海処の男
何か、光った。
水面の煌きじゃない。何かしら?
水深4m程のその場所で、あたしは体を水に沈ませた。目星をつけた海底に、濃いピンク色をした巻貝があった。あたしは海の生物なんかには全然詳しくないけれど、その貝のことは知っていた。女なら知っている人も結構いるんじゃないかしら。
4回目の潜水でやっとそれを引き上げた。大きさにして30cm弱、貝の内側は外側よりもっときれいなピンク色。やっぱり。コンク貝だわ。そしてさっき光ったのは、おそらく中に入っているコンクパール。
コンクパール――養殖不可能な、天然物のみの貴重な真珠。貝自体の取れる地域も限られていて、だいたい現地の人が真珠を見つける前に焼いて食べちゃうから、真珠を採るのはさらに困難。こんなところで見つけるなんて、すごい幸運。
とはいえそれは、あたしの手には余った。ちょっと大きすぎるのよ。これを持ってビーチまで泳ぐのは一仕事ね。
ぐるりと周りを見回した。大丈夫、気づかれそうな範囲に人はいない。
あたしはホルターネックの紐を弛めると、その中へ貝を押し込んだ。泳いでいれば気づかれないわよ。ビーチに近づいたら取り出せばいいわ。名案よね。…ちょっと痛いけど。
これはランチさんにあげよっと。いつもお世話になってるお礼よ。
機嫌よく泳ぎ出したあたしの手を、ふいに横から誰かが掴んだ。
「…何考えてるんだ、おまえは」
黒髪の小言男。ヤムチャだ。…また眉間に皺を寄せてる。
「何よ?」
「そんなところに入れるなよな」
げっ、あんた見てたわけ?最低ね。それならそうともっと早く声かけなさいよ。
「うるさいわねえ」
それに第一、こういうことは見て見ぬふりをするもんよ。
構わず泳ぎ出そうとしたあたしを見て、ヤムチャは溜息混じりに呟いた。
「まったく、おまえはどういう神経をしてるんだ。ほら、寄こせ」
初めからそう言いなさいよ。それにしたって一言余計だわ。
本当に口喧しいんだから。この小言男。

「まあ、ピンク色なんですのね。かわいらしい」
「これって真珠っすか?」
受けてる受けてる。
ビーチに戻ったあたしは、コンク貝をランチさんに手渡した。あたしの見立て通り中から出てきたコンクパールを、クリリンがためつすがめつ眺めている。あんた、いい反応してくれるわねえ。誰かさんとは大違いよ。
「そうよ。コンクパール。養殖不可能な貴重品よ。貝殻自体も加工できるわ。アクセサリーにでもしてもらえばいいわよ」
あたしはヤムチャをちらりと横目で見た。あいつは無言でバーベキューの肉を齧りながら、興味なさそうにこちらを見ている。…かわいくない。
クリリンが意外そうに口を開いた。
「ブルマさんはいらないんですか?」
「うん、興味ないから。滞在費代わりにあげるわ」
あたしは手に入れようと思えば入れられるし。でも、やっぱり興味ないけど。
じゃあ何で存在を知ってたかって?それはね、あたしの領域に少し触れているからよ。


…やっぱり、背中は自分じゃ塗れないのよねえ。
あたしはみんなの様子を盗み見た。
ランチさんはパラソルの下で本を読んでいる。亀仙人さんはビールを飲んでいる。クリリンがその横で、酔っ払いの相手をしている。ウーロンはこれもパラソルの下、ランチさんの傍らで寝入っている。
…大丈夫かな。
シートの片隅でこっそりとサンオイルを塗っていたあたしは、位置で言うとシートの前面、ビーチチェアに体を横たえているヤムチャの傍へと歩み寄った。用があるのはこいつではなく、その膝の上に座る従順な僕だ。
「ねえプーアル、ちょっといい?」
口の横に手を当てて声が他所に漏れないように注意しながら、あたしは話しかけた。そんなあたしを、ヤムチャとプーアルが不思議そうに見上げた。
「背中にオイル塗ってほしいんだけど」
「はい、いいですよ」
「サンキュー」
プーアルは一も二もなく諒解した。本当に素直よね。やっぱりかわいいわ、この子。
あたしはヤムチャの隣、もう1つ据え付けられたチェアにうつ伏せに横たわった。首筋の髪を掻き分けて、ネックとバックの紐を解く。ふいにヤムチャが何か言った。あたしは顔だけを動かしてあいつを見た。あいつは目を逸らした。
「何?」
「い、いや、何も」
変なの。
あたしは顔を前に戻して、解いた紐をチェアの横に垂らした。プーアルがあたしの背中に乗った。
オイルを塗る手の短毛が、肌に少しくすぐったい。そういえばこの子、毛皮着てるけど暑くないのかしら。
あたしは訊いてみた。
「ねえ、プーアル。あんた、毛皮脱ぎたいとか思うことない?」
「は?」
プーアルと(なぜか)ヤムチャが、揃って頓狂な声を出した。
「あたしトリミングしてあげようか?」
この子って、どこまで身が入っているのかしら。毛がなくなったら、どんな感じなのかしら。顔は細くなるのかしら。…俄然、興味が湧いてきた。
短毛種かしら、長毛種かしら。生え変わりはあるのかしら。
どう見てもダイリュート遺伝子は入ってるわよね。それともサイアミーズ?基本はチョコレート…
プーアルからの返事はなかった。
ヤムチャがプーアルに何か言っているのが遠くに聞こえた。
あたしは顔を伏せた…
……
…はっ!
「眠ッ!!」
ほとんど意識がなくなりかけていた自分に気づいて、あたしは慌てて体を起こした。ヤムチャが思いっきり顔を背けた。…あ、胸。
外したホルターネックを着けながら、あたしはことさら大声を出した。自分を奮い起こすために。
「あ〜、危なかった!今、うっかり寝るところだったわ…!!」
っていうか、ほとんど寝ていたわ。
「寝ればいいじゃないか」
目は逸らしたまま、ヤムチャが言った。あんた、頬が赤いわよ。…ちょっとかわいいかしら。でも、言ってることはてんで的外れね。
「何言ってんの。こんな危険な状況で寝られるわけないでしょ!」
まったく冗談じゃないわよ。
今日は、じいさんのみならずウーロンまでいるのよ。そんな状況でうかうかと眠れるもんですか。
今は2人とも安全な状態だけど、いつ安全じゃなくなるか知れやしないわ。あたしはそれを昨日、経験したのよ!あんたに言うつもりはないけどね。
「泳いでくるわ」
泳いで目を覚ましてくる。それがベストよ。
未だ睡魔の残る頭を、あたしは軽く手で叩いた。よし。行くわよ!
気合をいれて立ち上がったあたしを、ヤムチャが呼び止めた。…眉間に皺を寄せながら。
「止めとけ。おまえはここで大人しくしてろ」
ちょっと、何よ。その言い方。
「疲れてるから眠いんだろ。おまえ、さっきさんざん泳いだからな。そんな状態で泳ぎに行くやつがあるか」
偉そうな口利いてくれるじゃない。
「俺が見ててやるから、ここで寝てろ」
あんたが当てになるならそうしてるわよ。でもね、あんたに亀仙人さんが抑えられるわけないのよ。それも経験済みなのよ。
だいたい、何であたしが説教されなきゃならないわけ?あたしは被害者(まだなってないけど)だっつーの。
自分の機嫌がどんどん悪くなっていくのがわかった。眠気とだるさと、こいつの眉間の皺。
「放っといてよね」
あたしはつっけんどんに言った。言いながら海へ向かって歩いた。
「言っとくけど、ついて来たら承知しないわよ。べーだ」
まったく、今日はよく舌を出す日だわ。


ふーんだ。ヤムチャのバーカ。
よくわかんないけど。ヤムチャのバーカ。
本当にうるさいっつーの。何かだんだんうるさくなってきたわよね、あいつ。
だいたい、さっき言ったばかりなのに。一体何聞いてたのよ。
普段は放っておきっぱなしのくせに、一緒にいると途端にうるさくなるのよね。ちょっと図に乗ってんじゃないの?
そりゃあ、助けてくれる時もあるけどさ。頼んでないわよーだ。

あたしはゆっくりと手足を漕いだ。太陽に顔を向けて、のんびりと泳いだ。
すごくいい気持ち。でも、ヤムチャへのわだかまりは洗い流されてくれなかった。
きっと、こののんびりさがいけないのね。一発、クロールでかっ飛ばせばすっきりするかも。
でも、そこまでの元気はあたしにはなかった。

しばらくして、小さな島に上陸した。直径100mくらいかしら。もっとあるかな。とにかく、波間に浮かぶ小島。
ぼんやりしていたら、うっかり半kmくらい泳いじゃった。ちょっと疲れたわ。
あたしは島の真ん中へん、やや小高く盛り上がった岩場に、やっぱり岩を背にして腰を下ろした。なんとなく空を見る。
別に憂鬱ってわけじゃないわ。ケンカしたわけじゃないし。
あんなのケンカのうちに入らないわよ。あたしたちにとってはね。
「ふあぁ…」
欠伸が出てきた。ちょっと寝よっと。


「こんなところで何してるんだ?」
放っといてよ。
「いつまで寝てるんだ」
うるさいわね。
相変わらずの不機嫌と一緒にあたしは目を開け、目の前の男を見た。
…違った。
見たことのない顔だった。後ろに1人、さらに遠くにもう1人。
黒く焼けた肌。ウェットスーツ。サーフウォッチ。…サーファーか。
目の前の男が薄く笑みを浮かべた。
「彼女、こんなところで寝てたら危ないよ」
「…ええ、ああ、そうね」
あたしは曖昧に返事をした。まだ頭が覚めていなかったのだ。
「1人なの?」
「ええ、いえ、もう帰るわ。起こしてくれてありがとう」
陽はまだ空の上にあった。どうやらそれほど長くは眠らなかったみたい。
でも一眠りして体はリフレッシュしたし、目の前の男達と深く関わりになる前に帰ろうと、あたしは思った。…そうしないと、またあいつがうるさいし。
「ちょっと待ってよ。少し一緒に話そうよ。起こしてあげた誼みでさ」
あたしは眉を顰めた。…またナンパか。
でも、今のあたしにケンカを売る気はなかった。朝のやつらよりは、まだマナーなってるし。あたしは歩き出しながら、慇懃無礼に答えた。
「悪いけど」
「そうだね、悪いね」
あたしの言葉を返しざま、笑いながら目の前の男があたしの右手を掴んだ。そしてあたしは、さっきまで自分が座っていた場所に戻された。
えっ?…ちょっと。
後ろの2人がゆっくりと近づいてきた。
…もしかして、ヤバイ雰囲気?
ナンパなら撃退できるけど…ナンパなら。
あたしは、今はまだ自由になる左手を閃かせた。何とか1対1のうちに逃げないと。男の頬には当てたけれど、やっぱり左はダメね。男が何か言うより早く、今度は足で蹴り上げた。あんまり口に出したくない(本当は蹴りたくもない)ところを。
これは効いた。あたしは男の手をすり抜けると、海に向かって走り出した。潜れば何とかなる。…たぶん。
遠目に、留めてあるサーフボードが見えた。あたしは方向転換した。ボードの反対側に行かなくちゃ。無理なら、せめてできるだけ遠く。
そうしてあたしが選んだ場所は、切り立った崖だった。高さ4mくらい?一瞬の逡巡の後、あたしは決断した。飛ぶわ!当然よ。それがベストよ。
でも、あたしが地面を蹴ろうとした瞬間、男に掴まれた。…髪!!
髪と共に体が引っ張られる。あたしは踏ん張った。ふいに、その手が外れた。あたしの体は弾かれた。…宙に。
「おっと」
腰に手が回された。耳元で聞き慣れた声がした。あたしがその名を呼ぶより早く、男達が罵声を浴びせた。
「何だ、おまえは!?」
「こいつの男だ」
一瞬、間が開いた。男達は精神の体勢を立て直したように見えた。3対1。そう考えれば当たり前よね。
「やろうってのか!?」
「当たり前だろ」
勝負はあっという間についた。…当たり前よね。

男共を島から叩き出し、あたしの無事を確認すると、ヤムチャは崖の手前に座り込んだ。
「まったく、えらく遠くまで泳いでいくから来てみれば…」
そこまで言って額に手を当て、言葉を切った。
「…俺が来なかったらどうなってたと思ってるんだ」
考えたくないわよ、そんなこと。
「本当におまえはトラブル体質というか」
嫌な言い方しないでよね。
でも、あたしは言葉を返さなかった。正直言って、疲れていた。ヤムチャはあたしの顔も見ず、先を続けた。
「どうしていつもそうなんだ。もう少し大人しくしていられないのか」
「…ちょっと、何よ。その言い方」
今度はあたしは口に出した。
「偉そうな口利いてくれるじゃない。だいたい、悪いのは向こうでしょ。あたしは被害者なのよ。何であたしが説教されなきゃいけないのよ」
ヤムチャが口を開きかけた。あたしはそれを許さず続けた。
「朝のナンパにしたってそうよ。何であたしが文句言われなきゃいけないのよ」
「文句じゃないだろ。俺はただ心配を…」
「どこが心配よ。あんたのは口煩いだけじゃない」
ヤムチャは黙った。顔色が変わった。何よ。言いたいことがあるなら、言いなさいよ。
でも、ヤムチャは何も言わなかった。数秒の沈黙の後、あいつはあたしに背を向け、吐き捨てるように呟いた。
「ケンカは後だ。とにかく帰るぞ」
そうやって逃げるわけ?ズルいわね。最低よ。
「あたしは帰らないわよ」
有耶無耶のうちに流すなんて、そんなのあたしはごめんこうむるわ。
「勝手にしろ」
あたしの顔を一瞥すると、今度こそ本当にヤムチャは吐き捨てた。
やっぱり、あんたは最低よ。

ヤムチャは崖から降りていった。文字通り飛び降りて。そしてすぐに波間に消えた。
1人になったあたしは、崖の先に腰を下ろした。足の下で、波が岩場に当たっては消えていく。飛沫が足先にかかった。
あたしはぼんやりと考え込んだ。
本当にうるさいわ。うるさすぎるったらないわよ。
あたしは襲われかけたのよ。そんな時に何で説教するわけ?他に言うことあるんじゃないの?
陽が落ちてきた。ピンク色の光が青い空を染めていく。波の音。巣に帰る海猫の鳴き声。他には何も聞こえない。
あたしは水平線にかかる夕陽を見た。すごくきれい。でも、ヤムチャへの満たされない気持ちは…
何で?何でこうなっちゃうわけ?
昼間はあんなにいい感じだったのに。何もかも台無しよ。本当に…

静かだ。

「まったく、おまえってやつは」
いきなり声が飛び込んできた。振り返ると、ヤムチャがいた。
何よ。
あたしは立ち上がった。無言で睨みつけてやった。
ヤムチャは1つ大きな溜息をつくと、怒りとも宥めともつかない口調で言った。
「おまえは危なっかしすぎるんだよ」
危なっかしい?あたしが?
「だから放っておけないんだ」
そうして、あたしの肩を抱いた。
こいつ、やっぱりあたしのこと上から見てる。何が『危なっかしくて放っておけない』よ。放っておきなさいよ。見て見ぬふりすればいいじゃないのよ。
見て見ぬふり、か。
…できないのよね、あたしも。

あたしは、ちょっとだけヤムチャに体を寄せた。なんとなくキスとかする気にはなれなかった。でももう少し抱かれていたい、そう思った。
ヤムチャはあたしの髪を撫でていた。その手つきがすごく優しかった。だからあたしもなんとなく優しい気持ちになって、ヤムチャの心臓の音を聴いていた。


ふと、それが目に入った。
「レアメタル?」
あたしは目を瞠った。
あたしとヤムチャの佇む場所から20m程離れたところ。おそらく風の侵食によってできた僅かな岩の平地に、銀白色の石鉱物が鈍い光彩を放っていた。
瞬間そこへ駆け寄ろうとして、あたしはあたしを拘束している優しい手に気づいた。
「ちょっとちょっと。ちょっとヤムチャ、手、離して」
ヤムチャは不満と未練の綯い混ざった瞳であたしを見た。
ごめんね。すごく優しい手だったけど、でもレアメタルもあたしにとっては嬉しいものなのよ。
あたしは少し背伸びをして、ヤムチャの左頬に口づけた。ヤムチャは軽く目を瞬かせた。
よし。こっちはこれでOK!
あたしはヤムチャの腕をすり抜けると、先ほどあたしの目を捉えたその場所へ飛んで行った。


こんな時くらい見て見ぬふり?無理ね。
あたしにはできないわ。
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