冷たい男
「あ、なくなっちゃった」
慌ててバッグの中をまさぐった。やっぱり、ない。これが最後の1枚だ。
あたしはオークションに行くところだった。オークションといっても、宝石や絵画の類ではない。過去の偉人・科学者の残した手記や研究のオリジナル――所謂、「科学的骨董品」だ。あたしはストレンジラヴの直筆論文(オリジナル)を狙っていた。
その会場に向かう途中で、小切手帳が使い果たされたことに気がついた。これから行くオークションは小切手しか受け付けてもらえないのだ。これでは行ってもしかたがない。
「面倒くさいわねえ」
文句を言いながらも、あたしは最寄の銀行へと足を向けた。
それが事の発端だった。

すでに1時間が経っていた。あたしは完全に銀行に足止めされていた。
まったく、信じられない不運だわ。こんなのってあり?
たまたまオークションに行こうとして、たまたま小切手がなくなって、たまたま入った銀行で、たまたま銀行強盗に入られた。しかも立て篭りよ。もう最悪。
しかも、この銀行強盗の手際の悪さときたら。
覆面をしている。拳銃を持ってる。そこまではいいわ。でも…
さっさと要求言いなさいよ!!
シャッターは全閉めでしょ!!
人質は少人数!!
女、子どもは解放しなさい!!
そもそも単独犯ってどうなのよ?
ちゃんと逃走手段確保してあるんでしょうね!?
っていうか、立て篭る時点ですでに頭悪いんだけどね。
こういうのが一番タチが悪いのよ。ダラダラダラダラしちゃってさ。
本当に、見てるだけでイライラするわ。アドバイスしてあげたいくらいよ。

ところで知ってる?立てこもりの最長時間。なんと2年2ヶ月よ。
まさか本気でそんなことになるとは思わないけど、この手際の悪さじゃあねえ。まる1日くらいは拘束されそうだわ。
まったく、冗談じゃないわよ。早く開放されて、警察に保護される前にズラからないと。ストレンジラヴのオリジナルが落とされちゃうじゃないの。あたしのストレンジラヴが。
あたしは手元の時計を見た。さらに30分経過――
――時計?
…腕時計。

『腕時計内蔵超小型即効性麻酔クロスボウ』。

あたしは息を顰めた。
…どうかしら。いけるんじゃないかしら。
だって、ここまで手際の悪い犯人よ。ひょっとすると拳銃だって偽物かもしれないわ。充分あり得る話よね。そうじゃなくとも、腕がいいとは思えない。
こんなケースはまったく想定外だけれど、そんなことも言っていられないわ。…あたしのストレンジラヴ。
射程はクリア。問題はレバーを引く時間と、麻酔が効くまでの時間だ。…でもまさか時計がクロスボウだなんて普通は思わないわよね。数秒くらい稼げるわよ。そうよ。
…いけるわ。
あたしは腹を決めた。ストレンジラヴが後押しした。だって絶対ほしいのよ!

瞬時に立ち上がり、腕を掲げた。タイミング?知らないわよ。あたしは一般人なんだから。でも、だからこそよ!
レバー!
弓床!
トリガー!
すでに犯人は気づいている。でも、もう遅い。
あたしはトリガーを絞った。
クロスボウから針が発射された。
それは僅かに軌跡を描いて、犯人の首筋に当った。犯人はよろめいた。
やったわ。そう思った瞬間、銃口が…

青ざめるあたしの腕に、何者かの手が触れた。黒い髪が視界を戦いだ。
あたしの体は宙に浮いた。




「バカやろう!!!!!」
ヤムチャは開口一番、あたしを怒鳴りつけた。
あたしたちは銀行の裏手、今は人ごみでごった返す、駐車場脇に佇んでいた。
あの時…くず折れる犯人の銃口があたしを正面に捉えた時、あたしはヤムチャによって宙へと逃がされた。ポリスが踏み込んだ。事件は解決した。
あたしたちは、事件をひと目見ようとすでに集まっていた野次馬と、これから集まりつつある野次馬と、場違いなケンカに昂じる1組のカップルに目を向ける通りすがりの人たちの、あからさまな視線に晒されていた。
「何を考えてるんだおまえは!!無茶苦茶しやがって!!」
軽く3ダースを越える視線を背中に、鋭い眼光を正面から、あたしはどちらも受け止めかねて、身を縮こまらせた。
「だっていけると思ったんだもん…」
何よ。もうちょっとだったじゃない。っていうか、ほとんど成功してたわよ。
ヤムチャはあたしの言葉を突っぱねた。
「いけるわけないだろ!!おまえみたいに非力なやつが!!」
「な、何よ〜…そんなに怒らなくたっていいじゃない。無事だったんだから…」
そうよ。それに、もっと優しくしてくれたっていいじゃない。あたしは被害者なのよ。
「そういう問題じゃない!!俺がいなかったらどうなってたと思ってるんだ!!甘く見るのもいい加減にしろ!!」
ヤムチャの叱責は延々と続いた。そう、延々と。オークションが終わるまでも延々と。

何でよ。何でこうなるのよ。
あたしのストレンジラヴ…!!

それにヤムチャ、あんたもよ!
普通ここは、抱きしめて無事を祝うところでしょうが!!
この鈍感!!

あたしは夢と現実の違いを噛み締めた。
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