してやるほど寛容にはなれないわ。他人事みたいに言わないでほしいわよね!っていうか、どうして思い出させるのよ。せっかくひとが忘れようと努力してるのに。
ヤムチャはすぐに頭を下げた。でも一瞬の後には笑って言った。
「ごめん。でもいいじゃないか、こうして二人で一緒に来れたんだからさ」
そして、そのまま背を向けて、さっさと先へ行ってしまった。全然反省してないわね。あたしはそう思ったけど、もう怒る気にはなれなかった。
『二人で一緒に』。今、確かにそう言ったわ。そんな言い方、いつもはしないのに。ちっともわかってない。そう思ってたのに…
あたしは足を止めた。それに気づかず先を歩いていくヤムチャの後姿は、昨日ケンカをする直前のものとまったく同じに見えた。だけどあたしはもう何も思い出さずに、その後を追った。
「あーん、もう、ヤムチャってば早い!もっとゆっくり歩いてよ〜」
ただコンパスの違うその歩幅を咎めて、ヤムチャの腕を取った。それ以外の文句は心の中でだけにしておいた。…ヤムチャってばわかってるっぽく見えて、やっぱりわかってないんだから。そういう風に思ってるんなら、なんで一人で先に行っちゃうのよ。手くらい取っていきなさいよ。もっとゆっくり過ごさせてよ。せっかくウーロンもプーアルもいないのに。ここ、今一番のデートスポットだってのに。
こういうことって本来は男の方からするべきだと、あたしは思っている。でも、今日は許してあげた。誕生日だから。ヤムチャはどことなくきょとんとした顔であたしを見た。でもあたしが歩き始めるとすぐに視線を外した。先を見るその顔に、はにかんだような笑みが浮かんだ。あの時にも似た温かい雰囲気のその笑顔。
それであたしは完全に、昨日という日を忘れた。


腕を組みながら、ゆっくりと虹色のトンネルを抜けた。
お互いを気にしながら、次のフロアのドアを潜った。正面から人が来れば、腕を引き合って道を譲った。…ああ、このなんてことないカップルっぽさ。そう、あたしはこういうデートがしたかったの。別にたいして特別なことを望んでたわけじゃないのよ。それなのに、そんなささやかな願いさえ通じないんだから。これは昨日の愚痴じゃないわ。これまでいつもずーっとのことよ。
やがて、一つのターニングポイントへ辿り着いた。海底から海を見上げるような巨大水槽を壁一面にしたカフェテリア。テーブルのすぐ横を泳いで行くマンボウを見ながら、あたしは言ってみた。
「ね、何か飲まない?…一緒に」
「ああ、いいよ」
「オッケー!じゃあ、あたし買ってくる!」
たぶん絶対ヤムチャはわかってない。あたしはそう思ったけど、構わず腕を離した。いいの、今はわかってなくても。ヤムチャはたぶん絶対付き合ってくれるもん。
わくわくしながら吹き抜けの階段を上り、二階の注文カウンターに並んだ。自分の番が来た時、あたしはメニューにはないカスタムオーダーを、はっきりきっぱり口にした。
「ストローは二つつけてね。同じところにじゃなく、互い違いになるようにね」
カップルドリンク!一つのドリンクに二つのストロー。一度やってみたかったの。今こそうってつけの機会よ。いつも行くカフェじゃできないもんね。恥ずかしくって。
あたしが言い終えると、店員は少し微妙な笑顔を浮かべた。冷やかすというよりは嘲るような…はっきり言っちゃえば『よくやるよ』みたいな乾いた笑い。数人いた他の客からの視線を背中に感じもした。それでもあたしは笑ってグラスが一つ乗ったトレイを受け取り、涼しい顔でその場を離れた。
ふふーんだ。今のうちにバカにしておきなさい。きっとどんな男がそんなことするのか確かめるでしょ。ここ、カウンターから下のフロア丸見えだもんね。おまけにあたしたちのテーブルは真ん前だし。ヤムチャの姿見たら羨ましがるに決まってるんだから。ヤムチャは黙ってれば格好いいんだから。今みたいに落ち着いてる時は文句なしなんだから。
あたしはすっかり気分を味わっていた。デート気分。カップル気分。だって、こんな風に二人きりで出かけることってほとんどないんだもの。そんでもってヤムチャってばすぐ周りの雰囲気に流されちゃうんだもの。後者に関しては今だって変わらないけど。でも、今はいい感じに流されてくれてる。白いソファとブルーに光るテーブルを階段から見下ろしながら、あたしはそう思った。するとふとヤムチャと目が合った。あたしは思わず手を振った。溢された笑みと振り返された片手に嬉しくなった瞬間、その思いが去来した。
…こんなことでいいのかしら。
なんか全然、何かをしてあげてるっていう気がしないんだけど。確かにヤムチャは楽しそうにしてるけど、それはヤムチャだけじゃないし。あたしも楽しんじゃってるもん。っていうか、あたしの方が楽しんじゃってる?…これは絶対プレゼントじゃないわよね。普通にいい感じのデートってとこ…
「うぅ〜ん…」
あたしはかなり不覚を感じて、今自分を浮き立たせたばかりのドリンクのストローを弄った。考えてみればこれも『付き合ってくれる』って思ってたわよね。あたしが付き合わせてどうすんのよ。…まあ、これはこれでいいとしても、本気で何か考えな
「きゃっ…!」
その最後の一音を口にしたのは、ふいに視界が傾いたからだった。一瞬の後にはもう、体が宙に浮いていた。足元にあったはずの階段が迫って見えた。手からグラスが飛んでいった。それが乗ったトレイごと。次はあたしの番。あたしが飛んで落ちる番――
あたしは目を瞑らなかった。そうする暇がなかったからだ。だから全部見えた。まるでスローモーションのように。
どこからともなく伸びてきた二本の腕。空中であたしを抱え込む落ち着いた黒い瞳。流れる黒い髪の向こうに見え隠れする床と天井。さりげなく一回転した視界。
どうやったのかはわからない。続きの階段をすっ飛ばして下のフロアへ着いた時には、あたしは見事にお姫様抱っこされていた。慣れていたなんて言わない。でも途中から、あたしはちっとも怖くなくなっていた。そうね、きっと一回転したあたりから。回る世界にいる人間が、あたし一人じゃなかったから。そうして顔のすぐ近くで漏らされた大きな吐息が、そのことをさらに強く感じさせた。
「ふぅーー…」
いつもとは違った意味での、気の抜けた顔。ヤムチャがそれを覗かせると同時に、少し離れた目の前の床にグラスが落ちた。中身もろともそれが四散した時、落ち着いていたあたしの心に小さな石が投げ込まれた。
「あーん、せっかく作ってもらったのに…」
もう一度あのオーダーをしに行くわけ?それはちょっと間抜け過ぎるわ。
「そんなことはどうでもいい!」
耳元でヤムチャが叫んだ。その台詞に、あたしは聞き覚えがあった。時計の針が進むと共に忘れようと努めた言葉。シチュエーションは違うけど、台詞はまったく同じ。当然、あたしは思い出した。
「グラスを気にしながら落っこちて、まだグラスを気にするのか。おまえはどこまで間抜けなんだ!」
でも、今日は突っぱねなかった。それどころか、続く言葉を最後まで聞いた。あたしのかわいいデート気分を責めるヤムチャの言葉を。不思議と自然に静かな気持ちで。不自然なのは、ヤムチャの方だった。
「…あ。悪い、今のはその…」
あたしがまったく何も言ってないのに、いきなり言葉を濁した。あからさまに引け腰となってあたしの様子を窺っていた。…もう、どうしてそうなるのよ。なんでヤムチャが謝るのよ。ヤムチャは何も悪くないのに。それどころか助けてくれたのに。別に怒ったって構わないのに。グラスに気を取られて階段を踏み外したのは本当なのに…
ヤムチャってば、一体何考えてんのかしら。あたしは思わず考えたけど、それは一瞬だけだった。答えはすぐに出た。…ほんっと弱いんだから。助けた時くらい大きな顔してればいいのにね。そのくせいつまでも抱き締めちゃったりして、わかりやすいったらないわ。
そんなわけであたしは何も言わないことにした。でも、何もしないわけにはいかない。だからそのまま黙って目を瞑り、ヤムチャの頬にキスをした。お礼を言うのもおかしな雰囲気だったから。ヤムチャの誕生日なのに、あたしが助けてもらっちゃったから。…ううん、違う。
ただ、したくなったの。他に理由が必要?
ヤムチャはヤムチャで、何も言わなかった。微かに身動ぎして、視線を動かしただけだった。…張り合いないわね。こんなことなら唇にしておけばよかったかしら。でもそのくらいはヤムチャの方からしてほしいのよね。これは今日だって譲れない望みよ。
そして、譲らなくてよかったと、その後あたしは思うこととなった。ようやく緩んだヤムチャの腕から抜け出してから、あたしはもう一度あのオーダーをしに行くことを諦めた。
「…えっと。じゃ、場所変えよっか」
ちょっとその…周りの視線が痛かったから。考えてみれば当然よね。階段から落ちた人間を助けるなんて派手なこと、注目を集めないわけがないのよ。そんなことにも気がつかないなんて、あたしどうかしてたわ。どうかしてたから、思いっきりいちゃついちゃった。それも一方的に。でもそれだって、ヤムチャがなかなか体放してくれないから…
…ダメね。この理由はちっとも説得力がないわ。抱かれてるのが嫌でキスする人間なんているわけないもの。
あたしは自分を騙すことも諦めた。…そうね。ヤムチャは強くて格好よくってお調子者のくせに妙に弱くてあたしには逆らえないけど気持ちは表に出しちゃうやつ。理想のタイプじゃないけど、なかなかかわいい相手よ。同世代に生まれてきてくれてよかった。なんでか今日はそう思えるわ。やっぱり誕生日だからかしら。
だからあたしは、そんな彼の誕生日だということに、努めて目を向けることにした。
「やっぱりプレゼントあげるわ。何がいい?」
しつこく言い続けていたら、そのうち『おまえ』とか言ってくれないかしら。…それは無理か。っていうか、言われたらあたしが困っちゃうか…
自分をプレゼントにするのって何歳くらいがいいのかしらね。そんなことを考えながら、あたしはヤムチャの腕を取った。周囲の視線は相変わらずだったけど、あたしは落ち着いてきていた。そんなことよりもっとどきどきすることを考えていたから。そしてそれは、とりあえず今年はぜーったいなさそうだから。
そう、はにかみながらも何も言わずにあたしの隣を歩くヤムチャは、あたしに妙な安心感を抱かせた。一見消極的ながらに男性的な存在感。たぶん助けてもらった後だからそう感じるんでしょうけど。人を助けることなんか朝飯前。決して恩を売らないできた人間。きっと他人の目にはそういう風に映るわよ。あたしもちょっとそう思っちゃってるし。
結局あたしたちは、今日もマリンパークを途中で切り上げた。昨日とは全然違う形で。昨日とは全然違う心境でゲートを潜りながら、あたしは過ごしたばかりの時間を整理した。さっきとは違って、ヤムチャが未だに自分の意思を口にしなかったので、そうしてみた。
腕組んで一緒に歩いて。階段から落ちそうになったところを抱き留めてもらって。お礼にキスして。それでまた腕組んで一緒に帰る…
やっぱりすごーくいい感じのデートってところだわ。これは絶対何かねだらせなきゃね。
もちろん、あたし以外の物でよ。
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