忘れる男
「あーあ。またやっちゃった…」
シャーレに広がる薄桃色の海に、緑の点々。
あたしの研究材料は、単なる雑菌の集合体になっていた。
「あんた、無菌操作下手ねえ」
同室の友人が他人事のように笑う。あたしは未練たらしくシャーレを眺めやりながら、頬杖をついた。
「こーんなにかわいがってるのにねえ」
「ガサツなのよね、要するに」
あたしは二の句が告げられなかった。


あたしはもうすぐ20歳になる。
感慨?んなもんないわよ。
そんなのに浸ってるほどヒマじゃないっつーの。
学院は卒業する(2年スキップした)けどドクターコース(博士課程のことよ。医者になるんじゃないわよ。どっかの誰かさんみたいにボケないでね)に残るし、詰めておきたい研究もあるし。ドクターを卒業すれば会社の方にも顔を出すことになるだろうから、自由な時間もあまりない。今のうちよね、やりたいことをやれるのは。
思うに、ドラゴンボールを探しに出たのは、すごくいいタイミングだった。まあ、ヒマだったから行ったわけだけどさ。今じゃそうもいかないものね。
おかげでティーンもそれらしく過ごせたし(鈍い男でもいないよりはマシってもんよ)、まずまず充実している毎日だと言えた。
その時までは。


あたしはヤムチャの部屋にいた。
ヤムチャは昨日修行から帰ってきたばかりで、部屋の中にはまだ荷物が散乱していた。荷物といっても、あたしが旅行なんかに行く時のものに比べれば微々たるもので、どうしてそれだけのもので何ヶ月も過ごせるのか、あたしにはわからない。男と女は違うとヤムチャは言うけど、単なる横着なんじゃないかとあたしは思う。
あたしはベッドに腰を下ろして足をブラブラさせながら、衣類を適当にクローゼットに突っ込んでいるヤムチャに、タイミングを見計らって切り出した。
「ねえ、明日つきあってよ」
「…おまえ、帰ってきた途端にそれかよ」
ヤムチャは苦虫を噛み潰したような声を出した。
「休ませろとは言わないけどさあ、もう少し待てないのかよ」
待てないから言ってるんじゃない。っていうか、明日じゃなきゃ意味ないでしょ。
「いいじゃない、明日くらい」
その時よ。ヤムチャの口から問題発言が飛び出したのは。
「明日くらいって何だよ?」
あたしは耳を疑った。口より先に、手が出ていた。
思いっきりヤムチャの頬を引っ叩いた。
「ってーーーーー!!」
片目を薄く閉じて、ヤムチャが左頬を擦っている。
何よ、大袈裟なんだから。あんた武道家でしょ。だいたい、それでもまだ足りないくらいよ。
「信じらんない!」
「だから何だよ?」
この男、まだ言う気!?
「あんた、本当にわからないの?」
「何が?」
あたしはヤムチャを睨みつけ、突っぱねるように言った。
「誕生日でしょうが!!あたしの!!」
「あ」
こいつ、忘れてた。絶対忘れてた。この顔見りゃわかるわよ。
あたしは乱暴にコンソールを叩くと、部屋を飛び出した。
「バカッ!!」
捨て台詞も忘れずに。


あたしはまだベッドに入っていた。
昨夜の口論の後に煽った深酒が、朝になってなお頭の中に居座っていた。頭の芯が酷く痛む。警告するように、何かの音が響き渡る。
…ああ、あたしの携帯電話か…
あたしはうつ伏せのままサイドテーブルに手を伸ばし、どうにかしてそれを探り当てると、無造作に引っ掴んだ。
「あ、ブルマ?」
同室の友人からだった。
「…何よ、こんな朝っぱらから…」
「どこが朝よ、もう昼よ。ま、あんたが休講だってことは知ってるけどさあ、一応言っといたほうがいいかなと思って。あんたのクラミド…」

「えええええ!?」
瞬時にあたしは飛び起きた。
手当り次第に物を引っ掴むと、最低限の身支度を整えて、白衣を握り締めた。
そしてドアをロックすることも忘れて、部屋を飛び出した。
ヤムチャがあたしの部屋に向かって歩いてきているのが見えた。
「あ、ブル…」
「ごめん、後にして!!」
困惑したようなヤムチャの顔を一瞬だけ視界の隅に留めて、あたしは走り去った。今はそれどころじゃない。どうか、どうか無事でいて。
あたしは願いを込めて叫んだ。
「あたしのクララちゃーん!!」


息を切らせて研究室へ駆け込むと、後輩が気の毒そうな顔で言った。
「あ、ブルマさん。一足遅かった…」
「えぇ〜〜〜」
フランビンの中で沈黙する薄黄色の液体。 真正細菌クラミドフィラ…あたしのクララちゃん。
同室の友人が他人事のように笑う。
「あんたって、増菌培養も下手よねえ」
「ほっといてっ!!」
あたしはフランビンの上に腕を投げ出し、長机に突っ伏した。


もう最低。
ヤムチャは誕生日を忘れてるし、細菌たちは全滅するし。
あたしって報われない運命なのかしら。
怒りが虚しさに変わり始めた頃、あたしは睡魔に襲われた。


目を開けた。辺りは真っ暗だった。
あたしはもう1度寝ようとして、目の前にいる人物に気がついた。
「あんた、いつからそこにいたの?」
何故かヤムチャが、窓際の席に座っていた。
「10分前に来たばかりだよ。おまえ、全然起きなかったから」
クララの入ったフランビンをいじくりまわしながら、のんきな声でそう答える。いつもなら怒り倍増するところだけど、あたしはまだ半分夢の中にいた。
と、俄かに接続する頭の回路。
「あ!パーティ」
母さんがあたしのためにパーティを企画してくれていたことを、ふいに思い出した。
「終わったよ。一応9時頃までは待ってたんだけどな」
がっくり。
結局、あたしは自分で自分の誕生日をフイにしたのだ。
腕時計に目を落としそれが11時を指しているのを見てとると、あたしは深い溜息をつき、こともなげに言った。
「帰る」
フランビンを流しに放り込み(明日絶対非難されるに決まっているけど、今洗う気には到底なれない)白衣を引っ掴んでのろのろと立ち上がるあたしに、ヤムチャが心配そうな声をかけた。
「大丈夫か?」
「何が」
「疲れてるみたいだからさ」
あんたのせいで寝不足なのよ。

あたしたちは学院を後にした。あたしとヤムチャのケンカはなんとなく休戦状態に入って(あたしにエネルギーがなかったのが一番の原因だと思う。ヤムチャはもとより逃げ腰だから)、C.Cへと向かう道すがら、ぽつりぽつりと会話が続いた。
「ねえあんた、どうやってここに入ったの?」
「ああ、ほらなんてったっけ、おまえと同室の子。彼女が教えてくれたんだよ。抜け道をさ」
「ディナ?あんたディナのこと知ってるの?」
「いや、会ったことはないけど。俺の知り合いの彼女なんだ」
「知り合いって誰よ?」
「ほら、ハイスクールで一緒だった…って、何でおまえそんなことまで聞くんだよ」
「あんたがさっぱり要領を得ないからよ」
聞けども聞けどもヤムチャの話が纏まってこないので、あたしは後日ディナに直接尋ねることにした。
まあ、一応探してはくれたわけよね。
あたしの吐息が少し軽くなった時、ヤムチャが言った。
「どっか行くか?」
「え?」
「あまり時間もないけどさ。一応誕生日なんだし」
一応って何よ、一応って。
本当、言葉を知らないやつね。

あたしは数歩前を歩くヤムチャの姿を、何故だか他人の目を通して見るような感覚で、視界に収めた。
漆黒の闇を背景に笑いながら佇む(何でこんな時に笑っていられるのか、本当におめでたいやつだわ)あたしの恋人。
誕生日さえ覚えてくれない酷い恋人。
…でも、好きなのよね。
こんなに悔しいことってない。

「あんたの部屋へ行きたい」
あたしは勇気を総動員してそう言った。それに対してのヤムチャの返事はこうだった。
「え?いや、そりゃ帰るけど」
あたしがどんなに脱力したかわかる?何でこいつって、いつもいつも女に恥をかかせるわけよ?
「そういう意味じゃなくって」
あたしは堪忍袋をめいっぱい広げながら言った。
「あんたって本当に鈍いわねえ」
その言葉でやっとヤムチャはわかったようだった。ちょっとだけ頬を染めて、瞠られる瞳。
まったく、面倒くさい男。あたしの心の広さに感謝してほしいくらいのもんだわ。


再びあたしは目を開けた。もう暗くはなかった。
なんとなく体の芯が痺れているような気がして、あたしは寝返りを打った。
黒い髪が視界を掠めた。

ああ、そうか。
あたし、ヤムチャの部屋にいたんだっけ。
…あー、お尻が痛い。

どうすれば誰にも知られずにシーツを処分できるかなんてしょうもないことをあたしが考えていると(これが現実よ)、携帯電話のベルが鳴った。
「…何よ、こんな朝っぱらから…」
「あ、ブルマ。ハッピーバースデー…は昨日か。よろしくやってるところ悪いんだけどさあ、一応言っといたほうがいいかなと思って。あんたのパラジウム…」

「えええええー!?」
あたしはそこらじゅうに散らばった衣服をかき集め、それらをすばやく身に着けると、部屋の隅に丸まっていた白衣を引っ掴んだ。ヤムチャが寝惚け眼で起き上がった。
「おい、ブル…」
「ごめん、行ってくる!!」
あたしは一目散に駆け出した。愛する者の名を叫びながら。真正細菌パラジウム――
「あたしのパリダちゃーん!!!」
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