同異の男
どこかへ遊びに行こうにも、付き合わせるやつがいない。
一人で映画を観ようにも、つまんない駄作しかやってない。ショッピングしようと思っても、バーゲンもほしいものも何もない。
おまけに――

「えぇ?父さん、行かないの?」
――おまけに、では済まされなかった。実のところは、それが一番ショックなことだった。
「うん、急に生物大使のバーベキューパーティに呼ばれてね。今日は天気がいいからねえ」
「そんな〜。ロイ・Jの『光のコヒーレンスに関する論文』はどうするのよ?」
まさに青天の霹靂。一点の曇りもない青い空を内庭の窓の外に見ながら、あたしは嘆いた。『せっかくの休日なのに』。『せっかくこんなにいい天気なのに』。そこに、『せっかく目をつけていたのに』が加わった。
父さんはというと、無造作に話を振ってきたかつての自分を棚に上げて、無責任に言ってのけた。
「そうだねえ。招待状をあげるから、ウーロンくんに頼んでみたらどうだい?」
「ウーロンが科学者に見えるわけないでしょ」
呆れながらに、あたしはその案を却下した。そして次に、ふと浮かんだ自分の案をも却下した。『変身させてプーアルに行かせる』――…ダメよ。どうしたってあいつらじゃ無理だわ。頼んだってわからないに決まってる。例え見た目は誤魔化せたって、場についていけなきゃなんにもならないのよ。
「あーあ。どうして『男性限定』なんて決まりがあるのかしら。男女差別もいいところよね」
ほーんと納得いかないわ。今どき男限定なんてバレンタインくらいのものよ。大体、オークションに男も女もないでしょうが。その物の価値がわかっててお金持ってりゃいいじゃないの。
あたしは大きく溜息をついて、自分の部屋へと戻った。未練たらしくゴミと化した招待状を手に握りしめ、これから手に入れられるはずだったものを心の中に思いながら。――前時代の物理学者ロイ・ジェイ・グラウバーの『光のコヒーレンスに関する論文』オリジナル。ほしかったなぁ。父さんも畑違いの人間に誘われたくらいで行くのやめちゃうくらいなら、初めから引き受けないでほしいわ。落としてきてくれるの、すっごく楽しみにしてたのに。本当に、どうして女はダメなのかしら。価値がわかってて、お金持ってて、頭もよくて、若くて前途有望。これほど持つにふさわしい人間もいないと思うんだけど。
あーあ。今だけ男になれたらなあ…………


いつもは入れないノーズシャドウを入れてみた。眉毛はぼかし気味に。アイシャドウはベージュ。アイラインで目尻を上げて。マスカラはなし。ビューラーもほどほどに。
鏡に向かってちょっと斜めに構えてみた。目元をサングラスで隠すと、ちょうどキーテレホンから機械的な声が流れてきた。
「ブルマサマ、ブティックカラゴチュウモンノシナガトドキマシタ」
メイドロボットが運んできたのはオフホワイトのショートタキシード。淡いピンクのシャツにピンクベージュのベスト、同色のチーフタイ、ポケットチーフ、パールのタイピン。さすが一流ブランドの店員、いいセンスしてるわ。髪の色と体型を電話で簡単に伝えただけなのに。ユニセクシャルでいい感じよ。
これなら髪は悩まなくってもいいわね。身近な例を一つ思い出しながら、少し無造作に髪を後ろで束ねた。最後に細めのリボンを結んで、もう一度鏡を見た。うん。なかなかかわいくできたわ。こういう女の子っぽい男って時々いるわよね。あたしの好みじゃないけどね。
あたしは少し得意にさえなりながら、自分の部屋を出た。誰にも会わずに廊下を歩いて、誰もいない内庭を通り過ぎた。そのままエントランスへと進んだところで、いないはずの人間に出会った。
「あれ。おかえりヤムチャ、早かったわね」
グリーンのベルベットジャケットにブラウンのパンツ。修行帰りにしては珍しく、ヤムチャは小奇麗な格好をしていた。ま、今のあたしほどじゃないけど。やっぱりちょっと得意になっていたあたしに、ヤムチャは言った。
「何だ、その格好は!?」
この不躾な出会い頭の挨拶に、 あたしは取り澄まして答えた。
「何って男装よ。なかなかイケてるでしょ」
「一体どうしてそんなこと…」
「だって、『瞬時性転換マシーン』なんかを作る時間まではなかったんだもの」
なんて、例え時間があったってそんなもの作らないけど。作れないわけじゃないわよ。そりゃ畑違いだけど、ちょっと頭を働かせれば何とかなるわ。だけどそんなもの使いたくない。男になるのは見た目だけで充分よ。
「…胸はどうしてなくなってるんだ?」
その時ふいにヤムチャがそこのところを突いてきた。あたしはこの男装の唯一とも言える苦労を思い出しながら、それに答えた。
「さらしよ。ちょっと痛いんだけどね」
さらしを巻くの、すっごく大変だったの。だけど誰かに手伝ってもらうわけにはいかないし。こんなに苦労したんだもの、門前払いはなしにしてほしいわ。
「じゃあね、あたしもう行かなくちゃ。ちょっと遅くなっちゃったから急いでるの。帰ってきたら遊んだげる」
手を振りながら最後にそう言ったのは、ヤムチャがどことなく不貞腐れて見えたからだ。すっごく珍しいことよ。ヤムチャがそんな理由で修行から帰ってくるなんて。たった一ヶ月であたしに会いたくなっちゃうなんて。絶対そうよ。ヤムチャが修行に飽きたりなんてするわけないもの。おまけに妙にお洒落してるし。…んー、ちょっと惜しいなあ。でも、しょうがないわよね。
「ちょっと待て。行くってどこに行くんだ」
あたしはすっかり折り合いをつけていた。だから、やがてヤムチャがあからさまに不満を覗かせても、笑って答えることができた。
「オークションよ。科学関係の骨董品のね。本当は父さんが行くはずだったんだけど用事で行けなくなっちゃったから、あたしが行くの。絶対欲しい物があるのよ」
左手はヤムチャに捕まえられてしまっていたので、空いている右手で招待状を差し出した。招待状と引き換えにヤムチャは手を離したけど、その不満気な顔つきは変わらなかった。
「おいブルマ。これ、『男性限定』ってなってるぞ」
「うん、そうなの。おかしな決まりよね。おかげでこんな格好するはめになっちゃった」
「まさかおまえ、そのなりで行くつもりなのか?」
「もちろんよ。何日も前からこのオークションを楽しみにしてたんだから」
あたしはまた得意になりながら答えた。まったく、素直じゃないんだから、ヤムチャってば。行って欲しくないならはっきりそう言えばいいのに。まっ、もし素直になったとしたってあたしは行くけどね。
そう、すでにあたしは決めていた。だから、ようやく引き留めにかかったヤムチャの言葉も、笑って往なしてやった。
「やめておけ。バレたらどうするんだ。何か罰則があるかもしれないぞ」
「平気よ。絶対バレっこないから。ほら、サングラスかけたら結構それらしくなるでしょ」
「いや、見た目は誤魔化せても声でバレる。どう聞いても女だ、おまえの声は」
「大丈夫だって。競りの時に声なんか誰も気にしないわよ。気にするのは競り値だけよ」
「例えそうだとしたって、こんな小柄な男はいないぞ」
「何言ってんの。クリリンがいるじゃない。クリリンはあたしより小さいわよ」
んー、今日のあたしは気が長いわ。人って余裕があるとこんなに寛容になれるのね。それに引き換え、ヤムチャのこのしつこさ。ロイ・Jの他にもいろいろ買おうと思ってたんだけど、さっさと切り上げてきてやろうかしら。…さっきまではあんなに退屈だったのに。今日は忙しくなりそうね…
あたしは計画を立て始めた。すでに実行段階に差しかかっているあたし個人のではなく、今思い立ったばかりの二人の計画を。…約一ヶ月ぶりのデート。ショッピング?ううん、もっとロマンティックなのがいいわ。やっぱり映画行こうかな。評判はいまいちだけど、ラブシーンは多いらしいから。それからひさしぶりにパフェでも食べて、これまたひさしぶりに『あーん』とかやっちゃったりして…
よし、じゃあさっさとオークションに行かなくちゃね。何はともあれ、まずはロイ・Jよ。ヤムチャは逃げなさそうだけど、ロイは待ってもくれないからね。あたしは俄然気が急いてきた。再び手を振りかけると、ヤムチャが言った。
「わかったよ。俺が行ってきてやるよ…」
まるで苦虫を噛み潰したような顔で、あたしの計画を根底から覆すようなことを。でもまだこの時点では、あたしは計画を変えようとは思わなかった。
「いいわよ別に。あんた、科学のことなんて何もわからないでしょ」
「物がわかってるんなら用は足せる」
「オークションだって一度も行ったことないくせに」
「性別を偽って行くよりはマシだろ」
「だけどもし競り負けたりしちゃったら…」
「金はあるんだろう?」
…そういうことじゃないんだけどなあ。
あたしが言ってるのはあんたの性格のことなのよ。誰にでもすぐ折れちゃう性格。
軽く息をつきながら思ったそのことを、あたしは口には出さなかった。すぐに気づいたからだ。今ここでそれを言うことの矛盾に。
「そうね、じゃあ頼もうかしら。確かに顔を出すなら本物の男の方がいいものね」
あたしはすっかり感心して、素直に根負けしてやった。同時に少し考えて、二つの計画を一つに纏め上げた。そう、一緒に行くの。それがいいわ。
だって、そうしないと困るもの。ヤムチャが一人でオークションに行っちゃったら、あたしはすることも構うやつもいなくなって、また退屈になっちゃうもんね。


コンシーラーを念入りにすりこんだ。上からファンデーションをつけてさらにパウダーをはたくと、頬の傷はほとんど目立たなくなった。問題は目の方ね。特にこの上の部分。フレームで隠れるかしら。
あたしが軽く考え込んでいると、キーテレホンから機械的な声が流れてきた。
「ブルマサマ、ブティックカラゴチュウモンノシナガトドキマシタ」
メイドロボットが運んできたのはキラキラ光る生地のホワイトのロングタキシード。淡いブルーのシャツにホワイトのピンストライプのベスト、同色のアスコットタイ、ポケットチーフ。…ふうん。あたしがピンクでヤムチャがブルーか。ちょっと安直だけど、まあ悪くない感じかな。ちゃんと小物の合わせ方が違うところが心憎いわ。さすがレベル高いわね、一流ブランドの店員は。
やがてヤムチャがそれらを身につけると、あたしのボルテージは加速度的に上がった。…ものすごく似合ってる。ヤムチャにはちょっとかわい過ぎるんじゃないかと思ったんだけど、全然そんなことないわ。童話に出てくる王子様みたい。ま、傷があったら違って見えるんでしょうけど。あたしは何だか楽しくなって、仕上げの黒縁眼鏡をヤムチャの耳にかけてやった。
「どうしてサングラスがいるんだ?俺はれっきとした男だぞ」
「わかってるわよそんなこと。だけどこういう小物は必要よ。あんたは科学の知識はまるでないんだから、せめて見た目をそれっぽくしておかなきゃね」
いかにも優男といった雰囲気の衣装。かっちりとした伊達眼鏡。ちょうどというか何というか、軽く眉を寄せたその表情。
「うん、なかなか似合うじゃない。駆け出しの助手って感じがするわ」
最後に思い立って細めのリボンを束ねた髪に結びつけたところで、ソフトの準備は完了。次はハードの用意――
「絶対に見つからないようにしろよ。うっかり元に戻ったりするんじゃないぞ」
「そっちこそ、あたしが欲しいって言った物は絶対に落札してよ。はい、イヤホン、これは耳の中に入れて。マイクは喉元、スイッチは首の後ろね。喉の震えが音声になる仕組みなの。サブマイクもちゃんとついてるから、うっかり聞き洩らしたなんて言い訳はなしだからね」
――咽喉と耳に超小型インカム。さらにあたしの腕に、ひさびさに取り出したミクロバンド。そして何よりこの、お揃いとも言える白い衣装。ふっふっ、気分出てきたわ〜。
「よし、じゃあもう行きましょ。だいぶん遅くなっちゃったから、飛んでってね。オークション会場に潜入よ!」
合いの手は入らなかったけど、あたしは構わずミクロバンドを起動させて、ヤムチャの胸ポケットに滑り込んだ。ヤムチャは黙ってあたしを押さえると、そのまま地を蹴った。腕ではなく指先に抱かれて、あたしは空を飛んだ。
物事ってどう転ぶかわからないものね。諦めきれずに男装なんて古典的な方法取っちゃったけど、かえってよかったわ。なかなかできない遊びよね。あたし自身も初めて。
でもそうね、科学者のショッピングってとこかしら。デート的に言えばね。




ヤムチャの飛行速度なら、オークション会場までなんてひとっ飛び。
それでもあたしたちは充分に遅刻してしまっていた。ウェストエリアの端にある会場内に足を踏み入れた時には、オークションの前に行われる出品物の展示会はすでに終わってしまっていた。そればかりか、オークションそのものが始まってしまっていた。
『――さあ、次はNo310、前時代17世紀に作られたカルペッパー型木製顕微鏡。130000ゼニーからです』
「150000!」
『はい、ただいま150000ゼニーです。上はありませんか』
「160000!」
『はい、160000ゼニーです、160000ゼニーです。なければ、この品160000ゼニーです』
「170000!」
『170000が出ました。はい、ただいま170000ゼニーです。なければ、この品170000ゼニーです。ない様なので、この品170000ゼニーでお買上げです』
切れ目のない競りの声。会場を包む熱気と緊迫感。どうやら符丁は使ってないみたいね。ひょっとしてああいうのは映画の中だけなのかしら。それとも科学に携わる者らしく実を取ったってとこかな。
「活気あるわね〜。思ってたのとはちょっと違うけど、おもしろそうだわ」
ヤムチャは会場の真ん中辺りに座ったので、周りの買参人の様子と舞台の出品物が程よく見えた。あたしが言うと、ヤムチャは眼鏡の位置を直しながら囁いた。
「少し声が大きいぞ。おまえ、オークション来たことあるんじゃないのか?」
「ここまで本格的なのは初めてよ。もっと小さい、入場制限も何もないやつなら行ったことあるけどね」
ヤムチャの声はちょっぴり非難めいていたけど、あたしは笑って往なした。そこへ、ベストタイミングというべきかギリギリというべきか、あたしの狙っていたものを紹介する発句人の声が流れた。
『さあ、次はNo311、前時代19世紀の物理学者ロイ・ジェイ・グラウバーの“光のコヒーレンスに関する論文”、直筆原稿です。500000ゼニーからです』
「あっ、出た!ヤムチャあれ。あれ落として!1000000!」
「だから声大きいって。…1000000っていきなり過ぎないか?せめて600000くらいから…」
「いいの、どうせそのくらいの値はつくから。1000000!」
「わかったよ。…1000000!」
ヤムチャが手と声を上げた瞬間、場内に軽いどよめきが起こった。周囲から寄せられる強い視線。勝利感と優越感の両方を味わいながら、あたしは思った。やっぱりあたしも一緒にきてよかったわ。ヤムチャ一人に任せていたら、一体どうなっていたことか。ちんたらやった挙句に負けちゃってた可能性も――
『はい、ただいま1000000ゼニー、1000000ゼニーです。上はありませんか』
「1100000!」
――むっ。
とはいえ、あたしの勝利感は数瞬で潰えた。どこの誰かは知らないけど、ここまできてひとの邪魔しないでよね!
「むむ…、1200000!1200000って言って、ヤムチャ!」
「はいはい。…1200000!」
『はい、1200000ゼニーです、1200000ゼニーです。なければ、この品1200000ゼニーです』
「1300000!」
『1300000が出ました。はい、ただいま1300000ゼニーです』
「ええい、しつっこいわね!じゃあ1400000!!」
「わかってるから、そう大声出すな。落とせばいいんだろ。…1400000!」
「1450000!」
「くー、諦めの悪い!1500000!」
「あのな、ちゃんと落とすから、…1500000!」
「1550000!」
「えーい、これでどうよ。1600000!」
「おいブルマ、気持ちはわかるがもう少し…1600000!」
「1610000!」
終わらない競りの声。成り行きを見守る周囲の、緊張感に満ちた目線と表情。常にワンクッション置かれるまどろっこしさ。
「あー、もうこれで決めるわ!2000000!!」
「2000000って。それは飛び過ぎだろ。だいたいそれじゃ初値の4倍…」
「いいから早く!2000000!!」
挙句にヤムチャが口をまごつかせた。…あー、やっぱりヤムチャに頼むんじゃなかった!せっかく相手が足を止めかけてるのに。ここは絶対押すところなのに――
『2000000です、2000000ゼニーが出ました。…で、えー…今叫んだ方はどなたでしょう…?』
――はっ。
その時ヤムチャの声より先に発句人の声がマイクを通じて飛んできて、あたしの口を閉じさせた。一瞬にして会場に満ちる疑心と好奇。あたしは慌ててポケットの中へ引っ込んだ。どこかの誰かさんの張り合う声はもう聞こえてこなかった。その代わり、野次馬と化した科学者たちの声が続々と上がってきた。
「女の声みたいじゃなかったか?」
「いや、子どもだろう」
「2000000だって?本気か?一体どこのボンボンだ」
…あ〜、どうしよう。
本気も本気!ボンボンじゃなくて、あたしが落としたの!だって絶対欲しいのよ〜ぅ…
さっきまでとは違った意味であたしが歯噛みしていると、ヤムチャがポケットの外からあたしを軽く叩いた。そしてさっきまでとは一転して、きっぱり声高に叫んだ。
「2500000!!」
場内が大きくどよめいた。あちこちから囁き漏れる、その数字を復唱する声。でも、それ以外に文句をつける声は聞こえてこなかった。そして今度は発句人は素直にその台詞を言った。
『2500000が出ました!はい、ただいま2500000ゼニーです。なければ、この品2500000ゼニーです。ない様なので、この品2500000ゼニーでお買上げです』
あたしはすっかり安堵して、ポケットから顔を出した。ナイスアシスト!そう言ってやるつもりだった。でもすぐにその言葉と、頭をもう一度引っ込めた。
上からあたしを見下ろすヤムチャの大きな顔が、いつもよりちょっぴりだけ迫力を増して見えたからだ。

「まったく、だから声が大きいって言ったんだ。バレたらどうするつもりだったんだ」
でもその後すぐにヤムチャがそう言ったので、あたしはポケットから再び顔を出した。
「だって、あんたがもたもたしてるから…」
「ちゃんと落札しただろ。もういい、さっさと帰るぞ。手続きしてくるから、おまえはそのへんの物陰で待ってろ。手続き中に大声を出されちゃかなわん」
ちぇーっ。
あたしは思いっきり舌打ちしてやったけど、それにも関わらずヤムチャはあたしをチェアの上に下ろした。その背凭れへ体を預けながら、あたしはインカムのスイッチを切って文句を零した。
なーによ。せっかく褒めてやろうと思ったのに。態度悪いんだから。だいたい、ヤムチャがいけないのよ。何かしようとするたびいちいち偉そうに眼鏡に手をやっちゃってさ、手を上げるの遅いんだから。
舞台脇の競り売り人から落札品プレートを受け取ると、ヤムチャは隅の個室へと消えて行った。代弁者がいなくなってしまったので、あたしは非常に手持無沙汰に、会場内に響き渡る発句人の声へ耳を傾けた。
『さあ、次は世紀は不明ながらも前時代に作られた高度測定機。30000ゼニーからです』
『こちらは前時代18世紀に作られた蒸気機関カットモデル。40000ゼニーから』
このオークション、大きいことは大きいけど、なんだかよくわからない品物もいっぱい出てるわね。だからオークションカタログに全品載ってなかったのね…
ヤムチャの言う通り、もう帰ろうか。そう思いチェアから下りかけた時、その売り口上が聞こえてきた。
『さあ、次は史上最年少で博士号を獲得したジェラルド・ヴィンセント・ブルの“飛行力学論文”、直筆原稿です。500000ゼニーからです』
あたしは瞬時に足を止めた。そしてちゃんと聞き取ったにも関わらず耳を疑った。…今、なんて言った?
「550000!」
「600000!」
「650000!」
競りはすでに始まっていたけれど、あたしはそれには構わなかった。欲しいと思う理由がなかった。あるはずがない。
『ジェラルド・ヴィンセント・ブルの“飛行力学論文”』って、父さんがよく引っ張り出してるあれよね。あれはコピーだけど、原稿が保管庫にあるって言ってた。あたしも一度見たことがある。もう何年も前、エアバイクを改造してたら『浮遊システムを弄る気なら一度読んでおきなさい』とか言うから原稿を読んだの。確か1000000ゼニーしたって言ってたけど…
『850000が出ました。はい、ただいま850000ゼニーです。なければ、この品850000ゼニーです。ない様なので、この品850000ゼニーでお買上げです』
父さんたらいつの間に手放したのかしら。まあ、今さらあんな基礎論文、必要ないでしょうけどね。
一度は止めた足を、あたしは再び動かした。そしてもう少しで床へ着くというところで、チェアからずり落ちた。
『さあ、次は前時代20世紀の天才科学者ストレンジラヴの、死後に肉付けされた“自己増殖オートマトンの理論”の元となった書きつけ、及び直筆原稿です。400000ゼニーからです』
400000ゼニーですって!?
どうしてそんなに安いの!?あたしなんか1500000ゼニーで買ったのよ!だって書きつけったって天才科学者ストレンジラヴのだし。現在のコンピュータの動作原理となったものだし…っていうか!どうしてそれがここにあるのよ!?
尻もちをついたお尻を擦りながら、あたしは舞台へと走った。でも舞台の前へ辿り着いた時には、すでに競りは終わってしまっていた。落札値900000。その事実に不満を感じながら、舞台の袖へと運ばれていく品物を追いかけた。舞台の袖から狭い通路へ。その先にあった裏方用エレベーターへ。そしてオークション会場とは打って変わって薄暗い地下三階のロビーへ。そこで品物の乗ったカートを押す人間が、競り売り人から真っ黒なスーツを着た男に変わった。周りから急激に光と人気がなくなるにつれ、あたしの中にある仮説が浮かんできた。
気づかないうちに盗まれた?――そんなことありえない。さっきのジェラルド・ブルの論文といい、もしかして…


何も記されていないドアの向こうへ入っていった男とカートを追いかけて、あたしは部屋に滑り込んだ。間一髪でドアが閉まった。同時に自動ロックがかかった。部屋は狭く暗かった。奥が壁ではなく暗幕だった。あたしは当然その暗幕を捲り上げた。先にそうした男の足元でこっそりと。
「わっ」
「No.315終了だ」
思わず上げたあたしの声は、男の機械的な声に掻き消された。黒スーツが数人たむろするやっぱり薄暗い空間に、たくさんの品物が並んでいた。主に論文や書物の類。出品物の倉庫ってわけね。…でも、なんか変ね。どことなく違和感がある。
右から左。左から右。ゆっくりと倉庫内を眺めやった末にあたしは気づいた。――扱いがぞんざい過ぎる。どの品物も一つとして保管ケースに入れられていない。それなのに部屋は防湿されてない。ここに置いてあるすべての品物が、温い空気に晒されっぱなし。何十年、何百年も昔の紙物に対して、考えられない手荒さよ。
仮説に状況証拠が加わった。警察に言うべきかしら。今のところ断定できる証拠はないけど、鑑定すればわかるんだし…
「次の品物は何番だ?初値はいくらになってる?」
ふいに背後の暗幕が揺れた。同時に聞こえてきた低くて太い男の声はあたしをそれほど驚かせはしなかったけど、その後に続いた会話はそうじゃなかった。
「次の品物はNo.350。初値は300000ゼニーです」
「倍にしとけ。今日の買参人は甘い。所詮科学者、研究内容にはうるさくても、物を見る目はないと見える。No.311だったか?5倍の値がついたのは。信じられんな、ぼろ儲けだ」
「それは初値を低く設定しているからではありませんか?競りそのものが流れてしまっては元も子もないと思いますが」
「流れたってかまわんさ。売れ残ったらまた開催するまでだ。美術品や通常の骨董と比べて文献の贋作にはさほど金はかからん、何度でもやってやる」
えええーーー!?
何よマジ!?じゃあ、あたしのロイ・Jも偽物なわけ!?せっかく落としたのに!もう手続きしちゃったじゃないの!…これはのんびりしていられないわ。早く警察に連絡しなくちゃ…!
あたしはすぐさま暗幕を撥ね上げて、ドアへと走った。自動ロックは問題ない。そんなの数秒あれば外せる。問題は、それを外すあたしの指の大きさだ。
ドアコンソールを眼上に、ミクロバンドの解除スイッチを押した。一瞬にして、あたしの体は元に戻った。そしてそれが自分以外の者にわかるのも一瞬だった。
「誰だ貴様!」
コンソールに手を伸ばす間もなく、機械的な声が部屋に響いた。その言葉を発したのがカートを押していた男が最初に声をかけた男だとわかった時には、あたしは壁に押し付けられていた。次にジャケットの裾と袖を肘のあたりまで捲られて、壁に縫いつけられるように自分の服で自分の両腕を釣り上げられた。でもその後、あたしが思わず覚悟した一撃は、やってこなかった。
反射的に閉じてしまっていた目を開けると、低く太い声をした背の低い太った男が、黒スーツの男を手にした杖で制していた。
「ご苦労、そこまでで結構。後はわしがやる。わしと代われ」
「は…?」
「そういう荒っぽいやり方はな、わしは好かん。見たところまだ子どもじゃないか。おおかた興味本位で紛れ込んだんだろう」
なんて寛大な台詞。偽物なんかを売りつけているケチなやつとは思えない。あたしはうっかり毒気を抜かれて、ちょっぴり腕の力も抜いた。禿げた頭と赤ら顔。それを見せつけながら、男が黒スーツの代わりにあたしの手を押さえた。力は強かったけど、乱暴じゃなかった。でも、それには理由があった。知りたくもない理由が。
「だからといって許しはしないがな。舞台裏を覗くなど、明らかなルール違反だ。違反者には罰が必要だ。それに、どうやって入り込んだのかも教えてもらわないとな。それにはこういうやり方が一番だ」
言いながら、あたしの体を弄ってきた。それは慣れた手つきでタイを除けて、シャツのボタンへ手をかけた。あたしは危機を感じるというより、思いっきり硬直した。なぜなら、今あたしは男だったからだ。
「君はいくつかな?もう成人しておるのか?ずいぶんときれいな顔をしているが、恋人はいるのかな?男にこういうことをされたことは…?」
ぎゃあぁぁぁーーーーー!!
途端に脳裏をその単語が過ぎった。『男性限定』。…開催者が女嫌い。っていうか、男好きーーー!!
「いいねえ、その顔。わしはきれいな男の子をいたぶるのが大好きなんだ」
「こっ…この、変態ーーー!!」
「そのソプラノ声がまたたまらんなあ」
「いやーーーーーっ!!」
一つ目のボタンを外した指が、鎖骨をなぞった。急所を蹴りつけてやろうにも、足は踏み押さえられていて動かない。あーん、泣きたい!どうしてあたしが、こんな脂ぎったオヤジに見初められなきゃならないのよ!!
とはいえ、その理由はわかっていた。やがてその理由がなくなることも。二つ目のボタンを外したところで、オヤジの顔から笑いが消えた。三つ目のボタンは、それはもう荒っぽく外された。
「まさか…」
「きゃあっ!」
四つ目のボタンは外されなかった。代わりに杖がはだけたシャツの下を乱暴に走った。半分破れたさらしから覗く谷間を見るオヤジの顔には、先ほどの寛容さは欠片もなかった。
「おっ、女…!…おまえ、女か!」
あたしの体は自由になった。一瞬だけ。
「一体どうやって入った!女は立ち入り禁止のはずだぞ!」
「あっ…!」
オヤジはもう、あたしの手を押さえなかった。足を踏みもしなかった。ただただ乱暴に、あたしを叩きつけた。背後にあった固い壁。最初に首が、次いで頭がそこに打ちつけられた。耳からイヤホンが転がり落ちた。後頭部に走った鈍い衝撃のせいで、その時間近のドアが開いたことにあたしは気づかなかった。
「よせ!」
でも、それには気づいた。
「彼女に手を出すな!」
咄嗟に目を開けようとしたけれど、無理だった。薄れゆく意識の中で、あたしはどことなく覚えのある――でも誰だったかは思い出せない程度の――声を聞いた。

やがてあたしが目を開けたのも、誰かの声を聞いたからだった。
最も、今度はそのことについてどうこう考える必要はなかった。開けた目のすぐ前に男がいた。思わず息を呑んでしまった至近距離。鼻先数cm。彼があたしを覗き込んでいた顔を黙って引っ込めたので、あたしも黙ってその姿を目で追った。隙なく着込んだ黒のタキシード。砂色の短い髪。暗栗色の瞳。中肉中背の体つき。それらを包む暗く広い空間。コバルトブルーの、水面を思わせる柄の絨毯。ダークブルーの天井と、仄かな間接照明。一定の間隔を置いて壁に連なるアクアリウム。あたしがいたのはなかなか快適なナップチェアの上だった。
…わかるような、わからないような。頭の中の靄を振り払いつつ口を開くと、彼の方が先に言葉を紡いだ。
「おひさしぶりです、ミス・ブルマ。ご気分はいかがですか。先ほどは叔父が失礼しました」
親密そうな笑顔。そしてその挨拶の言葉。でも、あたしにはわからなかった。この手の容姿の男ってごまんといるから、今一つ記憶に残らないのよね…
「叔父はあまり教養のない人間でして、科学界にはまるで疎いのです。私が居合わせなかったら、一体どうなっていたことか。本当に事が起こる前に気がついてよかった」
もう起こってたわよ。あたしはそう思ったけど、口にするのは控えておいた。とりあえず彼は助けてくれた。甥ってところが少し気になるけど、それは彼のせいじゃない。…はずよ。
「ええと、あなたの名前を訊いてもいいかしら?それとこの…」
あたしは努めて笑顔を作って、彼の顔を窺った。同時に今もっとも気になっていることを口にしかけたのだけど、それは彼の笑顔に遮られた。
「ネフューです。覚えておられなくてもしかたありませんね。挨拶以上のお話をするのはこれが初めてですから。パーティではあなたはいつも忙しそうだった。ですが私はいつもあなたのことを見ていました」
「そ…それはありがとう。ところでこの…」
「世界有数の大企業C.Cのご令嬢。科学に長けた次世代の頭脳。美しいその容姿。叔父などのために処分してしまうのは惜しい…」
――この、いつまでも体を固定してくれているナップチェアのベルト、そろそろ外してもらえないかしら。
その台詞を、あたしは今や完全に呑み込んだ。再び鼻先に、男の顔が近づいた。その指が鎖骨の上を滑った時、あたしは気づいた。はだけたままのシャツの下に、さらしが巻かれていないことに。さっき少しだけ破かれたさらしが今ではきれいさっぱり取り除かれていることに。慌てて胸を両手で隠すと、とどめの台詞が耳のすぐ横で囁かれた。
「あなたが私にすべてを任せてくれるなら、悪いようにはしませんが…?」
きゃあぁぁぁーーーーー!!
何この展開!何この一族!…変態!好き者!最っ低な男たちね!ひとを何だと思ってんのー!
「叔父も女を一人消すよりC.Cと繋がることを望むでしょう」
「何を勝手なこと言ってんのよ!そんなのあたしがお断り…あっ!」
ふいに両腕が撥ね上げられた。瞬く間にジャケットの裾と袖が肘のあたりまで捲られて、ヘッドレストに巻き付けられた。…芸もなく同じやり方!あたしは不意を衝かれはしたけど、一撃は覚悟しなかった。
思いっきり睨みつけてやると、見た目だけは叔父と似ても似つかない甥は、叔父以上に厭らしい笑いを湛えた。
「そんな反抗的な目をするんですか?じゃあ閉じてしまいましょう」
「ちょっと!何すんのよ!」
ネフューはゆっくりと動いた。力は強くなかったし、乱暴でもなかった。だからあたしに強い怖気を与えたのは、彼の行動そのものだった。なぞるような手つきでおもむろに被せられたアイマスク。
「この口がまだわからないことを言うんですね。これも塞いでしまいましょう」
見えない世界から聞こえてくる、独りよがりな囁き。頬から顎へと滑る指。やがて輪郭をなぞるように這っていた指先が唇に触れた時、強烈な悪寒が背筋を走った。
「い…いや……」
ネフューはもう何も言わなかった。だから何も聞こえなくなった。自分の声以外は何も。音のない真っ暗な世界に、感触だけが残された。上唇に伝う爪。下唇を撫でる中指の腹。吐息が鼻にかかった。見えないネフューのねちっこい笑顔が脳裏にちらついた。アイマスクの下で瞑る必要のない瞳を閉じながら、気づけばあたしは呼んでいた。
「やっ…ヤムチャーーーッ!!」
喚ぶためでも何でもなく、ただ呼ぶためだけに。ネフューの口を噛んでやるよりも先に。
するとその瞬間、風が吹いた。
アイマスクが吹き飛んで、開けた視界に光が満ちた。部屋の暗さを吹き飛ばす、強い強い光。あたしの心を暗くしていた男も瞬く間に吹き飛んでいった。でもあたしの目は壁に激突するネフューではなく、その横の壁を破壊した光の塊に釘づけられた。
「ヤ…」
反射的に発したあたしの呟きは、チェアベルトを引きちぎるヤムチャの強い眼光に遮られた。雰囲気だけじゃなく、あたしの体を起こす手つきもヤムチャは鋭かった。半ばひっ立てられるようにナップチェアを離れた時、ネフューが床に這いつくばったまま弱々しい顔と声を覗かせた。
「…な…何だ、貴様は…」
彼は明らかに何が起こったのかわかっていなかった。あたしもちょっとぼうっとしていた。いきなり飛んできた何かの技とその風圧に、まだ驚かされていた。だって、ヤムチャのこと、忘れてた。目の前のことにいっぱいいっぱいで、いつの間にか忘れてた。…忘れてたけど、覚えてた。でもそれをすぐには認められないほど、ヤムチャは毅然として見えた。
「こいつの男だ!」
なおも鋭い顔つきで言い切って、強くあたしを抱き寄せた。それであたしはさらに呆然とした。
…なんて突拍子のない展開。っていうか、何なのよその台詞は。今のってそういうことを訊いてたわけ?おかしいってほどじゃないけど、なんか違うような気がする。啖呵の切り方間違ってるっていうか…
一瞬過ぎった建前的な思考は、でもすぐに消えた。ヤムチャが視線を寄こしながらあたしの目元を撫でたから。あたしを見つめるまっすぐな瞳が視界に入ったその時、あたしはすべての思考を投げ出して、ヤムチャの胸に顔を埋めた。
突拍子がなくってもいいの。あんな男たちを見た後だからかしら。まるでヤムチャが王子様みたいに見えるわ。
そう『あんな』。あたしにとって、二人の厭らしい男たちはもう過去の存在になっていた。 一人はまだそこにいるけど、あたしが気に病むことは何もない。きっとヤムチャが煮るなり焼くなり適当にやってくれる。あたしはしばらくゆっくりしてから警察に電話の一本も入れればそれでいい……
…はずだった。のだけど、あたしはふいに気づいた。ここでキスしてくれたりしたらすごくいいんだけどな。そんなことを思った後に。
「大変。ショートしてるわ」
あたしの王子様の強さの副作用。崩れた壁にいつまでもくすぶる光。背中越しにちらついたその光景を確認するため顔を上げると、ヤムチャが深くあたしを覗き込みながら呟いた。
「何が…」
「防音装置よ。空調と連動してるみたいね。これはひょっとすると発火するかも…」
あたしの声に反応したのはネフューだった。彼が体を少しだけ起こした直後、最初の爆発が起こった。
「きゃっ…」
あたしは再びヤムチャの胸に顔を伏せた。続く二次、三次の爆発に耐えるために。
火花は壁を伝って、連なるアクアリウムを次々と破壊した。壁の隅が崩れ始めたところで、ようやくヤムチャが動いた。あたしの頭を抱えながら諦める素振りを見せた。
「これは止められそうにもないな」
「そんなことしてやる義理ないわよ。こんなところは潰れて当然なの!さっさと行きましょ」
ヤムチャが間接的に壊した壁を背にすると、ヤムチャが直接的に壊したドアが目に入った。そちらへ向かって走りかけた途端、体が宙に浮いた。あたしは一瞬気を取られたけど、わけがわからないわけはなかった。素早く後ろからあたしの腰を抱き上げる片手。――白馬のいらない王子様。確実に助けられるであろう余裕から、ヤムチャの首に腕を回すよりも先に、あたしはネフューに手を振ってあげた。
「バーイ。後始末がんばってね」
倒れたままのネフューの顔には情けなさしかなかった。それを見て、あたしは彼の存在そのものを忘れ去ることにした。


あたしの王子様はまた、茨の道に遮られることもなかった。
っていうか、道いらないみたい。そのことを、あたしは目ではなく感覚で確認した。ヤムチャがすべての天井を破って先へと進んだので、あたしは始終目を閉じていなければならなかった。だからヤムチャが引き起こした結果を知ったのは、外に出てからのことだった。
建物の回りを囲む消防車とパトカー、そして消防士と警察官。 次々と保護される科学者たち。燃え上がる炎。爆音と共に崩れ落ち、瓦礫と化していくオークション会場――
「派手にやったわね〜…」
天井を破ったことも関係あるんじゃないかしら。そう思いながらあたしが呟くと、ヤムチャが一時消していた鋭さを覗かせた。
「元はと言えばおまえが原因だろ」
あたしは思わず眉を寄せた。精悍なその表情に文句はなかったけど、台詞には当然文句があった。
「なんであたしが原因なのよ?あれはあんたが…」
「誰にでもいい顔するな!」
は?
強気にそう遮られて、あたしの眉の皺はさらに深まった。一体何の話をしてるわけ?いちゃもんっていうか、意味わかんない。
「いい顔って何よ?わけわかんないこと言わないでよねー」
普段のあたしだったら、絶対に問い詰めてたと思う。だけど、この時は流した。理由は…まあ、わかるでしょ。
ヤムチャはちょっと目を細めて、あたしの髪を弄り出した。でもすぐに手を止めた。それは、あたしの髪が隙なく括られていたからではなかった。まっすぐにあたしを見るその瞳には呆れたような光が湛えられていた。
「おまえは人に言ったことをすぐ忘れちまうからなぁ」
「はぁ?」
「どうして俺が今日C.Cへ来たと思う?」
あたしはすっかり煙に巻かれた。本当に 一体何の話をしているの?突拍子がないにも程があるわよ。あたしが黙っていると、ヤムチャはやがて不貞腐れたような顔になって、それは居丈高に叫んだ。
「おまえとデートするためだぞ。一ヶ月ぶりに!おまえとデート!!」
でも、それはあたしの心には拗ねたように響いた。かわいくないけど、かわいい態度。良くも悪くもオークションは終わったし、警察に連絡する手間も省けた。あたしの気持ちは一瞬で決まった。計画はまだ何も立てていなかったけど、とりあえずは笑って始めることにした。
「なーんだ。そんなのちゃんとわかってたわよ。あたしだってそのつもり…」
「わかってた!?それならどうして来なかったんだ」
のだけど、それはまたヤムチャに遮られた。おまけにまた煙に巻かれた。来るって何よ?来たのはヤムチャの方でしょ。まさか修行先に来いとかそういうことを言ってるわけ?それはかわいいというより、何様って感じ――
「せっかく俺が修行を切り上げて来てやったのに。やめるにしたってせめて一言断れ!」
…………。
この瞬間、あたしは心の中でも無言になった。さらにまたもや煙に巻かれた。あまりに巻かれ過ぎて戻ってきた。なんとなく話が見えてきた。ううん、全然見えてはいないんだけど、なんていうかその…
「ねえヤムチャ、…えっと、さっきから一体何の話をしているの?もうちょっとちゃんと説明してくれると嬉しいんだけどな〜…」
ちょっぴり品を作って、あたしはそう訊いてみた。でも、ヤムチャは誤魔化されてくれなかった。今や完全に非難口調となって――いえ、最初から非難口調であったことが、次の台詞で明らかになった。
「約束してただろ!今日、俺と!一ヶ月前、いろいろ俺に言わせた時に!」
「えーー……――」
あたしは完全に呆気に取られて、ヤムチャの言葉を反芻した。…約束。今日…したような、してないような。一ヶ月前…何を言わせたのかしら。はっきり言って、あたしには全然覚えがなかった。でも、一つわかっていることがあった。
ヤムチャはそういう嘘はつかない。今までそんな勘違いをしたこともない。
「――っとぉ…」
「もうおまえとは約束しない。誘いにだって乗らないからな!」
あたしが言葉を濁しているうちに、ヤムチャはそんな無茶なことを言い出した。そう、無茶よ。だって…
それきりヤムチャは黙ってしまった。視線も外してそっぽを向いた。不貞腐れたように腕を組むその姿。一見鋭く見える黒い瞳。あたしは一瞬困ったけれど、すぐに楽しくなってきた。ヤムチャがあまりに強気だから。そう、この時のあたしには、ヤムチャのすべてを笑って受け止めることができた。
「せっかく格好よく助けてくれたんだから、そういうこと言わないの。いいじゃない、これから付き合ってあげるから。ね!」
ヤムチャはつられてはくれなかったけど、あたしは構わなかった。屈めてはくれないその体に手を伸ばして、できるだけのキスをした。誤魔化したわけじゃない。さっきの続き。あたし、知ってるの。さっき慰めてくれてた時、キスしてくれようとしてたの。ヤムチャはちゃんとわかってる。あたしのこと、考えてくれてる。そんなやつが、誘いに乗らないなんて無理に決まってるもんね。
あたしが体を離した時、ヤムチャは意外そうな顔はしていなかった。当たり前のような顔もしていなかった。何とも言えない顔をして、あたしの首元に手を触れた。でも、一瞬あたしが期待したように、キスをしてはくれなかった。
何も言わずに淡々と、あたしの衣服の乱れを直した。正確に言うと、シャツのボタンを三つ留めた。次にベストの前を合わせた。それからジャケットの形を整えた。最後に曲がったタイまで直してくれた。あたしは思わず呆然として、ヤムチャの顔色を窺った。
すっごい嫌み。何その、『何も起こってません』みたいな態度。ひょっとして結構本気で怒ってる?…うちまで迎えに来てくれたくらいだから、そんなに怒ってないと思ってたんだけど。一体何を約束してたのかしら。これは思い出さないとヤバそうね……あの時間から約束してたってことはショッピング?それとも映画?遊園地?ダメだわ、絞りきれない。意地悪しないで全部教えてくれればいいのに――
その時だった。ヤムチャがキスをしてきたのは。
「んっ……――」
一瞬だけ、あたしは息を詰まらせた。この時のあたしにとっては意識外のことだった。でも意外じゃなかった。そういうこと考えるのやめかけてたけど、考えられないほどじゃなかった。さっきもそう。もう今日はこんなことばかり。忘れかけてるとやってくるの。…タイミング遅いんだから。いつもならそう思うところだけど、今日は違う。
だって、ヤムチャはあたしを助けてくれた。あんな啖呵切った挙句に、ネフューをやっつけることよりもあたしを慰めることを優先した。今だって最後まであたしを追い詰めはせずに、結局は許してくれた。
…のだと思う。キスを終えてもヤムチャが何も言わなかったので、あたしはできるだけさりげなくご機嫌窺いしてみた。
「じゃ、行きましょ。そうね、久しぶりにバーなんかいいわね」
腕に絡めた手を、ヤムチャは振り解かなかった。思い出していないことを隠すため言った言葉も否定しなかった。ヤムチャが口にしたのはある意味では現実的な、でも今のあたしたちにとっては完全に脱線した台詞だった。
「その格好でか?」
「あら、いけない?男の恋人に見えるかしら?」
「…それはないだろうな」
「じゃ、いいじゃない」
いつものようにあたしに合わせてゆっくりと歩くヤムチャの腕を取りながら、あたしは計画を立て始めた。すでに実行段階に差しかかっているあたしたち二人の計画を。あたし個人の都合も盛り込んで。…そうね、お酒を飲みながらのんびり聞き出してみようかな。やっぱり思い出せないままだとすっきりしないし…
オークション会場を背にすると、空の色が燃える赤から爽やかな青に変わった。それで、のんびり聞き出すにはまだ幾分時間が早いことにあたしは気づいた。
「その前に少し時間潰さないとね。やっぱり食事かしら。映画は…今あんまりいいのやってないのよね」
だから実を兼ねて、軽く始めてみることにした。ヤムチャは笑うでも怒るでもなく、ただ漠然と言葉を漏らした。
「ああ、そうなのか」
映画じゃないのね。じゃあ遊園地かしら。ヤムチャって遊園地好きだし。ショッピングじゃ、ああは怒らないだろうし。
「何か食べたいものある?少しかっちりしたレストランに行ってもいい?」
なんとなく絞り込んだところで、あたしは一時手を引いた。この格好で遊園地を振るのは不自然よ。それにそれほど行きたいとも思わない。――黒い髪に映える白いタキシード。いつもとはちょっと違う雰囲気の、爽やかなコーディネート。せっかくこんな格好させてるんだもの、相応のところに行かなきゃね。
「いいけど、個室にしとけよ。俺はともかく、おまえのその格好がな…」
「そんなに気になる?じゃあ、途中でドレス買って着替えるわ」
「…いや、そこまですることはないさ」
あ、やっぱりショッピングじゃないのね。
やんわりと否定するヤムチャの言葉を聞いた時、あたしはそう思った。…りはしなかった。納得ではなく意外が、心の中に湧き起こった。
あんまりないことよ。ヤムチャがあたしの買い物を止めるなんて。喜び勇んでとまではいかないにしても、いつも何も言わずに付き合ってくれるもの。いかにも『付き合ってやってる』っていう雰囲気でね。
どうやらヤムチャは口で言うほど不満があるわけではないらしい。個室がどうとか言うわりに、今この往来では腕を解こうとしない。火事に目が向いてるとはいえ、キスしてる時だって遠くに人はいた。そうよね。王子様は何があってもどんな姿でも、お姫様を愛するものよ。
だから、お姫様も王子様を愛するのよね。
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