値偶の男
夏休み!
テストをパスしたら夏休み。臨海実習を終えたら夏休み。
夏といえば当然海。そして山。去年はそういうところに一緒に行く相手を探すため、そういうところに行った。でも、今年はその必要はまったくない。
そういうところに行く相手はもういるから。…不必要なやつばっかりだけどね。

「できましたブルマさん!あってると思うんですけどどうですか?」
今夜も一心不乱にデスクに向かっていたプーアルが、いつにも増して明るい声を響かせた。だからあたしは手と思考の両方を止めて、プーアルが嬉しそうに差し出したドリルの中身に目を走らせた。
「ん?ああ、いいんじゃないの」
そしてシンプルに答えた。すると途端にウーロンが文句を言った。
「おっまえ、適当だなあ。ちゃんと見てんのかよ」
「うるさいわね。見てるわよ。見てるからいいって言ってるんでしょ」
っていうか。算数に適当も何もないでしょ。あってるかあってないかしかないんだから。そんなもの一目見ればわかるわよ。
「わーい、やったあ!これでヤムチャ様のところへ行ける!!」
こういう時いつもならなんとなく身を竦めてあたしとウーロンを見比べるプーアルは、今はまったく何も目に入っていないように、そう歓喜の声を上げた。そしていそいそとドリルとペンを片づけ始めたので、あたしは否応なくウーロンだけを相手にすることとなった。
「プーアルは全部終わったのね。ウーロン、あんたは?さっきから文句ばっかり言ってるけど、ちゃんとやってるの?」
「やってるよ。おいプーアル、終わったんならちょっと手伝えよ」
「ダメよ!ちゃんと自分でやりなさい!」
すかさずプーアルにドリルを手渡そうとするウーロンと、それを素直に受け取ろうとするプーアルを、あたしは同時に咎めた。ウーロンもウーロンだけど、プーアルもプーアルよ。いつもだったら絶対に、あたしと同じことを言ってるところなのに(『ダメだよウーロン、自分でやらなきゃ』とかってね)。ヤムチャが絡むと、途端に甘くなるんだから。
「一緒に行きたきゃ、さっさとやっちゃいなさい。言っとくけど、終わりそうもないからって手伝ってなんかやらないわよ。あんただけおいてくからね」
「くっそ〜。わかったよ。あーあ、何で夏休みの宿題なんかあるんだろうなあ」
ついにウーロンは、世の中にまで文句をつけ始めた。あたしはそれには構わず、再び暇潰しに取りかかった。
いくらヒマだからって、そんな不毛な論争にまで付き合ってやる気はないわ。初等教育くらいはちゃんと受けなきゃダメよ。特にウーロンみたいな落ちこぼれは。
「12時になったら部屋出てってよ。あたしは寝るからね。本当はもう眠いんだから」
「もう寝たっていいぜ。おれはおれで勝手にやるからよ」
「あんたが部屋にいるのに寝られるわけないでしょ!」
はぁー。
やっぱり今夜もまた、あたしは溜息をついた。そろそろ両手の指の数に達するであろう、同じ溜息を。
『早く宿題終わらせてしまいたいから見てほしい』。その言葉を受け入れたあたしがバカだったわ。正確には、そう言ったプーアルに便乗するウーロンを受け入れたことがだけど。それと――
宿題を片付けたら夏休み。…あたしも、そんなこと言わなきゃよかった。


水着にサンダル。帽子に浴衣。
夏のアイテムをカプセルいっぱいに詰め込んで、あたしは自分の部屋を出た。
しばらくうちには戻ってこないわ。今年の夏休みはカメハウスよ。あそこは生活するには不向きだけど、夏休みを過ごすとなればいい場所よね。海に山、きれいな風景にのどかな雰囲気。バカンス的な要素がほとんど揃ってるんだもの。
「ちょっとぉ、ウーロン。まだなの?早くしないとおいてくわよ!」
そんなことを考えながら、エントランスのキーテレホンへと向かって叫んだ。夏休みに入ってから一週間。さんざんあたしの足を留めてきたウーロンは、最後まで偉そうにその態度を貫いた。
「少し待てってばよ。そう急かすなよな。おれは今、宿題を終わらせたばかりなんだぞ。…なあ、明日にしようぜ。今から行ってもどうせ夜になっちまう――」
「ちょうどいいじゃない。夜になったら花火をやるわよ。どーんと派手にね!」
「…おまえ、完全に脳みそ浮かれてんな」
「四の五の言ってないで早くしてよ。おいてくわよ」
「だから少し待てって…」
「お・い・て・く・わ・よ」
もうあたしはこの一言しか言わないことに決めた。というより、他に言うべきことが何もなかった。ええ、浮かれてるわよ。さんざんおあずけされたんだもの。浮かれないはずがないでしょ。
「早く行こうよ、ウーロンー」
こういう時いつもならなんとなく縮こまって成り行きを見守っているプーアルが、今はまったくその逆に、あたしを押し退けてキーテレホンに飛びついた。プーアルはすでに用意を済ませているようだった。だからあたしはウーロンのことはプーアルに任せて、エアジェットをカプセルから出した。
エンジンをかけて、空を見上げた。綺麗な夕日に、もくもくとした入道雲。いかにも夏って感じね。さて、あそこはどうかしら。いっつも夏だけど、それでも夏は夏って感じがするのかしら。
…一夏の思い出、ってやつはあるのかしら。




「おや、みなさん。こんばんは」
カメハウスに着いて、一番最初に顔を合わせたのはウミガメだった。
「老師様、ランチさん。ブルマさんたちがいらっしゃいましたよ」
「あら、いらっしゃいみなさん。おひさしぶりですわね」
「なんじゃ来たのか。しばらく来んかったから、もう飽きたのかと思うとったわい」
その次に会ったのはランチさんと亀仙人さん。ランチさんの手には冷茶の乗ったトレイ、亀仙人さんの手には煙管。そしてテーブルの上には積み重ねられたお皿。ざっと部屋を見回しながら、あたしは簡単に訪問の挨拶を済ませた。
「夏休みだからね、いろいろ準備してたの。これお土産よ。ねえ、ヤムチャとクリリンくんは?」
「まだ修行じゃよ。もうじき戻ってくるじゃろ」
「なんだ、そうなの。じゃあ夕食これからなのね。ランチさん、支度手伝うわ」
「ありがとうございます、ブルマさん。でもいいんですのよ、もうほとんど終わってしまいましたから。あとはお二人が帰ってくるのを待つだけですわ」
「そう?じゃあ外で二人を待ってることにしよっと」
その他にすることはとりたててなさそうだったので、閉まりかけていたドアを開けて外へ出た。後ろ手にドアを閉めてポーチに腰を下ろすと、温い風に乗って開いた窓の中から声が流れてきた。
「忙しないのう…」
「あいつ浮かれ過ぎだよな」
「ふむ、どうやらヤムチャのやつめに飽きたわけじゃなかったようじゃな」
ま・る・き・こ・え。
そういうことはプーアルにも言ってやってほしいわね。あたしはそう思いながら、軽く頬杖をついた。空にかかるオレンジ色のカーテン。金色に染まる入道雲。地平線に大きく輝く眩い太陽。大地全体に広がる夕焼け。真夏の常夏の夕暮れの風景…
…いつもとあんまり変わらないわね。ちょっと日差しが強いくらい――
「あ!」
「よう、ブルマ。海水浴場へ行った時以来だから…2週間ぶりか」
ふいに日差しが遮られた。逆光の中でもわかるその笑顔。軽い文句を用意しながらヤムチャの方へ顔を向けると、今度はクリリンくんが横から出てきてあたしの視界と声を遮った。
「違いますよ、ヤムチャさん。3週間ぶりですよ」
「一ヶ月ぶりよ!」
あたしは思いっきり突っ込んでやった。ヤムチャのみならず、クリリンくんにも向かって。
「まったく。カレンダーくらい見なさいよ。あんたたち、世捨て人?」
おまけに何よその言い方。まるで何日空いても同じみたいな感じ。
「ひどいなあ、ブルマさん。そんなことないですよ。ここらの人たちはみんな、毎朝おれたちの配る牛乳を今か今かと待っているんですからね」
「それは修行でしょ」
あたしはまた突っ込んでやった。クリリンくんに向かって。初めはこいつらの方がいろんなことを修行って言い張ってたのに。いつの間にかそれを言い訳に使うようになってるわ。
「まあまあブルマ。冗談だよ、冗談」
「つ・ま・ん・な・い!」
最後にヤムチャに全力で突っ込んで、あたしはカメハウス住人全員との挨拶を終えた。その後即行でドアを潜りながら思った。
最もあたしに会いたいと思うはずの人間。そいつが一番手応えないわ。


逆光。さらに兄弟子越し。
だから、あたしは気づかなかった。初めにヤムチャのその蜂刺され傷に気がついたのはプーアルだ。
だって、プーアルが飛びついた首元に、その一つがあったんだから。あたしはすでにキッチンへ行ってたんだから。そしてそれがそのまま、プーアルが手当てをする理由となった。スープを温め直しているランチさんの横にお皿を並べていると、リビングからのんきな主従の会話が聞こえてきた。
「すみませんヤムチャ様。もっと早くに来たかったんですが、夏休みの宿題がとても多くって…」
「…夏休み。そうか、もうそんな季節か」
「はい。一ヶ月以上あるんですよ。宿題は全部やってきましたので、夏休み中ずっとヤムチャ様のお世話ができます!」
「はは。それはがんばったな」
がんばったのはあたしよ。そう心の中で突っ込んだ時、ウーロンが二人の会話に割り込んだ。
「本当に大変だったぜ。ブルマは横からガミガミうるさいしよ」
「何よ、その言い方は。あたしはみてあげてたんでしょ!」
それであたしも割り込まざるをえなくなった。それまではなんとなく、気にしていない振りをしてたのに。だって、傷の手当てをしてることはともかく、プーアルのその態度には同意できなかったから。…たった一ヶ月会わなかったくらいで何よ。それくらいで言い訳する必要なんかないわよ。いちいちそんなことしてたら三年ももちっこないわ。
「手当て終わりましたか?じゃあ、お夕食にしましょうね」
スープカップを運ぶランチさんに続いてお皿を運んでいくと、みんながテーブルに集まってきた。なにげなく席につく一同の中で、どことなくおずおずとしたクリリンくんの様子が目についた。その瞬間、あたしの中にちょっぴり新鮮さが湧き上がった。
「クリリンくんが一箇所で、ヤムチャが五箇所か。やっぱり兄弟子だったのねえ」
刺され傷の数よ。普段対等っぽく見えるだけになおさらそう思うわ。
とはいえ、あたしはそれほどヤムチャとクリリンくんを比較していたわけではなかった。比較する必要、別にないから。傷の数だってそんなには気にならない。傷はできても構わない。だって武道の修行だもの、できないわけがないわ。問題は、できる箇所ね。
「ちくしょう、あの時、陽が差し込んでこなければな〜」
一応は褒めたにも関わらず、クリリンくんはとても悔しそうな顔をした。その理由はすでにわかっていた。
「木漏れ陽の逆光にやられるとは、クリリンも案外と運がないのう」
「だな。しかもその一箇所が尻っていうのがな。いくら薬塗るためったって、鏡にケツの穴映したくはねえな、おれは」
そう、その傷の箇所が問題なのよ。お尻を刺されるくらいなら、首や腕をいっぱい刺される方がまだ様になるってもんよ。とにかく、あたしはヤムチャにはそういう傷は作ってほしくないわ。手当てしてあげられない部分とか、あと顔には絶対ね。
「ウーロン、下品なこと言わないの。これから食事するのよ!」
無作法なブタを一喝して、あたしはヤムチャの隣に座り込んだ。なんとなく。今までここに来た時はいつもそこに座っていたから。テーブルの上には相も変わらずおいしそうな匂いを放っているランチさんの手料理。突然来たにも関わらず嫌な顔一つしない優秀なハウスキーパー。だから物足りなかったのは、目の前の光景のせいじゃない。単に、静か過ぎる隣人のせいだ。
ヤムチャのやつ、いつにもまして無反応な気がする。貶されたってわかってるのかしら。
…つまんないの。


だから、その後ヤムチャが目を瞬かせて驚いてくれた時、あたしはちょっぴり得意になった。
「えっ、作った?って、花火をか?」
「そうよ、すっごいでしょ!」
西の都よりもだいぶん遅くに訪れた夕闇の頃。あたしはかねてよりの計画通り、花火をすることにしたのだった。虫の声を近くに聞きながら花火を取り出すと、ウーロンがこともなげに言い放った。
「花火くらい買えばいいのによ。浮かれてるを通り越してヒマ人だよなー、おまえ」
「誰のせいでヒマだったと思ってんの?」
そう、あたしがわざわざない知識を仕入れてまでこんな消耗品を作ったのは、ウーロンのせいなのよ。待ちきれないイライラを誤魔化すため。なのにまったく、ウーロンてばかわいくな…
「まあまあ、じゃあさっそく見せてくれよ、そのヒマの成果をさ」
か・わ・い・く・な・い。
ふいにヤムチャが薄く笑って言ったので、あたしは視線をそちらへ向けた。と同時に、ヤムチャがあたしの背中を叩いた。まだしてもいない失敗を励ますような手つきで。当然、あたしは睨んでやった。
「ふんだ。よっく見てなさいよー」
「はいはい」
きーっ。かっわいくなぁい!
例によって白けたウーロンの目と、どことなく遠巻きなカメハウス住人の視線を浴びながら、一つめの花火に火を点けた。
シュルルルル…、パーン!
勢いよく発射した打ち上げ花火は、光の軌跡を描いて夜空へ飛び立った。直後に広がる花火の光――
「やった!成功よ!!」
付焼き刃で作った割にちゃんと上がったわ。あたしってどうしてこうも天才なのかしら!
「ねっ、すごいでしょ!」
あたしはすっかり得意になって、隣に佇む男を見た。ヤムチャはにっこり笑顔になって、でもこう言った。
「うん、すごいすごい」
ええい、なんなのその、とってつけたような言い方は。そう文句の言葉を浴びせようとした時、さっきからずっと黙ってあたしたちのすることを見ていたカメハウス住人達が、一斉に口を開いた。
「ふむ。なるほど、確かに花火じゃの」
「ずいぶん高く上がりましたねえ。雲の上までいったんじゃないですか。カメであるわたしが見るにはちょっとキツい角度でしたよ」
「もう少し模様がこっちを向いててくれるとなおいいんっすけどね」
「いや、なかなかたいしたもんだぜ。おまえ、ひょっとして弾丸の調合できるんじゃねえのか。オレに特製ナパーム弾作ってくれよ」
あたしは思わず口を噤んだ。夕食の途中から金髪になっていたランチさんの銃を構える仕種に困りもした。その直後だった。
「…あぁぁぁぁぁーーーーー!!」
ドーーーーーン!
遠くで何かの声がした。近くで大きな音がした。次の瞬間亀仙流の三人がそちらを見たので、何かが屋根の上に落ちたのだということがわかった。
「なんだ?」
「こりゃまたえらい勢いで落ちてきたのう」
「花火の殻じゃないの」
「殻は叫びませんよ」
えっ、今のって人の声なの?
あたしが猫だと思ったそのものは、あたしたちが会話を続ける前に起き上がった。薄闇の中、家の光の届かない屋根の上。月明かりも薄かったけど、すぐにわかった。
「いちちちち〜…おー、いて〜」
「孫くん!」
「悟空!!」
わかりやすい髪型。わかりやすい口調。そして――
「あれ?ブルマ…みんなも。なんでここにいるんだ?」
「何言ってんだ。おまえが落ちてきたんだぞ」
――わかりやすいボケ。そしてそれは、あたしが止めるまで続いた。
「オラ道よくわかんなくなったからいっぺん高いとこから見てみようと思ってジャンプしたんだ。そしたらいきなり火の玉が襲ってきて…」
「いいから早く下りてらっしゃい。一体どこに当たったの?手当てしてあげるわ」
すでにあたしにはわかっていた。飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していくこの子を撃ち落としたのはあたしの花火だということが。
ランチさんの言うように、あたし弾丸作れるかもしれない。


孫くんとは少し前に占いババさんのところで会ったから、それほどひさしぶりというわけじゃない。でもすでに、積もる話はあるようだった。
「名前を呼ぶ?それだけなのか?」
「ああ、そんでよ、返事しねえと呑み込まれちまうんだ。ひょうたんからこうパーッとへんてこな雲が出てきてよ…」
「ちょっと孫くん!こっち向かないでよ!」
でもあたしには、そんなこと関係なかった。…いえ別に、話に水を差そうというわけじゃない。
あたしはただ、今は孫くんとは向き合いたくない、それだけだった。
「それで呑み込まれちまったのか。で、それからどうしたんだ?」
「うん。オラ如意棒持ってたから、下に落っこちる前に如意棒をこう壁に向けてよ…」
「こっち向かないでったら!それにパンツ下げ過ぎ!」
だからあくまで、話を聞き出そうとするヤムチャやクリリンくんにではなく、話をする孫くんに釘を刺した。孫くんはまったくあたしの言うことをきかずに体ごとこっちを向いて、惚けた顔で言った。
「えー?だっておめえがシリ見せろっていうから…」
「お尻じゃなくてお尻にある傷を見せろって言ったのよ、あたしは!」
「それのどこが違うんだ?」
「全然違うでしょ!!」
あたしが思いっきり突っ込んでやると、あっけらかんと笑いながらヤムチャが言った。
「ははは。どれ、俺がやってやるよ」
お・そ・い!
瞬時にあたしの矛先は切り替わった。だって本当に遅いんだもの。孫くんが『お尻』って答えた時点でそう言ってほしかったわ!ま、実のところはヤムチャじゃなく孫くんの態度が問題なんだけど。孫くんのなんか見たってなんとも思わないけど、そういうもの自体を見たくないのよ、年頃の女の子としては…
「…で、オラどうしても我慢できなくってよ、そこでしょんべんしちまった」
「ははは」
……
…………
………………。
孫くんの傷の手当てから解放されると、あたしにはもう何も言うことがなくなった。正確には、あるけど言いたくなかった。相変わらずガキね…。お尻を出しながらそういう話をする孫くんを横目に諦めからそう思った時、ウミガメが大きく欠伸をした。
「ふむ、なかなかよい旅をしておるようじゃの。今晩はここに泊っていくがよい。おぬしら、あまり夜更かしするでないぞ、明日の修行に響くからの」
そして亀仙人さんがなんとなく〆るようなことを言った。それであたしは、今日という日にこれ以上顔を出すことをやめることにした。
「あたしもう寝るわ。その前にお風呂借りるわね」
後はガキ…いえ、弟子たちの時間よ。ひさしぶりに会ったっていうのにそういう話ばかりに花を咲かせるデリカシーのないガキ…いえ、男たちのね。




翌朝。
すでに空っぽとなっているランチさんの布団(早起きしたってことは寝ている間に変身したのね)を横目に窓を開けて、朝靄の中に昇るきれいな太陽を浴びながら、あたしはその声を聞いていた。
「よし、では始めるぞい」
「はい!!」
閑静な田舎の雰囲気を台無しにする、師匠と弟子たちの掛け声。時刻は4時40分。相変わらずうるさいわね。これじゃバカンス的要素はあっても、バカンス気分にはとてもなれそうもないわ。遠ざかって行く甲羅の上にある黒い髪を見ながら、あたしは軽い溜息をついた。同時に窓に手をかけた。直後、真下の軒下に動かない黒い髪を見つけた。
「あら、おはよう孫くん。そこで何してんの?」
「おっすブルマ。オラ、おいてっかれっちまった」
孫くんは2階のあたしを見上げて、おそらくはがっかりしていると思われる惚けた声でそう言った。それであたしは、もう一度眠ろうと思っていた体を、窓から乗り出すこととなった。
「追いかければいいじゃない。まだそんなに遠くまで行ってないでしょ」
孫くんが何の話をしているのかはすぐにわかった。あいつらも起こしてあげればいいのに。どっちが同室だったのか知らないけど、案外冷たいわね。
「うん、でもじっちゃんがダメだって。クリリンとヤムチャの邪魔すんなって。オラにはじっちゃんの修行もういらないって言うんだ」
「へーーー」
あたしは思わず声を上げた。ひさしぶりに亀仙人さんの真面目なところを見た気がした。偶然とはいえふいにやってきた弟子に対するには、クールな態度よ。昨夜もわりとクールだったし。
「じゃ、そうしておくのね。修行は遊びじゃないんだから。特にこの朝っぱらからやってるやつはノルマってのがあるんでしょ」
「牛乳配達にクルマは使わねえぞ」
「クルマじゃなくってノルマ!」
「何だそれ?」
「やらなきゃいけない分ってことよ」
あたしが言うと、途端に孫くんは声を高めてこう言った。
「うん、じっちゃんもそう言ってた。だからオラ、湖の修行は一緒にやるんだ!」
「…あっそ」
その笑顔を見て、あたしはすっかり拍子抜けしてしまった。慰めてやる必要なかったわ。それに、せっかく一緒に遊ぼうと思ってたのに。…どいつもこいつも修行、修行。夏休みだってのに、一緒に遊ぶやつもここにはいないんだから。
あたしはまた軽い溜息をついた。でもすぐに気分を持ち直した。…湖の修行って確か午後からだったわよね。
「ねえ孫くん、午前中ヒマならあたしと海に――」
だけどその気分は、またすぐに壊された。
「おまえら、朝っぱらからうるさいぞ。今何時だと思ってるんだ。話すんならリビングに行けよな!」
寝惚け眼のウーロンが、ノックもせずにドアを開けてそう叫んだ。どっちがうるさいのよ!あたしはそう言ってやりたかったけど、できなかった。
ちらと目に入った壁時計の針が、5時を差していたからだ。

「悪かったわよ。もう寝るから出てってよ。ほら、窓もちゃんと閉めたから」
そこまで言うと、ウーロンはぶつぶつ言いながらようやく部屋を出ていった。でもあたしがベッドに潜り込むと、またドアが開いた。し・つ・こ・い。今度はそう言ってやろうとしたあたしの視界に入ってきたのは、孫くんだった。
「ブルマ、オラ腹減った」
同時に腹の虫も鳴いた。あたしは思わず嘆いた。
「だからって、どうしてあたしのところに来るのよ。ランチさんとかウミガメとかがいるでしょ」
「それがどっか行っちゃってていないんだ。ウミガメはまだ寝てるしよ」
「あたしだってこれから寝るのよ!!」
慰めてなんかやるんじゃなかった。あたしは溜息をつきながら、ベッドから体を起こした。
「しょうがないわね。あたしのおやつをあげるわ」
生活するには不便な場所で長いバカンスを楽しむための必須アイテム――好物のおやつ。カプセルからそれらを取り出すと、孫くんは一瞬きょとんとした顔をして、でもすぐに手を出した。そしてまたきょとんとした顔をした。
「うへえ、なんだこれ。このイチゴおかしいぞ。汁気が全然ねえ」
「それはドライイチゴよ。あたしの定番おやつなの」
「こっちのイチゴはなんだかぐにゃぐにゃしてるしよ」
「それはイチゴグミ。本物そっくりでかわいいでしょ」
「うわっ、なんだこのせんべい、酸っぺえぞ」
「それはストロベリーチップス。最近ハマってるのよね」
「イチゴばっかりだなあ。ひょっとして、この赤い棒もイチゴなんか?」
「それはストロベリーシリアルバーよ。中のクリームがおいしいのよね〜」
「おめえ、なんでこんな変なイチゴばっか食ってんだ?本当にイチゴ好きなんか?」
「悪かったわね!」
文句言うなら食べないでよ!そう言う間も与えずに、孫くんは次のお菓子へと手を出した。それはとても口に合わないとは思えない食べっぷりだった。あたしは呆れながら自分の分をこっそりと取り除けて、やがて気分を持ち直した。
「ねえ孫くん、ヒマなら後であたしと山に――」
だけどその気分は、またすぐに壊された。
「うるさいって言ってるだろ!まだ5時過ぎなんだぞ。起きたんならさっさと下へ行けっつーの!」
眉を上げたウーロンが、再びドアを開けてそう叫んだ。あたしはまたもや口を噤んだ。
非常に不本意なことに、やっぱり反論の余地がなかったからだ。

「…悪かったわよ。あんたの言う通り、下へ行くから。その前に着替えるから、早く出てって」
「本当に頼むぜ。おれは眠いんだからな」
あたしだって眠かったわよ。
そう言ってやりたいのを我慢しながらウーロンを部屋から追い出すと、孫くんがそれは無邪気な顔で笑った。
「ははっ。怒られっちまった」
「あんたのせいでしょ!」
…っとっとっと。
あたしは思わず口を押さえたけど、三度目のウーロンは来なかった。それで一つ息をついて、再びお菓子を口に詰め込み始めた孫くんに釘を刺しておいた。
「あたし着替えるからこっち向かないでよ。いいわねっ?」
追い出すほどのことはないわ。4つも年下の食欲魔人なんて男じゃないわよ。一応あっち向かせるけど。
「はーーー。ごっそさん。ちょっぴり腹落ち着いたぞ」
「それはよかったわね」
あたしの一ヶ月分のおやつでなんとか腹の虫を封じ込んだらしい孫くんと一緒に階段を下りていくと、ランチさんがキッチンでエプロンをつけているところだった。キッチンカウンターには大きなボールと大量の卵。
「なんだ、ランチさんいるじゃない。おはよう、ランチさん」
「あれ?さっきはいなかったんだぞ」
「おはようございます、ブルマさん悟空さん。お早いんですのね」
「おっす!」
ランチさんの笑顔に孫くんの笑顔。それに流されかけながらも、あたしは二人の間に事実という名の文句を挟み込んだ。
「起こされたのよ、孫くんに。お腹空いたってうるさいんだから」
「うふふ。悟空さんたら相変わらずね。卵貰いに行ってきてよかったわ。おいしいオムレツたっくさん作ってあげるから待っててね」
「ああ、そういうわけだったの。ランチさん、朝食の支度手伝うわ」
「ありがとうございます、ブルマさん。でも大丈夫ですよ、朝はそれほどすることありませんから。ブルマさんはゆっくりしててくださいな」
「ダメよ、あたしもやる。しばらくお世話になるんだもの、当然だわ」
きょとんとした顔の孫くんを横目に、あたしは食い下がった。カメハウスに顔を出すようになってもう二ヶ月。あたしはそろそろお客じゃなくなってきてる。ランチさん一人にやらせないで、少しは何かやらなきゃね。特製ナパーム弾を作るのはパスだけど。
「オラもやるよ。野菜採ってきてやっか?」
やがて孫くんがそう言うと、少し小首を傾げてからランチさんは言った。
「そうね。じゃあ、朝のデザートを採ってきてもらおうかしら。夏イチゴとサクランボ。ミンティさんがどうぞっておっしゃってたから」
「ミンティさん?それってどこらへんの人?」
「もうすぐ亀仙人さんたちが戻ってきますから、一緒に行くといいですわ。今はミンティさんの畑仕事をお手伝いしているそうですから」
「そう。じゃあ外でみんなを待ってることにしよっと」
あいつらが畑仕事であたしたちが果物狩りか。やってることあんまり変わらないわね。そう思いながら外へ出ると、ちょうど真上の窓が開いた。
「おはようございます、悟空さん、ブルマさん。お二人とも早いですね。どこか行くんですか?」
「おっす!プーアル」
「ちょっと果物狩りにね。それとヤムチャたちの修行を見に。あんたも行く?」
一応訊いてはいたけれど、プーアルの返事は聞くまでもなくわかっていた。プーアルはすぐさま満面の笑みとなって、声も高らかに答えた。
「行きます!すぐ用意しますから待っててください!」
朝っぱらから元気ねー。そう思ったのは、あたしだけではなかった。当然と言えば当然の結果として、プーアルと同室のウーロンが後ろから顔を覗かせた。
「おまえらなあ〜。だからうるさいって何度言ったら――」
「もう6時よ。みんな起きてるんだからあんたも起きたら?」
でも、あたしは今度はそう言ってやることができた。せっかく夏休みなんだもの、ちょっとは早起きしていろんなこと楽しまなくちゃ。果物狩り、それっぽくてなかなか結構なことだわ。それに早朝の修行って見るの初めて。いつもはあたしもウーロンのように、うるさいって思いながらベッドに潜り込んでたから。孫くんがいなければ、今日だってそうしていたに違いないわ。
「ふわあぁぁ…」
あたしは欠伸を溢しながら、ちょっとだけ孫くんに感謝した。プーアルほどではないにしても、あたし自身のではない時間を楽しもう。いつもよりさらに温い常夏の夏の朝風を感じながら、そういう気分になっていた。

早々と大地を照らし始めた朝陽。その下で何やらトレーニングらしきことを始めた孫くん。ポーチに立ってそれらを見比べていると、やがてプーアルがやってきた。それからウーロンがリビングの窓から顔を覗かせた。
「ふああぁぁーあ…おまえに起こされるとは世も末だな。まったく、浮かれやがって」
あたしはそれには答えなかった。それより先に、待ち人が現れたからだ。
「おはよう。どうしたみんな、やけに早いな」
朝陽を浴びながら笑ったヤムチャに、ウーロンが日陰から不貞腐れた声を返した。
「ブルマに起こされたんだよ。朝っぱらからうるさいのなんのって。おれはもっと寝てたかったのによ」
「あたしじゃないわよ。孫くんがいけないのよ!」
「ん??」
あたしは思いきり突っ込んでやったけど、孫くんはきょとんとした顔でこっちを見ただけだった。ウーロンの白けた表情も変わらなかった。ただ一人プーアルだけが喜々として、ヤムチャのところへ飛んでいった。
「それで、ヤムチャ様の修行にお付き合いしようと思ってこうして待っていたんです!」
「そうか。それは殊勝なことだな」
プーアルってば、いつにもましてヤムチャしか目に入ってないわね。どう見たって浮かれてるのはあたしじゃなくてプーアルなのに、どうしてウーロンはそこのところは突っ込まないのかしら。
これは疑問ではなく皮肉だ。それも、口に出すほどのことはない程度の。軽く眉を顰めて幸せそうな(もちろんこれも皮肉よ)主従を見ていると、亀仙人さんがやってきて口を出さずにいられないことを言い出した。
「なんじゃ、おぬしらも修行をしたいのか。どれ、では今女子用の道着を――」
「着・ま・せ・ん!」
あたしはまた突っ込んでやった。でも突っ込んだ傍から、新たな怒りが湧いてきた。…どうしてあたしのだけなのよ?プーアルとウーロンにも出してみなさいよ。絶対ないに決まってるけど!
「あたしたちはイチゴを採りにいくの!修行には興味ないの!」
曲解しようのないほどはっきりきっぱり言ってやると、今度はプーアルとウーロンがあたしの話を捻じ曲げた。
「え…でもさっきブルマさん、ヤムチャ様の修行を見に行くって…」
「おっまえ、素直じゃないなあ」
「そういうことじゃないでしょ!」
あたしはさらに突っ込んでやった。言い方が悪かったなんて思わない。二人が勝手に揚げ足取ったのよ。だって――
「まあまあブルマ。どのみち畑に行くんだろ?だったらもう行くぞ。この時間はそうのんびりとはしていられないんだ」
「そうですね。みんな用意はできているようですし」
途中から場に加わったクリリンくんはもちろん、当の本人はまったく気にしていないんだから。 だからといって、あたしの気は治まりはしなかった。…何よその、まるでどうでもいいような言い方は。まるっきり何も感じていないような軽い笑い。
軽くそっぽを向いてやりたい気持ちに、あたしはなった。でもそうはしなかった。今は一緒に行かなきゃならないし、いかんせんギャラリーが多過ぎた。
「いやいや、まだブルマちゃんが道着に着替えていないではないか」
「しつこいわね。着ないって言ってるでしょ!」
「さっきから一体何の話をしてんだよ。女子用の道着って何だよ。プーアル、知ってるか?」
「ううん、ボクにもさっぱり…」
「オラ知ってっぞ。黒くってこんな形しててよ、ひらひらしたもんが周りについてて…」
「孫くん!余計なこと言わないの!!」
大ボケ小ボケ、その他諸々。はっきり言って手が回らない。右へ左へ怒鳴りつけていると、ヤムチャがそれは大雑把に話を畳んだ。
「まあまあブルマ、そう怒るな。ウーロンも、この話はもう終わりだ。さっさと行くぞ」
「もう〜」
収めようとしてくれるのはいいんだけどさあ。…どうしてそうもにこやかなわけ。
場違いな爽やかさを発揮してヤムチャが歩き出したので、あたしもちょっぴり場違いな不満を抱いて後に続いた。やがて眩しいくらいの朝陽が射してきた。すべてを鮮やかに浮かび上がらせる順光。その瞬間、あたしは気づいた。
「ちょっとヤムチャ。何よその鼻、どうしたの」
ヤムチャの鼻のてっぺんに、血の滲み。引っ掻き傷でも切り傷でもない、おかしな傷。
「ああ、いや、これは…」
ヤムチャは不本意そうに鼻に手をやったけど、不本意なのはあたしの方だった。どうして牛乳配達やってて傷ができるのよ。しかもそんなところに。自分の価値わかってないの!?そう文句を言おうとすると、クリリンくんが横から出てきてあたしの言葉を遮った。
「ヤムチャさんはイワンさんちの鶏に好かれてるんですよ。おれはすっかり飽きられちゃって見向きもされませんけどね」
それがあまりに屈託のない感じだったので、あたしは追及するのをやめた。うまいこと言うわよね、クリリンくんも。さすが兄弟子だわ(皮肉よ)。
「はは。あそこの鶏かあ。オラもいっぺえつつかれたっけなあ」
「そういや悟空も好かれてたよな。よく髪の毛引っこ抜かれてさ」
「なんだ、結局髪の差かよ。あ〜あ、ハゲって淋しいね〜」
「おれはわざと頭丸めてるんだよ!」
さらに孫くんが無邪気に笑って話を引っ張ったので、場はいつにもまして和やかなものとなった。その雰囲気と、何より傷跡一つ残っていない孫くんの笑顔が、あたしの態度を決定づけた。
「しょうがないわね。後で手当てしてあげるわ。でも、気をつけてよ」
最後にヤムチャに念押しして、あたしは多過ぎるギャラリーに場を預けた。修行というよりピクニックね。お弁当がないことと、朝陽が眩し過ぎることを除けばね。


あたしは畑仕事を甞めていた。などとは決して思わない。ただ、亀仙人さんのやり方は常識外れだということを忘れていた。それだけ――なのかしら……
「ねえ、本当にいつもあんなやり方してるの?何の道具も使わずに?素手で穴掘ったりしてるわけ?」
呆気に取られて隣の畑を見ていたあたしに、プーアルは驚いた風もなく言い切った。
「最初からずっとですよ。ブルマさん、知りませんでしたか?」
「今初めて知ったわ…」
依然として呆気に取られて、あたしは二人の弟子を見続けた。ひたすらに手足を使って畑を耕していくその様を。考えてみれば、あたしは話を聞くだけで実際に修行をしているところはほとんど見てないのよね。見たのは昼寝と、海でサメに追われてるところ。だって亀仙人さんの修行って、付き合いきれないようなのばかりなんだもの。蜂から逃げるやつなんて、聞いてるだけで痛そうだし。なんか、違う意味でバカにしきれないところがあったのよ。
それにしたってこんな方法でやるんじゃ、そりゃ畑仕事も修行だわ。あたしは違う意味で深く納得して、自分のいる果物畑に目を落とした。足元のイチゴを一粒摘み取ると、ウーロンがあからさまに非難の視線をあたしに投げた。
「おっまえ、二ヶ月目にしてそれかよ。仮にも付き合ってるやつのやってることだろ。本当に冷たいやつだな」
「うるさいわね。どうせあんただって知らなかったくせに」
あたしとあんたで、ヤムチャとここで接する時間がどれだけ違うっていうのよ。喉元まで出かかった続きの言葉を、あたしは呑み込んだ。…情けなかったから。溜息をつくほどではないにしてもね。それきりウーロンを無視して二粒目のイチゴを摘み取ると、少し離れたところで三人目の弟子が歓喜の声を上げた。
「うっめえ。このイチゴうっめえぞ!!」
「ダメよ孫くん、ここで食べちゃ。ちゃんと持って帰らないと。…あら、本当においしいわね」
「食っちゃダメなんじゃなかったのかよ」
「いいでしょ、少しくらい。採りたてを味わえるっていうのが果物狩りの楽しみなんだから」
「何が果物狩りだよ、こんな朝っぱらから。おまえ、本っ当に浮かれてんなあ」
「放っといてよね」
もう言い合う気にもなれない。あたしが突っぱねてやると、ウーロンはイチゴ摘みへと戻った。それであたしは三粒目のイチゴを摘み上げたわけだけど、そこには聞いてるだけで痛そうなあの虫がついていた。
「ぎゃっ、蜂!」
わりと小さかったけど、それは何の慰めにもならなかった。あたしは常識人!常識人は蜂相手に稽古をしたりしないの!したいとも思わないし!咄嗟にイチゴを投げ捨てると、蜂がイチゴから飛び立った。そして手放したにも関わらず、あたしのところへ戻ってきた。だからもう少しであたしはイチゴの入ったバスケットを中身ごと投げつけるところだった。
「なんだ、鈍いなこいつ」
「へ!?」
無邪気に笑いながら孫くんが親指と人差し指を合わせなければ。一見OKにも似たそのジェスチャーは、決して軽くはない驚きをあたしに与えた。
「…何あんた。ひょっとして今掴んだの?」
「これっくらいなんでもないさ。おっ、こんなところに巣があらあ」
あたしの問いに孫くんは答えなかった。無造作に近くのサクランボの木を掻き分けると、サクランボではなく蜂の巣を叩き落とした。
「ちょ、ちょっと…!」
「何すんだよ、悟空!」
今度はあたしだけじゃなくウーロンも声を上げた。巣から蜂が一斉に飛び出してきた。孫くんはというと、澄ましきった顔をしてただ手だけを動かした。
「ほっ、ほっ、ほい、ほい、ほい、ほい…」
師にも似た掛け声と共に、空中の蜂が減っていった。まるで魔法使いのようなその手つき。これにはプーアルも呆然としていた。
「ほい、全部やっつけたぞ」
数瞬後。けろりとした顔で言い切った孫くんに対し、あたしたちは完全に気圧されていた。呆れと感心、それらがどっちつかずの状態で心の中を占めていた。
「はあぁ…」
「おまえ、無茶苦茶するな〜…」
「…とにかく、手を洗ってらっしゃい。蜂を潰したその手で採ったイチゴを食べるなんてごめんだわ」
あたしは努めて現実的なことに目を向けた。さすが兄弟子。その一言ではとても片付けられそうになかった。


「どうやら時間内に終わったようじゃの。では帰って朝飯にしようぞ」
バスケットがいっぱいになった頃、隣の畑仕事も終わった。昇り切った朝陽の中交わされた会話は、ピクニック帰りではなく確かに修行中であることを思わせた。
「オラ腹減った。それにしてもおめえたち、ずいぶんでっけえ畑で修行してんなー!オラびっくりしたぞ」
「何言ってんだ、悟空こそすごいじゃないか。蜂を除けるのではなく掴み取ってしまうとはな。まるで手元が見えなかった。だが参考にさせてもらうぞ」
「そこへいくとおれはもうほとんど蜂に刺されてませんからね。すぐに追いついてやるからな、悟空」
ふふ。はりきっちゃって。
『修行バカ』。こういう時いつもなら出てくるその言葉は、心にも浮かんでこなかった。それどころか、これまで常識外れだと思っていた亀仙人さんの修行が、ちょっとだけまともなものに思えてきた。孫くんの破天荒さに比べれば、至極現実的よ。少なくとも人間離れはしてないわ。
「何やら二人とも気が乗っとるようじゃな。どうれ、その調子でこの後の湖の修行もがんばってもらおうかの」
「湖の修行ってサメ相手のやつですよね。あれは午後のはずじゃ…」
「今日からしばらく昼前に行うのじゃ。どうやら午後では修行にならんようじゃからの。バテていない本気のサメに追いかけてもらうんじゃな。おぬしらは水浴びしとるわけではないのじゃからな」
さらに軽い口調で交わされた異常な修行についての会話も、すんなりと受け止められた。孫くんがそれを楽しみにしていたことも、今では微笑ましく感じられた。
「ねえ、それあたしも見にいっていい?お弁当作るから!」
だから、弟子たちの都合も酌んで、そう言ってみた。すると途端にウーロンが眉を曇らせた。
「弁当!?おまえ、そんな慣れないことして大丈夫かよ。本当に浮かれ…」
「うるさいわね。もうその台詞はいいっつーの」
あたしが会いに来てる人間は昼前まで夏の湖なんかにいる。そして久しぶりに会った人間もそこに行く。なんとなく付き合おっかなとは思うけど、修行に参加する気なんかはもちろんない。だったらここは当然ピクニックでしょ。困る人は誰もいないばかりか、きっと孫くんなんかにとっては願ったり叶ったりよ。
あたしの突っ込みにウーロン以外の者はなんとなく笑った。あたしはそれを了解の合図と受け取った。
湖畔の森でピクニック。悪くない話よね。


それから小一時間後。あたしたちは孫くんのもう一つの側面に、再び気圧されることとなった。
「ぷは〜。食った食った、ごっそさん!すっげえうまかったぞ!!」
今にもはちきれそうな、でもあの量が入っているとはとても思えない孫くんのお腹。テーブルの上に山と積まれたお皿。
「あらあら。口の周りについてるわよ、悟空さん」
「おっまえ、相変わらずよく食うなあ…」
料理人であるランチさん以外は、みんな一様にぽかんとしていた。もちろん、あたしも例外じゃなかった。…本当に呆れちゃうわね。こればっかりは何度見ても呆れしか湧かないわ。
「さて、ではそろそろ湖に行くとするかの」
やがて煙管の雲を吹き消しながら亀仙人さんがそう言った。もう何度も聞いた合いの手は、いつもよりさらに賑やかだった。
「はい!!」
「オラ、湖の修行やるのひさしぶりだ。サメのやつ元気にしてっか?」
「ああ、相変わらずすごい勢いで追いかけてくるよ。ここんとこちょっと夏バテぎみだけどな」
「でも今日はまだ陽が低いから、そんなこともないだろう」
「いってらっしゃい、みなさん」
サメが夏バテ?いつもならそう突っ込むところだけど、今日のあたしはそうしなかった。笑顔で見送るランチさんと当然のようについていくプーアルとを横目に、キッチンへと向かった。
「ふんふふんふふ〜ん。さ・て・と、お弁当作ろっかな。ねえランチさん、パンってどのくらいある?買ってきた方がいいかしら?」
あたしがランチさんにそう訊ねたのは、主には孫くんがいたためだ。あの子の食欲は半端じゃないもの、それはもうたっくさん用意しなくちゃね。それともう一つの理由から、お弁当はおにぎりとサンドイッチにしようと決めていた。正直言って料理はほとんど未経験だけど、この二つなら作れるもんね。
返ってきたのは、散文的な声だった。
「げ。何だよ、本当に作るのかよ。ちょっと浮かれ過ぎじゃねえのか、おまえ」
「悪かったわね。じゃ、あんたのぶんはいらないわね」
あたしがしれっと言ってやると、ウーロンもまたしれっと言い放った。
「おまえの弁当なんか怖くて食いたくねえなあ」
「なんですってえ!!」
「おや、ブルマさんは料理が下手なんですか?」
「下手っていうか、したことないんだよ。調理実習でさえサボるようなやつだぜ。普通は彼氏にあげたりとかするもんだろうによ」
「あんなの面倒くさいだけよ!」
お弁当係なんか請け負わないで、あたしも一緒に行けばよかった。早くもあたしはそう思い始めていた。ウーロンはもちろんだけどさ、ウミガメも結構ひどいこと言うわよね。はっきり物言い過ぎっていうかさあ…
「大丈夫、ブルマさんは筋がいいですわよ。お皿を運ぶのもてきぱきしてらっしゃるし」
でもランチさんがそう言ってくれたので、すぐに気を持ち直した。
「本当?本当にそう思う?」
「ええ。ベーコンも野菜もいっぱい用意してありますから、BLTサンドを作るとよろしいですわ。みなさんお好きですし、あれだと切るだけで簡単にできますもの」
ランチさんの口調に含みはなかった。だからあたしは素直にその言葉に従うことにした。その後に零された細やかな助言も含めて。
ありったけの♪お弁当箱に♪おにぎりおにぎりどんと詰めて♪
「おにぎりの塩は強めにしてくださいな。汗を掻くと塩分が失われますから」
スライスパンにマヨネーズ塗って♪
「マヨネーズの作り方は、まずボールに卵黄・酢・塩コショウを入れて…」
ベーコンさん♪レタスさん♪トマトさん♪
「ベーコンは表面だけカリッと焼いてね。焼き過ぎるとジューシーじゃなくなってしまうので気をつけて」
…………
……

『切るだけ』、そうランチさんは言ったけど、実際にはそこまで単純ではなかった。
結構疲れた。料理上手な人の言う『簡単』はちっとも簡単じゃない、それがよくわかったわ。
でもがんばった甲斐あって、お弁当はなかなか立派にできた。三種の具の入ったおにぎり。定番中の定番BLTサンドイッチ。朝摘みイチゴのクリームサンドイッチ。それらを入れたバスケットと入りきらなかったぶんをカプセルいっぱいに詰め込んで、あたしはキッチンを後にした。
「ウーロン、行くわよ〜。ウーロン?」
そして、いつの間にか姿の見えなくなっていたウーロンを探してそう叫んだ。返ってきたのは、散文的な声だった。
「ウーロンさんならもう一眠りすると言って、部屋へ行ってしまいましたよ」
「えぇー?何よあいつ、初っ端からだらしないわね!ウミガメ、あんたはどうする?一緒に行く?」
「私は留守番をしていますよ。ランチさんもお出かけなさるようですから」
「えっ、そうなの?ランチさん一緒に行かないの?どこに行くの、ランチさん」
「ええ、ちょっとお買い物に、街の方まで。冷蔵庫の中がすっかりからっぽになってしまいましたから」
「そうなの、忙しいわね。…孫くんのせいね。本っ当、遠慮なしなんだから。あたしも付き合おうか?」
「お気になさらないで。悟空さんがいらした頃はいつもこうでしたのよ」
ランチさんはちょっぴり懐かしそうに、でもわりあい淡々と言った。ランチさんはついこの前まで孫くんと一緒に暮らしてたんだものね。きっとそれほどは新鮮じゃないのね。あたしはそう思ったので、ここは遠慮しないことにした。お昼ごはんはあたしが作ったし、いいんじゃないかしら。
さ、ピクニックにレッツゴーよ。


暑い日差しの下をのんびりと歩いて、見晴らしのいい湖岸に到着。 カプセルから出したお弁当を木陰に置いてから、あたしは湖を見通せる岩場に座り込んだ。素足を水につけて、麦わら帽子の大きなツバを引き上げる。遠目に三人の弟子の姿が見えた。左手の湖岸で何やら井戸端会議。さすがに表情や言ってることまではわからないけど、なんとなく楽しそう。最もあいつらが楽しくなさそうな雰囲気になることなんてあんまりないけど。
そのうち、ヤムチャとクリリンくんが湖へ飛び込んだ。孫くんはというと、その前にいなくなった。あたしはちょっぴり意外に思ったけど、やがてその理由がわかった。あたしは飛沫に隠れる二人から目を離して、後ろから現れた人間に思いっきり非難の言葉を投げつけてやった。
「いーけないんだいけないんだ。孫くんてばサボリ〜!」
「へ?」
孫くんは目を丸くしてたけど、不服そうな素振りはなかった。もちろんあたしもそういう意味で言ったわけではないので、軽く笑って自分の隣を指し示した。
「ま、座りなさいよ。湖に足つけるとひんやりして気持ちいいわよ〜」
「うん、オラも気持ちよかった!ひさしぶりにやると楽しいなー、修行って!」
「あ、もう泳いだのね。じゃあお弁当食べる?あんたのためにおにぎりいっぱい作ってきたわよ」
そう、おにぎりは主にパン嫌いな孫くんのため。そしてストロベリーサンドイッチはあたしのため。残る一つは…割愛。なんて緻密なお弁当計画。
ところがまたもや意外なことに、孫くんは座りもせずましてやお弁当に手を出しもしなかった。
「ううん、みんなと一緒に後で食う。オラちょっとおめえと話しに来ただけなんだ」
「ごはん目当てじゃなしにあんたがあたしのところに来るなんて、一体どういう風の吹き回し?」
これももちろん嫌みではなかった。孫くんに対しては。あたしはなんとなく湖の方へと目を向けたけど、すぐに孫くんが視線を戻させた。
「何言ってんだ。風なんか吹いてねえぞ。オラさっき木の上に登ってみたけど、高いとこにもぜーんぜん」
「…ああそうね。まるで油を流した海のように無風よね。今日は」
「油?そんなもん浮いてねえって。それにここ海じゃねえし。この湖にいるのはサメだけだ」
「…………。それで、話って何よ?」
「あ、そうだった。あのな、そのサメがな」
孫くんの声ははっきりきっぱりしていた。でも、あたしはそれを最後まで聞かなかった。話を聞こうと湖から足を出し体を完全に背後の孫くんへと向けた瞬間、まさに背後となったばかりの湖から水飛沫が飛んできた。木陰じゃないのに落ちかかる大きな影。反射的に振り向きかけたあたしの腕を、孫くんが引っ張った。尻もちをつかされながら見たものは、大きく開いたサメの口と、すぐにそれを閉じさせた孫くんの蹴りだった。
まるでお仕置きされるように頭を蹴られたサメは、もう飛び上ってはこなかった。それは速いスピードで、湖岸を離れていった。あたしはすっかり呆然としていた。それでも何はともあれまずはお礼を言おうと思って起き上がると、孫くんがけろりとした笑顔で言い放った。
「ひょー。あっぶなかったなー。そうそう、ここ水が深いからサメが来るんだってよ。オラ、それを言いにきたんだ」
「遅いわよ!!」
一瞬にして、感謝の気持ちが非難の気持ちへと変わった。偶然足を除けなかったらどうなってたと思うのよ!ほんの少し、湖から体を放すのが遅かったら?あいつらもこんなやつに伝言頼まないでほしいわね!
「じゃあ、オラ行くな。修行、まだ半分残ってんだ」
ええい、この修業バカ!!
それを口にする間もなく、孫くんはもといた横岸へと駆け出していった。フォローすらなしよ。まったく、しょうのないガキね!
やがて湖を横断する水飛沫が三つになった。いつもとちょっぴり違うはずのその光景は、いつもとまったく同じに見えた。木陰へと場所を移しながら、あたしはさっきとはちょっぴり違う呆れを心に抱いた。
…まったく。『さりげなく守る』っていうのも、度を越えると良し悪しね。お礼を言う暇すらなかったわ。

「ふわぁ〜あぁぁ…」
『半分』。その孫くんの言葉を思い出しながら、あたしは欠伸を一つ零した。
ひたすらにサメから逃げるというその修行は、なかなか大変そうではあった。本当はやっつけることもできるのに逃げ回らなきゃならないなんて、ストレス溜まらないのかしら。ま、あの三人がストレス溜めてるところなんて見たことないけど。孫くんはあの通りだし、ヤムチャは鈍いし、クリリンくんだってどっかズレてるし。体育会系人間って、本当に鈍感なんだから。
そういえば、亀仙人さんとプーアルはどこにいるのかしら。そんなことを考えながら、体を横にした。三つの事実が、あたしの中に睡魔を呼び込みつつあった。
一つには、早起きしたから。はっきり言って、し過ぎたから。それから、お弁当を作ったから。そうなの、はっきり言って、慣れないことほど疲れるものはないわ。ついでにはっきり言っちゃうと、この湖の修行、退屈なのよね。大変そうだけど、退屈。だって延々泳いでるだけなんだもの。しかも飛沫が邪魔で顔もよく見えないし。クリリンくんや孫くんはどうか知らないけど、ヤムチャのやつ、あんなに泳ぎ下手だったかしら。もっと飛沫を立てないできれいに泳いでたような気がするんだけどな。
とにかくそんなわけで、あたしは目を瞑ることにした。あたしがここにいることはみんなわかってるみたいだから、修行が終わったらきっとあっちから来るわよ。
誰より孫くんは必ずあたしのところに来る。お弁当目当てにね。


あたしのその考えは、間違ってはいなかった。
目が覚めた時一番に目に入ってきたのはヤムチャの背中で、その向こうに隠れるように、あたしがあらかじめ予想していた光景が展開されていた。お弁当はすでに開けられていて、食欲魔人がそれに貪りついていた。
「…あんたたち、いつからいるの」
あたしは訊いていたわけじゃなかった。寝惚け半分、呆れ半分。終わったんなら起こしてくれればいいのに。勝手に食べるなとまでは言わないけどさ、感謝の気持ちもないわよね。そりゃ簡単なものばかりだけど、一体何人分作ったと思ってるの。包むのだけでも大変だったのよ。
「つい今だよ。クリリンは老師様とプーアルを呼びにいってる」
ヤムチャがバカ正直に答えた。孫くんはというと、顔はあたしを見ているものの、口と手は完全にお弁当に向けられていた。『おいしい?』そう訊こうとして、あたしはやめた。愚問だわ。だいたい、これだけ食い散らかしておいて『おいしくない』なんて言ったら怒るわよ。
そう、そう思う程度には、お弁当は食べられてしまっていた。さらにあたしがちょっと意外だったことに、孫くんはおにぎりと同じくらいサンドイッチも食べているようだった。パン、嫌いじゃなくなったのね。あたしはただそう思いながらヤムチャの隣にいったのだけど、そこに座った時にはそれだけじゃなくなっていた。
「ちょっと孫くん!あんた、あたしのサンドイッチ食べたわね!それも全部!もう、信じらんない!」
すっかり空になったバスケット。それを見た瞬間、あたしの目もすっかり覚めた。孫くんはちょっぴり目を丸くして、最後の一切れを口に放り込んだ。そして、いけしゃあしゃあと言い放った。
「へ?オラそんなことしねえよ。まだこっちにいっぺえあるって。ちゃんとみんなの分残してあらあ」
「それじゃなくってイチゴの方よ!バスケットに入ってたやつ!あたしのストロベリーサンドイッチ!」
「あ、それは食っちまった。ダメだったんか?でも、ヤムチャがそうしようって言うから」
「なーんですってぇー!?」
当然、あたしの怒りの矛先は切り替わった。そりゃまだ起き抜けでお腹空いてないけどね、そういうことじゃないのよ。あたしがストロベリーサンドイッチ好きだってこと、ヤムチャは知ってるはずでしょ!なのにどうしてこれだけ全部食べるのよ。一体どういう嫌がらせよ!?
「あ、いや、ちょっと食べたらおいしくってさ、それでつい食べ過ぎちゃって…」
ヤムチャは諸手を挙げて、ひくついた笑顔でそう言った。微妙に食い違う二人の供述。一体どちらを信じるか。そんなの明白だった。
「ふんだ。ヤムチャのバーカ!」
孫くんは嘘つかない。ヤムチャだって結構バカ正直だけど、孫くんは桁が違うもの!
「嘘つき。いやしんぼ!」
最後の言葉は二人に向けて言ったのだけど、孫くんは全然堪えていないようだった。ただ目をぱちくりさせて、やりあうあたしとヤムチャを見ていた。そうこうしているうちにクリリンくんたちがやってきた。
「…あの、ブルマさん、…どうかしたんっすか?」
「べ・つ・に!」
どことなくおずおずとあたしとヤムチャを見比べるクリリンくん、亀仙人さん、プーアル。それときょとんとした顔をしてあたしを見ている孫くんと、わざとらしく身を竦めているバカヤムチャ。みんな纏めて視界の外に追いやった。こんなくだらないケンカ、人前でできるもんですか!
こうして非常に気の利かない一幕を経て、ピクニックが始まった。とっくに始まっていたようにも見えたけど、さっきまでのはほんのつまみ食い。そう言わざるをえない光景が、今度は目の前で展開され始めた。
「みんな、もう食わねえんか?」
「じゃあオラ、残りのおにぎり全部食っちまっていいか?」
一人また一人と手を止める面々をよそにいつまでも食べ続ける孫くん。むしろ遠慮がなくなったぶんペースが上がっていく始末。今はお腹の空かないあたしに数切れのBLTサンドを残して、孫くんは残りすべてのお弁当を平らげた。あたしは呆れとちょっぴり怒りを抱きながら、それを見ていた。
何よ、やっぱりおにぎりの方が好きなんじゃないの。それなのにあたしの好きなサンドイッチだけ食べ尽くすなんてさ。
…この食欲魔人。


お昼ごはんの後は昼寝。それが今だに納得できない亀仙人さんの修行メニュー。今日はそれが、非常に自然な流れで行われた。
「ぷは〜、食った食った。…オラ、眠くなっちまった」
おもむろにそう言って、孫くんが草の上に寝転がったからだ。あたしはすっかり呆れて、空いたバスケットに残ったサンドイッチを詰め込んだ。もう孫くんてば、文字通り食い散らかしっぱなし。
「孫くんって本当に、本能のままに生きてるわよね」
行動パターンがまるっきり子どもなんだから。あたしはそういうつもりで言ったのだけど、返ってきた言葉はちょっとニュアンスが違っていた。
「だから悟空さんはあんなに強いんでしょうか」
「野生的な強さというやつじゃな」
ま、孫くんとその強さを分けて考えることができないのはわかるけどね。特にここにいるのはそういう人間ばかりだし。
「さて、ではわしらも一眠りするとするかの。昼寝はいつも通り一時間じゃ。各々しっかり眠れよ」
「はい」
へんな号令。
あたしはそう思いながら、師弟たちから少し離れた木陰へと移動した。孫くんやプーアルとならまだともかく、ヤムチャや亀仙人さんと並んで雑魚寝する気にはなれないわ(クリリンくんは微妙なところね)。それにあんまり眠くない。少しだけ戦いできた風を浴びながら麦わら帽子を指で回していると、ようやくお腹が空いてきた。それでみんなが寝静まった午後のひと時、あたしは一人遅いお昼ごはんを食べることにした。
もうすっかりタイミングズレてるわね。やっぱり朝はちゃんと寝なくちゃダメだわ。自戒しながら食べたBLTサンドはなかなかおいしかった。近所(といっても1kmは離れた家よ)の人から貰ったというトマトは甘く瑞々しい。見るからに色の濃いレタスはパリパリとしていて味も濃い。そう、ここ畑で採れるものがすっごくおいしいのよね。この少し小粒のイチゴも。それなのにヤムチャのやつぅ…
バスケットの底に転がっていたクリームに塗れた半切れのイチゴが、先の怒りを呼び覚ました。でもそれを口に含んだ次の瞬間、続く文句は霧散した。
――あれっ。
…あれ。あれ?あれぇー?
あたしは目を瞬きながら、今度は隅に零れていたクリームを掬って舐めた。行儀が悪いなんて言っていられない。だって…
二口目のクリームもやっぱりしょっぱかった。暑いから、汗を掻いたから物がしょっぱく感じるとか、そういう話じゃない。これはどう考えても明らかに――
砂糖と塩を間違えた?ガーン。うっそー。マジ?
「…ねー、ヤムチャー…」
確かめたい気持ち半分、確かめたくない気持ち半分で、あたしはヤムチャに声をかけた。軽く髪を引っ張ってみてもヤムチャは何の反応も示さず、すやすやと眠り続けた。
「ちょっとぉ、孫くーん?…」
「うっは〜。本当にこれ全部オラが食っていいんか?」
一方、孫くんはというと、それははっきり答えてくれた。どう聞いても寝言と思われる言葉を。
「むー…」
何が何でも叩き起こしたい。そこまでの気持ちにはならなかったので、あたしは一人唸って頬杖をついた。
どうして何も言わなかったのかしら。ひょっとして気がつかなかったとか?二人とも味音痴…?
「うへ〜…これ食っても食ってもなくならねえぞ」
それとも疲れてて味覚が鈍ってたとか…?
むむ…………


孫くんの寝言とヤムチャの寝顔を肴に、あたしは一時間を過ごした。その間、何を考えていたのかは言うまでもない。
「あー、寝た寝た」
「よーし、次は反射神経の修行だな!じっちゃん、今どこであれやってんだ?」
「おぬしがいた頃と同じじゃよ。例のカメハウスから少し離れたところにあるフタバガキの木じゃ」
でも、元気に腰を上げ始めた一行を留める気にはなれなかった。起き抜けに返されたヤムチャからの視線も、逸らしておいた。
「なんだ?」
「…べーつーにっ」
そんなの今さらよ。一時間以上も前に食べたお弁当の味を訊くなんて、タイミングズレてるなんてもんじゃないわよ。おいしく食べたんなら、それでいいのよ。
そんなわけで、あたしは黙ってみんなの後を歩いた。孫くんはそれは軽やかな足取りで先を行き、残る弟子たちもそれは軽やかに会話を続けた。
「そうだ老師様、湖の修行ですけど、明日からはこれまで通りで結構です。サメのやつ子ども産んでたんっすよ。そしたらもう速いのなんのって」
「それは本当じゃろうな。嘘をついて楽をしても己のためにならんぞ」
「そんなことしませんよ。おれらはこれからもっともっと修行をして、絶対に悟空に追いついてやるんですからね」
「それだけじゃない、追い抜いてやりますよ」
ふふ、はりきっちゃって。それでも間抜けなところは変わらないのね。そうでしょうよ。サメが夏バテなんてするわけないんだから。
さて、修行をするためのフタバガキの木というのは、ちょっと変わった実をつけていた。丸い実の先に赤い羽根のような葉が二枚。手を放すと羽子板の羽のようにくるくる回って落ちていく。あたしはそんな地味な遊びをしながら、時折落ちてくるその羽根とブンブンうるさい羽のついた虫を避ける三人を、離れたところからできるだけ横目で見ていた。だって、見るからに痛そうだから。結構避けれてはいるみたいだけど、確かにあの数の蜂の中にいて刺され傷が数ヶ所っていうのはきっとだいぶん避けれてるんだろうけど、それでもすっごく嫌な感じのする光景よ。どうして自ら蜂の大群に襲われたがるのか全然わかんない。あいつらみんなマゾね。孫くんなんか確定よ。だって孫くんは本当はやっつけることだってできるのに、わざわざ逃げ回ってるんだもの。それもあんなに楽しそうに。
あたしの目は自ずと孫くんに向けられた。孫くんはまるっきり笑顔でまるで遊んででもいるかのように、あたしには見えない蜂から身を翻し続けていた。そしてそういう孫くんが、あたしにはとても輝いて見えた。クリリンくんやヤムチャだって特に苦しそうには見えない。二人がとても前向きに亀仙人さんの突拍子もない修行に取り組んでいるということをあたしは知ってる。それでもその雰囲気は、孫くんとは全然違った。あたしはいつしか妙に落ち着いた気分で、同じ修行をしている同じ色の髪をした弟子たちを正面から見ていた。
ヤムチャもそれなりに強いと思う。少なくとも西の都では誰よりも強かった。だけど、孫くんの強さとは質が違うような気がする。そう、桁がじゃなくて、質が違うのよ。
「で、できた…!」
やがてふいに、あたしの意識外にあった弟子が声を上げた。クリリンくんは次いで握った拳を高々と上げて、声も高らかに叫んだ。
「見ろよ悟空、ヤムチャさん!ほら、おれにも蜂掴めたぞ!!」
それはあたしには見えなかった。もともと見える距離じゃないし、おまけにクリリンくんは拳を握ってる。それでも信じることはできた。
いかにもやりそうなことよ。今日は本っ当にはりきってるんだから。もう孫くんに刺激受けまくりなんだから。孫くんだって人間だもの、同じことが他の誰かにできたって不思議はない。そういうことよね。
「ふむ、クリリンもそこまでやりおるようになったか。拳でとはいえたいしたもんじゃ。じゃが…」
小高い岩の上に座っていた亀仙人さんが、言いながら少し腰を浮かせた。『じゃが』、何よ?そう聞き返そうとした時だった。
「いってえぇぇぇーーー!!」
一瞬逸らした視界の外から叫び声がした。見るとクリリンくんが拳を抑えて悶絶していた。傍らではヤムチャも首を抑えて呻いていた。こうしてあたしはわけのわからぬまま、見るからに痛そうな光景を正面から目にすることとなったのだった。




それから数十分後。
「おっまえ、よく食うなあ」
「腹減ってたからな」
一時戻ったカメハウスで、呆れるウーロンを横に孫くんがけろりとした顔で3時のお茶を飲み(食べ、かしらね。正確に言えば)始めた。あたしはというとランチさんと一緒に救急箱に手を伸ばし、プーアルはウーロンと並んで三人の弟子を交互に見ていた。
「ちくしょう、あの蜂思いっきり刺しやがって。これじゃ箸も持てやしない」
ランチさんに手当てされている右手を見るクリリンくんは、それは悔しそうな顔をしていた。それを見て、あたしは思わず笑ってしまった。
「いつまでも掴まえたことに喜んでおるからじゃ。拳の中に入れとるだけじゃ、そりゃ刺されるに決まっとるわい」
「せっかく掴まえられたのにね。残念ね」
「じゃがまあ、その意気やよし、じゃな」
さらに窘めながら亀仙人さんも笑った。最初からにこにことしていたランチさんは、やっぱりにこにことしたままクリリンくんの手を離した。
「はい、終わり。お茶どうぞ、クリリンさん。早くしないと悟空さんにみんな食べられてしまうわよ」
「冗談に聞こえないところが嫌だなあ」
まるでいつものことだと言わんばかりのランチさんの笑顔。早くも立ち直ったらしいクリリンくん。
こうしてあたしたち以外の全員が、お茶の席につくこととなった。そう、あたしとヤムチャは今だにその輪から外れていた。理由は単純、ヤムチャの傷がクリリンくんよりも多かったからだ。クリリンくんが二箇所、ヤムチャが六箇所。当然余計にかかるその手間は、でもあたしにとっては何ということもなかった。それより気になるのは、首の下の傷を手当てするためにはだけさせた背中が非常に不貞腐れて見えることだ。ここまでヤムチャがほとんど会話に入ってきていないということにも、あたしは気づいていた。らしくないわよね。あたしはそう思ったので、ここは景気よく慰めの言葉をかけてあげることにした。
「だーいじょうぶだって。あんたもあれくらい、そのうちできるようになるわよ」
ちなみに『あれ』というのはクリリンくんのやったことだ。拳で蜂を掴まえたこと。まさか孫くんみたいなことがすぐにできるようになんて、あたしは思ってない。でもそういうことをわざわざ言う必要はないわよね。
「ああ」
返ってきたヤムチャの声は、思いのほか低かった。あら、違うのかしら。あたしはちょっと考えて、ガーゼを当てた背中へ向けてさらに声をかけた。
「あっ、昨日より傷が増えたこと気にしてんの?でも、そんな簡単に上達するわけはないんだから」
「…ああ」
「目立つところを刺されてないだけいいじゃない。それだけで充分、感謝すべきよ」
「ああ…」
ヤムチャの反応はいつまでも薄かった。声の低さは相変わらずだったし、あたしの方を見もしなかった。張り合いないわね。せっかく励ましてやってるんだから、ちょっとは応えなさいよ。昨日までのあたしだったら、そう思っていたに違いない。でも今は少しの気も殺がれずに、会話を続けた。半日前とはだいぶん違った心境で、同じ台詞を口にした。
「明日も修行見に行くわね。お弁当作って!何か食べたいものはある?」
ヤムチャがハイスクールにいた頃、クラブの試合に助っ人として顔を出したりしていた時、よく差し入れを持ってきていた女たち。彼女たちの気持ちが、あたしにはわかったような気がした。…いえ、違うか。きっとあたしの方が純粋よ。
そう、あたしはもうお遊び気分ではなかった。今日は孫くんのためにいっぱい作ってやったから、明日はヤムチャのために作ってやろう。そう思っていた。健気よね。おまけになんて理解ある彼女なのかしら。せっかくの夏休みだってのに、我儘を言うどころか一方的に付き合ってやろうだなんて。まったく、ヤムチャは幸せ者よ。いつまでも落ち込んでたらバチが当たるわよ…
あたしは気づかなかった。自分がすっかり騙されていたということに。それも二重に。あたしが言葉を切ると、ヤムチャは依然として低い、でもはっきりとした声で言い放った。
「塩入りじゃないストロベリーサンド」
あたしは咄嗟には答えられなかった。思わず目を瞠っているうちに、ヤムチャがダメ押しの言葉を吐いた。
「あれはあれで悪くないけど、疲労回復にはやっぱり砂糖だよな」
あたしはわからなかったわけじゃない。この期に及んで言い訳しようとも思わなかった。でもそれとは違う理由で、切り返そうという気持ちを捨てた。
「ちょっと何よ!気づいてたんじゃないの!もうー!」
味音痴じゃないのはよかったけどね。なーんで今になって言うのよ!よりによってどうして今言うのよ!そういうのはね、その場でもっとさりげなーく…そうよせめて、今みたいな雰囲気じゃない時に言いなさいよ。こっそり言えばいいってもんじゃないでしょ!
「なに、食えない味じゃなかったよ」
「フォローになってないわよ!!」
この時にはすでに手当ては終わっていた。だからといってお茶を飲む気分になれようはずもなかった。ヤムチャはまったくバカ正直に、言葉を紡ぎ続けた。
「んー、じゃあそうだな。ちょっと変わった味だけど悪くない。悟空もそう言ってた」
「一体どういう舌してんのよ!」
「あ、ブルマは別に料理下手じゃないと思うぞ。ただちょっと間抜けなだけで。きっと慣れの問題だろ。砂糖と塩を間違えるなんて、いかにも不慣れな間違いだもんな」
「そんな慰め方されても嬉しくないのよ!!」
話の焦点はすでに変わってきていた。事実じゃなく、事実を口にするその態度が問題。つまりヤムチャのデリカシーのなさよ!だからやがてかけられたクリリンくんの声に答える気は、あたしにはさらさらなかった。
「…あのー、ヤムチャさん、ブルマさん、どうかしたんっすか?」
「あ、いや、別に…」
「なんでもないわよ!」
そしてヤムチャにもないようだった。あたしたちの他に唯一話がわかるはずの孫くんは、きょとんとした顔のあちこちにお菓子のくずをつけていた。どことなくおずおずと、あたしとヤムチャを見比べるその他の面々。ことさら何食わぬ顔を装ってその輪の端に加わりながら、あたしは決めた。
ふーんだ。見てなさいよ。明日こそはあんなこと言われないようにがんばるんだから!
明日は量より質よ。孫くんには悪いけどそうさせてもらうわ!さらにそう決めた時、その孫くんが腰を上げた。
「あー、食った食った。ごっそさん!じゃあオラ行くな」
そしてこともなげにそう言い放った。あたしは思わず唖然とした。食べるだけ食べたらさようなら。なんつー失礼なやつ。…などと思ったわけじゃなかった。
そんなの今さらよ。孫くんの不躾さなんて考えてたらキリがないわ。…でもそれにしても、まだ一日にもならないのに。孫くんだって結構楽しそうにしてたのに。もう少しゆっくりしてけばいいのに。昨夜当てた花火、今夜はちゃんと見せてあげるのに。
「今からかよ。せめて明日にしろよ。もうすぐ夜だぞ」
「うん、でもみんながんばってるのに、オラ一人のんびりしていられねえ」
呆れたように引き留めたウーロンに、孫くんは笑顔で言い切った。それは非常に曖昧な、でも反論できない理由だった。
逸る気持ち。止まらない思い。孫くんもやっぱり同じなのね。そこのちょっぴり気を入れ過ぎちゃったクリリンくんや、立ち直ってたくせに落ち込んだ振りをしていたバカと同じ――本当にみんなどうして、そんなに強くなりたいのかしら。
「ひさしぶりにみんなでメシ食えて楽しかったぞ」
そう言って笑う孫くんを引き留める者はもういなかった。
「うむ。悟空よ、さらなる成長を楽しみにしておるぞい」
「おれだって、次に会う時はうんと強くなっててやるからな。驚くなよ」
「悟空、また天下一武道会で会おう」
それどころか、『また来いよ』と言う者すらいない。揃いも揃ってそういうことばっかり。
「悟空さん、さようなら」
「お体に気をつけて…なんて、言う必要ないですわね」
ランチさんの言葉を聞いた時、あたしは頷く一方で孫くんのもう一つの資質を思い出した。ちょうどポケットの中に、手をつけるヒマのなかったそのカプセルが入っていた。
「孫くん、これあげる。お腹が空いたら食べなさい。だから変なもの拾い食いしちゃダメよ」
「なんだこれ?食いもんなんか?」
「あたしのおやつよ。朝、あんたが文句言いながら食べてたやつ。本当はあたしの分なんだけど、もう全部あげるわ」
「ふーん」
孫くんはいま一つ気乗りのしなさそうな顔をして、あたしの差し出したカプセルを見ていた。でも『いらない』とは言わなかった。さらにすぐにカプセルを胸元にしまい込んだ。それは非常に納得のいく仕種だった。
この子はもう、コーヒー以外のものなら何でも食べられるみたいだから。きっとこのノリで、お弁当のサンドイッチも食べたんでしょうよ。あのサンドイッチを。なーにが『ちょっと変わった味だけど悪くない』よ。食べ物ならもう何でもいいくせに。作り甲斐があるんだかないんだか、わかりゃしない。
「サンキュー、ブルマ。じゃあなみんな、バイバーイ」
まるで『また来るよ』と言わんばかりの気安さで、孫くんは開いた窓を飛び越えた。でもきっと、しばらく会えないであろうことはわかっていた。だけど、あたしはちっとも淋しくなかった。絶対にまた会えるということがわかっているから。そう、三年後、あの天下一武道会で。それがなくともきっと会える。そう思わせるものを、孫くんは持っている。
「バイバーイ」
「まったなー」
体の小さなプーアルとウーロンだけが、窓から身を乗り出して孫くんを見送った。窓から差し込む強い日差しに目を細める間もなく、孫くんは砂埃を舞い上げて地平線の彼方へと消えた。
「どりゃりゃりゃりゃーーーーー」
りゃー…りゃー…りゃー…
あげるの、食べ物じゃなくて乗り物の方がよかったかしら。後に残った掛け声の木霊を耳に、あたしはふと思った。あたしはすっかり忘れていたのだった。
「よしよし、あやつめ、ちゃんとわしの言いつけを守って走っておるな。天晴じゃ」
「何が天晴だよ。『筋斗雲を使うな』なんて無茶なこと言いやがって」
そっか。そうだったわ。孫くんにとっては、あれも修行の一つというわけね。本当に無茶苦茶ね。亀仙人さんのやり方は。
いつしか流れ始めた風。天井を移ろう夏の日差し。ランチさんの淹れてくれた冷たいお茶を口にして、あたしは考えた。行ってしまった孫くんのことではなかった。孫くんは大丈夫。あの子は一人だろうと一人じゃなかろうと、いつだって元気にやっていける。とはいえ、ヤムチャを心配していたわけでもなかった。
もうそんなことしてやらないわ。まったく、心配し甲斐ないんだから。立ち直り早い上に、あんなこと言われちゃたまんないわよ。
そう、だから、今あたしが考えるべきことはただ一つ。
…明日のお弁当のメニューよ。
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