半歩の男
あたしはヤムチャに会いに行った。
そして頬をぶった。


翌日に、あるシンポジウムを控えたその日、あたしはカメハウスに来ていた。
理由は2つあった。まず、そのシンポジウム会場が、カメハウスから近かったこと(直行させてもらうつもりだった)。それに、ランチさんが夏風邪で寝込んでしまったことだ。
あたしがみんなの食べ散らかした食器をシンクに突っ込んでいると、ヤムチャがやってきた。
「手伝おうか?」
「洗い物くらい1人でできるわ。あんたは修行してなさい。まだあるんでしょ?」
「まあな」
そう言いながらも、ヤムチャはそこから動こうとしなかった。
「どうせ手伝ってくれるんなら、夕食の支度にして」
あたしがそう言うと、ヤムチャはやっと出て行った。
素直じゃないって?そうかしら。だってここで修行の邪魔をしたら、手伝いに来ている意味がないでしょ。あたしは現実主義者なのよ。

あたしが感心したことに、亀仙人さんは修行の量を8割方に抑えたらしく(意外と気が利くわねあのじいさん)、ヤムチャが夕食の支度を手伝ってくれた。クリリンは庭でバーベキューのための火を熾していた。
包丁を手に野菜と格闘しているあたしの姿を見て、ヤムチャは言った。
「危なげな手つきだなあ…」
「うるさいわね」
気が散るから話しかけないでよ。あたしは横目でヤムチャを睨みつけた。
「この前食った飯、本当におまえが作ったんだろうな?」
あんた、なんてこと言うのよ。
「失礼ね。包丁が苦手なだけよ。…あんまりやったことがないのよ」
あたしは白状した。どうせいつかはバレることだ。
それに対し、ヤムチャは妙な感心をしてみせた。
「それであそこまで作れるものなのか?」
「言ったでしょ、レシピと手順だって。科学実験みたいなものよ」
あたしがそう言うと、ヤムチャは黙った。


どうやら今日の修行は終わったみたい。それを確認して、あたしはバスルームへと消えかけるヤムチャに声をかけた。
「ヤムチャ、お風呂に入る前にECGとらせて」
「ECG?」
腑に落ちない顔をするヤムチャに、あたしは説明してみせた。
「心電図。『気』の研究よ」
機械をカプセルから戻し、きびきびと作業に取り掛かるあたしを見て、ヤムチャがくすりと笑った。
「何よ?」
感心しない笑い方ね。
それに答えたヤムチャの台詞は、軽くあたしの意表をついた。
「一端の科学者らしくなってきたなあと思って」
フンと1つ鼻を鳴らし、あたしはすまして答えた。
「あたしは元から天才よ」
「そうじゃなくって。前は片手間にやっている感じがしたけど、今はだいぶ夢中みたいだなと思ってさ」
ヤムチャの言葉に、あたしは笑った。
「雑念がないから集中できるのよ」
「雑念?」
惚けてみせる(というか本当にわからないのかもしれないけど)ヤムチャの鼻先を、あたしは指で突ついた。
「あんたよ。あ・ん・た」
ヤムチャは不思議そうに、あたしの指先を見つめた。
「俺が雑念なのか?」
「それ以外の何だっていうのよ」
やっぱりわかってなかったのね。相変わらず鈍いんだから。
思わず微笑を漏らしたあたしの耳に、信じられない一言が飛び込んだ。
「だったら何でここに来るんだ?雑念はないほうがいいんだろ?」

なんですって?

あたしはヤムチャの左頬を引っ叩いた。ええ、思いっきり引っ叩いてやったわ。
「いきなり何するんだよ!」
あいつは頬に手を当てながら、あたしを見た。何するですって?それはこっちの台詞よ!
「あんたは…」
一時の絶句から解き放たれて、あたしは声を絞り出した。すぐに、怒りが言葉を連れて喉元に込み上げてきた。
あいつの言葉は冗談じゃなかった。冗談を言っている口調じゃない。まるっきりの本気だったわ。
「あんたは!いつまで!そうやって!生きていくつもりなのよ!!」
冗談じゃないわよ!!
あたしは瞬時に立ち上がりドアを開けると、足早に部屋を出た。
「…一体何なんだよ」
背後でヤムチャの呟く声が聞こえた。

嫌になる。本当に嫌になるわ。
何であんたはそうなのよ。何でいつもわからないわけ?
何でいつも女に恥をかかせるわけ?
そうよ、いつも。いつもいつもいつもいつも。
…ずっとよ。

時々バカらしくなるわ。
何であたしこんなのと付き合ってるのかしら。
何で相手にしてるのかしら。

「あー、ムカつく!」
あんたにも。自分にもね。

あたしは廊下の壁を叩いた。


…今すぐC.Cへ帰るのはやめた。あたしは大人になることにした。
ランチさんを放ってもおけないし。だいいちここで帰ったら、女が廃るわ。
ヤムチャはいないと思えばいいわ。…それは無理か。じゃあ、他の誰かだと思えばいいわ。
孫くんなんかどうかしら。同じ亀仙流だし。
あたしは孫くんの姿を思い浮かべた。
純粋で、無垢で、鈍感で、世間知らずなあの笑顔。
…あまり変わらないわね。
あたしは溜息をついた。
武道家ってみんなそうなのかしら。
世俗を捨てているのかしら。


翌日。
昼食の支度を済ませると、あたしは今度は自分の身支度を整えた。
今日はシンポジウム。気分が乗らないけどしかたがないわ。
あたしはスーツを取り出した。濃いローズカラーのフォーマルスーツ。
気が滅入っている時は派手な服に限るわよ。

シンポジウムは滞りなく終わった。滞るわけないわ。あんなの予定調和だもの。
帰りたくないなあ。
こんな気持ちのままで帰りたくない。でもカメハウスに行きたいとも思わない。
あたしはなんとなく歩き続けた。そうしたら、ナンパな男どもに絡まれた。
…ええ、そうよ。人生ってこんなものよ。嫌なことが立て続けに起こるのよ。
あたしは誘いを断った(当たり前よ)。いまいち気力の奮わない態度で。
ナンパなんて、いつもだったら簡単に撃退できるわ。でも、こんな気分で強気に出られっこないわよ。
あたしは腕を掴まれた。…ちょっと、やめてよ。こんな時に限って、しつこいったらありゃしない。
怒りと虚しさの綯い混ざった気持ちで、あたしがやっと叫びたててやろうとした時。
「手を離せよ」
ヤムチャが現れた。
何でよ。何でこんなとこにいるのよ。あんたは修行してるはずでしょ。
あんたは、今会いたくない人間の筆頭なのに。

あたしたちは歩き出した。ただ無言のままに。
あたしは何も言わなかった。言うことなんてないわよ。
いいのよ。こいつは今ここにはいないのよ。
そうあたしが思い込もうとした瞬間、ヤムチャが言った。
「…おまえも俺にとって雑念だったよ。だから掻き乱さないでほしいんだ」
あたしは目を瞠った。
ヤムチャは本気で言っていた。こいつがこんな嘘つけるわけないわ。どうしちゃったの、あんた。
そして、再び黙った。あたしがあいつの顔を注視しているのに気がつくと、ヤムチャは慌てたように付け足した。
「あ、いや、いなくなってほしいとかじゃなくって、その…」
ヤムチャは口篭った。言葉が見つからないようだった。
でも、あたしにはわかった。ヤムチャの言わんとすることが。
…本人は気づいてないのかもしれないけど。

「もう一歩かもね」
あたしは呟いた。
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