海の男
「う〜ん…」
爽やかな朝――朝じゃないか。もう9時半だものね――の空気を窓から取り込みながら、あたしは1つ伸びをした。
外は静かだ。家の中も。今日のカメハウスには誰もいない。みんな、ビーチへ行っているから。言いだしっぺはあたしだ。
あたしはパジャマのままでキッチンへと赴くと、ペリエを1瓶取り出した。栓を抜きながら考える。
昨夜のは何だったのかしら…
頭の上に手を当てる。感触は残っていない。
何でもないか。別に様子がおかしかったってわけでもないし。きっと気が向いたのね。そうよね。
本当にそうかしら…

ミルクとフレッシュイチゴで簡単に朝食を済ませると、あたしは水着に着替えた。山茶花色のホルターネック。昨日着ていた白のバンドゥ・トップは、ヤムチャにダメ出しされたのだ。本当にねえ。あいつってば、時々妙に口うるさいんだから。
上にシャツを1枚羽織ると、エアバイクのカプセルを手に、あたしはカメハウスを後にした。


ビーチは人でごった返していた。昨日よりすごいわね。今日って何かの日だったかしら。
さて、あいつらはどこかな。結構早い時間に出ていったから、いい場所取れてると思うんだけど。
「彼女、1人?」
きょろきょろと周りを見回しながら人ごみを掻き分けていると、横から声をかけられた。あー、そうね。今のあたし、格好のカモね。
「はぐれちゃったの?じゃあ俺たちと遊ぼうよ」
見ると、定番の男2人ナンパ。でも、そうよね。あたしが男でも、やっぱり今のあたしに声をかけると思うわ。そう自覚があったから、あたしは優しく接してあげることにした。
「ごめんねー。また今度ね」
だから大人しく引き下がってね。
笑って往なそうとしたあたしに、男たちも笑って答えた。
「またまたー。逃がさないよ」
「今度って今さ」
ああ、前時代の漫画にあったわね、そういう台詞。あんた、意外と読書家ね。漫画だけど。
「悪いけど、人を待たせてるから」
あいつら、早く見つかってくれないかしら。あたしがさっさと歩き出そうとすると、1人が行く手を塞いだ。
…ちょっと、あんたたち?
「ダーメ。行かせないよ」
「待ち人来たらず、ってね」
…中途半端な知識人って、手に負えないわね。
あたしは激昂した。
「しつっこいわね!!行かないって言ってるでしょ!!断られたらさっさと引く、それがナンパのマナーよ!あんたたち、なってないわよ!!」
そんなだから、ナンパが成功しないのよ。
「何だと、この女!!」
行く手を遮っていた男があたしの左腕を掴んだ。
「何よ、やる気!?」
受けて立つわよ。まずはその汚らわしい腕をぶっ叩いてやるわ!
あたしが右手を振りかざそうとした瞬間、横から1人の男が割って入った。
「ちょっとちょっと」
黒髪の優男。あら、ヤムチャ。あんたいたの。
ふとヤムチャのやってきた方向に目をやると、ここから100m程離れたところに、ビーチチェアやシートを広げてみんなが集まっていた。きっと、あたしが絡まれているのが見えたのね。それで来てくれたんだわ。
にしたって、何よ、その凄みのない声は。
「何だ、おまえは!?」
ほら、みなさい。逆に凄まれちゃったじゃないの。
情けない気持ちになるのを抑えて、何か言い返してやろうとしたあたしの機先を、ヤムチャが制した。
「こいつの男ですよ。お分かりの通り、こいつまったく脈ありませんから」
えっ?
一瞬、あたしは白んだ。
今こいつ、何て言った?
脈がどうとか…ううん違う、その前よ。
『こいつの男』?そう言ったわね。どうしちゃったの、あんた。
そりゃその通りなんだけど、あんたが他人前でそんなこと言うなんて。しかも妙にサラリと。…ヤバい。ちょっと嬉しいかも。
嬉しい、けど…けど、その凄みのない口調は何なのよ。
気づくと、ヤムチャが相手の男の腕を捻り上げていた。あたしの腕を掴んでいた男が、その手を離した。
「ち、ちくしょう。そういう女はちゃんと繋いどけ!!」
そして、失礼極まりない捨て台詞を吐いて、踵を返した。
「あっかんべーだっ」
あたしはその後姿に向かって舌を出した。

「まったく、おまえというやつは。何だって、そうケンカっ早いんだ。俺が来なかったら、どうするつもりだったんだ?」
みんなのところへ向かう途中、ヤムチャはさんざん文句を垂れた。
「何よ。あたし1人でも撃退できたわよ」
勝てないケンカを売るはずないでしょ。
本当、うるさいんだからもう。それにね。
「あんた、ああいう台詞はもっとビシッと言うもんよ!」
まったく、嬉しさ半減よね。
ヤムチャは何だか曖昧に頷きながら、あたしの言葉を聞いていた。ったく、煮え切らないやつ。
「本当に情けないんだから!」
でも、やっぱり嬉しいかな。
こいつには言ってやらないけど。

海の家から程よく離れたその場所に、クリリン、ランチさん、プーアルに、昨夜から遊びに来ているウーロンと、亀仙人さんを除く全員が集まっていた。
「やっほー」
あたしが笑って手を振ると、ジュース片手にウーロンが不機嫌そうに呟いた。
「何が『やっほー』だ。遅いぞ、おまえ」
何よ、その言い方。いつにも増して、こいつ機嫌が悪いわね。はっは〜ん。
「何よ。ナンパがうまくいかないからって、当たらないでよね」
ぶふっ。ウーロンがジュースを吐き出した。図星ね。
二言三言みんなと話しシャツを脱ぎ捨てると、あたしはひと泳ぎするため、1人海へと向かった。
肌は昨日焼いたから、今日は思いっきり泳ごっと。
洗い流したいこともあるしね。


あたしが沖に向かってのんびりと手足を漕いでいると、1人の男が近づいてきた。
黒髪の優男。ヤムチャだ。…何しに来たのかしら。まあいいけど。
ヤムチャは傍まで来ると一瞬目を瞠り、ついでまじまじとあたしを見つめ、感心したように呟いた。
「おまえ、泳ぎうまいな」
「スイミングは続いたのよ」
あたしは即答した。
コーチがいい男だったのよ。暗灰色の髪に、砂色の瞳。少し童顔で、律儀な性格。…ちょっとあんたに似てたかもね。
結局結婚しちゃったけど。それで辞めたのよ。ミドルスクールの時だっけ。懐かしいわねえ。
あたしは、黙って傍らに漂う(本当に何しに来たのかしら)ヤムチャを横目で見た。まったく、どうでもいいことを思い出させてくれるわねえ。1つ、お礼をしてやるわ。
あたしは気まぐれを起こした。
「こーんなこともできるわよ」
って、まだできるかしら。
大きく息を吸い込んで、勢いよく体を沈めた。海面が上に見えたら、すかさず体を半回転。足先を海上に出す。浮力を利用して腿まで浮上…あら、できたわ。意外と覚えているものね。
ふふん、見なさい、この脚線美。
「お、おい…」
呆気に取られたようなヤムチャの声が聞こえた(水上の音って結構聞こえるものよ)。
「といっても、できるのこれだけだけど。シンクロの練習って地獄よ。それで辞めたんだけどね」
あたしは息継ぎのため一度海の上に顔を出し(ダメね、肺活量が圧倒的に衰えているわ)、再び潜ると先の動作を繰り返した。ちょっと楽しくなってきたわ。
でも、ヤムチャの反応はあたしの思いと正反対のものだった。
「わかった、わかったから、もう止めろ」
なーによ。ノリ悪いんだから。
それに、その子どもを諌めるような喋り方。おっもしろくなーい。
本当、こいつ最近生意気よね。変に大人ぶっちゃって。いいわ、見てなさい。今、その化けの皮を引っ剥がしてあげるから。
あたしはすばやく足を引っ込めた。大丈夫、息はまだ続く。急速潜行よ!
「ブルマ?」
あたしを呼ぶ声が聞こえた。ふん、余裕ぶるのもそこまでよ。
あたしはあいつの両足を抱え込んだ。そして思い切り引っ張った。
「っ!!」
あいつの声は空気の泡になった。慌てて口を閉じるのが見えた。
そうそう、もっと焦りなさい!
ここであたしの息も切れた。その一瞬の隙に、あたしはあいつに引き剥がされ、もろとも海上に浮かび上がった(危なかった)。
「おまえ!いきなり何する…」
ヤムチャが叫んだ。まだまだ、始まったばかりよ!
本性はまだ見せずあたしを睨みつけるヤムチャに、あたしは意地悪く笑い返した。
「なーによ!ぶらないでよね!おっさんくさ!!」
そうよ。あんた最近、妙に上から目線でさ。
「あんた最近、眉間に皺寄りっぱなしよ!おっさんくさ!!」
あんなことまで言うようになっちゃって。生意気よ!ちょっと前まで、自分からキスもできなかったくせに。
ヤムチャが口を開きかけた。と、次の瞬間、あたしは上から頭を押さえつけられた。こいつの全力じゃないことはわかったけど、それでも充分。あっという間に水中に沈められた。でも、こいつはそこで力を緩めた。ほんの少しだったけど、あたしにはわかったわ。ふん、まだまだ甘いわね!
あたしは体を沈ませた。あいつの手が外れた。水中で一回転すると、海上に飛び出しあいつの懐に入り込んだ。
「やったわね!!」
そうこなくっちゃね!
言いながら、体ごと押し倒してやった。1mほど水中に落とし込んだところで、あいつから離れる――つもりだったのだけど、あいつに手首を掴まれた。どちらともなく揉みあって、どちらともなく浮上する。
あはは!楽しー!!
あいつがあたしを捕まえようとする。あたしは逃げる。あいつが水面に浮かび上がる。あたしが水中へと引っ張り込む。あいつはあたしに近づこうとする。あたしは離れる。
そりゃ、力じゃ敵いっこないわよ。でも、だったら機動力で勝負よ!当然の戦術よ。
30分も経ったかしら。あたしたちはどちらともなく息をついた。
「おまえ、結構やるなあ」
髪から水を滴らせながら、ヤムチャが言った。
「あったりきよ!」
あたしは拳を掲げてみせた。これこれ。この瞬間を待っていたのよ。
あたしたちは笑い出した。何も考えずに笑い合った。正午の日差しが水面を煌かせた。
一頻りの笑いが収まると、あたしはもう1度笑ってみせた。うんと意地悪そうに。
あいつは微笑を浮かべると、あたしの体を引き寄せた。
あたしも体を寄せた。


あたしたちは別々にビーチへ戻った。ヤムチャがそうしようって言ったから。情けないけど、こいつらしいわ。
みんなのいる場所を探しながら人ごみを掻き分けていると、横から声をかけられた。
「彼女、1人?」
またナンパ?まったく、ぶち壊してくれるわよね。
何気なく目を向けたあたしの視覚と聴覚を、デジャビュが襲った。
「はぐれちゃったの?じゃあ俺たちと遊ぼうよ」
定番の男2人ナンパ…って、ちょっと、あんたたち?
同じ女をナンパしないでよ!ちょっとは気づきなさいよ!!
あたしは思いっきりぶっきらぼうに、教えてあげた。
「あんたたち、さっきもあたしに声かけたわよ。バッカじゃないの?そんなだから、半日経っても女が捉まらないのよ。少しは頭使ったら?」
似非知識人を気取ってないでね。
男2人はみるみる顔色を変えた。
「な…」
「く、くだらねーこと言ってんじゃねえぞ!この女!」
ああもう。あたしは溜息をついた。
「うるっさいわね!逆ギレしない、それがナンパのマナーよ!あんたたち、なってないわよ!!」
そんなんじゃ、一生成功しやしないわよ。
「何だと、この女!!」
「何よ、やる気!?」
1人が拳を振り上げた。あたしはそれに構えてみせた。
その時、横から1人の男が割って入った。
「ちょっとちょっと」
黒髪の優男…って、ちょっとあんた、またその台詞!?少しは進歩しなさいよ!
「何だ、おまえは!?」
相手の男はまた訊いた。…バカにつける薬はないって、本当ね。
「こいつの男ですよ。お分かりの通り、こいつこういう女ですから」
そして、あんたもまた答えない!
気づくと、ヤムチャが相手の男の腕を2人同時に捻り上げていた。
「ち、ちくしょう。そういう女は表に出すな!!」
男たちは、なぜかここだけ違う捨て台詞を吐いて、踵を返した。
「あっかんべーだっ」
しょうがないから、あたしも付き合ってあげた。

疲れる半日だわよ。まったく。
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