手を振る男
あたしには経験がなかった。誰かを見送ったという経験が。
そんな友達はいなかったし、恋人は…ヤムチャが最初。
どんな気持ちなのかわからなかった。

強いていえば、孫くんはそうだったかもしれない。
そうね、孫くんは見送ったと言えるわ。
でも孫くんは…あの子はなんていうか、絶対的な安心感を持っていた。
危なげなところはあるけど(本人は気づいてないみたいだけど)不安感を抱かせるようなところはなかった。

どんな気持ちなのかしら、恋人を見送るって。
涙が出たりするのかしら。すがりたくなったりするのかしら。
すがる?ヤムチャに?
すがる…
――似合わない。
あたしが泣いてすがるわけ?あの優男に?立場が逆じゃないの?ヤムチャがすがるなら、まだわかるわよ…
あたしは想像してみた。
『ブルマ!行かないでくれー…』
何よ。似合いすぎるじゃない。

「わっかんないなあ」
明日ヤムチャが発とうという夜。そんなことばかり考えていたら、

…寝過ごした。


ところで、あたしは寝起きが絶対的に悪い。言うなれば最悪。
寝過ごした上に機嫌が悪いあたしの目の前に、なぜかヤムチャの顔があった。
あたしはおぼろげな意識でそれを見た。

「…あんた、いたの?」

思わずこう言ってしまったあたしを誰が責められる?
ヤムチャはショックを受けたようだった。ま、当然よね。恋人との別れに嘆く男の傷口に、塩をなすりこんだようなものだものね。
でも、寝起きのあたしの前に現れたあいつが悪いのよ。
あいつを寝室から追い出し着替えを終えたあたしは、未だあたしの部屋にいるヤムチャに向かって声をかけた。
「あんたここで何してるの?っていうかロックは?」
「かかってなかったぞ」
あっちゃー。不覚。でも普通、開いていたって女の子の部屋に勝手に入る?ウーロンじゃあるまいし。
でも、それは言わないでおいてあげた。何といっても今日が最後だし。
「で、何してるの?」
「…おまえを起こしにきたんだよ」
ヤムチャは不本意そうに呟いた。
あたしは覚醒しつつある頭で考えた。
起こしにきた?あたしを?…最後の日だからかしら?
思わず笑みがこぼれた。
「あんたかわいいことするわねえ」
そう言った時のヤムチャの顔。
眉間に皺を寄せてるくせに、顔中真っ赤にしちゃって。人間の顔って器用にできてるわよねえ。

あたしたちは朝食の席についた。いつもと変わりない。
朝食だもん、変わりようもないわよね。いくら出発の日だからって、朝からステーキとか出てきたって困るし(そういう国もあるみたいだけど)。
それについてはヤムチャも同意見だった。あたしたちはなんてことなく朝食を食べ終えた。

朝食を食べた後、ヤムチャの部屋へ行った。最後に、朝使い終わった身の回りのもの(ほら、歯ブラシとか髭剃りとか最後に詰めるでしょ)を床に置いたバッグに詰め込んでいるヤムチャを、あたしはあいつのベッドに腰掛けて静かに見ていた。
あたしはかつてないほど、まじまじとヤムチャの顔を見ていた。

…なんでかしら。あたし、あんまり悲しんでないのよね。
つい何日か前までは結構沈んでいたんだけど(内緒よ)。
当日になってみたらそうでもないっていうか。
んー…ひょっとして、あたしヤムチャのこと好きじゃないのかしら。

「わっかんないなあ」
思わず口に出してしまったあたしの言葉を、ヤムチャが聞き咎めた。
「何が?」
「なんでもないわよ」
本当になんでもないのよ。
「気になるなあ」
そんなこと気にされても困るんだけど。

っていうか、こいつ今日、神経質になってない?いつもはもっと、のうのうとしてたはずだけど。
自分で行くって決めたくせに。変なの。

その時、ふいにヤムチャが言った。
「おまえ、何でそんなに飄々としてるんだ?」
は?
「飄々としてちゃ悪いわけ?」
まあ、『飄々としてる』って言われていい気もしないけど。それは言わないでおいてあげるわ。どうせ最後だし。
ヤムチャはさらに続けた。
「だって、もうすぐ俺が行くっていうのに…」
そう言うヤムチャの顔。不貞腐れたっていう表現がぴったり。
「あっはははは」
あたしは文字通り腹を抱えて笑いだした。
さらに眉間の皺を強くするヤムチャに向かって言った。
「あんたかわいいわねえ」
「な…」
あたしはヤムチャの前に屈みこんだ。
そしてキスした。

きっとあれね。あの時のあんたの一言ね。
あれがあたしを変えたのよ。

長い長いキスの後で、ヤムチャがぽつりと言った。
「すぐに帰ってくるよ」
あたしは笑って答えた。
「その気もないのに、よく言うわよ。せいぜい強くなるのね」
帰ってこなくてもいいわ。
あたしが迎えに行くから。


あたしは、部屋の窓からヤムチャを見下ろした。
「おまえ、見送りくらいちゃんとしろよな」
ウーロンが庭から文句を言った。ヤムチャはそれを片手で制すると、飛行機のタラップに片足をかけ、あたしを見上げた。
「じゃ、行ってくるな」
「行ってらっしゃい」
あたしはヤムチャに手を振った。




ふうん、こういう気持ちなのね…
「新鮮だわ」
あたしはヤムチャの飛んで行った空に向かって、1人ごちた。
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