漫歩の男
「ねえ知ってる?ブレッドがローズを振ったって話」
「知ってるも何も、ローズもう他の人と付き合ってるじゃない。絶対当てつけでしょ、あれ」
「マジ?やるー!で、相手は誰よ」
「あたしもよく知らないんだけどね、どうも三年の…」
…公認カップルって大変ね。
付き合ったことから別れたことまで、すっかり知りつくされちゃってさ。おまけに、次の恋愛までチェックされちゃってるわ。まあ、校内でごたごたする方が悪いんだけど。
そんなことしたら格好のネタになるのに決まってるのに。特に別れ話なんて、広まるの早いんだから。『他人の不幸は蜜の味』ってね。
と、元公認カップルのあたしは思い、噂話に花を咲かせるクラスメートを尻目に、ハイスクールを後にした。


ちょっと遅くなっちゃった。
カメハウスのある陸地が見えてきた時、空はすでに薄暗くなっていた。その後少しして辿り着いたカメハウスの周りは、真っ暗闇だった。
やっぱりハイスクールが終わってから来るっていうのは無理があったかなあ。でも、来たかったのよね。
閉じられた窓からはうっすらと光が漏れて、談笑の声が聞こえていた。相変わらず賑やかね。ま、寝る時間にはまだまだ早いから、よしとしましょうか。そう自分で自分を宥めながら、ドアを開けた。
「みんな、こんばん…」
「鬼は〜外っ!」
…………。
途端に、大量の豆が飛んできた。それはもう勢いよく。女の命である顔にクリーンヒット。っていうかさぁ…
「あっそ。鬼はここへは来るなってことね!」
「ち、違う!偶然だ、偶然!そこにいるとは思わなかったから…」
なんでよりによって、ぶつけてきたのがヤムチャなのよ。あんたケンカ売ってるわけ!?
あたしが即行で踵を返すと、ヤムチャはそれは慌ててあたしを引き留めにかかった。当然よね!そのくらいしてくれないと、収まりつかないわ。
「本当にごめん。武天老師様が景気良くパーッと撒けって言うから…」
「こりゃヤムチャ。わしのせいにする気か」
「だって…」
『こんばんは。いらっしゃい、ブルマさん』
いつもならそう言ってさりげなく場を流すランチさんは、今日はいなかった。代わりに強面の方のランチさんが、ソファの上に胡坐を掻いて銃を磨いていた。だからあたしは何の気を遣うこともなく、言ってやった。
「何で今頃豆なんか撒いてんのよ。豆撒きのバイトはやらなかったの?」
「豆なんかぶつけられたって、修行にも何にもなりませんよ」
…………。
淡々とクリリンくんがそう答えた。あたしは思わず無言になった。クリリンくんって、ジョークは通じるけど、時々嫌みが通じないのよね…
ま、いいけど。豆撒きなんて、たいして意味ないイベントだし。2月のイベントって言ったらなんてったって…
…次の休みにはいろいろ買い揃えなくちゃ。
あたしが決意を固めると、ランチさんがこんなことを言いながら、銃を構えてみせた。
「そうでもねえぜ。東の方には豆鉄砲ってものがあるらしいからな。修行したけりゃやってやるぜ」
「…………」
「…………」
「…………」
それで、一瞬にしてみんなも無言になった。


沈黙に包まれたリビングを後にして、あたしはキッチンへと向かった。セルフサービスでコーヒーを淹れるためだ。
「来たのはブルマちゃんだけかの。いつものお供はどうしたんじゃ?」
「うん、今日はあたしだけ。明日、ハイスクール休みなの。ウーロンとプーアルは次の休みに来るって」
逆に言うと、次の休みにあたしは来ない。来られないから、今日来たっていうわけ。やっぱりちょっと気になるし。今年はどんな感じかなーって…
「ブルマちゃんも案外マメじゃのう。節分だけにな」
「つまんない冗談ね〜」
亀仙人さんに平和な突っ込みを入れているうちに、コーヒーが入った。えっと、砂糖はどこだったかしら。カップ片手にキッチンを見回していると、後ろから声がかかった。
「あ、ブルマ、服に豆が入ってるぞ」
「え?」
「右腕の脇の下…ここんところ」
あたしは思わず飛び上がった。もう少しでコーヒーカップを落としちゃうところだった。一瞬感じたくすぐったさが、ヤムチャの指によるものだとわかるのに、時間はかからなかった。
「ちょ、ちょっと!どこに手入れてんのよ!」
あたしが叫ぶと、ヤムチャはあたしのチューブトップの脇から指を引っ込めて、慌てたように言った。
「ち、違う違う!誤解だ、誤解!俺はただそこに引っかかってる豆を…」
「エッチ!」
「ご、ごめん。でも、ほら、これ、この豆が脇のところに引っかかってたから…」
「それがなんだっつーのよ!」
いくら何がどうだって、普通こんなところに手は入れないでしょ!せっかくウーロンがいなくって、亀仙人さんも何もしてこないと思ってたのに。何もよりによってあんたがっ…
そう、ヤムチャがこういうことをするのと、ウーロンや亀仙人さんがこういうことをしてくるのとでは、全ッ然感覚が違うのよ。単純な怒りだけでは済まされない。何でって…そんなの当たり前でしょ!…理不尽よね。被害者なのにこんな思いを味わわされるなんて。
だからクリリンくんが不思議そうな顔で訊ねてきた時、あたしは全力でそれをはぐらかした。
「どうかしたんすか?」
「…う。え、ええと…」
「何でもないわよ!」
それもこれも、ヤムチャがぽろっと言ってしまいそうになってたからだ。そうじゃなきゃ、わざわざ大声出したりしないわよ。むしろ、今すぐにも忘れたいような気持ちなんだから。あー、本ッ当、なんかよくわかんないけど、とにかく頭にくるというよりは、もやもやする。
「怪しいのう」
「どこがよ。あたしお風呂入ってくる!」
とにかくも、なんだかわかんない気持ちが治まりそうにもなかったので、あたしは場そのものを切り上げることにした。個室はないからバスルーム。そういう、単純な思考だけは働いた。


…あー、やだやだ。
恥ずかしいっていうのともちょっと違う。もちろんそれもあるんだけど、それだけじゃ割り切れない。っていうかさあ。…何であんなことされてドキドキしてんのよ、あたし。
数十分後、バスタブに浸かる頃にはあたしはだいぶん冷静になって、自分をそう分析した。でも、それだけだった。深く考え込むほどのことじゃない。バスルームに泡を飛ばす心の余裕もある。
一体何なのかしらね、今日は。なんかすっごく嫌なタイミングで事が起こってくれるじゃない。あたしと何かあってどうすんのよ。今日来たのはやぶへびだった、なんてことにはならないようにしてほしいわね。
それはヤムチャに対してのお願いではなかった。所謂、神様ってやつに対してのお願いだ。ヤムチャがそういう方面には気が回らないやつだってことは、あたしが一番よく知ってる。あいつは今は次の天下一武道会に向けての修行に夢中だし、そうじゃなくてももともとそういう性格なのだ。
だから、さっきのだってわざとじゃない。それがあたしにはわかっていた。それでも、怒らせてはもらうわよ。無頓着にも程があるってものじゃない…
…………あ、パジャマ忘れた。
やがてバスルームを出てラバトリーへ行くと、至極現実的な問題が発生した。パジャマだけじゃなくて、替えの下着もない。要するに、すべてを入れたリュックを忘れたのだ。リビングに。あたし、本当に慌ててたのね…
「ちょっと、プー…」
ラバトリーのドア越しにその名を呼びかけて、あたしは口を噤んだ。
…プーアル、いないんだっけ。
「ランチさん、ランチさーん」
こういうことに関しては、プーアルの次に安全。そう思える人間の名を、あたしは呼んだ。少し間をおいて、だるそうなランチさんの声が返ってきた。
「何だぁ?」
「悪いんだけど、あたしのリュック持ってきてくれない?中に着替えが入ってるの。どっかそのへんにあるから。あっと、亀仙人さんは来ちゃダメよ!」
一番危険な人間を牽制することを忘れずに。みすみす魔の手に晒される気はないわ。
とりあえずはバスタオルを巻きつけて、ドライヤーで髪を乾かしていると、やがてドアがノックされた。
「あ、ありがとう。ドア開けて置いておいて」
片手間に言ったあたしの言葉に返事はなかった。そしてドアも開かない。不思議に思ってドライヤーをかけながらドアを半分ほど開けると、ちょうどあたしの目の前にリュックが現れた。一本の指先に引っかけられて。瞬間、あたしは思わず半歩後退った。
この高さから差し出される武骨な手を、あたしは一つしか知らない。…ヤムチャだ。やだなあ。今バスタオルしかつけてないのに。
「ほら」
ちょっぴり躊躇っていたあたしの耳に、囁くような促しの声が入った。…ま、こいつも安全といえば安全か。実際、今だって顔は出してこないばかりか、そもそも体がこっちを向いてないみたい(唯一見える手の向きでわかるわ)。そうね、ランチさんの次に安全な人間よね。
「サンキュ」
そう思いながらあたしはさらにドアを開け、リュックへと手を伸ばした。すると、ころりと何かが落ちる音がした。
それをちゃんと確かめなかったのがいけなかったのか、それともドライヤーをかけながらという片手間ぶりがいけなかったのか。リュックを手にした瞬間、足がその何かに取られた。
「わっ」
軽い悲鳴と共に、あたしは尻もちをついた。頭を床につけたのはその後だったので、さほど痛くはなかった。でも、そんなことどうでもよくなっちゃうような様々な問題が、床に倒れたあたしの身に起きていた。
…まず、手。
今さっきまでリュックを引っかけていたはずのヤムチャの手が、胸の上にあった。言うまでもなく、あたしの胸のだ。
「きゃっ…」
「わっ!わわわわっ!」
あたしが悲鳴を上げ切る前に、ヤムチャは手を除けた。でもしたことと言えばそれだけで、後は機関銃のように喋り続けた。
「ご、ごめん!わ、わざとじゃないんだ!偶然なんだ、偶然!急に引っ張るからバランス崩して…受け身を取ったらたまたま手がここに…」
そのあまりの慌てぶりに、あたしの頭はかえって冷えた。だけど、平静であったわけじゃない。
「…わかったから、早くそこどいてよ。それとも、乗っかってるのはわざとなの?…」
ヤムチャの顔はあたしの顔の少し上に、腰はあたしの腰のすぐ上にあった。わかりやすく一言で、言いたくないけど言おうかしら。…押し倒されてる、そう思ってくれればいいわ。偶然ちょっと上に被っちゃっただけ、そんな風に思ってやれるような状況じゃない。だって、あたしは今バスタオルしかつけてないんだからね。
「え……あっ…」
ヤムチャはまったく今さら気がついたように、目を見開いた。…この鈍ちん。そう思ったあたしの上で、身動ぎしないその頬がみるみる赤くなっていった。それを見て、あたしは思わず溜息をついた。
…もう。それはあたしが取りたい態度でしょ。
「わかったらさっさと離れて。それとも何かしたいわけ?」
さっきとは微妙に違う言い方で、あたしはヤムチャを促した。大いに皮肉を込めて。するとヤムチャはまた慌てて、やっぱり体より口を先に動かした。
「ち、違う違う違う違う!全ッ然、そういう気はない!!」
「だったらどいてよ」
なんか、思ってたよりわかってるっぽいわ。鈍いくせにね。そうも思いながら、なかなかどこうとしないヤムチャの体の下から抜け出しかけた。その時だった。
「何やっとるんじゃ、おぬしら。そういう仲直りの仕方はちいっと早過ぎるのと違うか?」
一番来てほしくなかった人間の顔が、ヤムチャのさらに上に現れた。ひっくと酒臭い息を吐きながら、わざとらしく濁った目を瞬いている。その途端、ヤムチャが弾かれたように飛び退いた。
「ちちち違います、老師様!これはただ足が滑っただけで…」
…ちょっと。何よその反応の速さは。ずいぶんといい態度じゃないの。
「第一そういうことはこんな冷たい床の上ではなく、ちゃんとベッドでやらないかんぞい」
亀仙人さんも亀仙人さんよ。あたしがそんな安い女だと思ってるの?
「違うって言ってんでしょ!あたしもう寝る!」
少し離れた床の上に転がっていたリュックを拾い上げて、あたしは二階の寝室へと走った。ここじゃ着替えられないから。
正反対の失礼をかますこの師弟を追い出して終わりにできるような心境じゃないから。本当に、こいつら女を何だと思ってるの?
ったくぅ。


ふんだ。エッチ。
リュックを壁に叩きつけたくやるような類のではない怒りを抱きながら、あたしはパジャマを頭から被り、胸元まで引き下ろしたところで、そう文句を零した。…完全に触られちゃったわよね。最っ低!…という単純な怒りだけでは済まされない、変なもやもやがやっぱりあるけど、それは考えないことにする。余計なことは考えなくていいの。一日に二回もこんなことがあっただけでも大問題なんだから。しかも、さっさと忘れさせた方がいいのか、忘れさせずに文句言ってやった方がいいのか、それすらわからないじゃないの。
脱いだ衣類を軽く畳んでベッドの横に放り投げると、ころりと何かが転がる音がした。さっきラバトリーで耳にしたのと同じ音。今度はあたしは、その音をたてた物を確かめた。それは、指先ほどの大きさしかない、一粒の白い豆だった。
…何これ。
こんな小さな豆で滑って転んだってわけ?一体どういう不可抗力よ。そんなの、理由にもなりゃしないわよ。
確かに、目にはつきにくいけど。服の中に入ってたのにも気づかなかったし。だいたい何で服の中に豆が入ってるわけ。って、ヤムチャよね。何もかも、これをあたしにぶつけたヤムチャが悪いのよ。なのに、被害は全部あたし持ちでさ…
…………喉渇いた。
手持ち無沙汰に豆を見ながらベッドの上でごろごろしていると、やがてお風呂上がりの生理現象がやってきた。それとも、もっと単純な生理現象かしら。家を出てから何も飲んでないからなぁ。それであたしはベッドから体を起こして、部屋を出た。薄暗い廊下を歩いて、階段を下りること数段目、そこではたと足を止めた。
階段の真下に、ヤムチャがいたからだ。とはいえ断わっておくと、顔も見たくないとか、話もしたくないとか、そんなことを思って足を止めたわけじゃない。なんとなく、反射的に足が止まったのだ。喉の渇きを我慢して踵を返すほどの怒りは、あたしにはなかった。かといって、まったく何事もなかったようにってわけにもいかない。気まずい…というより、なんとなく敬遠したい。そうね、警戒してた。そう言うのが一番近いわね。だって、今日なんか変だから。なんとなくいつもと違う感じで、いろいろ起こるから…
それでも思わず止めてしまった足を一段下へと運んだその時、その、いつもと違う感じでいろいろと事を起こしてくれる犯人を、あたしは見つけた。さらに一段下に一粒の豆。…さっきはなかったと思ったのに。それにこの位置。もし今気づかなかったら、また足を滑らせてたところじゃないの…
今日って仏滅だったかしら。いえ、節分だったわよね。そんなことを考えながら、あたしはその豆を拾った。そして、これみよがしにそれを上に放ってみせた。それを掴んで、また放る。手持ち無沙汰だったからじゃない。これは謂わば、当てつけ行為だ。
「鬼は〜外っ!」
最後にそう言って豆を飛ばすと、それは狙い通り一直線にヤムチャの鼻先に当たった。ヤムチャは痛がる素振りもなく、気の抜けた顔と声で呟いた。
「は?」
「不運、お返しするわ」
不運というより、間の悪さかしらね。ともかくもそれだけを言って、あたしはヤムチャの横を通り抜けた。他に言うことはなかった。依然として心の中にあるこのもやもやを、解消してもらおうとも思わない。あれよ。チョコレートをあげたことすらない相手に、あれこれ言ってみたってしかたないわけよ。
「う〜む、失敗したのう。もうちっと待ってから覗きに行くべきじゃったわい。さすればいいものを見れたかもしれないのにのう。まっこと惜しいことをした」
ヤムチャの後ろ、リビングの真ん中では、亀仙人さんが一人ビールを啜りながら、ぶつぶつとそんなことを呟いていた。…勝手なこと言ってるわね。他人事だと思ってぇ。
「まだそんなこと言ってるんですか、老師様」
「そんなんじゃないって言ったでしょ」
さっきよりは落ち着いた、でもいまいち迫力のない反論をするヤムチャに加勢して、あたしは亀仙人さんに向き合った。すると亀仙人さんは赤ら顔をこちらに向けて、酒臭い息とらし過ぎる台詞を同時に吐き出した。
「なんじゃブルマちゃん、寝付かれんのか?しょうがないのう。どれ、わしが添い寝してやろうかの」
「このセクハラじじい」
それはランチさんが切って捨てた。彼女の素早い反応に感謝しながらも、あたしは溜め息をついた。今のこの、すべての状況に。相変わらずの、あたしたちを包む空気に。
こんな空気の中で、何かが起こるわけないわ。ここには色ボケ老人はいても、色気のある人間はいないんだから。当の本人も含めてね。
「何を言う。わしはブルマちゃんが淋しかろうと思ってじゃな、気の利かんヤムチャの代わりにその役を買って出たまでじゃ。女子を寝かせるのは男の仕事ゆえ――」
「それ以上その酒臭い口を動かしたら、このリボルバーが火を噴くぜ」
「…最ッ低」
すかさず銃を突きつけてくれたランチさんに亀仙人さんを任せて、あたしは溜め息をついた。胸に残るもやもやのせいじゃない。いつもの、終わったと思ったのにまだ続いてる、軽い悩み事のせいだ。
あー、疲れる。
公認って、やっぱり疲れるわ。
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